
子どものイメージって?
「子どもが苦手」口にするのはタブー?のabemaをみた感想のようなものを書いてみましたっ。
親に甘えられなかった思い出を思いだしちゃっての理由は、なるほどだと思。子どもを見たら羨望してしまうってことなんだろうを馳せる。こういう感情ってのは親になってからもあるそうで、可愛いがられたり、愛されたりしたい気持ちはあるんだけど、それを実践しながらも自分の子ども時代もフラッシュバックしてしまい、自分の子供時代よりも恵まれているわが子を親が羨んでウラハラに可愛がれない、時には虐待にまで発展してしまうこともあるそうです、なるほど。
「子どもが嫌い」は何歳からの子どもを言っているんだろう?
全般的に苦手だったとしても、0歳ならOK、1歳ならOK,2歳ならKOなど色々あると思う。ここで言う子どもは小学校低学年くらいまでの子の事を言っているんだろうと推定して書いてみる。(もうほとんど番組の内容を忘れているって一体!?中略)
感想としては、「子ども苦手」は子ども苦手なのではなく、子どもというイメージを悪く持っているだけということではないだろうか。もし、自分の意に敵わない合わない嫌な赤ちゃんとか幼児や子どもにてんてこ舞いさせられた経験がある場合は、きっと子どもってこういうもんなんだなと悪いイメージを持ちがちに。それがきっかけで、野菜嫌いと同じく、前の子どもとは違う子なのに、子どもがぁ~うぉ~みたいになっていくのかなと。
『子ども全般としてみるのではなく、その子を見てあげて欲しい』のご意見なるほど確かに全員違う。似たような雰囲気だけど笑い方も性格も全然違うんだと。
自分の子をもつまで赤ちゃんとか幼児の違いってイマイチよく分からないと言ってた子がいたなと。でもそういう人に限って、わが子ができたら溺愛したりするんだよなぁ。やっぱりお野菜と同じですわ。
子どもに対する悪いイメージ
昔、問屋さんで買うと安いからという理由で、母に子供服の問屋さんにわざわざ遠出連れて行ってもらった時のことを思い出す。。その時、お客さんの1人から「子どもなんか連れてきて。(愚痴風)」って言われているのを私が気付き母は知らなかったという滑稽な話があります。
「子ども来たらあかんのん?」
「さぁ。まぁ・・・問屋さんやからね。」
こんな感じで怒る人が悪いよねで終わっていました。多分、その人は子どもを見ただけで、イタズラする悪ガキを思ったんでしょう。別にただ見ていただけなのに。あ、でもあれ可愛いこれ可愛いとか言ってはしゃいでたかも。
一方、当然と言えば当然で、仕入に来ているわけなので子どもがいるとタイムロスにはなります。気が散ったりもするんでしょう。
更に私は発見してしまっていたのです。店内のビラに結構大きく「子どもご遠慮願います」と書かれていたのを。。あかんやん、でも来てるやんって。
ところで、バーゲンで例えてみれば、選ぼうとしている対象のアイテムを先に手にとられたり、見たいと思っているアイテムを先取りされるとイラっとするになってしまうからです。チョロチョロしてましたしね。
ショックだった話。
— 小澤美佳 | HELP YOU広報PR (@mica823) October 24, 2022
小さな娘を抱えて新幹線に座った時、
隣の席の人に、
「はぁーーー最悪」「ハズレだ」
と小声だけど聞こえるように言われ、
おもむろにヘッドホンを付けられた。
気持ちは分からんでもないが、
もう少し寛容な世界になってほしいなぁ
と思ってやまない。
ありえないと思いました。スーパーでチャーハン買ったママにおっさまが自炊していないことを叱ったニュースも思い出しました。。
「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」の声に驚いて振り向くと、惣菜コーナーで高齢の男性と、幼児連れの女性。男性はサッサと立ち去ったけど、女性は惣菜パックを手にして俯いたまま。
— みつばち (@mitsu_bachi_bee) July 7, 2020
私は咄嗟に娘を連れて、女性の目の前でポテトサラダ買った。2パックも買った。大丈夫ですよと念じながら。
ポテサラでした!!
ビッグマック、日本では390円なのに、スイスでは925円もするそうです。
🚆の話も出ていました(思いだす)。ひろゆきさんが、フランスでは子どもが🚆に乗っていても日本の様にはならないと。子どもがいれば当然大人だけよりも会話も行動も増えるわけで、それは当然なんだという考えがフランスにはあるけれど日本には無いよねみたいなことだったと思う。
🚆では、お母さんが気を遣って、まだ2歳~5歳くらいまでの子どもに「静かにしなさい。」の注意、聞いたこともあります。
確かに、子連れおおかみではありませんが、子ども連れが🚆に乗ってきた時の、「子どもってうるさいもんでしょ(今でしょ風に)」の考えについて、日本では許容度が薄い、つまり、大人優先度がまるで、道路と歩道の様な関係にあるのではないかと思ってしまいました。
鬼ごっこしたり、つり革で懸垂しまくったり、暴れまわったり、座席に土足で登るとか、そういうことさえしなければ、座っておしゃべりするとか、窓の景色を見るとかするのはOKだよねくらいな許容度があるだけで、🚆への危機感みたいなのは減るんじゃなかろうか。
子どもは大人の感性を十分に持っている
子どもが苦手と思っていたけれど、自分の子ができたら大好きになっていたみたいなのを考えた時、そこにはイメージの変化があったと考えられそうです。子どもなんて、子どもには分からないからなど感覚や感性が未熟だという考えが強いと、子どもをみたときに面倒だとなり、それがイラにつながっていくのではないかとも思いました。ですが、子供は大人顔負けの繊細さや感性をもっていますので、余裕さえあれば学所多いというメリットもありますが、そのイメージを変える機会がないこと、なかったこともある意味原因ではないかなと思いました。さらには、子の+思考というものについては凄いものがあったりもします、仙人??
子どもが苦手の無意識的領域のような自分でも気づかない場所にある何か
ゲストの男性は予想できないからのニュアンスで苦手ということを読み取りました。例えば子どもを赤ちゃんから低学年くらいまでの子を考えた場合にしてみます。非常に極端なたとえですが、虫苦手を例にします。スキな虫ではない虫を見たときにイラっとしますが、そういうイメージではないかと。この時のイラは、自分が認識している時間の速さをかなり超えたスピードで動いている物を見ることに対する違和感ではないかと。
逆もあります。ネコや🐶の虐待なんかもありますが、虫とは違って逆にのんびりしているわんにゃんの世界は時間がゆったりで、その時自分が急がなければならない何かを抱えていたりすると、邪魔だと思いがちです。でもそこには無意識にネコ時間にフィットさせていると思うんですよね、でも、その差、自分時間の速さからネコ時間の速さに移行するときの不安がイラにつながっていくのかなと。物凄く極端かもしれませんが。そういうのに似たちょっとした反応になっている気がしました。
その人が抱えているイライラは様々で、何となくわかるのは時間的余裕がないんじゃないかと。なぜ時間的余裕がないのかは、年齢にもよりますが、多くは学業や仕事や何かつまり将来(明日から数年後など範囲はさまざま)への不安解消のためを目的とした何かしら余裕がない状況にあるとも考えることもできます。
その時その人にとって時間はマックスで流れていて急を要しています。一方子どもは自由度マックス、目の前の目的にだけ一生懸命成し遂げようとしますので、まるでサファリパークの中にいるかのようなワクワク、流れている時間もゆるやかでにぎやかです。その人にとっては、何か悪いことをしてくるとかではないレベルではありますが、違う惑星が近づいてきたみたいにイライラ、これは自分の時間が瞬間ストップしてしまうことへの不安ではないかなと。
一方、子どもが好きな人というか特に抵抗を持たない場合、瞬時に子ども視点に無意識に切り替えられているんだろうなとも。それはあやし方、子どもを知るきっかけがあったり、自らの経験値であったり、イメージをよく持てるだったり、適度な距離感を保てる立ったり、何かしらの技があるんだと。子どもが嫌いということは自分が嫌いにもつながりそうですし。
ただ単に悪いと責めるのではなく、なぜ苦手になってしまうかのところ、つまりはなぜ時間的余裕がない状況になるのを考えれば、それは教育、経済格差や問題にまで発展しそうだと思いました。時間的に余裕がなくなると、感覚や感性<理論詰めで考えを優先しなければいけない状態が続くと、感覚を取り戻しにくいので、理論とは正反対にいる子どもに戻ることは難しいのではないだろうかと。まぁ、小さい頃から感覚的に苦手な場合もあったりもちろん、そんな理由ではない他の何かであったりもするんでしょうけれど。
苦手と思っていることについて、実はその人のほうが自分に近くに子どもというものをもってきて考えていて、さらにgive派の人も多かったりするんじゃないかな?かな?色々考えて子どもの強引さとかが強調されてしまって、対等に付き合うの難しそうだな困ったとか思ってしまうのについて少しきっと分かる。
嫌いは到着点、花の部分、オンライン部分であって、その思いをもつまでの過程は植物の根っことかオフライン部分のように多岐にわたり連鎖していて、それは進路やつなぎ方を変えれば好きにもつながりそうだと発見。でもつなぎが変わったり、その部分の性質や傾向が変わる為には、自分だけでなく対象の変化も必要なことも多いわけでいろいろもやる。それに1つの感覚に対していちいちそんな時間ないよねって話。でも、たとえそういう諸々の綿の回線みたいなのがあったとしても、何かのきっかけでその綿が綿菓子になって解けていくことも時にはあるのかもしれないなという学びでひたすらに。