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身近な偉人伝3
毎日決まった家事を完璧に楽しそうにこなす母。不思議だった。お母さんは優しい塊のようなものだ。そんな幻想を打ち砕かれたのはいつだっけな?
ある日の冬の食事時、ティーソーサーにお茶の葉をいれてマグカップ分だけ注いでいただきます。暫く経って、お茶を飲みほしたのと、母の横に電気ポットのスイッチと水があるため、つい「お湯、ある?」攻撃。
「え?」
超⁉した感じで、お水をポットに入れてポットのスイッチをいれてお湯がわいたらティーソーサーに注いでしばらくしたら、私のコップへ注いでくれて。
ドン
聞き覚えのないコップを荒々しく無造作に置いたのは母だった。まるで反抗期な娘のようだった。どうしたん?って。
当時はなんか機嫌悪い?ってくらいに思ってたけれど、今ならよくわかる。
そういえば、一度だけ「お母さんは洗い物ばっかりしなきゃいけないの?」って独り言言ってたっけ?その時も、食事以外のそれぞれが飲んだグラスやコップ、ケーキのお皿とか、なるほど、家事労働時間外だよねって思う範囲の洗い物だった。
そう、お母さんの時間は食事を頂きますをする前までで、それからはお母さんはお母さんではなく、子どもと一緒の子どもになる数少ない自由時間だよってこと。
無償の労働と言われている家事、どこまでも続く家事、どこかで一旦区切りをつけてあとはセルフだよって言いたかったんだと。
お母さんだって、労働時間外っていうのがあってもいいと思う。そして、そういうことで、なんとなく家事の範疇だろうか、そうではないだろうかのそれぞれの自答みたいなものが生まれて、お母さんの家事は少し楽になっていくんだろう。
凄いのは一旦引き受けているところで、当時、お茶はちゃんと入れてくれていたってこと。母強し、役者魂すら感じてしまった。
それ以来、家事労働時間外かな?と思った時は、特にエクスキューズ三―を前置き、はしませんが、エクスキューズ三―感満載でお願いしなければいけないときはするし、ほぼセルフということが当たり前になっていき、さらに手伝うという形になっていたニャーモーとしみじみ。
それは私にだけではなかった。
ある別の日では、これも洗い物が無造作にたまっていて。
「誰かがせなあかんってことや」
そう言いながらしれッと見ている横で、洗い物を始めていたっけ。
なんか凄いのは、いつもそうだけど、超合理的なところで、この場合も、説明は無しで、パッとわかる、わからせるところ。キャッ、キャイーンみたいな。だからと言って別に怖がらせるということがないのも凄いなって。私だったらそうできないから、くどくど説明して理解してもらうんだろう。
母は江戸育ちではないのに、あんたとこのお母さんは江戸っ子気質だからなぁと幼い頃に言ってたのはおばさんだったかな。お母さん江戸の人じゃないよって言ったら笑ってたっけ。
聞いたことのない言い方だったけれど、こういうのって、自分が不満を持ちつつ、誰かに教えなきゃいけないって場面で使う方法なんだなぁと、でもどこか滑稽で、笑いをおさえた。
今ならわかる、だよね、だよねってか、家事って∞のルーティンでしょ。