「ピエロと呼ばれた息子」の賀久くんから学ぶ
YouTubeアプリを起動、時々関連動画が入ってくるのですが、けっこういい動画が多かったりするんですよね。
今回もそうでした。賀久くんとご両親の「道化師様魚鱗癬」と向き合う姿がまるでドキュメンタリー映画のような、啓蒙だけでなくたくさんの感動が得られた物語。
いつも痒くて痛くてしんどい時も多くて、生まれた時からずっとそうで、これからも暫くは(大きくなるにつれて快方へ向かうとも書いてあったので期待はします)続く長い旅。
私も酷い皮膚病に2年ほど悩まされたこともある(ひどい時の症状は似ているものがあり、程度の差は雲泥の差ですが、ケアの内容は今もあるあるなこともあり)のと、賀久くんの何とも言えない愛らしくユーモラスで優しくて一生懸命なキャラが余計に涙を誘うのか、ご両親の優しく明るい雰囲気も伝わり、何度も涙してしまいました。ドラマか映画なのかしら?と思うくらい素敵な動画です。
おかあちゃんこと結衣さんは、ブログをきっかけに本も出版されています。本とブログがきっかけでドキュメンタリーになったのかな、詳しくはYouTubeでお話されているかと。
YouTubeのCBCドキュメンタリー番組、今のところ60話あります。
これからも番組をチェック、賀久くんのYouTubeファンとして見守り(見る?)ながらですが応援していきたいと思いました。今日の賀久くんとして見ていくうちにもう最近の動画まで視聴を進めてしまいました☆彡
気になったのは、最近の動画。賀久くん、ランドセルかっこいいの選んでよかったね!!となっていた矢先のことでした。(最初からみるとよりリアル感あります)
これから1年生になるので、お母さんが学校見学をされ、番組ディレクターの原さんからの普通学級か支援学級かの質問に対して、支援学級を考えているとおっしゃられていました。
ゲームもとても得意で(お友達が遊びに来た時の動画)、元気な時は走り回っていた(吊り橋の動画)し、カードゲームもできて(カードゲームの動画)お話も大人並みにできて(それぞれの動画の所感のようなもの)、ご両親思いで心優しく、歌も上手な賀久くん。
ただ、難病の道化師様魚鱗癬の症状特有の、太陽にあたると38度以上の熱が出てしまう(熱が出てしまう動画)、帽子やマスクをしても外で遊べるのは20分が限度(とある動画)、お砂糖や生クリームなど痒みを引き起こす食べ物は食べられない(クリスマスパーティの動画)など活動、食事での注意点はいくつかあります。さらに、ひっかいてしまった時に、そこから感染してしまうリスクも。食べ物、温度、環境など皮膚や体調にとっての調整が必要になります。
お母さんの選択は、授業が45分なのでその間に痒みのクールがやってきて、まだ幼いのでかいてしまう、1クラス40人なので先生の負担になってしまうなど、心配をかけてしまうという意向もあってだと見受けました。そして賀久君も、マスクがうまくできないからとお母さんの支援学級の意向に賛成しているかのようでした。一方、普通学級で過ごせないことについて違和感もあったりで。
もちろん納得できます。例えば、夏は影にいても熱を外に発散できない体質から、体温が38度以上になることも。なので、親御さんにすれば何かあったら大変だし、そうなったら辛いし可哀そうだからという気持ちが大きいから、個別ケアでそうならないように見守ってもらえる支援学級を選択されたのだと思います。今はどうなのでしょう、冷房って各クラス設置されているのでしょうか。
環境次第で十分普通学級で卒業できるのに、みんなと一緒の行動が出来ないから、みんなの授業の邪魔になってはいけないからなど、通える、通えない、学力、意向とは関係のないところで、何かしらの支援や配慮が必要なだけの理由で、普通学級として卒業認定が受けれない(支援学級を選択することで)のはいかがなものかと思うのです。支援が必要だからって、普通学級でいれないとなるなんておかしくはないだろうかと。
賀久くんのお話、お母ちゃんの結衣さんは、それだけでなく、色々な意味を込めてご本人にとって、最も過ごしやすい環境で小学校ライフを送らせてあげたいとのことで支援学級に決めたとおっしゃっていました。
今は、年度初め?なら、支援学級⇔普通学級への変更も可能なようですが、一度支援学級に入学した場合、最大8名の個別学習になるので、最大40名クラスになるとどうなんだろう?な心配もあります。
小学校が評価をするところだから、仕方がないと言えばそうなのですが、そもそも小学校は何のためにあるのか?と考えた時、勉強だけじゃなく、中学校進学だけでなく、人生への大きなステップの1つだと思うので、そう考えると、勉強の評価はご本人次第でいつでも伸ばせる(中高でも遅くはない)と思うのです。
特別支援学級にはいくつかの割り振り方があるそうです。
お昼休みや、授業によっては一緒に受けれたりすることもあり、特別支援学級から普通学級へ年度ごとに変更は可能だそうです。支援学級は学力だけでなく、その子に必要な身体的なプラクティスも行ってくれるそうですし、学習内容は、通信教育でも補習塾でもカバーできるそうです。
卒業後は、中学校の支援学級となり、その後の進路は1つではありません。
高校受験に励んだり、高校への進学を希望しない場合は、「特別支援学校高等部」で就職を考えた学びを得たり、個別学習がしたい場合は「通信制・定時高校」への進路があるそうです。
症状を少しでも緩和しながら、学力も身に付けていく、大変なことですが賀久くんなら乗り越えていくんだろうと。
例えば、自分と違う人をみると、興味と心配から「どうしたの?なんでそうなったの?」と聞きたくなります。1歳の子でも、顔の小さなほくろでさえ、これ何?って聞いてきます。それくらい、自分と違うことに対して人は敏感なのかもしれません。
大切なのは、違う人がいてもいい、それも、ではなく、それが当たりまえという空気をつくる、そうすれば、違いは個性になり、長所になっていきます。
そして、更に大切なのが、出来ないことを出来る人が協力していくこと、当たり前かもしれませんが、それが、本当に当たり前になれば、親御さんの心配も少しは和らいでいたのかもしれないと思いました。支援を受けなければいけない側にいる場合、迷惑だと思っているのではないだろうかの危惧みたいなものが過剰になっていることは多々あります。でも、それは取り越し苦労だったと思うことがあったり、累積していけば、溝は浅くなくなり、変化、違う感覚が生まれてきます。
これは病気に関することだけではありません。親は親だから親の仕事を手伝ってもらうのはよろしくないと思っていることがあります。子供に手伝わせてごめんねとなる時もあります。先生が生徒に小さな配布物を配ってもらうことさえごめんねとなることもあります。
さらに、友人であっても、電話で相談に乗ってもらってごめんねとか、ラインで長々話してごめんねと、とにかく相手に頼らないのが当然と、勝手に自分で領域を決めていることがあります。もちろん、親しき仲にも礼儀ありなので、それぞれがその思いを持つことは必要ですが、その思いが過剰になっているから、余計に支援を必要とする人にとって、何気ないことで気になってしまう社会になっていっているのではないだろうかと。
明石市長さんの素晴らしいツイート発見。
https://twitter.com/izumi_akashi/status/1526540370460684289
番組を観ていて思ったのは、「~してもらったね、よかったね」というのが多かったことです。それは親御さんにすれば礼儀だと思われていてそれはそれでいいのですが、賀久くんが毎日聞いていたら、自己肯定感が下がる可能性もありはしないかと(取り越し苦労?)もちろん、賀久くんの天性の明るい天真爛漫なキャラだと、お世話する側が有難うってなるんだろうけれど。
一方、支援をしてもらう時にごめんねの気持ちをもってしまうことも。でも、それはごめんねではなく、サンキューくらいでいいのでしょう。
そもそも、小学校で評価をする意味なんてあるのでしょうか。勉強することは大切だし、成績を伸ばすことも必要ではありますが、評価をすることについて疑問を感じます。
その評価は中学受験をする子にとっては必要なものかもしれませんが、その場合は、県内統一テストなどでIQ学力を測定すればいいだけのことなのではないかと。もちろん、授業のあとにはテストもしますので、出来不出来はその都度わかるようにはします。ただ、先生による相対的な評価についてが疑問なのです。
学力以外の生活態度など、推薦入試などで評価が必要な場合は、通信簿のような相対的評価ではなく、担任の先生からの推薦状のようなものでいいのではないかと。
学力は統一テストで評価、それ以外に評価について、推薦が必要な場合、入学時からそういう評価、つまり中学受験を考えているいないで、担任の先生からの推薦などのための評価が必要か否かを入学時に申請するとすれば、先生達の負担も減り、ペーパーレスにもなり(ICT化はされるのでしょうけれど)ます。
そして、生活態度など他の生徒、担任の先生が困る場合があります。その場合の保護者へ通知が必要なケースは、通信簿からではなく、担任の先生のお手紙、電話、もしくは家庭訪問や懇談など他の手段でと思うのです。
必要のない、逆にあっては困る場合などの通信簿による評価の必要が無い場合、わざわざ提示の必要は無いと思うんです。
そうなれば、支援学級か普通学級か迷うケースの場合、支援学級から普通学級への移行や、最初からの普通学級の選択もしやすくなる、選択の幅が広がるのではないかと。
支援学級の良さは。痒い所にも手が届くの諺もあることから、必要な時に必要なケアが受けられることです。だからといって、普通でないと評価されることについて、そもそも普通って何?ってなります。例えば、学力は普通学級に通えるくらいなのに、授業中にケアが必要になる、つまり他の子と全く同じ様に座ってられないからの、本人の意向とは別の理由でできないという理由だけで、全く違う学級で違うと書面上記さなければいけないことに違和感をおぼえました。さらに、成長していくにつれて、緩和していくこともあれば、余計にそう思うのですね。そして、ご本人もそうだと思ってしまうことで、弱気になったりする、それは無意味な区分けとさえ思えてきます。義務教育の小学校は、今後教育レベルを上げる必要性がある一方、対象とできる人の枠も増やしていく必要があるのではないでしょうか。草原を走るように過ごせる、その中で自由に学べる、そういうのが理想です。
番組内で、おかあちゃんがかくことに関して、まだ低学年の間は我慢もできないだろうからとのことでした。確かに、書くことを嫌う人もいるでしょう。でも、賀久くんにとって、掻きたいのではなく、かかなければいてもたってもいられないのです。
外野はうるさいのです。賀久くんには、いつでも、いつまでも痒いとか、痛いよとか、しんどいよとか言い続けて欲しい。みんなそれなりに我慢しているよも言われることがあっても、我慢せずに誰にでも痒い時は痒い、痛い時は痛いと言って欲しいし、それを聞いた人は共感していくことが大切なんだと。そしてそれは賀久くんに限ったことでもなく、感覚や感情について言う、つまりアウトプットすることは、それ自体が緩和ケアにつながるので、症状を我慢しないこと、しなくてもいい環境づくり、共感する社会が必要な時代なんだと学びました。
支援が必要、いわゆる人とは違う部分について、それは属性の一部であって、それは違いであり欠点では決してなく、個性としてお互いが尊重できるようになればいいなと改めて実感。
ご拝読有難うございました。