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デジタル時代だからこそできる学びについて馳せてみた


光陰矢の如し

キャーッと思ってしまいます。。

投票率と政治への関心について、相互に関係していそう。投票率が低いのは平和の象徴だとも。で、興味を持つ人はどうして興味を持てるのでしょうか?いつ興味を持ちだせたのでしょうか、きっかけは何だったのでしょうか。政治への関心、勉強への関心が高い人は知っていつつ、そうならないのはなぜなの?そういうことについて妄想していました。最近いいなと思った曲たちとともにアウトプットしてみました。

関心をもつ≧好きになる≒得意?

1つ分かるのは、関心が強い人は既に自転車の駒無しでたとえると、スイスイ運転を始めている状態、つまり波乗りジョニーなんだと。楽しいですものね、スイスイ~っと。でも、それってかなり難しいってなる。

政治を知ればいいというわけでもなさそうだ

「政治についてご意見ください」

そう言われたとき、私の中のペンが止まった。思考停止とはこのことなんだろう。あまりにも知らなさ過ぎて

カラスもコーラスに入れそうだ。。

浮かんだのは政治的見解や味方、問題点の発見や課題を簡単に発信しにくい、知らない、更には学ぶ機会があまりにも無い日本の教育制度。

一方、政治を学ぶことについて、切り離せないのは教育、労働、生活。なぜ小学校から大学さらに先へ進み学ぶのか?なりたい職業が無い合、特に重要に。例えばあれ?とか生きにくさを感じた場合、政治で解決できること、さらには自分が政治家になって日本を変えることさえできるという可能性を全ての親が信じれたり、子供も信じられるようになれる教育は大事ですが、今までは一部の裕福で恵まれた人だけが政治を司れて、そうでない場合、よほどの意志がなければ難しいが当然な風潮であれ?と思うほうがあれ?でした。政治は生活に密接にかかわりあっているのに、そういう地点で、政治を自分の進路から切り離して考えがちになっていく。つまりは、子供のころから諦めているので当然、学ぶ機会も少ない政治について、興味を持つほうが珍しいくらいで、大人になると強制的に興味を持たざるおえない事態が現状で、受験と同じく、強制的に選挙に、政治に参加している現状があるのかもしれません。

政治~抽象的~捉えきれないままでいいの?

主体が自分でないことに本当の関心は向けられるのでしょうか。会社もそうですが、会社のサービスを享受する側が知りたいと思う内容と、会社を作る側の内容は似て非なるものですが、どちら側も相互に知れればより意見の交換は活性化、濃いものに。

政治も同じで構造から知ることに関して、全体詳細を知れればいいのは当然ですが、そういう機会ほとんどの場合、専攻やその道を志さない限り政治とという言葉があまりにも漠然と捉えきれてなかったわ、分かる人におまかせ定食となりがち。当然主体性をもった参加は難しく、オープンな民主主義以前の話の危惧感を垣間見たり感じたり。

マズローの欲求の6段階目に何をもってくるかの問題


マズローの欲求の5段階目以降では自己実現が入ってきますが、自己実現が終わったあとの6段階では自己超越の段階があります。手段として政治があるとその時に知るよりは、ちっちゃな頃から知っているほうがより良い何かが生まれるのでしょう。必ずしも6段階目が政治である必要はないとは思いますが。


政治の学びは必要なのかの疑問

国語教育の是非問題があるそうですが、政治に関心を持つ、政治の可能性を知るためにも興味をもつための学ぶは必要だと思いました。

KPIが政治家であることの無意味さ

河野太郎デジタル大臣は政治家になること自体を目標、目的にせず、何かを実現したいがために、その手段として政治家になるべきのアドバイスをされておられたのをyoutubeで拝見感動そうだよなぁの納得。

政治は様々なあらゆる方向からの専門思考も加味マストなので、幼子が政治用語を学ぶというよりも、そもそもなぜ政治を学ぶ必要があるのかのメリットをコーチング的に楽しく学んだほうが興味、関心が高まって後にいい効果を発揮するのではないかなと。幼児期は遊ぶことこそ、課題をみつける力、解決するモチベーションを構築できるのですよきっと。英語やデジタル教育と同じく定期的に学んで楽しいと思えれば、将来的により多くの有益な意見も得られるんだろうと。

政治の学びに触れる機会はいつだったっけ?公民ってあったような。つまり、政治の関心は家庭環境に大きく左右されがちで、家庭に政治に関する初歩的な教育が委ねられていることがわかります。自分で気付く賢者もいるのでしょう。

幼少期のころから、興味がわくようなボードゲーム(これは単なる一例)などのゲーム感覚で難しい用語も簡単にわかり、政治を意見することについて興味がわくような教育システム。お金の教育も大切ですが、それよりも、何のために学ぶのかの所が見いだせるようになるためにも、最終的には誰もが総理大臣を目指せる(将来なりたい職業)になるくらい、政治を簡単なこと(本当は難しい)、さらに知りたいぜ学びたいと思えるつまり、難しい政治のシステム、用語やつながりを簡単なこととして捉えられるような、楽しい教育システムがあってこそ、政治への関心は高まり、目的の手段としての政治の主体者になれると学べることは、その後の学校授業のモチベーションも高まることに繋がりさらには社会的問題への関心、それが繋がって更なる手段として経済文化活動にも繋がり活性化していくんだろうと考えさせられました。


全部おまかせしてしまうことの懸念

微妙な悩みや課題にあえて諦めている、自分の範囲で解決しようとするところが現代にはあるような気がしました。それが出来ない場合、相談しますがそこには主体性はなく、昔の医師と患者のように分からないのでおまかせしますと言われるがままに従う状態。おまかせは信頼の証でもありますが、一方で政治に関して言えば時に独裁政治にもつながることになってしまうのではと。

立候補の登竜門の1つが大金であるメリットって?

政治に対して主体的になることが難しい、政治家になることが難しい日本の現状のシステム。最終的におまかせするのは賢人と呼ばれる方々に間接民主主義で託することにはなりますが、それまでに、株式会社のように、誰もが低コストで立候補できるようになれば、どうなるのかなと。そうなると、例えば全員が立候補することも可能になるわけで、そうなると直接民主主義に近い形になりはしますが、効率面で煩雑になり、結局選ぶために何かを実施する必要がでてきます。その何かについて、必ずしも今のように資本だけに限らない何かがあってもいいのではないかと。

当選すればいいけれど、落選すると返さなければいけない立候補における登竜門、条件を資本だけに頼ることについて。立候補の是非の評価指標がお金は大きな負担。お金に換算して能力を評価することは、お金持ちなら政治家になる資質を満たす条件みたいなのを獲得しやすい環境にいると解釈しやすいにほかならないからだともうかがえるのですが、平等公平の視点でみればそうではないとなるので、金額を緩和するとか、他の指標も取り入れるなどして、必ずしも資本集中型の条件にしないことも、民主主義の多様性につながるのではないでしょうか。目的はいい政治、いい日本をつくること。てか、いい政治って何よ?が今話題になっている問題でもあるんですよね。

政治家として参加する側になるためには、お金で立候補の権利を実質買うことつまり、それを立候補のクリア条件にしてしまうことは、個人の能力以外の部分が占める割合が大きいともなりかねなくなりがちで、資金調達能力のアピールにはなるであろう一方で、民意を反映させてくれる人が断念しなければならない不具合が生じてしまうことにならないだろうかと。

デジタルで大学の枠をなくして授業料0にするの一例案

話が膨らみ、政治家立候補時の問題にまで範囲を広げていました。さて、話を戻しまして、少し繰り返しになりますが、デジタルで学べる時代になっています。教育格差、大学の授業料の問題、下宿にかかる生活費の問題もあります。格差をなくすために、今は授業料の無償化を進める考えもありますが、

すべての講義をデジタル化に集約
オープンデータ化
講義受講のレベルと総数で単位を考えていくシステム

を小学校から大学まで考え、

必要な、好きな、好ましいとされる、推奨される講義をセルフ選択
日本のどこからでもどれだけでも学べる

システムにし、授業料0で必要な科目が学べる事になればいいなと思いましたっていうか必要ではないかと思いました。

マイナンバーカードの可能性

概要:それらのデータをマイナンバーカードで可視化できるようにします。
どの講義をいくつ取得したかのデータによって、個人の数だけ重ねる年齢に沿った成長がみれ、レベル定義づけすれば、年齢とテストという受験という物差しだけにに偏らない評価が出来ます。
一定の必要とされるレベル(今の大学の単位のようなもの)について、何歳になっても、そのレベルに達した(必要な講義が終了しさえすれば)なら、その延長線上にある仕事に就けると選択可能な職業とも結びつけることを可能にすれば、強化したい労働力にかかわる講義はイチオシなどで増やすことも可能になるのではと思いました。もちろん、学問として学びたい人は学ぶが基本ですが。

世界中に広まれば尚良し!?


スタートアップ企業者育成のために、若者を海外に留学させるシステムもありますが、デジタル講義の中に、その講義も取り込めば、留学を国内で無償でできることになるので学べる対象も日本にとどまらず増やす事ができ、学びたい老若男女が享受できれば年齢を超えた可能性も高まるのではと。更に、海外の大学も参加すれば、より海外の大学に進学しやすくなります。

仕事と教育の面では、性別、体力、年齢による仕事への選択肢が広がり、制限も緩和され社会進出を今以上に平等に、より門戸が広がることになると思いました。デジタル学習で可能になる職種は限られているかもしれませんが、今はデジタルの可能性について進めています。

年齢で能力を推察・評価する場合の多様化もデジタルで可能になる

企業にすれば、大学で振り分けることは簡単です。ですが、必ずしもそうする必要があるというわけでもありません。大学というブランドが得られない場合の機会損失につながります。現代の受験制度では、その年に満了しなければ、失格的な教育システムで、受験に関していえば、更に受験当日と言う、その日に限定、その日の結果だけで振り分けられてしまいますので地方から都心への受験者は不利になります。18歳で高校を卒業し、22歳で大学を卒業し、それにずれたらレールをはずしたとなる教育システム。本当は可能性を狭めていないのでしょうか。

確かに、年功序列時代は、入社から退職までのカリキュラムが1年も外すことなく決められているのかもしれませんし、測定する側の選考の簡単さを重視の受験システムは、受験する人は1度だけしかないチャンスになります。でも、不安定な年功序列時代は無くなるとも懸念され、企業は人材の流動性が求められているそうですがそうなれば、流動する人は空白の時期もあるわけで、同じ会社にずっとい続けることで測定が可能だった在籍年数と年齢、年齢と能力を以前のように密接に結びつける難しさが出てきます。

学びについてもこうでなけれなならないなどの強制ではなく、早く進みたい人は早く進めて、必ずしもそうでなくてもいつでも挽回上回れるなど多様性を重視したシステムを、デジタルで可能にできるのではと思いました。

byデジタルで難しいが緩和され限りなく0にできる時代?

そもそも、難しいことであっても本来簡単に理解できるはずです。おぉそうだったんだの拡大型です。勉強においても、簡単に理解できるように説明をすることは、一部の賢いと言われる人によって可能で、ただ、その時間と手間が面倒だからと言う理由で、分かる人にしか分からない、暗号を読むように解ける人にしかわからない説明の仕方の書物しかなかったというだけで、文字数や、量は説明の内容分多くなってしまうとしても、本来、子供にだってわかる内容であるはずなので、それをデジタル時代に可能にできた国が、多くの可能性のある開発人材数が伸びるのではないでしょうか。繰り返しと訓練で、分かるレベルにまで到達、慣れでいつのまにか身に付けているイメージです。

分かるポイント解説本のようなのが何段階もあれば、結果的に簡単なところから難しいところにまで到達できるシステムがあれば、誰でもその領域に辿りつけてそこから、新しい何かを生み出すことができます。ただ、その手間と時間がないために、開発する人、研究する人は未来の人のためにわかり易い解説書まで書けなかっただけで、デジタル時代なら可能になっています。実際に難しかった教科書や参考書について、その点について、わかり易く解説してくださっているサイトを発見できたりします。昔は分かる人が書き記した本は、それを読める人しかわからなかったというのがありますが、それを読める人が、わかりやすく書き記してくれれば、それを読める人が出てきて、その読める人が更にわかり易く書いてくれれば、更に・・・と結果的にだれもが分かる内容になっていき、そこから、難しい本がわかるというしくみがデジタルで可能になります。

そうすると、分かる人が増えるので、人材不足が解消され、更には新しい事業、仕事が生まれてくることになります。今のデジタルが進む時代、学問を追求していくのと同時に、今まで分かる人がわかればいい問題を、何段階かになってもいいので、すべての人がわかる程度にまで解釈できる本やサイトが伸びていき、昔は一部の人にしかわからなかったことが、正しく理論的にわかりやすく誰にでもわかるような教材にすることは、デジタル時代には多くの人によって可能になり、その結果、学ぶ人の相対的理解力が高まる事が可能になります。

年齢で能力は醸造されていくこともある~年齢を重ねることの有用性

例えば、漁師さんがピアニストになったというニュース。


ピアニストになろうとおもえば、幼児から才覚を表すもしくは、才能教育を受ける必要がありました。もともと才能があったのかもしれませんが、何か他の事をしている間に、必要な能力が伸びることがあります。大切なのはきっかけや、分かりやすく学べて好奇心が高まるかどうかだと思いました。無意識の領域に語り掛けられていたんでしょうか。。ふと思ったのは、その人が何かしらの思いを持ちながら、自由を最大限に感じられるようになったとき、無意識のレベルで能力が開花するのではないかと。もしくは、思いは具現化されていなくても、何かしたいと思っていることがキャパを拡大していっているのかなとも。
デジタルで能力を得る機会や、難しいとされる多くの内容の緩和がデジタル上で自由に取捨選択学べる機会があることで、個人の能力水準があがり教育格差とよばれる斜面がゆるやかになった時、意外に他の事と並行して取り組んできた人が素晴らしい才能を、その地点から発揮することもあるでしょう。

例えば、今の場合、大学が開校している一般の人には難しいとされる内容の授業について、その授業をさらにわかりやすくした動画やサイトが出来て、そのサイトや動画を学べば、結果的にその難しかった動画授業がスラスラわかるようになるようになるなどです。

そう考えますと、飛躍の鍵は何を学んできたかというよりも、どう脳を成長させてきたかとなり、脳の成長手段として、目標のを実現するための手段に近い内容を脳の成長手段に選ぶほうが、目的に対して近道になっていきます。


終身雇用時代の受験の目的はその先に直結する合格だった

今の受験制度は、受かれば何かいいことあるに違いないのあまりにもイナバウアーでなくアバウト過ぎる希望が大きく、それはそれで、合格を文化的教養と考えた場合、義務教育と受験勉強に取り組むことは、平均的に多くの人の文化的水準は高まります。一方、合格してから、次にまたゼロから考えることをする場合、燃え尽き症候群的になってしまうこともあります。それは、受験と言うシステムがそれだけのストレスフルな活動であるからであり、大きな成功を成し遂げたことにはなりますが、その先の成功をみつけるまで、悩むことになったりしますが、それは思考停止な状態にもなってしまう危惧があります。かといって、幼い頃に描いた将来なりたい職業をずっと同じまま持ち続けることについて、変化することは当然あります。なぜなら、成長することは、日々概念が変化していくのはもちろん、社会環境、時代も変化していっているからです。

勿論、ぶれずに思いを持ち続けて将来に夢を実現できるような人だけが実現できることは言うまでもありませんが、それ以外の人もそれに近づける可能性を持つのがデジタルだといえると思うのです。


必ずしも卒業後の進路が昔のように保障されているわけでもない

必ずしも卒業後の進路が昔のように保障されているわけでもないのが、受験への疑問につながる問題に。でも頑張るしかないというなら揺れる要素が多くなりモチベーションや受験当日にも影響が及ぶことも。そういう意味からも、受験その日だけで合否が決まる受験方法に対してはいささか疑問。

脳を入学以降の目標のために活動させるための手段としての受験勉強

幼い時にトレンドだった憧れの職業が、ずっとトレンドになっているかは疑問です。さらには知識や能力を付ければ、当然進路も変更したくなります。なので、アバウトに受験のために頑張ることは、脳をそれ以降の目標のために活動させるための手段としては、無くすべきではないんだと。古典や数学は使わないというのではなく、新しい発見の要素になりうるからです。

学びを経験と捉えた場合、多様な経験をしている

別の面で言えば、脳を成長させるためには活性化が必要で、総合的に取り入れる今の教育はある意味、科目が網羅されているのであらゆる脳の部分を使うことになります。学びを経験と捉えた場合、義務教育や受験勉強は多様な経験をしていることになります。同じ内容、傾向だけではそうなりません。

逆に学校と言う建物に通う大切さも浮かび上がってくるのではないでしょうか、知識の習得だけがゴールではないという。そういう新しい気付き見たいなことが気付けるのも意見交換している中で、自問自答しているからであったのではと。


おまかせ定食型教育 OR ビュッフェ教育

義務教育や受験勉強やその時代に学ぶすべてのことは、目的となる何かしらの能力の発揮に必要なシナプス連携の仕方の基礎付け、新しい発見のときにおこるワクワクや記憶野までの道のりの活性化で全体像が鍛えられるイメージです。茂木健一郎さんのように、1つのことをしながら結果的に多くの事を吸収することができれば、受験とは逆の形で、結果はあらゆることを吸収していることになります。学ぶ内容を食べ物と考えた場合、ビュッフェ教育と例えてみますと、義務教育はおまかせ定食型の教育となります。そうなると、何を取り入れるか取り入れないかの取捨選択が必要になり、間違えてしまえば、YouTubeのアルゴリズムのように、偏った内容だけに埋め尽くされてしまうこともあるんだろうなと。


それはそれでいいのではないかとも思います。でも、正解、というか、こういう形こそ〇〇の能力を発揮するにはいい形のようなのがあれば、それらを学びたくなりますが、それが今の義務教育、大学教育なのでしょうか。デジタル講義方式をつかえば、その概念がかわれば、違う講義をリリースすることが出来、それが累積していけば型の書き換えは年度ごとに可能になります。ただ、そのプラットフォームをどこにするか、デジタル講義になるまでの過程で新しい仕事ができたりもするのではないでしょうか。

ここまでは1つに集結させた形でしたが、必ず市もそうなる必要ななく、教える人が、パーソナル先生として活動するという考え方もあります。そうすると、今の義務教育や大学教育にかわる内容を満たしているのかなど、判定も必要になるでしょう。

ところで今の義務教育や受験勉強がその型になっているのかどうかの疑問がありますが、一方で、ある水準をもった同じ暗黙知をもった多くの人が育つのが日本の教育のメリットだとも思いました。

今の義務教育や受験勉強に疑問を持つ場合、その疑問内容というのは、能力を発揮する最良の型になっているのかの疑問ではと。それが払しょくできれば、日本の教育は最高だということに。ただ、それが何なのかがまだはっきり分からない問題。

一方で、デジタルを使えば、学ぶ人にとっての蓄積型の必要な知識の獲得のための理想の型、つまりどれとどれの講義を受講すればいいかが可能に。これは必要、これも必要と講義をリリースしていき、消化能力と加味して最高の講義カリキュラムをつくりあげていけば。しかしながら、それも時代とともに、何を学ぶべきかは変化していきます。そして、デジタルではその変化にも柔軟に対応できると思いました。すでに学校がしていることですが、学校の壁を無くした場合の話を進めています。どちらが将来的に有効なのか、効率的なのかは今の地点ではわかりません。

18歳までに学ばなければいけない知識量が決まっている義務教育や受験勉強はマッハで走るイメージです。生徒側もテストで理解度が測定されるため、短時間の吸収が求められ、時間の制限が原因で学びがつまらないでしょと思わないような教育システムが、デジタルで可能にすることができるのではないでしょうか。どうやってはもう少し後で書いています。

回り道をすることは、学びを遅くすることと似て非なるもので、本来大学卒業時に学ぶべきことを40歳とか50歳で学んだとしても、そこから先はどちらがいいかは分からないということを可能にするのがデジタルの力だと思いました。もちろん、当然ですが、その人がそのままの状態で40歳になった時、50歳になった時のほうがいいのは言うまでもありませんが。

時間をかけて学ぶことの付加価値もある

早ければ早いほどいい理論は、ゴールにたどり着く時間も早くなるので最短距離にはなりますが、そもそもゴールの内容が、単に難しい問題を解くだけなのではありません。その能力で実際の課題を解決する能力につなげることがゴールとしてより立体的で、いつでもそのレベルにたどり着ける機会があるならばいいねとなり、さらには、辿り着いた時に他の体験や経験があれば、より有機的に能力に付加価値を与えつつ発揮できることが期待されるメリットも時間をかけて学ぶの意味の中にはあります。



デジタルで学んだ内容を指標にすることで「学び量と質」と年齢の固定概念の壁をなくし「いくつになっても学べる」が珍しくない時代に

中学校ではこれくらい、高校ではこれくらいなど、年齢で学習内容を推定してしまうのが年齢指標だとします。そこには、こんなのも知らないの?はありますが、こんなのも知ってるの?は、飛び級でもしない限り見つけることは難しそうです。

デジタル講義にすれば、今までの教育システムのような年齢でなく学んだ内容を指標にかつ、学ぶ人主体で自由に学ぶ内容をシフト、チェンジ、複数解受講出来ます。

これが分からないのに、こんなの分かるはずがない
というのが義務教育のカリキュラムに起こりうるとします。

これは分からなかったけれど、これが分かったので、これも分かった
ということがデジタル講義方式では可能になります。

そこには学びはイメージが先行され、捉える場所によって、理解が生まれ、その集積が分からなかったところを補強、補填して結果的にわかるという考え方です。イメージはヒントを多くインプットしていく感じになります。

数値で表すのは苦手だけれど、概念で何となく捉えられたので、数値でも捕らえられるようになったという感じで、それを講義内容に反映させれば、義務教育や受験勉強の進行とは順序は違えど、結果的に同じことがわかるようになっている、それがデジタル講義では出来るのではないかと思いました。たとえば、義務教育だと計算問題がわからなければもう数学は苦手になりますが、デジタル講義だと計算問題はわからないけれど、図形やグラフの問題がわかるので、モチベーションが上がり結果的に計算問題も理解できたにできます。その理由は、自分で受講する内容を選べるからです。苦手を継ぎはげるからです。

他のメリットとしては、時間をかけて学べば、その間に更なる成長に伴う脳の成長もあるので、より多くの学びに繋がる可能性があるそうです。例えば、ある人はその時に短時間で解けたとします。それで安心するので、飛躍がないそうで、一方、その時に解けなかった場合でも、長期にわたって取り組んでいくうちに、その時早く解けた人よりも、より早く正確に応用的に解けることにつながるそうです。長期というのは1年先かもしれませんし、2か月先かもしれませんし、8年先かもしれません。このことから、必ずしも早期習得が全てではないことがわかります。


テスト実施の是非問題

今はテストを実施しないが注目されているそうですが、テストについて、そのテスト内容によってメリット、デメリットがあると思いました。

そもそも、テストを実施する理由は、受験の合格者を決めるためであったり(相対評価でなく絶対評価のテストもありますが)、間違いを発見できるか否かのテストがテストには含まれますが、そもそもそういうのを繰り返していると、学びに対して苦手意識をもたせるだけにならないでしょうか。

逆に、テストについて、授業を受けさえすれば解ける問題、授業の理解力を深める問題に出題を限定すれば、より授業やテストに取り組むことが億劫ではなくなるような気がします。間違えないように学ぶことよりも、学んだことを確実に身に付けるために学ぶ姿勢のほうが能動的に積極的に学び続けられるのではないでしょうか。評価のためのテストは、一度の評価で学びのモチベーションがさがりパフォーマンスに影響する可能性が多いにあると思いました。

テストの点が悪い≠勉強が出来ない

ヨビノリタクミさんは、統一試験で成績が上がらない場合落ち込んでしまうべきか否かの質問に対して、落ち込む必要はないと回答されていました。なるほど、一度の試験の範囲は限定的で、そこを勉強していなかっただけという解釈で、勉強が出来ないとは(その人が努力している限り)あまり関係ないんだと。でも実際にテストはその後のモチベーションに多いに関係しているのが現状で、テストがよければ当然逆になります。

では、そもそも勉強が出来ないという概念はないということになります。言い換えると、勉強ができるということは、時間内に解けるという技であり、それは重要ですが、勉強ができる出来ないとは関係はないということになるんだと。勉強が出来ないのではなく、時間内に解けなかった、時間内に正解にたどり着けなかっただけになり、勉強が出来ない出来るとは違うことになります。時間をかけて分かるのであれば、それは勉強が出来ないとはならないんだと。


能力を伸ばすテストと伸ばさないテスト

そのため、大袈裟に言えば差をつけるために実施されるテストによって、本来出来る能力はあるにもかかわらず、出来ないと思ってしまうので、能力を伸ばし続けられない危惧があり、勿体ないことになるのでそんなテストは要らないんだと。

注意力を高めるために必要な場合は、間違い探しの対策のための限定問題対策内で実施するなどして、合格者を選出するため、能力の判定に授業や教科書にない内容をふんだんに使ったテストだけで判断するのは廃止すべきだと思いました。同じ分かるに到達することが目標であり、テストで高得点が摂れることは、テストを作る人と重要視する着眼点が同じと言う点で相性がいいということになり、必ずしもテストが悪いからわかっていないとはならないんだと。一方、テストを作る人と重要視する着眼点が同じだからわかっているということはあります。そして、テストでいい点をとれることは、大きな自信にはつながりますので、いい点がとれるためのテストは、その先の学習意欲の維持のためには有効だとも思いました。つまりは、テストでさえ手段であり目的ではないの面を重視するか否かでテストの是非は決められるのではないかと思いました。


デジタル講義による小中高大一貫教育のデメリット

デジタル講義による進め方では、小学校から大学まで無償の網羅された講義シラバスの受講は、途中の進路変更も自由にします。
ただ、講義に対するモチベーションの維持の問題や、分からない場合の補修動画、休憩含めた受講のためのスペースやパソコン環境など、講義をクリアできるための対策が必要です。その煩雑さがネックになって、進められないのならまずは一部の人だけを対象に実施する必要があります。どちらがより多くの人を輩出できるか、教育システム終了時の燃え尽き症候群化の度合いはどうかなど様々な疑問点を比較することで、現状の義務教育のほうがいいのかデジタル教育一貫がいいのかがわかるのでしょう。

更に、もしデジタルでいいのなら家庭で学ぼうとなった場合、管理権限を家に委ねることになり、結果的に教育を家にまかせることになり、そこでもまた家庭環境による格差が生まれるのと、それはそれで家庭の負担が大きくなる問題もあります。

デジタル講義のメリット、デメリットをまとメモってみた

デジタル講義のメリット、デメリットをまとめながら、少し繰り返しになりますが、政治、お金に関する学び授業や、一般教養、義務教育的なマストとされる講義もデジタル講義による教育システムに導入していけば、小学校から大学卒業の時間の中で、個人を主体とした学びが授業料ゼロでつくれるのではないでしょうか。一方、そのためにはデジタル環境を家や学校、それ以外の場所にも作る必要があります。一方でデジタル環境にプラスする内容としては、パソコン画面を見続けることはかなりの体力的、気力的、視力も必要とするため十分な横に慣れる様な休憩場所も必要だと思いました。それは効率にもつながります。


進み具合に関して、今の教育格差と同じように、学びやすい環境とそうでない場合とで、受講数の差が生じ、その理由は経済格差からの場合、本末転倒になるため、デジタル教育を考える時には、経済格差を加味、解決することも同時にする必要があるんだなと。デスク、椅子など従来のデスクや椅子とは異なる環境を整えるところから始める必要があります。そうなると、やはり煩雑化するため、やはり今の義務教育が意外に個人の自由度を保てていたこと、広い範囲での必要を満たし大切なのかも知ることができます。デジタルは授業の無償化、教育内容も変化しうる可能性を秘めているんだと。

大学生以降の年齢層にまでデジタル講義を適用すれば年齢と定年の壁も無くせる

義務教育、大学進学の年代を過ぎてからデジタル講義で補填、が今の形ですが、もし、小中高大学とデジタル一貫にし、既存の小中高大学を無くし授業料がなくなり、新しい集合体にするのなら、学びたい人がより学べる環境になっていくと思われます。一方、全ての人に公平な教育にするのなら、今の義務教育はマストだと思いました。必要なのは選択肢を増やすことで、どちらでも選べるようにするのが理想だと。そのためには、ゴールから考える必要があり、どういう人材を増やしていきたいのか、そのためには何を学ぶ必要があるのか、それはデジタルで学べるのかなどの仕訳から必要になっていくのではないでしょうか。(デジタル教育を実践することになる場合)


健康問題の懸念

一方で、人間は狩猟民族であるために、パソコンとの親和性について、必ずしも良いだけでない側面があります。幼少期からずっと長時間パソコンに向かっていることについて、人類成長の面で+に働くのか、そうではなく単に視力や体力を消耗させ退化に向かわせるのかその逆なのかなど、様々な健康への課題がありますが、それはデジタルが駆使されるようになってから分かっていくことなのでしょう。

もし、健康面で完全にデジタル化してしまうことが弊害とでてしまったのなら、デジタルは人間にとって補完的役割を担うだけのツールになります。そうすると教育システムについて、過去から培ってきた教育システムと、デジタルの両輪的発展の課題が生まれ、更には、メタバースも日常になれば、複数のバランスでの利活用の最善策が必要になっていきそれは、アメーバ状に変化する柔軟性が求められるんだと。


デジタル化の過渡期「ただ繋ぐだけでなく繋ぐための改革も同時進行」

デジタル化することで、あらゆる問題が可視化されるので、問題が浮き彫りにでき、改善する部分がわかるんだと。課題についてを語ろうとするとき、例えば、教育格差の問題なら、経済格差の問題、解消するためには労働・雇用問題、さらには年功序列時代の終焉と言われているのなら、スタートアップ企業の創業など芋づる式に課題が出てくるので、多様な面を同時に高め進めていき課題の解決を図る事が必要で、可視化や分析、測定、把握、検証をデジタルとともに簡単・簡潔・迅速(従来の手書きだけの時代よりも)な展開での解決が可能になることに気付きました。それでも課題と課題を過去未来とに融合させ、未知の課題を見つけるのは人なんだと。

更には、書くという事に関して、デジタルでは入力するとなりますが、入力する事に関して、入力が主流になっていますが、音声で書くを完結できるようになる、そんなシステムは新しいパソコン言語になるのかもしれない。全部音声の指示で完結する書き方の様なのが開発されるのだろうかとそんな妄想もしてみるんだと。




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