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あの日の自分へ

ここ数年で本当に色々なことがあった。

今までなかなか話せなかったことがある。

それはその時々に支えてくれた人やその都度自分がどう感じてきたかということだ。

そろそろ話しても良いのではないか。

娘が頭の病気になったのが5年生の時、入退院を繰り返しながら、家族で乗り越えた。

その時に私はblooklynに住むアフリカンアメリカンのシングルファーザーの人と付き合っていた。

息子たちは、21と19で、父親に似て愛情深くとても素敵な青年たちに成長していた。

彼は若くして同級生と学生結婚をし、2人の息子を設けたが母親は他の男の元へといってしまった。その際に話をしに男の所へ行った彼は銃で撃たれて左腕に今でも傷痕が残っている。

遠距離をしていた。それでも毎朝毎晩、顔を見て話をした。彼と連絡がつかなくなったときは、息子たちが私にわざわざ連絡をくれた。

男手で一人で息子達を育てた彼は、

いつも怖がっていた。

アメリカは警官が若い黒人男性たちを銃で撃ち殺してしまうという悲しい悲しい情景にあった。

「また今日も一人撃たれた。声を掛けられたら終わりだ。何もしてなくても黒人と言うだけで撃たれる。次は息子じゃないかと考えると夜も眠れない」と、2mもある大きな体で泣いていた。

私はそんな彼の話を聴きながらblacklivesmatterの絵を描いていた。

私の子供たちはhalf blackだ。日本の田舎でマイノリティとして暮らす中でその頃から色々あった。その度に彼に励まされ、いかにblack bloodが尊いものなのかと話をされた。

私は約25年ほど前から黒人の方たちをモデルに絵を描いてきた。

中学のときに、アフリカに興味を持ち、いつも地図帳を見ている子供だった。そこに住む彼らの肌の色はとても美しいと思ってきた。

そんな私が19で東京の大学に行き、絵を描き初めて原宿の表参道の路上で絵を売っているとき、一人のアフリカンアメリカンの絵描きに会った。路上でライブペイントをした。

それが始まりであった。

周りには黒い肌の人達が増えていった。私にとってはとても居心地がよく自然なことであった。日本人の男の友人達もいた。大体が音楽を愛し、ミュージシャンやDJだった。

仲の良い女友だちは、軍人と結婚し、横須賀のベースに住んでいた。私もベースに出入りしながら、軍人とも付き合ったりもした。

私もまだ若かった。ブラパンと差別する人もいたが、しかし彼らと付き合い色々なことを学んだのだった。

そして、いつでも絵を描く私を彼らは不思議そうに見ていた。

あの頃、横浜のHMVには沢山の外国人がいた。HipHopのアナログを探しにいくとhey babyと声をかけられる。そんな日々だ。

私の場合、怖いものなんてなくて

「あなた、とても美しいから絵を描かせてくれない?」とモデルを探していた。いつでも、クロッキー帳とコンテを持ちHMVの中で描いたりもした。沢山のbrotherたちが物珍しそうに囲んで私が描くのを見ていた。

私は彼らが好きだった。

愛に貪欲で時にだらしない彼らを愛おしいと思っていた。

そして、彼らの持つ悲しみも、全て知りたいと思った。

そして、black historyを勉強した。

ますます彼らを知りたいと思った。

沢山恋愛をした。その度に色々なことを教えてもらった。

ある彼はアフリカンアメリカンの俳優だった。父親は牧師で母親は教師だった。

私が彼に出逢ったとき、彼はスキンヘッドだったが、ある時彼が話してくれた。

「俺はずっと、ドレッドだった。でも、父親に、なぜ、お前の肌は黒いのにわざわざドレッドなんかにして生きずらい人生を歩むのかと言われた。俺はドレッドを切ってしまったけど、魂はラスタなんだよ。」

と、語ってくれた

私はそんなことを親に語られるなんてなんて悲しい現実がアメリカにはあるのかと思った。

 でも、彼が俳優デビューした時は映画にドレッドで出ていた。その映画を両親が見にきてくれてエンドロールで名前を見て泣いていたという話を聞いたときにジーンとした。

その後、彼はアメリカに帰り

私は他の人と結婚をし10年後に離婚をした。

まさかと思われるかもしれないが結婚生活の中ではいつも差別との戦いであった。

家を借りるとき、仕事をするとき、そして警官の職質だ。

酷かったのは職質。元夫は何度も駅で声をかけられた。悪いことをしてない彼はIDを見せることを拒否した。その度に警官達は家に付いてきた。私と子供たちが玄関に出ると、警官達はそそくさと帰っていくのだった。

ある時、警官から電話がかかってきた。旦那さんに職質をして持ち物を調べたら仕事で使うバックの工具の仲から危険なものを見つけたから署に連れていくというものであった。私が何を言っても警官は聞かなかった。仕事で使う工具なのに、なぜそれが危険物になるのか、彼は警察署に連れていかれた。警察署からまた電話がきた。職場に電話をしたら、本当に工具でした、というもの。すみませんでした、と一言言われた。

黒人と言うだけでこうなってしまうのか、これが日本という場所なんだな、と学んだ。

元夫はどちらかと言うとライトスキンでいつもスッキリとした格好と髪型をしていた。どんなに格好に気を付けても黒人と言うだけでだめなのか。

悲しいことを沢山学んだ。でも今思うと学ばなければ、知らなければならなかった。

その中で子供たちをどう育てていったらよいだろかといつも考えていた。

過剰に意識しすぎるのも良くない。でも意識しないと子供たちの苦しみに気づいてあげられないかもしれない。

子供達が差別にあったら、彼らの苦しみと向き合い、差別をした相手に何が悪いのかを説明できる知識を持ち、胸を張って話ができる人でありたいと願ってきた。

目を背けることは出来ないのだ。

 実際、娘が酷い差別に合い、心も体もボロボロになり現実はとても厳しい。

でも、過去があるから

今こうして生きていられる。

沢山の悲しみを知ることができたから、今どんなに苦しくても、逃げずに前を向いて生きていられる。

伝えることができる。

知ることは命を守ることだ。

私は子供たちの命を守りたい。

愛を持って

これからもずっと。


Black Lives Matter









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