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感情は距離に依存する

前々からふと思っていることをつらつら書いてみる。
感情にはいろいろあるけど、その感情はそれを抱く相手との距離感に依存していると感じる。

たとえば怒りの感情は、相手との距離が近い場合に生じる感情だと思う。

ここでいうところの距離は相手との精神的距離だ。

精神的距離が近いがゆえにに怒りが湧いてくる。精神的距離が近い、言い換えれば親交が深いほど怒りの感情は現れやすい。

それは近いからこそ、相手が自分の価値観と異なる行動をとった時に、こうであってほしいという自分の価値観を伝えたくなるから。近くない人、全然知らない人が自分の価値観と合わないことをいくらやっていても感情は動かない。

でも価値観を伝えるのであれば、別に怒らなくてもいいはず。ここでついつい怒っちゃうのって、その人に甘えてしまってるから。怒るという強めの反応をしても、ゆるしてくれるという想いがきっと無意識にある。
近すぎると甘えが出てくる。

つまり、自分の価値観を伝えたいと思うくらいの距離感の相手でも、どれだけ近いかで怒りの出やすさが変わる。

友人であれば冷静に意見を言える場面でも家族、特に親だったりするとイラついてしまうことってあったりする。

怒りという感情に目を向けるとこんな感じ。
だけど、多分その他の感情も相手との精神的な距離に依存しそう。精神だけじゃなく色んな意味での距離が関わっていそう。

今、想像しているのだと嫉妬と尊敬の違いとか。
距離だけが要因ではないにしても、近いと嫉妬になりやすく、遠いと尊敬になりやすいと感じる。

あとは距離が近い状態で感情を強く揺さぶられることがあると、対となる感情にスイッチしやすい。
たとえば、敬愛と憎悪とか。この辺プルチックの感情の輪とかで整理できそう。

プルチックの感情の輪

感情は相手がいて初めて抱くもの、そしてそれは相手との近さ、距離に依存する。

当然のようなことかもしれないけど、この辺を分析して構造化すると面白そう。そしてその構造が整理できると自分を俯瞰して律しやすい。

怒りに関しては、だいぶ自分を俯瞰してみれるようになった。
親との会話でイラつきの種が出てきた時なんかにも、それに気づけるようになった。

でも、今も親として子どもに怒ってしまう時がある。
これはこの考えに基づくと、完全に子どもに自分が甘えているのだ。
絶対に子どもは自分を嫌いにならない、愛してくれるというのが無意識的な甘えになっているのかもしれない。
友人が言っていた覚えのある「無償の愛をくれているのは子どもたちの方だ」という話に繋がる。

あるいはひとりの人間として心から対等に敬意を持ちきれていないのかもしれない。それは恥ずかしい。

いずれにしても、まだまだ思考と修行が足りないようだ。日々、自分の感情と向き合って精進していきたい。


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しょーま
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