20240213
二日くらい前にある発想があった。さらに出勤中に読んでいた小説に感覚を磨かれたような感じがあって、今日は一日中半分くらい夢心地だった。良い意味で、うつつを抜かしていた。
その発想というのは具体的な詩句でもなく、ましてやテーマやモチーフでもなかった。強いていうなら、言葉の質感のようなものだろうか。完成前の陶器の、その手触りだけを思いついたのだった。読んでいた小説もそうで、ストーリーがどうとかというよりも、言葉の連なりにが砥石のような働きを持っていた。そういう本が他にも数冊あって、お守りのように持ち歩くこともある。
不在としての客体の質感を反芻し続ける主体、としての僕。ずっとこういう心持ちでいられたら幸せなのだけれど、イメージというやつは極めて主観的で不安定だった。感覚の根拠になる対象がないのだから当たり前である。実際、そのイメージを起点に詩を書くことははあっても、イメージ自体をそのまま言語化することはできない。それはどうやってもスケールダウンしたものにしかならない。それに、だいたい書き始めるとイメージがただの錯覚に過ぎなかったことがわかる。一種の陶酔なのだ。具体的に言葉を操作する段階では、何割かは素面でいる必要がある。
逆説的に、この発想はとても貴重だと言える。鮮度の関係で産地でしか出回っていない食材みたいなものだ。僕の主観の外に出た瞬間にこのイメージは全く別物になってしまう。最も美味しいところを味わえるのは収穫したものの特権なのだ。錯覚とわかっていても、この味の価値は失われない。何しろ僕の主観の中では間違いなく本物なのだ。
早く作品に進めば良いとも思うけれど、どうも現在の僕の状態では上手に言語化(つまり具体化)することができない予感があった。どうも正面からぶつかっていってしまいそうな。むしろ、イメージに対して斜めから向き合う意識こそが重要なのだけれど、今の自分はそんなに冷静じゃない。こういうとき、自分の中に身を隠してじっと息を潜めている感覚があって、何か、脱力しながら同時に少し緊張しているような気持ちでいる。もうすぐで状態が変化する気もするけど、どうかな。
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