cairnについて

コロナウィルスの事もあり、ここ2ヶ月くらい家からほとんど出なかった。
2ヶ月、というと長かったように思うけど、過ぎてしまうと何という事もない。
特に何をしていた訳でもなく、時間がただただ過ぎたような気がしている。
先日たまたま連絡をくれた知人がnoteでもやってみれば、と言うので早速書いてみる事にした。年々、頭が固くなってきているけれど、noteを勧められた翌日に始められたのは、言葉にする、文章にする、という事をこの2ヶ月の間に何度か意識したからだろう。とはいえ、どう書いたらいいのか、そもそも何のためなのか、など色々と考えてしまいなかなか進まず時間がかかってしまった。
まずは、4月に発表した写真集「cairn」の事から書こうと思う。
2018年に訪れたアイスランドでの事をまとめた写真集だが、
それがどうゆう体験であったのか、という事を中心にnoteを書き始めようと思う。


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2018年7月に訪れたアイスランドで、1ヶ月間ほど歩行や野営をした。
そもそも、アイスランドはその前年に新婚旅行で訪れた地であった。オーロラが見てみたいという妻の一言から行き先を探していると、それが見られるあらゆる観光地の中で、アイスランドだけが自分たちの中に情報やイメージがほとんどない場所であるような気がして、好奇心に任せて行き先として決めた。そして今回は、一人で訪れる事になった。きっかけは、妻との間に子供を授かった事だった。ステレオタイプのイメージで頭がいっぱいになった自分にとって、今思えば、モラトリアム期間のようなものだったのだろう。そう考えると、妻もよく了承してくれたと思うし、少し恥ずかしい。
しかし、それと同時に自分の中で、血が繋がった、という現実を目の当たりにし、一つの役目を終えたような気持ちになった事も覚えている。そして、自分自身、ひいては「個」という存在について漠然と考えを巡らせ始めた。

渡航日はわりと直ぐに決まり、夏の3ヶ月ほどの期間以外は雪に埋もれて閉ざされてしまう高地を歩く事に決めた。アイスランドの気候が新潟で生まれ育ったの自分にとって肌馴染みが良く、旅先でありながらどこか懐かしさを感じた事を思い出した。新品の道具を意気揚々と詰め込んだバックパックは重かったけれど、その重さが32歳にして初めての海外一人旅の安心感でもあったように思う。これさえあればどこへでも行けるような気がした。不安はもちろんあったけれども恐怖心は無かった。今の時代、アプリを開けばマップ上で現在地も把握できるし、事前に知れる事もたくさんあったからかもしれない。
しかし、歩行を続ける中でそのGPSですら疑う事になるとは思っていなかった。
どこまでも続くかのような一本道をただただ歩いていると、周りの景色の変わらなさから、本当にこの道であっているのかという事を何度も確認していた。間違いなくルート上に現在地は表示されたのだが、そのGPSという機能自体を疑うようになっていた。歩行を続ける中で、白夜は昼夜の感覚を無くし、テントでの野営は内と外の境目を徐々に曖昧にしていった。そこに慣れない歩行での疲労が重なり、経験した事のない感覚をノートにこう書いていた。
“全くをもっていろいろな時間が交差している。夢をみるたびに、今この現実と
している世界もなんらかの夢なのではないかと思ってしまう。”

自然に対して懐古的な気持ちを持っていた事は間違いない。そもそも、このような旅に出る事自体がそれでしかないのかもしれないが、いざ圧倒的で壮大な自然に囲まれるとそんな事を考える余裕はなくなり、無かったはずの恐怖心さえ湧き出てきた。天候にすら気持ちが左右され、そんな状況で道に迷った時に途方もない草むらから薄っすらと見えた道にどれだけ安心したか。また、いくら時間が遅くなったとしても夜が暗くならないというだけの事にどれだけ救われたか。いつか観た映画のように荒野を当てもなく彷徨い歩くような旅を頭のどこかで想像しつつも、現実ではしっかり誰かが踏み固めた道を昼間に歩いていたのだ。
そんな状況の中で、途中の数日間だけ一緒に歩いた人がいた。フランス人の彼とは避難小屋で出会った。小屋といってもコンクリートで出来た倉庫のようで、中は薄暗く埃っぽかった。とはいえ、天候はとても荒れてテントなど張れる状況では無かったのでとても助かった。自分の誕生日でもあったその日の夜に彼は現れた。小屋でただ出会ったというだけで、一緒に歩かないという選択肢もあったはずだ。ましてや、せっかくの一人旅とはりきっていた事もあったし、彼もそうだったかもしれない。自分から誘ったのは、確かに一人で歩く事に少し飽き始めていたところはあったが、心細くなっていた事が大きいだろう。その日、歩いて感じていた自然のスケールに対し、自分の小ささを感じずにはいられなかった。それでも一人でたくましく歩き続けられるほど勇敢な人間ではなかった。
しかし、彼と共に歩く事で自分一人では絶対に行かなかったような場所、そこはそもそも彼が行きたいと目指していた所だったのだが、そこへ行く事ができ、見るはずの無かった景色に心を奪われた。数日間一緒に歩いただけだったが、高校くらいから付き合いがあるよう奴にさえ感じた。久しぶりに街へと戻ると一緒に簡単な飯を済ませ、彼はヒッチハイクで次の街へと行ってしまった。

アイスランドという申し分ない舞台を選び、ルートという歩ける道が事前に用意されていた。そのスタート地点までは公共の交通機関を使い、街に戻ればどこにでもあるファーストフードを胃袋に押し込んだ。言ってみれば、とても精巧に作られたアトラクションパークの中で遊んでいたに過ぎない。
だが、その道中で起こった様々な出来事は大いに偶然性を孕んでいた。
その出来事に対してどう向き合うかで、その後のシナリオは決まっていった。
あるテントサイトに泊った時、選択を迫られた時の行動について不意に考えさせられた。なぜその選択をするのか。自分の内的要因に紐づいているが、その紐の先端は深い闇の中へと消えている。過去にも同じように選択を迫られ、同じような行動をしてきた自分の姿を垣間見た。
こうゆう場面に立たされた時に初めて、本当の旅らしさを感じられたように思う。アイスランドを歩く、という事自体は言わば設定でしかなく、過去の自分に対峙した時、どうゆう判断をするかという事が自分自身を省みるきっかけとなっていた。撮るという行為もまた何かを選択するという事であるならば、その産物はルート上に残してしまった自分という存在の痕跡なのだろう。
あるドミトリーに泊まった時、世界地図で自分の国にピンを打つように言われた事を思い出した。日本にはすでに1本ピンが打たれていた。

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