加賀山隼人正興長の殉教と墓碑について
加賀山隼人興長の殉教と墓碑について
加賀山隼人正興長の殉教
1619年(元和5)10月15日早朝、小倉で加賀山隼人が斬首処刑・殉教した。同日、豊後日出で隼人の従兄弟の加賀山半左衛門父子、(ディエゴ4歳)が斬首処刑され殉教した。
遺体は、田川郡香春町中津原浦松で隠蔽され監禁生活を送って信仰を堅持している隼人長女・みや、その夫・小笠原玄也の元へ運ばれた。「棄教しなければ同じ運命をたどることになる」と言う藩主忠興からの痛烈な警告だった。
著作集第1巻『小笠原玄也と加賀山隼人の殉教』第4節「加賀山隼人とバルタザル半左衛門の殉教」(111~125頁)の中で、「墓碑を制作したのは中浦ジュリアン神父」と書いたが、その後の調査で明らかに、長岡与五郎興秋が1621年(元和7)5月21日に「香春町採銅所の不可思議寺」の住職として匿われていることが、実弟忠利の書いた『長岡与五郎宛 元和7年5月21日 細川忠利書状』により証明された。
細川興秋と家老・加賀山隼人正興長
興秋と加賀山隼人正興長の関係は、興秋が中津城主だった1602年から1604年(慶長7~9)の2年間、興秋の政策の要と補佐として、隼人正は下毛郡奉行として活躍している。
加賀山隼人正興は中津城主である興秋を理解し政治を補佐し擁護して興秋を支えていた。中津時代の興秋の政策に何ら落ち度はなかった。興秋は真摯で真面目なキリシタンであるのでその姿勢は政策に反映され、特に下毛郡の奉行を任されていたキリシタン武将の加賀山隼人正興長と共に農地改革、石高向上政策に邁進している。
興秋と加賀山隼人正の間にはこの中津城主時代、共に力を合わせて宣教と政策に協働して邁進した良き時代があった。加賀山隼人正の熱心な信仰を間地かで見ていた興秋にとって、隼人正はキリシタンの模範的人物だったし、自分の政策を理解し真摯に協力して行く道を示してくれた家老であった。興秋に取って隼人正は尊敬に値する人物であり、隼人正の真摯な信仰と生活態度は、人生における模範となる先達者であり、心優しい信頼のおける頼もしい家老だった。
興秋が中津城から追放され、江戸へ忠利に代わりに人質として行くことが決まった1604年(慶長9)10月に「起請文」を書いた時、その「起請文」を受け取ったのも加賀山隼人正だった。おそらく、興秋に京都にいる養父興元と連絡を取り、今後の生き方を教示したのも隼人正だった。
興秋と加賀山隼人正はキリシタンとして中津教会のセスペデス(Gregorio de Céspeses)神父の指導のもと、教会活動や慈善活動に共に協力して宣教に熱心に取り組んでいる。隼人正の領地、下毛郡の14人の庄屋の内12人の庄屋がキリシタンになり、キリシタンになった庄屋のもと、農民による信徒組織(コンフラリア)が作られ宣教活動は非常に活発になった。キリシタンになった人々は相互扶助活動を通してキリシタンの生き方、奉仕活動における無私無欲の働きかけをした。その無私無欲の姿を見た異教徒たちはその姿に影響を受けキリシタンになった。
小倉教会のセスペデス神父、伊東マンショ神父、カミロ・コンスタンチオ神父の指導のもと、キリシタンの支柱・中心人物である加賀山隼人正興長の卓越した信徒組織構築が行われた。小倉教会の神父たちと加賀山隼人正が構築した信徒組織の会員名簿が1617年(元和3)8月の作成の、コーロス(Mateo de Couros)徴収文書に記載された小倉・中津の信徒代表者達である。
信徒組織・コンフラリア
信徒組織(Confraria de Misericordia・慈悲の信心会)とは、信仰共同体における兄弟会を意味している。信仰を生活の基盤として持ち、相互扶助、すなわち互いに助け合い励ましあいながら自分と相手の人格とを高めあうことを目的とした信徒達の共同体として発展していった。キリストにある平等という信念に基づき、地位、階級、貧富などの差別を克服して、相互扶助を実践していった。貧しい人々、虐げられた人々(被差別部落・穢多,非人)、見捨てられた病人(ハンセン病・癩病等)、流浪の乞食等に手を差し伸べていった。これらの人々に対してまず自分達が『共生』を実践して見せ、賛同を得た回りの人々と共に働き、社会事業として定着させ、結果的には布教活動に結び付けていった。
初めは宣教師の指導の下に自助信徒組織としてのミゼリコルデア・慈悲の組と、コンフラリア・信心会として組織化した。信徒代表がこれを指導して宣教師の下、活動を展開していた。信徒代表は、組親とか組頭と呼ばれていた。信徒組織は定期的に集会を持ち『心業修行』『キリストにならいて』(コンテムツスムンジ)『ドチリイナ・キリシタン』『ぎやどぺかどる』『サントスの御作業』『ヒイデスの導師』『スピリッアル修業』等、などの霊的書物を信徒代表が信徒達に読み聞かせて信仰の強化を図っていた。死者の埋葬・教会の管理維持・病人や貧しい人々の世話などの慈善活動を率先して行った。
小倉と中津の信徒組織・コンフラリアは1600年、中津でセスペデス(Gregorio de Céspedes)神父が働き始めたときには既に信徒の間で組織構築され存在していて、1603年、中津から小倉に移ったときも、小倉教会の中に存在していた。信徒達の貧しい人々への施し、ハンセン病(癩病)患者への救済、教会の中に設けられていた孤児院での働きなどが、イエズス会の報告書に述べられている。
1611年12月、セスペデス神父の突然の死去後、細川忠興の追放命令により小倉と中津から撤退を余技なくされた伊東マンショ神父とカミロ・コンスタンチオ(Camillo Costanzo)神父が、小倉と中津を撤退するときに構築した信徒組織・コンフラリアとは、既に存在していた信徒組織を再組分けして、各組織に代表者を任命して迫害下に於いて潜伏活動するための準備を整えたと考えられる。各組織の代表者に臨時の洗礼の仕方や、瀕死の人の補佐をすること、葬式の仕方に関する知識を授け、更に最も年を重ね経験を積んだキリシタンを選んで代表者の補佐役とした。この時任命された指導者達の名前を、6年後の1617年(元和3)8月に作成されたコーロス徴集文書の中に見ることが出来る。
コーロス徴収文書に記載された小倉・中津の信徒代表者達
*コーロス徴収文書とは1617年(元和3)8月24日、豊前の国小倉、8月25日中津、両町のキリシタン代表者達がイエズス会日本菅区長マテウス・デ・コーロス(Mateo de Couros)の求めに応じて信仰を告白して自筆署名した文書であり、小倉31名、中津17名の指導者の名前が記録されている。
小倉のキリシタン代表者の名簿 31名 1048~1050頁
御出世以来千六百十七年(1617年)元和参年八月弐四日
松野はんた理庵、松野ふらん志すこ、小笠原寿庵、結城志ゆすと、中村志ゆすと、加賀山了五、山田寿庵、清田志門、大串寿庵、大西了五、田中(安)あてれ、関備世天、菅原ちにす、大野満所、宮崎寿理庵、鷹巣ろまん、大串志もん、角野ミける、木付はうろ、吉良志もん、佐田とめい、甲斐志よらん、糸永理庵、了意志もん、田代理庵、田吹(安)あてれ、薬師寺志めあん、米や寿庵、ぬしや寿庵、ときやへいとろ、をひや寿庵。
中津のキリシタン代表者の名簿 17名 1051~1052頁
御出世以来千六百十七年(1617年)元和参年八月弐十五日
久芳寿庵、櫛橋理庵、川井寿庵、小嶋パウロ、志賀ビセンテ、内田寿庵、矢田ジャコウベ、内山トウマ、田房ベント、内田シモン、久恒寿庵、同シモン、蠣瀬自庵、推田ペイトロ、御手洗ゑすてハん、今永トメイ、魚住たい里やう。
*『近世初期日本関係南蛮史料の研究』 松田毅一 風間書房1967
第六章 元和3年、イエズス会士コーロス徴収文書 1022~1145頁
この時代の社会で異教徒たちを入信に導いた一番効果的な方法は、無私無欲でキリストに仕えるように人々に仕える名もなき信者たちの姿、言葉無き宣教だった。中津教会の中には孤児院が設けられ、病める人のための病院も作られている。教会の慈善活動を通して多くの人々がキリシタンになった。
加賀山隼人正に対する細川忠興の迫害と処刑
『先ず筑後國へ行って、そこで告解を聴き棄教者を信仰に立ち戻らせ、忙しく数日間を過ごしました。そこから筑前・豊前の諸国へ渡りましたが、ここも長い間神父が来ていなかったので仕事が少なくありませんでした。(f.Ⅰ21v)
この豊前国では、殿(細川忠興)がキリシタンにとっては悪魔のような敵であり激怒し易く狂人のようであったために、恐ろしい脅威に晒されていました。それでキリシタンが私に会いに来ることは非常に困難でした。しかし彼らは特別な時間に秘かにではあったけれども来ました。私はこのような困難にもかかわらず、殿の住んでいる小倉市に数人のキリシタンが居るという消息を聞いたので、そこに行こうとしました。しかしその地の事情は甚だ酷しくて、特にある身分の高いキリシタン(この人物はディエゴ隼人殿【加賀山】と称し、その当時は殿の最高の側近の一人でしたが、今は信仰のために禄も領地もすべて奪われています)が、今は行く時期ではないと知らせてくれましたので、私は中津市という土地へ行きました。私はそこに住んでいる殿の息子(細川忠利)の執事である武士の家にいました。この武士はジョアン久保又左衛門という名です。私はこの家に(甚だ秘かに)泊まっている間に数名の棄教者を信仰に立ち戻らせました。それとこの人物と家族全員の告解を聴いた後にそこを出発しました。この者は後に述べるように、1618年に長男(トマス)と共に殉教しました。』
(フライ・ハシント・オルファネール・Jacínto Orfanell 神父の書簡、1619年(元和5年)10月25日付け)
オルファネール神父の報告の中で、オルファネール神父は小倉の御船宮内の貧しい小さな小屋に監禁されている加賀山隼人正を訪ねるために連絡を取ったが、加賀山隼人正は神父に危険を犯させてまで自分を訪問することを危惧している。加賀山隼人正の賢明な判断がオルファネール神父を逮捕という最悪の危険から救っている。
『1619年年報』(元和5年)
『豊前では、当時ディエゴ加賀山隼人(興良)なる者の赫々(かくかく)たる殉教があった。 前年(1618年)領主の越中殿(細川忠興)は、彼と一家の者全部をひどい小屋(御船宮、現・北九州市立医療センター、馬借二丁目)に監禁した。ディエゴは、其のところで殉教する覚悟であった。』
日本切支丹宗門史・下巻 第四章 104頁 レオン・パジェス著
『1619年年報』(元和5年)
ジョアン・ロドリゲス(João Rodrigues Giram)神父の報告
『隼人に信仰を遠ざかり、棄てるように越中(細川忠興)殿は働きかけたが、ディエゴは堅忍強く立ち向かい、勝利を得た。最後にはそのために所有していた俸禄(六千石)も住んでいた屋敷(小倉城・二の丸)も取り上げられ(御船宮内の)貧しい家に閉じ込められた。』
加賀山隼人は述べている。
『グレゴリオ・セスペデス死亡後、越中(細川忠興)殿は決意して教会を破壊し、まず第一にそして特に私を転ばせようと試みたし、今も試みている。そのために数百の方法を使って口実をみつけている。キリスト教徒であることを嫌い、私より俸禄(六千石)を減じ、所有していた道具も米も取り上げこの世にあるありとあらゆる罰と苦痛を与えたが、私は主の愛のために神の恵みでもってそれらに対処する準備を決意した。』
上記の年報記録により、1618年(元和4年)3月に加賀山隼人一家は、小倉城二の丸内の屋敷から移され、『(御船宮内の)貧しいひどい小屋に監禁された。』『所有していた道具も米も取り上げこの世にあるありとあらゆる罰と苦痛を与えた』ことが分かる。殉教の1619年10月15日までの一年半を(御船宮内の)貧しいひどい小屋で、妻アガタ、二人の娘(ルイザとアンナ)と過ごした。長女みやは、既に小笠原玄也へ嫁いでいて、1614年10月、玄也と共に小倉を追放になり香春町中津原浦松において厳重な監視下におかれていた。
加賀山隼人正一家が監禁されていた御船宮(現・北九州市立医療センター、馬借二丁目)とは、軍船を管理係留する軍事施設であり、紫川と寒竹川の合流付近に水門を作り川の水を堰き止めたので、潮の干潮に関係なく軍船は常に水に浮かんでいた。この船入れは軍船を一艘ずつ収納できるように掘割を作っていた。紫川・寒竹川の合流付近は溜池状の形を呈し、紫川・寒竹川ともに豊富な水量を保持していたと考えられる。舟入れの二階は備品の倉庫になっていた。加賀山隼人一家はその御船宮の中の粗末な小屋に監禁されていたと考えられる。
ジャコウベ加賀山隼人正(興正)が殉教の栄冠を獲得する
「このジャコウベは戦時中も平時にも、日本の諸侯の間で非常に有名で、またキリシタンの老兵であった。彼は私の記憶が正しければ、(キリシタン)宗門のため豊前国の大名(細川)越中(忠興)殿の命によって、家も財産も没収され居住地も追放され全家族と共に一軒の小屋に閉じ込められ、監視下に自由の身ではあったが、斬首される覚悟をしていたことは、昨年の報告書に記した。越中殿はジャコウベの決心を破らせることができないと知ると、ついに本年使者を通じて、死刑の宣告文以外に、罪名というよりはむしろ不平不満を書き送った。それは十三ヵ条にまとめられていた。最後にキリシタン信仰を固守していることが詰問され、その他に不興を被った理由が含められていた。ジャコウベがこれらの弁明をしようと準備していると、使者がこう知らせた。「その必要はない。殿はただキリシタン信仰のために首を刎ねるよう命じておられ、その他のことはすべて寛大に赦しておられる」と。ジャコウベはそれを聞くと、キリストのためという一事のために死を願っているのであり、殿に対しては非常に感謝している、と答えた。それから彼は左右の人々に向かって、死刑の宣告とその理由、すなわちもし自分が信仰を棄てさえすれば、ただちに無罪放免となり、以前の地位に復され得るということを、正確に記憶しておいてもらいたい、と公言した。
その時、家の奥には妻マリアと、三名の子供の中の娘ルシアがいたが、彼は彼女らに涙を流さず、また泣き叫びもしないと約束をさせてからでなければ最後の暇乞いは許さなかった。しかし感情は約束を抑えておくことはできなかった。彼女たちは感情をほとばしらせ、突然涙を流し、妻は夫に、娘は父にすがりついて、自分たちが何時までも生き残っていなければならないのを嘆いた。ジャコウベは二人を叱り、今は嘆き悲しむ時ではなく、歓喜をもって祝うべきだと諭した。その時彼は非常に適切な訓戒を与えた。それから彼は十字架の画像の前に跪き「救霊の悔俊について」という小冊子(「コンチリサンの略」か)を手に取って長い間祈禱にひたり、全身をデウスと聖母マリアへ心の底から委ねた。最後に彼は日本の風習に従って別離の盃を交わし、一同に別れを告げ、大祝日に着用していた晴着をまとって刑吏の許に出頭した。晴着はヨーロッパ風の半長靴と下着で、日本風にこの下着を靴の中へ押し込み、その上から着物といって両肘より先には袖が出ていない国(風)の上衣(羽織か)を着た。彼はヨーロッパの衣服を我らの会のグレゴリオ(・デ・)セスペデス師から受領したが、よく言っていたように「宗門指導者の記念品」として、祝祭日には武服として着用するのを習慣としていた。こうして彼は小舟に乗って、両国の主都で殿の居城である小倉の市から千歩隔たった所定の刑場へ連行された。
海路で、この立派な人物と異教徒との間の対話が何であったかは容易に推察される。彼はキリシタンの掟が真の救済の唯一の道であることを力説し、今日キリシタンが非常に圧迫されているとはいえ、恐れるべきではないことを忠告し、やがて平和が回復してキリシタン信仰が以前よりもいっそう豊かな実を日本で結ぶだろうということを述べ、自分のことについていえば、非常に辛い拷問によって生命を失うことができないのを時には嘆いていたと告げた。それから彼は沈黙したが、それに先立って〔恐怖のために沈黙すると思われないように〕刑吏に理由を述べ、キリシタンは聖主なるデウスの前に出る時は、騒々しい言葉をいっさい遠ざけて、できる限り精神力を傾注して、己が身をデウスの懐に入れてもらうよう頼むのである、と言った。
舟から上がると、彼は絹の上衣を脱ぎ、それを施しとしていっしょに伴ってきた一人のキリシタンに与えた。それから彼は裸足になり、目前に聳えた丘まで代わる代わる詩篇と連禱を唱えた。頂上に着くと跪いて祈り、イエズスとマリアの聖名を呼び、自らどうすればより巧く首が斬れるかを刑吏に教えてから、静かに太刀を浴びた。斬首されたのは十月十五日であり、遺体は二人のキリシタンによって能うる限り鄭重に葬られた。
時にジャコウベは五十四歳であった。彼は摂津国の高槻城下に生まれ、十歳の時にルイス・フロイス師から受洗した。その時から生涯、彼はキリシタンの兵士、また勇将の模範を示し、また感嘆すべきほどの信心と悔悛の務めを果たした。私はただ一つだけ例をつけ加え、他は簡単にするため省略しよう。それは毎年四句節には、キリストの五つの傷を記念して、身体に同数の五箇の烙印をつけるのを常としたことである。そして彼は長年にわたって、自分の大敵のため、毎日一定の祈禱をデウスに捧げた。その他に彼は種々頻繁に誘惑を受けたが、比類のない勇気をふるって信仰を保持した。彼は多くの人々をキリシタンに近づかせ、また大勢を受容した信仰に留まらせた。キリシタンは父をそして我らの会は保護者を失った。その他この非常に立派な人物が称賛に値することは、昨年したためた。妻は同じ殉教の道を辿りたいと切に望んだ。また娘ルシアも管区長師に書状を送って、そのことを非常にあからさまに証言している。なかんずくけなげに、そして賢明に次のようにある。「父が死刑の宣告を受けた当夜、私にもきっとそれが及ぶと思って心の中で非常に喜びました。ところが思いに反して生き残ることになったので、どんなに悲しんだかはまったく説明することができません。世間の諺でいう『宝の山に入りながら、憐れにも手を空しくして帰る人』にも似ていました」と。
(16、17世紀 イエズス会日本報告集 第Ⅱ期第3巻 38~43頁)
加賀山バルタザル半左兵衛門の殉教
「既述の殉教者ジャコウベ(加賀山隼人)の従兄弟にあたるバルタザル(加賀山)も、同月同日同じ信仰上の理由で幼児ジャコウベと共に豊後の国で斬首された。両人とも同じ殿の家臣であった。バルタザルは豊後に住み、そこの年貢を取り立てる、非常に権力をもった地位にあったが、豊前国の(細川)越中守(忠興)の臣下であった。バルタザルはもとより有力者であったが、既述のように、同じく宗門上の理由でその地位を退けられ追放、貧窮、監視その他無数の不都合を雄々しく耐え忍んだ。彼が他に何も心を騒がせていない時、突然死刑の通知、しかも斬首の宣告がもたらされた。ただキリシタン信仰を固持していることが、罪科とされた。この優れた人物は泰然自若として、心と顔の晴れやかさを少しも失わず、それどころか殿に謝意を述べ、それから家に入って母のジェスタ、妻のルシア、娘のテクラと対面して相互の挨拶のすべての務めを果たした。そして苦労を耐え忍び、終りを全うし、身を聖にするよう即席の助言と訓戒を、或いは各々に、或いは一同に与えた。これらの話の間にデウスに向かって、短い死によって殉教の高い頂上へ呼び給うたことに対して無限の感謝をした。
そのようにして時が経過している際、彼は殿の役人から、何処で処刑されることをもっとも望んでいるかと訊ねられ、彼は、いっさいを彼らの思い通りに任せる、と答えた。しかしテクラはこう言った。「お父さん、あなたは盗みや破廉恥行為で処刑されるのではありませんから、家から外へ出る必要はありません。あなたは家の中で斬られてよいことですし、またそれがあなたの家族を喜ばせることにもなりましょう」と。バルタザルは娘のこの言葉を、聖主キリストの鑑をもって反駁した。キリストは何ら罪もないのに、戸外の公の刑場で二人の盗賊の間で処刑され給うた。自分もできる限り聖主を真似て、聖主のために恥辱を忍びたい。そのようにできないのを、まったく遺憾に思う、と。こう言ってから彼は祈るために聖画像の前に跪いた。それから祝い事のように妻と娘から足を洗ってもらい、衣服を着替えて、片手に御絵を持ち、もう一方の手に火を点した蠟燭を携えて刑吏の方へ進んだ。その時幼児のジャコウベが出てきて、行く手を遮った。幼児は父にしかと抱きつき、足もとに身を投げて、はらはらと涙を流し、自分もいっしょに連れて行ってほしいと頼んだ。バルタザルは幼児に死刑の宣告が下されているとは夢にも知らなかったが、それを聞くと幼児が晴着に着替えて随行することを心ならずも許した。
やがて二人は異なる道を通って殉教の場へ出発した。そこに到着した時、バルタザルは役人たちに向かって、およそ次のような話をした。
「私がキリシタン宗門にこの上ない不正を働いて、殿の意向に服し、その風習に従うことを望むよりは、むしろ太刀を浴びて斬首されるのを望むことを、あなた方は不思議に思い、また私の気がまったく狂っていると思っておられると信じます。しかし私がこうするのは、この信仰によってのみ人類は霊魂の真の救済へ到達することを私が承知しているからであることを御承知ありたい。この信仰だけが、全世界の創造主は唯一なるデウス様であり、すべての人間は唯一人の例外もなく、その最高法廷に出頭せねばならぬことを教えている。あなた方が崇敬している釈迦と阿弥陀〔阿弥陀は架空の物語であり、釈迦は単なる人間であって、シャム国の出身であり、妻子に煩わされていた〕は、誰一人の生命も守ったり、或いは長くしたりすることはできない。昔の王公たちも、仏の崇拝者も一人残らず死んでしまっている。憐れむべき彼らは、あれほど多くの礼拝を重ね、数々の捧げ物をしても己が生命を贖うことはできなかった。最高で真正のデウス様によって、一度定められた死の法は、確実に何びとも逃れることはできない。このデウス様が、一人残らず死ぬように定め給い、その御前において、或いはその罪悪のために永遠の処罰を、或いは正当な行為に対して永遠の光栄を受けるようにし給うている。そういうわけだから私があなた方に、再三再四願うのは、次の一事である。あなた方は至高なる創造主のこの掟と信仰を、衷心より受容し、これによって永遠の救霊を得るように、ということである。残りの人生は、多くて二十年か三十年を数えるに過ぎないであろう。これに対して霊魂の救済は永遠であり、またきわめて重要であるから、これは人生の他のいかなる楽しみより大切にせねばならぬ。あなた方はキリシタンの信仰が、今日ひどく苦難に陥っていて、すべて根絶されそうだと思わないでほしい。やがて平和となって信仰は再生し、現在私が急いで拙い話をしていることを、あなた方はずっと詳細に聞けるようになるだろう。私は何の罪も犯した覚えがないから、どうかあなた方の誰も、私の身の上を憐れまないでもらいたい。私はキリシタンの信仰という唯一の理由で殺されるのをよしとするだけでなく、光栄に満ちたことだと考えている」と。
こう言ってバルタザルは跪坐し、首に太刀を受けた。続いて四歳になるジャコウベも殿の命令によって斬られた。父は当年四十七歳であった。」
(16、17世紀 イエズス会日本報告集 第Ⅱ期第3巻 38~43頁)
加賀山隼人、加賀山半左衛門の墓
香春町中津原浦松地区、愛宕大権現神社、照智院下(柿下温泉近く)
浦松川に掛かる庚神橋という小さな橋があり、そのほとりに庚神塔をはさんで二つの石 祠が祀られている。左の祠(墓碑)の石の扉の右左には十字架が二つ、右の祠(墓碑)の石の扉の右左にはギリシャ十字‡が二つ、浮き彫りにされている。左の墓碑は加賀山半左衛門と息子ディエゴ、右の墓碑は加賀山隼人正興良の墓と考えられる。
「浦松川にかかる庚申橋という小さな橋があり、そのほとりに庚申塔をはさんで二つの石祠が祀られている。不思議なことに、石の扉に十字架が二つ、‡十字が二つ、浮き彫りにされていて、かくれキリシタンにかかわりがあると考えられている。地元の人は水神様と言って、現在田植え後に水神祭を行っている。」『香春町歴史探訪』郷土史かわら 香春町教育委員会編 43頁
いつ加賀山隼人の遺骨を掘り起こせたか?
1、加賀山隼人の殉教は1619年(元和5)10月15日
2、加賀山隼人の遺体が腐敗して堀起こして洗骨が可能になる時期は1621年頃以後
3、中浦ジュリアン神父が体調を崩して輿や籠で運ばれて博多、秋月、小倉へ伝道しているのは1624年頃
4、中浦ジュリアン神父が脳梗塞で動けなくなり香春町採銅所の不可思議寺に細川興秋によってかくまわれるようになったのは1626年頃
5、細川藩移封に伴い小笠原玄也一家が熊本に移されたのは1632年12月
6、細川藩に変わり小笠原藩が小倉に移封されたと同時期、1632年12月、小倉に於いて中浦ジュリアン神父は逮捕された
時系列の表から見えてくるのは、中浦ジュリアン神父が、玄也と妻みやとともに、加賀山隼人の遺骨を掘起こせて長崎まで運べる可能性が高いのは1624年の小倉訪問の時ではないかと思われる。
左に加賀山半左衛門と息子ディエゴの墓、右に加賀山隼人の墓が並んでいる。右の隼人の墓石の左側に「大きな石」が立て掛けてある。また、墓石の正面下、左側にも同様の「大きな石」が置いてある。これらの大きな石は「かぶせ石」と呼ばれる石で、隼人と、半左衛門の遺体を埋葬した後に、野犬や猪等が掘り起こさないように上から蓋をするために置く大きな石である。この多くのかぶせ石の存在が、この場所が隼人を埋葬した場所であることを証明している。
また、この二つの墓碑は、いつ、だれが作って、この香春町中津原浦松に建立したかという疑問が残っている。
細川藩移封に伴い小笠原玄也一家が熊本に移されたのは1632年12月、同じ月のうちに、中浦ジュリアン神父も小倉において逮捕され長崎へ送られている。これ以後に、二つの墓が作られることはない。
加賀山隼人の墓碑を作った興秋と孝之
その加賀山隼人正がキリストへの愛と信仰のために殉教した。迫害し殺害したのは自分の父忠興である。興秋にとってこれほど心傷むことがあるだろうか。信じる神のために命を捧げた隼人の尊い心を、送られてきた隼人の遺体と共に興秋は大事に弔った。加賀山隼人の墓碑を作り鄭重に弔うことが興秋にできる唯一の信仰の先輩である隼人に対する手向けであった。興秋を監視している香春城主(2万5千石)孝之もキリシタンであるから、尊い殉教をした隼人の墓碑建立の協力は惜しまなかったはずである。墓碑建立のすべての費用は孝之が負担している。
この時期、小笠原玄也一家は小倉を追放されるときに家財を没収され香春町中津原浦松地区に幽閉されて厳しい監視を付けられていた。そのような中で、中浦ジュリアン神父は監視の目を盗んで、かろうじて小笠原玄也一家を訪ねて慰めることができた。小笠原玄也と中浦ジュリアン神父は経済的に加賀山隼人正の墓碑を作る費用などないことは明らかである。
興秋は人質の身ではあったが、興秋は比較的自由に行動することができている。監視していた香春城城主である孝之は、キリシタンには非常に理解を示している身内(2歳年下の叔父)である。孝之自身は洗礼を受けていないがキリシタンとして生きている。興秋の監視をしてはいるが、監視とは名目上の事で、あくまで興秋の存在の秘密を守ることが最重要使命だった。
これだけの条件を考える時に、おのずから加賀山隼人正の墓を作った人物が興秋とその擁護者である香春城主である孝之(2万5千石)であると言う結論しか現段階では見いだせない。興秋と孝之の外にだれが隼人の墓碑を作れるだろうか。
1623年(元和9)12月、香春岳城主である忠興の末弟・孝之(休斎)が突然出奔した。出奔の原因は孝之が兄忠興のキリシタン迫害の姿勢で臨んでいた政策に異議を唱え背いたことにある。孝之は兄忠興のキリシタン排除政策の犠牲となった。キリシタンである孝之は兄忠興のキリシタンに対する迫害、重臣加賀山隼人に対する処刑・殉教に敢えて異議を唱えて敢えて対立したと考えられる。
孝之の出奔に関して、加賀山隼人正の墓碑建立が深く関係していると考えている。兄忠興は1611年(慶長16)12月に死去したセスペデス神父の墓を豊前領内に作ることさえ認めなかった。それ以来、忠興の政策はキリシタン迫害に転換して48名の尊い無実のキリシタンの命を奪ってきた。細川家の重臣であった加賀山隼人の殉教は孝之に取っても許せない無実の信仰の人を処刑にする行動であり、兄忠興に対する政策に異議を唱える十分な意味を持って対立した。
孝之が洗礼を受けてキリシタンになったという記録はイエズス会にも細川藩の記録にも記載されていないが、当時、香春町周辺で宣教活動をしていた中浦ジュリアン神父を1627年(寛永4)以来、興秋が香春町採銅所の不可思議寺に匿っていることから、孝之はこの機会に中浦ジュリアン神父より秘密裏に洗礼を受けキリシタンになったと考えられる。それゆえ、兄忠興の怒りを招き、香春城召し上げ(没収)となったのではないだろうか。それ以外にこの時期の孝之の出奔の原因は考えられない。
キリシタンである孝之の取るべき行動は細川家から出て行くことしか道は残されてなく、兄興元、忠隆、興秋の例に倣い、孝之までお家騒動を起こす前に自ら出奔という形で細川家を出て行き、父幽斎の京都で持っていた領地からの扶持で、忠隆と共に京都で暮らし始めている。孝之はキリシタンとして残りの人生を京に於いて過ごしている。
細川孝之の受洗と出奔
1623年(元和9)12月、香春岳城主(2万5千石)である忠興の末弟・孝之(休斎)が突然出奔した。出奔の原因は孝之がキリシタン迫害の姿勢で臨んでいた兄忠興の政策に背く行動があったと考えられる。孝之は兄忠興のキリシタン排除政策の犠牲となった。キリシタンである孝之は兄忠興のキリシタンに対する迫害、重臣加賀山隼人正に対する処刑・殉教に異議を唱えて対立したと考えられる。
孝之が洗礼を受けてキリシタンになったという記録はイエズス会にも細川藩の記録にも記載されていないが、当時、香春町周辺で宣教活動をしていた中浦ジュリアン神父を興秋が香春採銅所の不可思議寺に匿っていることから、孝之はこの機会に中浦ジュリアン神父より秘密裏に洗礼を受けキリシタンになったと考えられる。また1619年(元和9)10月に処刑・殉教した加賀山隼人正の墓碑建立をしたことが原因と考えている。それゆえ、兄忠興の怒りを招き、香春城召し上げ(没収)となったのではないだろうか。それ以外に孝之の出奔の原因は考えられない。
加賀山隼人正の墓碑を建立した孝之
当時、小笠原玄也一家は小倉より追放の時、家財没収され香春町中津原浦松に厳重に監視監禁されていること。
興秋は香春町採銅所にある不可思議寺の住職として監視され人質生活を送っていること。
中浦ジュリアン神父は巡回司牧・宣教活動をしていて、資金面でも加賀山隼人正の墓碑を作ることができないこと。
唯一、香春城主である孝之だけが加賀山隼人正の墓碑を建立できる資金を持っていること。興秋により不可思議寺に匿われている中浦ジュリアン神父より秘密裏に洗礼を受けたと考えられること。孝之だけが信仰の証として、尊敬して殉教した家老の加賀山隼人正の墓碑を建立することができること。
加賀山隼人正の墓碑の建立時期は、加賀山隼人正の遺体が朽ちて採骨ができる1622年、1623年(元和8,9)と思考する。この時、加賀山隼人正の遺骨の一部は中浦ジュリアン神父に殉教者の証として渡され、遺骨は後にマカオに渡り大事に保管された。
1623年(元和9)12月、中浦ジュリアン神父より秘密裏に洗礼を受け、キリシタンになり加賀山隼人正の墓碑を建立し、香春城を召し上げられた孝之の取るべき行動は細川家から出て行くことしか道は残されてなく、兄興元、忠隆、興秋の例に倣い、孝之までお家騒動を起こす前に自ら出奔という形で細川家を出て行き、父幽斎の京都で持っていた領地からの扶持で、忠隆と共に京都で暮らし始めている。孝之は残りの生涯を京に於いてキリシタンとして過ごしている。藩主忠利から三百人扶持が支給されている。
孝之は1647(正保4)年7月7日、63歳で死去している。埋葬地は京都大徳寺高桐院塔頭条勝庵。
綿考輯禄 第4巻 忠利公(上)巻29 88頁
『休斎主ハ幽斎君之御末男ニ而細川中務少輔孝之と申候。初孝紀幼名茶知丸、其後与十郎、丹後ニ而幽斎君之御隠居領を御譲被成、扨豊前ニ而は領弐万五千石而香春之城主なりしか、豊前御立退年月不分明 御剃髪有之、休斎宗也と号せられ、京ニ御幽居被成候、忠利君より参百人扶持被進置候」
髙座石寺(こうぞうじ・大字香春殿町)について
香春岳城主であった細川孝之は、父・細川藤孝・幽斎玄旨(1534~1610年)の菩提を弔うために曹洞宗牛頭山髙座石寺(大字香春殿町)境内の一角に『細川幽斎菩提塔』を慶長15年(1610)に建立した。大ぶりの五輪塔の正面に父幽斎の法名である「泰勝院徹宗玄旨』を刻印している。
中世の五輪塔とは異なる類型化前の形を有していて、慶長期の時代を反映している。「孝子敬白」の文字から、供養塔であることは明白で、細川氏豊前領国時代の数少ない石碑として貴重な遺産である。
一国一城令
1615年8月7日(慶長20閏6月13日)に幕府から発令された命令。各大名に対して居城以外の領内の他の城はすべて破却を命じる通達。
香春城自体は、1615年8月7日(慶長20年閏6月13日)に幕府から発令された『一国一城令』により廃城になっていたが、細川藩は特別に首都小倉城、豊後方面の抑えとして中津城の二城の存続が認められていた。この「一国一城令」により香春岳城は破却されていたが、孝之の屋形・館は存続していたので、出奔する1623年(元和9)12月までは、孝之は居住していた。孝之の出奔後も、髙座石寺はキリシタン寺として存続して周辺のキリシタンたちを擁護する寺として存在している。
髙座石寺の在った場所は、細川孝之の居住していた屋形の敷地内で、髙座石寺はキリシタン寺でもあった。細川孝之自身がキリシタンであったこと、当然、孝之の館内に建っている髙座石寺はキリシタン寺でなくてはならず、当時の住職・誾龍長老もキリシタンであった。
1632年(寛永9)加藤家取り潰しのため、細川家が豊前小倉より、肥後54万石を拝領して、肥後熊本へ移封された。すでに香春城は一国一城令により廃城になっていたが、髙座石寺はそのまま館跡地に於いてキリシタン寺として存続していた。
当時の住職・誾龍長老は細川藩の肥後への移封に同行して、熊本へ移り、坪井町に住地を賜り泰陽禅寺と称して、キリシタン寺を再開している。しかし、いかなる理由かわからないが、幽斎の供養塔は泰陽禅寺に移されることなく、髙座石寺にそのまま残された。
マカオに送られた加賀山隼人の遺骨の一部分
マカオ島の南,コロアネ島の南端に聖フランシスコ・ザビエル教会がある。1928年(昭和3)に聖フランシスコ・ザビエルを記念して建てられた教会である。
この教会には1980年頃まで、ザビエルの右上腕骨が安置されていたが、現在は聖ヨセフ修道院付き教会に移されている。聖フランシスコ・ザビエル教会には、長い間59名の日本人殉教者の遺骨が保管されていた。その中に加賀山隼人の遺骨もあった。加賀山隼人は二人のキリシタンによって丁重に埋葬されたと記録にあるが、その二人とは小笠原玄也と妻みやだと推測される。当時玄也とみやが住んでいた中津原浦松の家を知っていて訪問できたのは中浦ジュリアン神父だけであり、加賀山隼人の埋葬されていた場所を知っているのも中浦ジュリアン神父だけであり、小笠原玄也と妻みやとともに、加賀山隼人の墓を堀起して洗骨した後に、遺骨の一部をもらい受けて長崎に運び、マカオに送るために隠して保管していたのも中浦ジュリアン神父だった。長崎では中浦ジュリアン神父の宿主のキリシタンが、これら殉教者の聖遺骨を預かっていた。中浦ジュリアンの宿主とは、実家の小佐々家であり外海地方を治めていたキリシタン領主であり、キリシタンの保護者でもあり領主でもあった。
日本において迫害が厳しくなるにつれて、聖なる殉教者たちの遺骨が紛失したり汚されたりすることを防ぐために秘密裏にマカオに送られた。
1604年(慶長9)、長崎で1597年に殉教した26人の殉教者の聖遺骨とともに、1597年以後1603年までに殉教した殉教者の遺骨はまとめて*木箱に入れられ、マカオに送られた。
1614年(慶長19)11月までの殉教者の遺骨は、まとめて、その時、国外追放された神父たちによってマカオに持っていかれたが、それ以後は数回に分けられてマカオに送られている。加賀山隼人以後の殉教者は五名であり、最後の殉教者は1633年8月17日、長崎で穴吊りの刑で殉教したアウグスチヌス会ポルトガル人神父、フランシスコ・ガルシア(Francisco García)神父である。
マカオでの聖遺骨の遍歴について
マカオに送られた聖遺骨は、聖パウロ天主堂に保管されていたが1835年(天保6月)の火災で聖堂が消滅し、正面の壁面(ファサード)と内部の階段壁の一部が残った。その後遺骨は大聖堂(カテドラル)に移された。1974年になってコロアネ島にある聖フランシスコ・ザビエル教会に移され保管された。日本で殉教した59名の殉教者の遺骨は19の小箱に収められて銀のケースに入れられて、聖ザビエル教会の祭壇の下に保管されていた。1995年(平成7)マカオ司教区の決断により、56名の遺骨が日本に返還された。
現在は長崎西坂の二六聖人記念館の「栄光の間」に安置されている。
*マカオの聖ヨセフ教会修道院で1604年、長崎で1597年に殉教した26人の殉教者の聖遺骨とともにマカオに送られた殉教者達の入っていた*木箱を見せていただいた。
*木箱の上に書いてあった説明文
『In 1604 there was a religious massacre in Nagasaki Japan Among the 61 victims. There the Chinese, Japanese, Portuguese, Spanish and Indians, Some of their bones were preserved at St Joseph’s Seminary』
『1604年、日本の長崎において大虐殺が行われたときに、61名の犠牲者がでた。彼らは中国人、日本人、ポルトガル人、スペイン人とインド人である。彼らの遺骨のいくつかは聖ヨセフ教会神学校において保管されていた。』