香春とキリシタン展・特別企画の御案内

香春とキリシタン展・御案内・ポスター

香春とキリシタン展・御案内・ポスター
2023年 10月8日より11月19日まで 入場無料
福岡県田川郡香春町町民センター2階 歴史資料館

10月29日・日曜日・午後1時30分より・香春町町民センター
『香春とキリシタン』と題して、当時香春のキリシタンたちが歌っていたグレゴリオ聖歌のコンサートと講演をさせていただきます。御多忙中とは思いますが、皆様のお越しをお待ち申しております。

イタリアンヴァージナル・山野辺暁彦氏制作・花岡聖子所有

10月29日・日曜日・午前10時より・ワークショップ「昔の鍵盤楽器・ヴァージナルにふれてみよう」が開催されます。 
織田信長・豊臣秀吉が聴いた「ヴァージナル」という古楽器を演奏する体験教室も計画しています。
この機会に是非・ヴァージナルに触れて演奏していただけたら素晴らしい体験と経験になると思っています。奮って御参加ください。
参加体験御希望の方は、香春町教育委員会生涯学習課 ☎0947・32・8210 に、9月20日までにお申し込みください。楽譜をお送りいたします。
なお聴講見学は参加自由ですので直接会場へおいで下さい。

ヴァージナル体験教室・案内チラシ・申し込み用紙

*ヴァージナル体験コースへのお誘い
織田信長や豊臣秀吉が生きていたころの時代を想像してみてください。
夜は本当に暗く、星がたくさん見え、月の明かりや、ロウソクの明かりだけが頼りでした。人々は移動するためには歩いたり、馬に乗るしかありませんでした。移動するにも多くの時間がかかりました。今では簡単に完治する病気でも命を落とす人が多くいました。

ヨーロッパでは王様や貴族の宮廷で開かれる舞踏会に行くために、素敵で煌びやかなドレスを着て踊っていました。舞踏会ではヴァージナルが活躍しました。

ヴァージナルの鍵盤のタッチは普段私たちが弾いているピアノとはかなり違います。ヴァージナルの音は、ギターやお箏に近い音です。なぜなら撥弦楽器と言って、鍵盤の先に付いている爪で、弦を下から上に弾く仕組みだからです。
初めは鍵盤の感覚に戸惑うかもしれませんが、無駄な力を抜いて指先に集中して鍵盤を弾いてみましょう。優しく鍵盤に触れて指を動かし、耳で良く弾かれた弦の音を聴いて、ヴァージナルと仲良くなってください。このひと時が皆さまにとって彩り豊かな発見のときとなりますように。
皆様のご参加をお待ちしています。花岡聖子

グレゴリオ聖歌の演奏・ヴァージナル伴奏・花岡聖子

*録画・録音・写真撮影(フラッシュ禁止)は自由です。
  他の方の迷惑にならないように気を付けてください。

*グレゴリオ聖歌演奏曲・予定 ヴァージナル伴奏による
1 主の祈り・Pater noster
2 使徒信条・クレド・Credo
3 アヴェ・マリア・Ave Maria
4 元后憐みの母・Salve Regina
*この4曲はキリシタンのオラショの中で唱えられているラテン語の元歌
5 聖霊来たりたまえ・Veni Creator Spiritus
6 聖なる秘跡・Tantum ergo・ 2種類
7 おお栄光の御母・O gloriosa Domina (長崎・生月島の歌オラショ)
 

『香春とキリシタン展』に寄せて

香春町について
福岡県田川郡の東部に位置し、小倉駅からはJR日田彦山線で南下すると香春三の岳麓の採銅所駅~香春駅周辺一帯が香春町である。小倉市からは香春口の秋月街道・国道322号で南下する。小倉企救(きくの)郡との郡境・金辺峠 (現在は金辺トンネルになっている)を越えたら香春町に入る。

古くは都から太宰府に向かう官道・秋月街道の宿場町として栄え、現在も小倉、行橋、中津、田川、飯塚等の各街を繋ぐ国道201号、322号が交わる田川の玄関口として交通の重要な要所となっている。現在の香春町は人口1万3,000人、街は緑の山々に囲まれた自然豊かな景観を誇っている。

香春町の中央にそびえ立つ石灰岩の白く輝く三つの峰からなる香春岳は昔から霊山として有名で、難攻不落の香春岳城(鬼ヶ城)は中世時代から1578年(天正15)豊臣秀吉の九州平定の戦いまで、幾多の覇権争いの戦場となった。

『香春とキリシタン展』開催に当たり、多くの人は香春にも多くのキリシタンがいたことに驚いている。香春町の教育委員会や香春町郷土史研究会も、香春にキリシタンがいた事実を把握したのは最近である。

香春とキリシタンに関しての書籍として『小笠原玄也と加賀山隼人との殉教』『細川興秋の真実』髙田重孝著(自費出版)2冊の本が出版されているので興味ある方はお読みください。お申し込みは髙田重孝まで。
Email shige705seiko214@outlook.jp
携帯 090・5933・4972

香春町史の宗教編の中にキリシタンに関する記述がただひとつだけ記載されている。それは1829年(文政12) の「宗門改め」における「像踏み拒否」をした2,078人のキリシタンたちについての記述である。しかし、この「像踏み拒否」をした2,078人のキリシタンたちがその後どうなったかの顛末までは書かれていない。
この1829年(文政12) の「宗門改め」における「像踏み拒否」の記録が香春におけるキリシタンがいたことを証明する唯一の記録である。

香春におけるキリシタン宣教の開始
香春に於いて本格的にキリスト教布教が開始されたのは、黒田官兵衛孝髙が1599年(慶長4)10月、セスペデス(Gregorio de Céspedes)神父を招いて、中津教会と修道院(レジデンス)を中心に精力的に宣教を展開した時期まで遡る。1600年(慶長5)関ヶ原の戦い後の12月、黒田藩藩主・黒田甲斐守長政の筑前福岡・博多への移封までセスペデス神父の指導のもと宣教は継続された。

豊前におけるキリスト教宣教を始めた黒田官兵衛孝髙・肖像画・福岡博物館所蔵

1600年(慶長5)12月、丹後宮津から豊前中津へ移封された細川忠興は、12万石から39万9,000石の高禄での中津城へ移封した。細川忠興は、中津教会で宣教活動をしているセスペデス(Gregorio de Céspedes)神父にそのまま中津教会に留まる様に要請して豊前での伝道を許可している。その後1611年(慶長16)12月までの10年間、セスペデス神父を中心として、豊前に於ける宣教は拡大の一途をたどっていた。

天正遣欧少年使節の伊東マンショ神父が1608年から1611年の4年間、小倉教会の副司祭になりセスペデス神父の片腕として奉職・宣教に専念し、当時香春にも多くのキリシタンがいたのでミサを授けるために香春を訪れている。

伊東マンショの肖像画・ドメ二コ・ティントレット画・イタリア

日本の歴史の中で学ぶ「天正遣欧少年使節」の4人の少年の内の伊東マンショと中浦ジュリアンの二人が香春のキリシタン史に深く係わっていることに、この展示会を見た人はきっと驚くことだろう。この二人によって香春のキリシタンがどのように支えられていたかを知ることは、香春におけるキリシタン史の輝かしい1頁である。

ウルバーノ・モンテ年代記に記載されている二人の肖像画

1600年(慶長5)細川忠興が、徳川家康の東軍での活躍を認められて、39万9,000石の高禄を拝領して、丹後宮津より中津城へ移封されてきた。
最初の10年間、細川忠興は首都を小倉へ移しキリスト教会を優遇して、豊前全土での宣教は順調に進んでいた。

細川忠興によるキリシタン迫害
しかし、徳川家康の「キリスト教禁止令」に従い、藩主細川忠興はキリスト教会を迫害するようになった。
1611年(慶長16)12月以後、忠興の迫害により、信仰のために48人の尊い命が奪われた。

細川忠興肖像画・永青文庫所蔵

伊東マンショ神父は1611年(慶長16)12月、小倉の主任司祭セスペデス神父の突然の脳卒中の死去により、小倉教会は閉鎖・解体された。小倉を追放された伊東マンショ神父は嫡子の中津城主・細川忠利を頼り、中津教会に於いてクリスマスを盛大に祝っている。その後、長崎へ戻り、体調を崩した伊東マンショ神父は1612年(慶長17)11月に死去した。

細川興秋が第2代住職を18年間務めた香春町採銅所の不可思議寺
中浦ジュリアン神父も1627年から1632年まで6年間興秋により匿われていた

細川興秋の不可思議寺での隠蔽
忠興の次男・興秋も1615年(慶長20)5月、大坂の陣の時、豊臣方の大将として活躍したが、大坂城落城後、京の伏見に於いて捕らえられて切腹を言い渡された。しかし、忠興は息子興秋を切腹させずに、秘密裏に豊前に送り、香春町採銅所の「不可思議寺」の第2代住職として匿い保護している。

中浦ジュリアン神父は1618年(元和4)豊前において宣教中に、香春の中津原浦松に隠蔽されていた小笠原玄也・みや一家を訪問している。この時逮捕されそうになったが、不可思議寺の興秋・宗順和尚が、ジュリアン神父を不可思議寺に匿っている。

不可思議寺に匿われている興秋を頼って1627年(寛永4)天正遣欧少年使節の中浦ジュリアン神父が、宣教地・島原の宣教師団が壊滅したために香春に避難している。
 
中浦ジュリアン神父は興秋により不可思議寺に於いて6年間匿われ、香春を本慮として豊前、筑後方面に宣教活動をしている。盟友伊東マンショ神父の残した豊前の全部の信徒の面倒を中浦ジュリアン神父は引き受け、信仰を励まし慰めを与えミサを授けている。
 
伊東マンショ神父の小倉教会の信徒だった小笠原玄也・みや一家、みやの父であり豊前のキリシタンの支柱とまで言われた、忠興の家臣・下毛郡奉行だった加賀山隼人正興長。
彼らは棄教を拒否したために忠興により、小笠原玄也・みや一家は香春町中津原浦松の粗末な農家に監禁され、肥後熊本へ移されるまで18年間隠蔽された。
小笠原玄也・みや一家は、山鹿郡鹿本町庄にある農家に移され農業に従事していたが、3年後の1635年9月に訴人により長崎奉行所に提訴された。細川忠利も庇いきれずに、11月4日に熊本の奉行・田中兵庫の座敷牢へ収容した。
玄也・みや・娘のまり・くりの4人は50日間の座敷牢に於いて、15通の遺書を書き、従兄弟の加賀山主馬可政に遺書を預けた。遺書は365年間読まれることもなく保管されていた。

遺書の全文は原文・読み下し文・現代語訳を付して「小笠原玄也と加賀山隼人の殉教」の中に掲載されている

加賀山隼人正興良の殉教
同じく棄教を拒否した加賀山隼人正は1年半の監禁の後、1619年(元和5)10月に小倉に於いて斬首・殉教している。遺体は見せしめのために、娘みやのいる香春の中津原浦松へ送られ、玄也、みや夫妻により丁重に埋葬された。それが中津原浦松にある加賀山隼人正墓碑である。

香春町中津原浦松にある加賀山隼人正興良の墓碑(右側)・加賀山半左衛門の墓碑(左側)
加賀山隼人正興良肖像画・加賀山興純氏筆
加賀山文人氏所蔵の所蔵の賭け軸

香春のキリシタン寺「不可思議寺」の第2代住職だった細川与五郎興秋(宗順和尚)と中浦ジュリアン神父。興秋の保護、監督を担当していた香春領主の細川孝之。この三人のキリシタンとしての働きにより、香春ではキリシタン農民による信徒組織(コンフラリア)が構築された。

そのキリシタン組織が、細川藩が1632年(寛永9)に肥後熊本へ移封された後も、小笠原藩時代も潜伏(カクレ)キリシタンとして存続し続けて197年後の1829年(文政12) 「宗門改め」における「像踏み拒否」の記録となり、香春におけるキリシタンがいたことを証明する唯一の記録にまで結びつくことになる。
 
今まで香春周辺におけるキリシタンに関しての研究はどの大学の学者もしていない。香春のキリシタン史を研究している郷土史家もいない。香春にキリシタンがいた事実が、研究を重ねることによりこれから時間をかけて徐々に証明され明らかになって行くだろう。香春に於いて埋もれたキリシタンの歴史に光が当たり、全てが明らかになった時に、香春にいたキリシタンたちの生き様と信仰が、キリシタン史の中の歴史を造り替えることになる。
 
香春という街で繰り広げられたキリシタンたちの信仰の戦いを、ひとつずつ確認することにより、より香春の街の歴史が輝きを増していくだろう。この『香春とキリシタン展』を通して、香春のキリシタンの歴史が新たに蘇ることを心から祈っている。

ユネスコの世界遺産
2018年6月30日、ユネスコの世界遺産に登録された『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』から6年が経過した。しかし現実は観光旅行会社企画の「長崎周辺のカトリック教会の巡礼」が主体であり、旅行会社の『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』紹介のパンフレットは、そのすべてが各地のカトリック教会の写真を掲載した「長崎教会巡礼案内」になっている。 

潜伏(カクレ)キリシタンの信仰とはどのようなものなのかという江戸時代の250年間を潜伏して明治・大正・昭和を生きてきたキリシタンの信仰を知ろうとする学びはほとんどと言って良いほど紹介はされてはいない。 

ユネスコ世界遺産の「潜伏キリシタン関連遺産」は長崎、天草に明治期以降に建立されたカトリック教会が主体ではない。教会を造った潜伏(カクレ)キリシタンたちの、徳川時代からの禁教により300年に渡り抑圧された信仰の継承とその軌跡が評価されたものである。その潜伏(カクレ)キリシタンの信仰は決して目に見えない信仰の何世代にも渡る継承である。 

1873年(明治6)キリシタン禁教令の高札が撤去されると、今まで潜伏(カクレ)して信仰を守ってきた信者たちは、困窮と貧しさの中にあっても、自分たちの信仰を表明するために、真先に集まって祈ることができる場としての教会を建て始めた。貧しい信者たちはなけなしの僅かな献金を持ち寄ってまた自ら教会建築のために汗水を垂らして労働奉仕をして小さな教会を建てた。それは今まで長い間抑圧されてきた信仰の表明の喜びの熱意が、噴火の如く各地で噴出した時期だった。自分たちで建設した小さな祈りの場としての教会は、何物にも代えがたい、神への賛美と感謝を心から捧げることができる聖なる場所となった。 

長崎、天草の教会群は、潜伏(カクレ)キリシタンの信仰を継承したキリシタンの末裔の方々が大切に守っている信仰の遺産であり、今を生きるカトリック信者たちの心の拠り所としての教会であり、祖先から継承した大切な「祈りの家。神に出会う場所」である。

ヨーロッパのロマネスク期、ゴシック期の13世紀から200年間もかけて作られた大聖堂・例えばパリのノートル・ダム大聖堂、イギリスのカンタベリー大聖堂等は聖堂自体が文化遺産として登録されている。長崎の教会群がこれらヨーロッパの大聖堂と比べることなどできないことは言うまでもない。
ユネスコは、長崎、天草の教会本体を世界遺産に指定したのではなく、250年に渡り存続したキリシタン信仰、潜伏(カクレ)キリシタンの信仰の継承の価値を「精神的キリスト教の継承遺産」として認め、世界遺産として登録した。 

しかし世界遺産に認定された後に、どれほどカクレキリシタンの研究が進んだのだろうか。新しくカクレキリシタンがいた土地は見いだされたのだろうか。 

長崎の浦上、外海、生月島の資料館に残るカクレキリシタンの遺物を拝観して、カクレキリシタンとはどのような人々の信仰だったのかを理解したと思っている人々がほとんどである。残念ながら長崎地区、外海地区、生月島のカクレキリシタンの組織は消滅してしまい存続していない。

現在カクレキリシタンとしての信仰を継続をしているのは、唯一、長崎外海の黒崎地区の村上茂則氏の指導する組織だけである。

長崎外海・黒崎地区の潜伏(カクレ)キリシタン帳方の村上茂則氏


村上茂則氏所蔵の江戸時代のオラショの断片

世界遺産認定が長崎・天草の唯の観光浮揚の呼び込みになっている現状を打破するには、今一度、カクレキリシタンという原点に戻り、彼らの信仰と向き合う必要があるように思う。それと共に、新しいカクレキリシタンがいた地域の発見のための努力を怠りなくすることが必要ではないだろうか。

現在、潜伏(カクレ)キリシタンが存在した地域として、天草の御領地区、
福岡県香春町、今村教会のある今村、甘木・秋月地域、宮崎県日南市の飫肥地区に、明確な証拠が残されている。

「香春のキリシタン」の歴史が確定されれば、それは紛れもない潜伏キリシタン信仰の継承をした土地であり、ユネスコの提唱する「潜伏(カクレ)キリシタン信仰の継承した地」として認証される。その意味で、今回の「香春とキリシタン」展は、世界遺産登録に値する大きな初めの一歩となるであろう。


 



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