豊後府内(現・大分市)における最初期のキリシタン教会の活動
豊後府内における最初期のキリシタン教会の活動
第一章 豊後府内におけるキリシタンの歩み
第一節 ザビエルとトーレス神父
ザビエルたちの来日
一五四九(天文一八)年八月一五日、フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier,1506-1552)は、コスメ・デ・トーレス(Cosme de Torres,1510-1570)、ジョアン・フェルナンデス(Juan Fernandez,1526-1567)と共に、日本人ヤジロウという薩摩出身の武士と二人の仲間の案内で、鹿児島の稲荷川の港に着いた。
一五五〇(天文一九)年九月始め、鹿児島での布教をあきらめ、市来を経由して肥前の国・平戸に移った。当時の平戸は支那との交通・貿易の要路であり、ポルトガルの船もすでに入港していて、ザビエルの名声は一般にも知られていたから大いに歓迎された。領主・松浦隆信もまたザビエルを優遇してキリスト教布教の許可を与えたので、わずか二〇日たらずで、鹿児島の一年間よりも信者になった者が多かった。一〇月末、平戸に生まれたばかりのキリシタン教会をトーレス神父に委ね、ザビエルはフェルナンデスと鹿児島で受洗したベルナルドという青年と共に都に向かった。博多から都へ行く船を捜したが、都合の良い船が無かったので、一一月の中旬、当時瀬戸内第一の都と呼ばれていた領主・大内義隆氏の居城である山口へ向かった。この時期は大内氏最盛期の時代だった。ザビエル一行は約一ヵ月滞在して、街頭に立ち説教をしたが、この時信仰に入る人はきわめて少なかった。クリスマス一週間前、一二月一七,一八日頃に山口を発ち、都に向かった。周防の岩国から船で堺まで行った。船に乗り合わせていた乗客から、堺の豪商日比屋了慶を紹介された。彼は後にディエゴの霊名を受け、五畿のキリシタンの発展にとっては無くてはならない人物となり、キリシタン教会を支える大きな柱となった。
一五五一(天文二〇)年一月、ザビエルは都での布教という大きな希望を胸に都に入った。当時は御奈良天皇の在位中で、将軍は足利氏第一二代・足利義輝だった。応仁の乱後,京都は打ち続く戦乱のために、満目荒涼として綱紀もゆるみ、そのうえ、細川・三好両氏の争乱はいつ果てるともしれず、キリスト教の道を説く余裕は皆無だった。天皇および将軍から勅許を得たいとの願いはザビエルが日本での伝道を思い立った時からの宿願であったが,この京都の荒廃を見てザビエルの夢は消えうせた。都に一一日滞在したが何もできず、このことを通して天皇および将軍の実力の程も初めて知ることとなった。しかし、ザビエルは失望することなく新しい計画を立てた。「日本における最も有力な大名は、やはり山口の大内氏である」ことを認め、平戸に戻り、平戸の教会に残していた荷物を持って、一五五一年二月(天文二〇)再度、山口に向かった。
山口におけるザビエル
一五五一年四月、ザビエルは領主・大内義隆に接見を依頼して、天皇に奉呈するために用意していたインド総督とゴアの司教の親書の他に、贈り物として一三種類の日本人が見たことのない、望遠鏡、*ヴァージナル(鍵盤楽器)、置き時計、ギヤマン(ガラス製)の水差し、鏡、眼鏡、書籍,絵画、小銃等を持参した。義隆は非常に喜んで大変機嫌よく、ザビエルの錦織の祭服を眺めて『生き仏のようにみえる』と嘆賞した。
*『一三ノ琴ノ糸ヒカザルニ五調子一二調子ヲ吟ズル』と日本側の記録に見える楽器は、ポルトガル語の『クラヴォCravo』英語で言う『ヴァージナルVirginal』である。
大内義隆はザビエルの贈り物に対する御礼として黄金一箱と太刀を贈らんとしたが、ザビエルはこれを辞した。その代わりに、神の道の伝道を許可くださるように願った。義隆はとても驚き大いに感激して、神の道を説くことを許可し、信仰の自由を認め、かつ彼ら海外からの宣教師を排斥することを固く戒めた立札を、直ちに山口の町の角々に立てた。その上、ザビエル一行の住宅と教会にするために、当時すでに廃寺となっていた大道寺を与えた。ザビエルらは大いに喜び、その日以来、毎日二度、ザビエルはフェルナンデスを通訳として,街の小路の街角にある井戸の縁石に腰を掛け、集まった群衆にキリストの道を説いた。あらゆる階級の人々が集まり、また教会である大道寺には、昼夜を問わずにキリスト教に関して質問に来る人々が多くなり、ザビエルたちは全く休む暇がないくらいに忙しかったが、しかし信仰を受け入れる人は依然として少なかった。
ある日いつものように、街角に立ちフェルナンデスは聴衆に囲まれながら説教をしていた。するとその説教を聞いていた一人の青年が嘲り笑って、彼の話を妨害して、ついには彼の顔に唾を掛けた。しかしフェルナンデスは、少しも騒がずに、静かにハンカチを取り出してそれを拭い、話を続けた。その様子を見た青年とその周辺の人たちは、彼の忍耐とその努力が一通りのものでないことを初めて知った。特にその青年は説教の終るのを待って、彼らの教会に行き、罪を悔い改めて洗礼を受けた。彼は後に有力な山口の信者になった。
ザビエルは一五五一年七月、山口の伝道の成果について書簡で述べている。山口の布教二ヵ月で、約五〇〇人の信徒を得たが、それら改宗者の中にはザビエル一行の宿泊していた家主とその親戚の人々もいて、『日本で初めてこのように痛快を感じ、生まれてこのかたこのような喜びを覚えたことがなかった』
五〇〇人の改宗者の中には教義に服して信仰に入ったというより、その中の武士および学者たちは、ザビエルが説いた学説、特に天文学上の理論に感心して入信した人も多かった。
『日本人は他国の人より賢く、道理の解る性質を持っている。学問を好むが、まだ地球の丸い事とその運行の理を知らない。我らが天体運行や雷電の起こる理を説明すると、彼らは熱心にこれを聴いて、我等を尊敬する気持ちになった。我等は学問の方便によって、宗教を悟らしむことを得た』
山口より豊後府内へ
一五五一年八月の終わり頃、豊後の国・府内より、ザビエルに宛てた二つの書簡が届いた。府内の沖の浜にザビエルの友人デュアルテ・デ・ガマ(Duarte de Gama)の船が入港していた。ポルトガル人からザビエルが山口で布教活動をしているとの噂を聞いた豊後の若い大名、大友義鎮(後の宗麟)は、ザビエルに招待状を送った。ザビエルは『ポルトガル人の友人に会うため、また、大名がキリシタンに成りたいのかどうかを確かめるために』、数日の間府内に行こうと決心した。ダ・ガマの船でインドからの手紙も届いているだろうと期待していたからでもある。
一方、トーレス神父は平戸より山口に赴任する。一五五一年九月、ザビエルは、自分の留守中の山口の教会の世話をするために、トーレス神父を平戸から呼び寄せた。トーレス神父が九月一〇日に山口に着くと、ザビエルはベルナルドを連れて豊後に赴いた。ザビエルが期待していたインドからの便りは届いていなかった。ザビエルは大友義鎮との会見後、いったんデ・ガマの船でインドに帰り、そこでの状態を見て翌年に日本に戻るという計画を立て、それを山口のトーレス神父に伝えた。その後、一一月二〇日、ザビエルはデ・ガマの船でインドに帰るために日本を後にした。大友義鎮は一家臣を使節としてザビエルに同行させ、ポルトガル国王宛の手紙と国王へ贈呈する具足とを携行させた。この使節はやがて入信して、ザビエルからロレンソ・ペレイラと命名してもらった。彼の本名は正確にはわかっていない。
しかし、ザビエルは、一五五二年一二月三日、中国広洲湾内の上中島にて死去する。(四六歳)
トーレス神父
『善良な年寄り』と親しみを込めて、部下の宣教師たちとすべてのキリシタンたちから呼ばれていたトーレス神父は、深い祈りの精神、使徒職への熱意を内に秘めて、日本の初期キリシタン教会の布教の舵を取っていた。彼の人柄は温厚で控えめで忍耐強かった。日本人の特性をよくわきまえて日本の習慣を学び、日本に順応するために衣食住のすべてを日本風に変えて、日本の行儀作法を行ったので、日本人から好感を持たれた。日本の布教は日本人の中から聖職者を育成して、将来において日本の宣教を任せるべきとの信念を持って布教に当たった。誕生したばかりの日本の教会のために、新しい働き人の養成に全力をあげ、部下の仕事を注意深く指導し、自分の力の許す限り与えられた教会の司牧に努力したトーレス神父の生活そのものが、一緒に生活していた人々への手本であり、すべてのキリシタンたちの崇敬の的であった。 宣教においてトーレス神父は戦うことを知っていた。山口、平戸、博多での布教の成果が破壊されて、豊後の地の避難場所に逃れたが、彼は自分が敗北したとは思ってはいなかった。神の定めた時の来ることを知っていて、ひとたび道が閉ざされたと思う時でも、神が必ず道を開かれると信じて、閉ざされている期間には、自分に与えられた人々の教育と指導に自らの身を持って示し尽力した。強固な精神力と忍耐強さを内に秘めて、トーレス神父は九年と数ヵ月を過ごした。トーレス神父の許で宣教の訓練を受け、トーレス神父の模範的生活を見て育った宣教師たちは、完全に信頼できる伝道者となり、次の時代の日本の教会の急速な拡大の礎となった。
トーレス神父は日本布教長を一八年務め一五七〇年(元亀元)天草の志岐で死去した。この時、信者数三万人、教会数五〇であった。トーレス神父はザビエルの開拓したキリスト教を日本に根付かせ教会の基礎を固め、将来における興隆の基を築いた。
『府内で彼(トーレス神父)と一緒に生活していたイルマンたちは、彼の生活や模範によって深い感化を受けていたから、大きな苦労や窮乏が生じても、それを軽微で忍びやすいここと考えていた』(Luis Frois, “Historia” Ⅰ,cap. 19.)
『神父様(トーレス)は毎日ミサを捧げています。神父様は一〇年以上、病気でもミサを捧げることをやめずに続けています。ただ数回だけ持病のためできなかったことがありますが、彼の持病は時にははなはだ粗略に扱われています。しかし今は、日本の薬の中に良いのを見つけて時々それを服用し、健康は非常に良くなっています。私たちおよび日本のこれらの地方のキリシタンや異教徒にとって、彼の生命は極めて貴重なものでありますから、神がこれを延ばし給わんことを』(Cartas Ⅰ,78.)
『すでに老年であり、仕事や贖罪によって体が弱っているにもかかわらず、コスメ・デ・トーレス神父の生活は、その多くが心の祈りにあてられ、そのために毎日何時間もが費やされた。太っているし身長も高いのに、食事は非常に質素で常に粗末で味のない物を食べていたが、それは他の人にとっては絶えざる断食として役立つほどのものであった。日本の寒気は非常に厳しいものであるのに、彼が体を暖めるために火に近づくのを誰も見たことがないし、貴人を訪ねる時のほかはほとんどいつも帽子をかぶらず、素足でいた』
『毎日ミサを捧げることを大きな慰めとし、立っていることができないほど体の悪い時には、祭壇に寄りかかったり、時には膝をついて唱えた』
『決して昼間眠ったことがなく,常になすべき仕事をしていた。夜は連祷や聖務日課を唱えて 黙想した後に、イルマンと共に小麦を挽いた。家の仕事をするとき、一番先に棒や石を運ぶのは彼であり、こういう仕事で示す彼の力は二人分あった』
『(豊後の修院で)九時半以後、全員が良心の糾明を行っている時に、神父は翌日観想すべき点をイルマンに指示した。皆が眠ったと思われるころ、毎夜欠かさず火を点じた燭台を持って静かに自分の部屋を出て、修院で教育を受けている少年同宿の部屋を訪ね、風邪をひかないように彼らに寝具をかけた。それから台所へ行って,従僕の不注意で鍋やフライパンが汚れたままになっていたり、瀬戸物類が洗ってないと、井戸から水を運んで、これらをことごとく洗った後、それぞれの場所に収めて台所を掃除した。それから木材やそのほか修院に必要なものを運搬する一,二頭の馬のいる馬小屋へ行って、もし汚れていれば掃除し、夜の飼料を与え、水を運んで飲ませた。それから修院内の各所や扉を見回った後に、自分の部屋に戻った。こうした仕事にもかかわらず、祈りのために起床するのは早朝であった』
(Luis Frois,"Historia", Ⅰ, cap.19.)
トーレス神父は、信者であるキリシタンだけでなく、彼を訪ねてくるすべての人々に分け隔てなく公平に接している。彼の持っている公平無私の姿が人々の心を打ち相手に尊崇の念を抱かせていた。トーレス神父はキリストに仕える様に人々にも僕のように仕えていた。
アルメイダの訪問
一五五二年の初め、ポルトガル人の医者で商人のルイス・デ・アルメイダ(Luis de Almeida,1524-1583)がトーレス神父と話すために平戸より山口を訪れた。アルメイダはデュアルテ・デ・ガマの貿易仲間として、またその船の医者として成果を上げていた。この時の出会いで、ロレンソとアルメイダは知り合い、生涯友として共に宣教の道を歩むことになる。
一五五二年九月、ザビエルがマラッカから派遣した新しい宣教師たち、バルタサール・ガーゴ(Baltasar Gago)神父と二人のイルマン、デュアルテ・デ・シルヴァ(Duarte de Silva)とペドロ・デ・アルカソーヴァ(Pedro de Alcasova)の三人が、通訳の日本人アントニオと共に、ゴアから鹿児島を経て豊後府内に到着した。大友義鎮の使節として、ザビエルと共にゴアに向かったロレンソ・ペレイラも一行とともに帰国した。豊後府内に着いたガーゴ神父は山口にいたトーレス神父に到着の報告を出し、トーレス神父の返事を持って、日本語の堪能なフェルナンデス修道士が、豊後に新しく到着した宣教師たちの手助けと通訳を兼ねて派遣されてきた。
一二月三日、ザビエルがマラッカから派遣して豊後府内で布教活動をするために準備していた新しい宣教師たち、ガーゴ神父と二人のイルマン、シルヴァとアルカソーヴァの三人が、トーレス神父に挨拶するために山口に到着した。
一二月二五日、日本にいるすべての宣教師たちが山口に一堂に会し、この年のクリスマスは出来る限り厳粛に執り行われた。日本で初めて行われた歌付のクリスマスミサである。
『降誕祭の日、我らはミサを歌い、良い声ではなかったが、これを聴いてキリシタンらは皆、深く慰められた。同夜は終始、キリストの生涯(についての書)を読み、二人の司祭が六回ミサを執り行い、これを行った理由を説明した』(一五五四年、ペドロ・デ・アルカソーヴァ修道士の書簡、一六・一七世紀イエズス会日本報告集 第III期第I巻 一一〇頁)
このクリスマスミサ(降誕祭)がラテン語による『歌ミサ(ミサ・カンターダ Missa Cantada)』であったことを、上記のアルカソーヴァ修道士が書簡に書いている。歌ミサとは、典礼式文が唱えられた後に、グレゴリオ聖歌やポリフォニー音楽が歌われる、音楽付のミサの事である。日本にザビエルがキリスト教を伝えた当初のミサは、典礼式文を唱えるだけの読唱ミサ(Missa Lecta)であった。この一五五二年の山口でのクリスマスの歌つきミサが、現在までにイエズス会会報で確認される、正式な音楽付ミサの最初のものと言える。
降誕祭の後、トーレス神父は日本における最初の宣教会議を開いた。この会議においてトーレス神父は全員の任務を次のように決定した。
豊後派遣組 ガーゴ神父とフェルナンデス修道士は豊後府内に行き教会を開く。一五五三年二月四日、豊後府内に向け山口を出発。アルカソーヴァが同行した。
山口残留組 トーレス神父とシルヴァ修道士とロレンソ。山口教会を成長させていく。アルカソーヴァは山口、平戸、豊後の三か所の宣教場所を回った後、日本の状況を説明するためにゴアに報告に戻り、日本のために新しい宣教師を要請する
日本語に堪能なフェルナンデス修道士をガーゴ神父に付けたことで、トーレス神父が豊後での布教を進展させる狙いがあったことが判る。フェルナンデスを手放したことは、すでに、ロレンソとシルヴァが、日本語がうまくなかったトーレス神父の通訳として活動していたことを示している。
「同宿」という言葉はまだ使われていなかったが、ロレンソの働きを見れば日本の教会で立派な活躍をした最初の同宿となった。この時期、トーレス神父の指導のもとにロレンソは伝道士、修道士、祈りの人として育てられた。
一五五三年(天文二二)二月四日、豊後派遣組。ガーゴ神父とフェルナンデス修道士が豊後府内に行き教会を開くために山口を出発。アルカソーヴァが同行した。二月一〇日、豊後府内に帰着、二月一一日、大友義鎮(よししげ)を訪問した、ガーゴ神父とフェルナンデス修道士は、義鎮から自領内での宣教師保護と布教許可状を与えられた。それに伴って土地寄進状が与えられ、教会、宿舎、菜園および望むものすべてを作ることのできる地所が与えられた。
豊後府内の「慈悲の聖母の住院」と教理学校
七月二一日、大友義鎮から、教会に最もよい土地が寄進され、建物の建設にはキリシタンたちが熱心に奉仕した。この土地に教会と修院が造られると、七月二一日に落成式をした。教会の名前は“慈悲の聖母の教会・Nossa Senhora de Piedade“と命名された。教会のシンボルとして大きな十字架一基が建てられた。地所内にはキリスト教徒たちを埋葬する墓地が定められた。
ガーゴ神父の指導のもと、フェルナンデス修道士が中心となって、子供たちに、キリスト教の教理を教える『教理学校』が設けられた。この学校の使命は、異教徒にキリスト教とは何かを教えて教会に来させること、教理を深く学んだ者たちに洗礼の準備をさせることと洗礼を授けること、洗礼を受けたキリシタンたちのキリスト教の真理の知識を深めさせ、キリシタンとしての確固たる生活を行わせることを目的とした教育であった。イルマン・フェルナンデスが教育を担当していた。
『我が主はこんなに多くの少年の中から、日本の異邦人にその聖なる教えを述べ伝えるために数人をおえらびになるだろうという大きな希望があります』(ジョアン・フェルナンデスの書簡Juan Fernandez, 府内、一五六一年一〇月八日 M.H. 一四八, “Documentos”, p.410)
また、この学校では、地球儀、図、数学器具、楽器、時計、眼鏡等を用いて、諸種の学問の講座も開かれ、天地創造および宇宙の組織等についての説明も行った。これらは日本人にとっては全く新しい説明であって、人々は驚きを持ってこれらの知識を吸収した。
第二節 府内教会と病院
一五五五(弘治元)年九月二〇日、アルメイダ、日本の平戸に到着後、豊後に向かう。デュアルテ・デ・ガマの船に乗って、ポルトガル人の医者で商人のアルメイダが平戸に着いた。アルメイダは修道士になって神に仕えるため、布教地として日本を選んだ。アルメイダは、治安の悪い所を三,四日掛かってガーゴ神父のいる豊後府内に到着している。アルメイダが豊後府内に着いたことを知らされた山口教会のトーレス神父は、アルメイダがイエズス会に入会するにあたって、豊後教会の責任者であるガーゴ神父に対して、アルメイダに厳しい心霊修行を課すように命じ、その後イエズス会に入会を許可している。
一五五五年、晩秋の頃、イエズス会に入会後、アルメイダは豊後府内で行われていた嬰児殺しの悪習を止めさせるために孤児院の設立を領主である大友義鎮に願い出ている。
『この国民の間に行われている悪事の中に、子供を育てる辛労、または貧困のため出産直後に赤子を殺す悪習がある。本年、ルイス・アルメイダというポルトガル人が府内に来て住院に引籠り、イエズス会士になるための試練を受けていたが、この話を聞いて心を動かし千クルサドを投げだし、育児施設をつくりたいと太守大友殿(大友義鎮・後の宗麟)に言上した。何人も嬰児を殺してはならぬ、子育てができない場合はこの施設に連れてくるように命令書を出してくれと請願した。大友殿は快く賛同した。この施設には貧しいキリシタンの乳母および二頭の牝牛、その他必要な設備をととのえ、孤児たちが栄養失調で死亡しないように配慮した』(ガーゴ神父の書簡)
豊後府内で活動を始めたアルメイダが、まず手掛けたのは孤児の収容施設だった。孤児院の運営はミゼリコルディア(慈悲の組)の組織で行われた。この孤児院はイエズス会が日本で初めて設けた社会福祉施設である。しかし、昼夜兼行で奉仕作業に従事したミゼリコルディアの男性組員たちの苦労もつのり、折からの冬の寒さも加わり、嬰児に下痢の症状が続発してアルメイダを悩ましたようだ。約一年後に、この孤児院は廃止され、それに代わって病院が創設された。
『デュアルテ・デ・ガマの船に乗って日本に向かったポルトガルの青年(アルメイダ)は、四,五千クルサドの財貨を所有し、ラテン語にも相当通じているが、イエズス会の創造主に動かされて日本に留まり、自費を投じて病院を建設し、まずしき病人を収容し、大いなる慈愛を持ってこれを治療している』
(一五五六年一月七日付け マラッカ発、ルイス・フロイスの書簡)
『本年(一五五五年)当地(豊後府内)に留まることになったルイス・デ・アルメイダは、豊後の“慈悲の聖母の住院(Nossa Senhora da Piedade)のため貧者たちの病院を寄付した』(ガーゴ神父の書簡)
豊後府内に定住したアルメイダは、先ず孤児の収容施設をつくり、その施設の運営に困難を感じながらも全力を尽くしたが全てにおいて無理があり止む無く廃止を決断した。その後社会不安の中で見捨てられた多くの病人たちの面倒を見ながら病院の必要性を痛感して、病院設立の準備に没頭した。孤児院は廃止したが、教会あるいは住院を診療所・仮設病院としてアルメイダは医師として治療を続けていた。
教会本部を豊後府内に
一五五六年五月、豊後府内の教会は、領主・大友義鎮の保護もあって一五五四年から一五五六年までにガーゴ神父とイルマン・フェルナンデスの働きによって大きく進展していて、周辺の町と村の信者の数は千人を超えていた。一五五六年五月、トーレス神父は府内に到着した時には重い病に罹っていた。山口での五年の活動の実りを毛利元就によって潰されるのを見るのは辛かった。府内でしばらく静養を取った後、新しい府内の地でトーレス神父は教会活動と新しい宣教師の育成を続けた。
ザビエルが最初のキリシタンに洗礼を授けたが、トーレス神父は初めて日本人をイエズス会に引き受ける人となった。府内に於いてトーレス神父は三人をイエズス会に迎えた。盲目の琵琶法師だったロレンソ了斎、大和の国の多武峰という有名な寺の僧侶で医者のキョウゼンとポルトガル人のルイス・デ・アルメイダの三人。トーレス神父は管区長ではなかったので、教会法ではイエズス会に入会を許可する権限を持っていなかった。実際にはトーレス神父が彼らの入会を許可し、二ヵ月後の七月に府内に到着したヌニェス管区長が、トーレス神父が許可したことを承認した。
ロレンソの名前は、名簿の一番初めにある。ロレンソのイエズス会入会の日は記録されてないが、比叡山への旅の前であった。パウロ・キョウゼンもまた山口における新しい改宗者である。大和の国(奈良県)多武峯の修行僧で仏教の教義についての豊かな学識を持ち、難行苦行をしたが満足が得られずに、京に出て漢方薬の学びを深めて五畿内では良く知られた高名な薬師だった。ルイス・フロイス神父はキョウゼンのことを『日本の(仏教)宗派のなかでもっとも学識がありかつ第一級の医者であった』と紹介している。アルメイダの入会については、トーレス神父自身が一五五七年の書簡の中で『ここ(府内)で私は『人の病を癒す力』を有する一イルマンの入会を受け入れました』(Bourdon, “Uma carta inedita”, p.197)と確認している。
一五五六年七月初旬、フランシスコ・マスカレーニャスの船が府内に入港して、管区長メルキオール・ヌニェス(Melchior Nunes)とガスパル・ヴィレラ(Gaspar Vilela)神父、および二人のイルマン,ギリェルメ・ぺレイラ(Guilherme Pereira)、ルイ・ぺレイラ(Rui Pereira)が到着した。この中の五人はゴアのコレジオの学生たちだった。彼らはポルトガルからきた孤児で、ゴアの修道院で教育を受け、言葉を覚えるにはもっともすぐれた素質と音楽の才能を持ち、グレゴリオ聖歌と『オルガン伴奏歌唱』に、もっとも習熟した人たちであった。彼らの選抜の基準はまさに典礼的音楽の才能であった。
一五五六年七月初旬に豊後府内に来たフランシスコ・マスカレーニャスの船は三ヶ月余り府内に停泊していた。管区長ヌニェスは自分が乗ってきた船に乗ってマカオに帰って行った。トーレス神父の補佐を始めたヴィレラ神父は『一一月に私たちは説教やそのほかの仕事を続行し始めました』と報告している。(Cartas Ⅰ, 五四v. 一五五七年一〇月二九日付け 平戸発、ガスパル・ヴィエラ神父の書簡『一六・一七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅲ期第Ⅰ巻二五一頁)
『一五五六年の秋(一一月頃)ヌニェス神父たちが豊後よりインドに帰帆してからは府内もようやく静穏になりました。(中略)そこで、私たちは大友殿から広き良き地所を購入しました。この土地の中には、もっとも良き杉材で造られた数軒の家もありました』
(一五五七年一一月七日付け、コスメ・デ・トーレス神父の書簡)
トーレス神父はアルメイダと相談して、病院設立について具体的行動にでた。ヴィレラ神父とフェルナンデス修道士が朽網地方の伝道から帰ると、この二人とも相談して、日本語の上手なフェルナンデス修道士に病院設立の計画を大友義鎮に説明させて許可を得て、府内教会所属病院設立を決定して直ちに実行に移している。
最初の府内教会の建物は大友義鎮から与えられた土地に、一五五三年六月一一日『住院および礼拝堂を建て、直ちに高き十字架を一基立てた』(ガーゴ神父書簡)住院と教会兼用の建物であった。病院建設のため一五五六年(弘治二)秋、教会に隣接する一段高い広い土地を大友義鎮より購入して、そこに改めて聖堂を新築した。元居た低い土地の教会として使用していた建物は、増改築して府内病院の病棟として使用した。旧府内教会に使用していた建物を増改築して病院とした『大きな家』(ヴィレラ神父の書簡)は二つに区切られて、一方が癩患者用病棟もう一方が通常の内科・外科用病棟として使われた。病院の西側の一部は病院で亡くなった人々の*墓地として使用した。この墓地は二〇〇一年からの大分県の中世大友府内町跡発掘調査で存在が確認されて、場所も特定され明らかにされた。
イエズス会史料によれば、一五五三年(天文二二)に初めて建設された豊後府内の教会の敷地内にすでに墓地が設けられたとの記述がある。イエズス会は一五五六年(弘治二)に、隣接する敷地を新たに購入して、一五五七年(弘治三)に当所の敷地を病院と墓地に二分している。教会と病院の敷地内の墓地は初めから一貫して教会敷地内に存在していた。
『府内古図』が伝わっていて、その古い地図によれば教会のあった場所は、大友館の背後にあたり、寺院が集中する南北街路に面して『ダイウス堂』と記載された敷地がある。その場所はイエズス会の記述の場所と一致している。現大分市顕徳町付近である。
二〇〇一年(平成一三)三月、JR大分駅の高架化に伴う中世大友府内町跡の発掘調査で、教会跡推定地の発掘調査が行われた。JR日豊本線線路下から、一基の墓が発見された。頭を北に向け仰向けに足を延ばし伸展葬の人骨が、長方形の木管に納められていた。その後この周辺から合わせて一八基の墓が発見され、教会の墓地の一角と断定された。この墓地の位置は教会推定地の南端にあたり、調査が進むにつれて一五九〇年代の地層で覆われた一五〇〇年後期の埋葬であることも判明した。この発掘調査の結果、墓地の継続時期がイエズス会の史料からわかる教会の存続期間と一致すること、古図研究に基づく教会推定地と発掘された墓地との位置が一致することから、発掘された墓地は豊後府内のイエズス会府内教会の敷地内に設けられた墓地の一部と断定された。
一五五九年(永禄二)七月一日旧府内教会を増改築して府内病院とした建物に並んで、石の基礎の上に大きな木造の新病棟を新築した。旧病棟の一角は外科専用の治療室として使用した。内科は新築の建物に移動した。新病棟は、中央に廊下があり、廊下の両側左右に四部屋あり、各部屋にはそれぞれ戸が付いていて一六人の患者を収容することができる洋風の建物であった。二つの並んだ大きな病棟の近く(おそらく北側)に、病人の世話をするミゼリコルディア慈悲の組の人々、助手のための住宅があった。さらに『病院の周囲には一二人の既婚者が住んでいて、またひとつの小屋には若干の未亡人が住んでいた』(フェルナンデスの書簡)。病院の従業員の家も数軒あった。病院と病院に付属する建物の建っている低い方の地所と、一段高い地所に聖堂・教会堂が建ち、その聖堂の奥に、高い樹木と竹林に囲まれた地所に、トーレス神父および宣教師たちの住院があった。
第三節 府内病院の発展
府内病院の癩病棟
府内病院は設立当初は、府内の町、およびその周辺の巡回診療を行っていた。次第に府内病院の名声が高まるにつれて、その名声は京都、堺、比叡山まで伝わり、府内病院の名声を聴いて遠くは五畿内からわざわざ旅をして診療を受けにくるようになった。
一五五九年(永禄二)の夏から秋にかけて,内科および外科での治療を受けた人々は二〇〇人を超えた。(ガーゴ神父の報告)
一五五九年(永禄二)の病院の増築以後、府内病院は病院全体で約一〇〇名を超す入院患者を収容する能力があったようだ。癩病棟には常時三〇名ほどの癩患者を収容していて治療を施していたようである。
一五六二年(永禄五)には、『毎日治療を受けにくる患者のほかに、府内病院には一〇〇名を超す入院患者がいる』(サンチェス修道士の報告)
*現在「癩(病)」という用語は、人権上の問題から差別用語として使用しないことになっている。イエズス会の史料と日本の過去の史料を使用するにあたって「癩(病)」を通例のように「ハンセン病」と置き換えて表現することは、史料的見地から、あるいは文字や語感の上から、当時のキリシタンの活動における癩病とのかかわり方の真相を伝えにくいとの筆者の判断により、本書ではあえて使用していることをご理解いただき、お許し頂きたい。
この時代、日本の諸宗教(神道・仏教)が癩に対して冷酷非情であったことは、中世の癩患者にとってこの上ない不幸であった。日本では古来の民俗信仰として清浄(ハレ)と不浄(ケガレ)の思想が伝承されてきた。これが神道と結びつき、神の祭事において不浄なものは忌み嫌われた。癩はその病状の形相からも不浄なものとされ、いつしか『天罰・天刑』神の怒りによって発病するものと思われてきた。その裏には『不浄観』思想があった。六世紀に日本に伝来した仏教は、奈良時代まで癩患者に対して救済の手を差し伸べる僧や寺院もあったが、鎌倉時代末には、仏の教えを軽視、蔑視するものは仏罰として癩に罹るという癩観が形成された。
中世末期には、癩を発病することは神仏の怒りによる罰の現われであるという思想が広く一般に定着した。この時代の武士の起請文にも、後のキリシタン禁教令の後、キリシタンが棄教する際にデウスに誓約する棄教の請文『南蛮誓詞』にも『もし誓言を違えば癩病・白癩、黒癩に身を被っても甘んじて受ける』という文言があることは、この史実を裏付けている。
『法華経』観発品第二八には『もしこれ(法華経)を受持する者を軽笑せば、まさに世々,牙歯すき、醜き唇、平める鼻、手脚はもつれ戻り、眼目はかすみ、身体は臭く、悪しき瘡の膿血あり、水腹、短期諸の悪しき重病あるべし』と書いてある。
社会全体が生活に喘ぎ、世情は不安定極まりない時代の最中にあって、キリストの愛と福音を説き貧しい人々と共に生きることを実践し、病院を作り無料で施療をして世の中から見捨てられて蔑まれた癩に苦しむ患者たちを収容したキリスト教会は、多くの人々から驚嘆の眼で見られていた。当時の日本人の発想では到底出来ないことであったし、まして仏教・神道では癩は『天からの刑罰』として忌み嫌われていた。賢順も一人の僧として善導寺で受けてきた教育に癩病は天啓・天の与えた刑罰としての認識しかなかったであろう。しかし、賢順の知っているロレンソ了斎を始め教会の責任者トーレス神父、アルメイダ医師、親しく交際のある府内教会のキリシタンの宣教士たちは、ケガレ不浄である癩患者に対して、暖かい援助の手を差し伸べ、病人として受け入れて治療までしている。キリシタン教会が癩病患者たちを収容して治療をしている姿を見た諸田賢順は、一人の僧として驚嘆したであろうし、己の僧としての未熟差と非力を感じ、傍観者である自分を恥じて自問したであろう。
アルメイダとトーレス神父の病院設立に許可を与えた大友義鎮(宗麟)はアルメイダの計画の中には癩病患者たちの収容が含まれていたことを知っていて許可をあたえたはずである。自分の住む大友館のすぐそば(大友館の裏手にあたる場所)に病院の設置を認可した大友義鎮の英断と理解力、民衆に対する慈悲の深さも評価されるべきである。もし大友義鎮がこの病院の設立に許可を与えなかったら、府内病院も癩病棟も施設できなかったはずだからである。
仏教の取り組み
奈良時代、第四五代天皇・聖武天皇(七〇一~七五六年)と光明皇后(七〇一~七六〇年)は仏教に篤く帰依して、光明皇后は東大寺、国分寺の設立を夫である聖武天皇に進言して推進した。光明皇后は、興福寺、法華寺、新薬師寺等、多くの寺院の創建や整備に関わった。また貧しい人たちに施しをするための施設『悲田院』、医療施設である『施薬院』を設置して慈善事業を行っている。奈良時代より平安時代にまで継続して朝廷の公の施設として存在した。この二つの施設は救療施設の中心として活動して、朝廷では度々資材を施入してこの施設を拡充、貧困の者に食べ物を恵み、病者に施薬・収容して救済・救療を行なった。特に癩病患者を手厚く保護した。
忍性(一二一七~一三〇三年)は、鎌倉時代の律宗(真言律宗)の僧で通称は良観。貧民やハンセン病患者たち、社会的弱者の救済に尽力した。忍性は早くから文殊菩薩信仰に目覚め,師叡尊(えいそん)から真言密教・戒律受持・聖徳太子信仰を受け継ぎ、聖徳太子が四天王寺を創建に際し『四箇院の制』を採ったことに深く感銘して、その復興を図っている。『四箇院』とは.仏法修業の道場である「敬田院」、病者に薬を施す「施薬院」、病人を収容して病気を治療する「療病院」、身寄りのない者や年老いた者を収容する「悲田院」のことで、極楽寺伽藍図には療病院・悲田院・福田院・癩宿が設けられていて、四天王寺では、悲田院・敬田院が再興されている。鎌倉初期以来、四天王寺の西門付近は「極楽東門」と言われ、すなわち極楽への東側の入り口と認識されていて,病者・貧者・乞食・非人等が救済を求めて集まり、弱者集団を形成していた。
忍性の師・叡尊は民衆への布教を唱えながらも、自分には弱者救済が不得手であることを自覚して、その役割を弟子の忍性に託した。忍性は、当時の仏教において一番救われない存在と考えられていた非人救済に専念した。
叡尊に学んで奈良西大寺住していた一二四〇年、常施院、悲田院を設けて病人たちを収容して治療を施した。一二四三年、北山一八間戸を創設。奈良周辺の癩病患者に着手。北山一八間戸は現存する日本最古の救癩施設であり、南北に細長い棟割り長屋で切り妻造りの本瓦葺き。内部は一八室に区切られていて、一部屋の広さは二畳程。東端には仏間があり、仏間には一段高く仏壇が拵えてあり、裏戸には『北山十八間戸』と縦書きの銘がある。東側にはもと炊事場があり、南側には庭園と二カ所の井戸が残されている。北山一八間戸は明治時代に至るまで癩病の救済施設としての機能を維持した。ここで衣食住を提供された患者の収容者数は、延べ一万八千人と言われている。
一二六二年、鎌倉幕府の要請に応じて、鎌倉の『極楽寺』を開山。一二六四年、鎌倉雪の下で非人三〇〇〇人を救済している。一二七四年、飢饉のために大仏谷で飢餓の救済のために粥を施す。一二八七年鎌倉幕府の支援を受けて鎌倉桑ヶ谷に病院を建設。以後二〇年間に四六八〇〇人を治療した。
一二九四年、摂津の国、四天王寺別当に任命され、悲田院、敬田院を再興して、身寄りのない老人・貧者たちを保護する。一二九八年、鎌倉板の下に馬病舎を建てて、年老いて棄てられた動けない馬や牛たち、動物たちを保護して死ぬまで面倒を見ている。一三〇三年、忍性は鎌倉極楽寺にて八七歳で死去した。
特効薬・大風子油
大風子油とは,イイギリ科のインドネシア原産の高い木で,その果実の種を絞って取った油である。当時、大風子油は癩病の特効薬として塗薬として用いられていた。インド及び南洋諸島において癩病塗布薬として広く使用されていた。アルメイダは南洋諸島での医師としての経験を通して大風子油の効用を知っていたので、高価な大風子油を輸入によって取り寄せて府内病院でも癩病の塗布薬として使用していたと考えられる。
また病人用の葡萄酒、オリーブオイル、椰子油等、当時日本では手に入れることができなかった薬用品が府内病院では使用されていた。輸入した貴重品であるこれらの物を、府内教会では無料で治療する際に使用した。
癩病は長い年月に渡り主に知覚神経と運動神経が侵される病で、表面的には、顔面は無残に変貌して鼻や耳が崩れ落ち、手足の指もなくなり、歩くことも言葉を発することも不自由になり,徐々に視力も失って盲目となる者も多く、その苦痛と悲惨は想像を越えたものがあった。これら癩に侵された重い障碍者たちを病院に収容して施術をすることは、病院側にとっても大きな負担であったことが察せられる。当時の癩患者の多くは飢餓に瀕した栄養失調状態の人々であり、アルメイダは癩患者に栄養価の高い食事を与え、精神面でのキリスト教的看護を行っているので、治療効果が著しく上がったと思われる。
ヨーロッパでは、キリスト教の布教活動が盛んになるとともに、宣教師たちはキリスト教が愛の宗教であることを癩者の看護を通して実践立証してきた。一二世紀、イタリアのアッシジの聖フランシスコの例は特に有名であるが、一三世紀頃には全欧州のキリスト教国では一万八〇〇〇の癩病院があったと言われている。キリスト教において癩病は特殊な病ではなく、一般の病のうちで最も悲惨な伝染病として隔離はしたが、癩という疾病に対して大きな差別感はなかった。
日本に来たキリスト教各派の宣教師たちが、日本各地で苦しんでいた数万の癩患者たちに対して、キリストの愛と救済の手を差し伸べて救癩活動の先頭に立って献身した歴史的事実を忘れてはならない。一六一四年以後、キリスト教が禁止され迫害が激化した時、癩病院の中に宣教師たちは身を潜めて、献身的に看護をしながら宣教活動に従事した。或る宣教師は看護の過程で自らが癩に罹ったが、自分の命を顧みずに看護を続けて神に召された。或る宣教師は癩患者と共に逮捕され殉教した。
第四節 府内病院の医療従事者たち
アルメイダ(病院長)
アルメイダは一五四六年三月三〇日付け、ポルトガル国王ジョアン三世より、当時のポルトガル全領土(植民地も含む)における外科施術の教授の免許を下付されていた。アルメイダは正式に医学の勉強と研修を積んで国家試験に合格した外科医だった。ルイス・フロイスが『日欧文化比較』(大航海時代叢書)の中で『我々の間では医者は試験を受けていなければ、罰せられ、治療することはできない』と述べているが当時ポルトガルでは医師の国家試験制度があった。アルメイダは外科が専門と言っても、府内病院では内科の分野でも活動して大きな役割を果たしていたことは、多くの報告書から読むことができる。
パウロ・キョウゼン(内科医)
大和の国(奈良県)多武峯の修行僧で仏教の教義についての豊かな学識を持ち、難行苦行をしたが満足が得られずに、京に出て漢方薬の学びを深めて五畿内では良く知られた高名な薬師だった。ルイス・フロイス神父はキョウゼンのことを『日本の(仏教)宗派のなかでもっとも学識がありかつ第一級の医者であった』と紹介している。
キョウゼンは優れた漢方の医者で、薬学や医学について書かれた中国の本を読んで解読して、それを基にして作る処方、薬の効能は日本に滞在している中国人の間でも評判になる位だった。府内病院で治療のために使用する薬の大部分が漢方薬で、アルメイダを始め、ポルトガル人宣教師も漢方の使用法を学んでいる。パウロ・キョウゼンの処方する漢方薬は良く効いたため、府内病院での患者の回復率は高かった。パウロ・キョウゼンは内科医として献身的に働き、府内病院での内科診療に留まらず、病院の仕事が終わり次第、病院に来られない重症患者のために晴雨にかかわらず郊外にまで往診に出かけた。往診には馬を使い、漢方薬の入った薬箱を馬の両側に乗せて、ミゼリコルディアの組員が二、三人付き添って、府内周辺を往診した。キョウゼンはこの頃持病の結核が悪化したようで、結核がパウロ・キョウゼンの死因になった。亡くなる前、毎夜遅くまで『熱性万病の漢方療法』の著述を続けていた。府内病院が開院して一〇ヵ月後の一五五七年(弘治三)九月に亡くなった。パウロ・キョウゼンの死は『清き終焉を遂げた』とイエズス会年報に記録されている。
キョウゼンの死後もポルトガル人の間では日本の漢方の医者(パウロ・キョウゼン)の処方する薬の評判は高かった。パウロ・キョウゼンは傷寒病等、熱性疾患に対する漢方療法で、特に解熱、鎮痛,止痢等の疾患に効く漢方の処方が得意だったことが、残されている記録から判る。熱帯特有のマラリア熱や三日熱等で発熱した豊後に滞在している船員やポルトガル商人たちから感謝されている。
『すでに死の床にあったパウロ修道士は数種の薬の処方と医学書の解説(『熱性万病の漢方療法』)を続けて行っていました。彼が病死して後・・・トーレス神父はパウロ修道士の処方したこれらの薬を使用することにしましたが、中国から来たもので用いやすく効能は大きかった。そのうちのある薬は、三日熱、四日熱その他の病に用いて即効がありました。ギリェルメ・ペレイラ船長とその船の乗組員一同が病気になり、豊後に来航した時、この薬でもって治療しましたが、全員が全快しました。それで中国に持って帰る者もいましたが、その効能を認めてどうか薬を分けてくださいと、しきりにトーレス神父に頼んでいました』(一五五九年一一月一日付け ガーゴ神父の書簡)
トマス・内田(内科医)
トマス・内田は一五五七年(弘治三)四月、毛利元就によって、山口の大内義長が自害した後、山口の町が毛利軍により焼失破壊された時、山口に残っていたキリシタンたちは豊後への移住を余儀なくされた。この時、山口の住院教会の祭具,二枚の聖絵等を背負い豊後府内まで逃げてきた。トマス・内田はザビエルから洗礼を受けた日本におけるキリシタン信者の第一番目の信者であった。トマス・内田は、自分の息子をイエズス会に受け入れてくれるようにこの時に願っている。
ルイス・フロイス神父はトマス・内田のことを『パウロ・キョウゼンに代わって気の毒な人びとに奉仕するために病院に赴きました』と書いている。
アルメイダは『先に死亡したパウロ・キョウゼンに代わって山口より府内に来たトマス・内田が内科治療を行い、大いにデウスに仕え、住院にとってははなはだ必要な人になりました』と書いている。トマス・内田はもともと山口で医者をしていたと考えられるが、府内に来て、アルメイダの指導のもと、パウロ・キョウゼンの漢方の処方の指導も短い間だったが受けていた。
パウロ・キョウゼンの死後、キョウゼンが残した漢方薬の処方に関する『熱性万病の漢方療法』を学んで、独自の漢方療法を確立して府内病院の内科医として活躍した。
ミゲルと二代目パウロ(殉職した二人の奉仕者)
パウロ・キョウゼン内科医のもとで内科に勤務していたミゲルという若い日本人青年がいた。ミゲルはパウロ・キョウゼンの指示で漢方の調剤助手の仕事をしていたが、激務のためか悪い感染病にかかったのか、パウロ・キョウゼンの死後一ヵ月後の一五五七年一〇月に死亡した。
二代目パウロは、病院設立当時からパウロ・キョウゼンの許で学び働きを共にしていた青年で、パウロ・キョウゼンから直接の指導を受けていた。当時、年が若く医師としての経験もないために、薬剤調合の仕事に従事していたと考えられる。パウロ・キョウゼンの死後、トマス・内田の指導下に入り、病院での勤務に従事していた。パウロの入会の日付は一五五七年のヴィエラ神父の書簡に『彼(パウロ)は二四歳の青年で、誓願を立ててイエズス会のイルマンとして入会を認められた』
(Cartas Ⅰ, 五六. 一五五七年一〇月二八日付け ヴィレラ神父の書簡)
フェルナンデス修道士は『パウロは医者で、まったくの無給で、われわれや日本人の信者、それに仏教徒たちのために必要な薬の調合を行っています。この日本人は医術に精通した人ですが、年がまだ若いのでトーレス神父は住院にいる老医師(トマス・内田)の意見を聞いてから何でも行うように命じています。この老医師がキリシタンや仏教徒たちの病人の脈をとり、その指示でパウロは病人に投薬しています』(一五六一年一〇月八日付け 豊後発 フェルナンデス修道士の書簡)
二代目パウロも『開院一年半後、病院勤務に倒れ清き終焉を遂げた』と記録されている。
(ガーゴ神父の一五五九年の書簡)
デュアルテ・デ・シルヴァ(Duarte de Silva)
府内病院において常にアルメイダの補佐をしていたシルヴァはポルトガル出身のイルマンで、一五五〇年インドでイエズス会に入会して、一五五二年八月一四日、第二次日本伝道団の一人として豊後府内にきた。非常に真面目で勤勉家であり、日本に来たイエズス会士の中では、フェルナンデス(Juan de Oviedo Fernandez )に次いで日本語に堪能だったと記録されている。堪能な語学力を駆使して病人と医師との意思の疎通を良くして、アルメイダからも医学の知識を学び府内病院の外科治療に貢献した。
一五六二年、イエズス会本部が肥前横瀬浦へ移転したことで、府内教会には三名の修道士デュアルテ・デ・シルヴァ、ギリェルメ・ぺレイラ、アイレス・サンチェスが駐在することになった。三名の修道士の指導のもと、府内教会は一教会としてその敷地と施設、病院と慈悲院等を維持していたと思われる。
一五六三年、ジョアン・バプティスタ・デ・モンテ神父が府内教会の責任者として赴任してきた。イルマン、デュアルテ・デ・シルヴァは一五六〇年にもたらされたイエズス会の『医療禁止令』に従い、一五六三年以降は宣教師として肥後の川尻(現・熊本市川尻)へ派遣された。そこでも布教のかたわら近くの寺の仏僧について漢字を学んでいる。シルヴァは布教上必要と感じた『日本語の辞典と文典の草稿』を執筆していた。
一五六四年四月、シルヴァは重い病に罹った。アルメイダは激しい雨の中を数日間歩き通して川尻に着いたが、シルヴァの命は消えかかっていた。天気が回復するとアルメイダはシルヴァを舟に乗せて有明海を上りトーレス神父のいる高瀬(現・玉名市高瀬)に運び、トーレス神父と共に付き添って看護したが、数日後、シルヴァはすべての秘跡をトーレス神父から受けた後若い命を神に捧げた。一五六四年四月三〇日(三〇歳)日本で最初に亡くなった宣教師となった。
アルメイダは、イルマン・デュアルテ・デ・シルヴァについて美しい言葉を送っている。
『このイルマン・デュアルテ・ダ・シルヴァはそれまで私が見たことのないほど熱心な人物で、飲食も忘れて夜昼説教をしたので、その激しい仕事のために病気になりました。彼が一時間何もせずにいるのを、私たちは決して見たことがありません。だからこそ彼は日本の文字(仮名)だけでなく、非常に難しい支那の文字(漢字)さえも知るに至ったのであります。彼は日本の文法を考案し、日本語の豊富な語集を作成しました。そのために、布教に対する彼の強烈な熱意は、彼の弱った体には耐えられない過労を彼に強いました』
シルヴァの墓は現在も玉名市伊倉北方にある。カマボコ型の小さな墓碑の正面には美しい花十字が彫られている。
*玉名市教育委員会が建てた墓碑紹介文
玉名市指定 吉利支丹墓碑
重要文化財(昭和三十七年三月三十一日 指定)
『この蒲鉾型の吉利支丹墓碑は、玉名地方唯一のもので、安山岩で造られ前面に花十字を刻印してあり十六世紀中頃のものと推定される。
明治初年に地中より掘り出されたもので東に向く方向、位置、形状等当時のままといわれる。永禄九年(一五六六)ポルトガルの宣教師アルメイダが玉名の高瀬においてキリスト教を布教した。
江戸初期,伊倉には多くの信者があり城北地方で最も多数を占めた唐人町だけで十一人もいたという。寛永十一年(一六三四・島原の乱の四年前)伊倉町に吉利支丹信者がいることがもれ長崎吉利支丹奉行、肥後藩奉行,郡奉行等から捜索を受ける大事件もあった。宗門改めの令でほとんどが改宗はしたが、その後、隠れ吉利支丹としてひそかにバテレンの修法を守り祭具、式目等を極秘に伝承した。このような原型をとどめる墓碑は吉利支丹研究の上に貴重な文化遺産である。』 平成二年三月三十一日 玉名市教育委員会
墓碑のほかに、シルヴァの遺髪も残されている。
玉名市伊倉北方にあるシルヴァの墓のある墓地を代々管理されてきた、旧家中山家に代々伝わっている『シルヴァの遺髪』と言われている小さな束にされている茶褐色の髪がある。中山家は先祖代々、秘かにキリシタンの信仰を守りながらこの遺髪を伝えてきた。病気にかかったときなど、この遺髪を病人の体に触れさせて祈祷すると不思議な効力が現れて癒されると語り継がれ、明治から大正・昭和初期までそれが実行されていた。伊倉北方の中山家の檀家寺の過去帳を調べると『中山家古文書キリシタン類族除帳』等から隠れキリシタンがいた証拠が残されていた。
『南蛮医アルメイダ』(柏書房)を著された東野利夫氏がこの遺髪を借り受けて九州大学医学部法医学教室の永田教授に鑑定を依頼。永田教授から『電子顕微鏡などの所見を総合した結果、この髪は確かに数百年(約四〇〇年前後)を経過したかなり古い人毛で、色素などの状態から考えて西欧系(黒褐色)の外国人の者であろう。血液型はB型』との報告を受けている。
現在『シルヴァの遺髪』は玉名市立歴史博物館こころピアに預けられ保管されている。
初公開された髪の毛は、玉名市伊倉の中山家に伝来するものである。中山家では、「山姥の頭髪(バテレンの頭髪)」と伝える。「山姥」とは、日本人ではない異国人・異国の宗教に関わるものを、異形「山姥」になぞらえたものであろうか。「バテレン」とは伴天連、宣教師の意であり、この髪の毛は、玉名を訪れた宣教師、永禄七年(一五六四)玉名で亡くなった宣教師シルヴァのものではないかと言われてきた。
伝来してきた中山家では、戦前まで四月三〇日に親族一同で先祖を供養する先祖祭り(歳の神祭り)が、シルヴァの没日頃(四月か五月初めとされる)に催され、体の悪いところをこの髪の毛で撫でてもらえば快くなるという言い伝えも残っている。さらに近くの中山家の墓地には県内でも数例しか例を見ない正面に美しい花十字を刻んだ蒲鉾形のキリシタン墓碑がある。
長い禁教の時代を守り抜かれ秘蔵されてきた「バテレンの髪の毛」である。この髪の毛がシルヴァ修道士のものか現段階では断定できないが、キシリタンに関わる珍しい貴重な遺物であることには違いない。
昭和六〇年九州大学医学部解剖学教室において、電子顕微鏡による鑑定が行われ、 「人毛・頭髪である。性別は不明。モンゴル系・東洋系でない、ヨーロッパ人である。染色体のメラニン色素は自然のものである。一本の毛髪の破壊度は四・五〇〇年~一〇〇〇年以内と推定される。血液型はB型である」という鑑定結果が出ている。
二五年前に一度科学鑑定はなされたが、当時の鑑定書は残っておらず、加えて近年の科学技術の進歩は目を見張るばかりである。最新技術での再鑑定が実施され、新たな事実が判明することが期待される。
アイレス・サンチェス(Aires Sanches)
アイレス・サンチェスは医療従事者の中でも音楽的才能を持ち、日本に来る前にインドのゴアで専門的に音楽の訓練を受けていた。サンチェスは一五六一年の夏頃にゴアから平戸に着き府内にきた。
『私(アイレス・サンチェス)は一五六一年平戸につき、日本に骨を埋める覚悟でトーレス神父やイルマンたちとともに豊後に滞在し、コンパニヤ(イエズス会)への入会を許された。私は今、病人の治療を行いながら日本人や中国人の少年たち一五名に読み書きや歌、ヴィオラ・ダルコ(viola d’arco )の指導をしている。少年たちの中には大変才能のある者が二人いた。一四歳のアゴスチニヨと一二歳のジョアンである。』
(一五六二年一〇月一一日付け アイレス・サンチェスの書簡)
サンチェスの指導した聖歌隊は長い白衣の胸に大きな赤の十字架を付けていた。一五六二年、イエズス会本部が府内から横瀬浦(肥前國松浦郡)に移って、トーレス神父が盛式誓願をたてた時、豊後から、サンチェスに率いられた聖歌隊が参加して音楽を担当している。
一五六五年、天草の志岐で、サンチェスが少年と少女の各聖歌隊が『かくも信心を込めてカント・リアノ( cannto llano )に調子を合わせて晩歌を歌う』と記録されている。
一五六八年、アレキサンドロ・バラレジオが天草の志岐を訪れた時も『彼らはベネディクトゥスを甘美な諧調で歌いながらやってきた』と、驚きを持って少年少女の聖歌隊の姿を報告している。
一五六九年、島原の口之津ではポルトガルの商人が『少年少女が教会に行く途中に、荘厳な歌を歌っているのを聴いた』と報告している。
アイレス・サンチェスの先輩に、同じくインドのゴアのコレジオで音楽の訓練を受けた二名がいる。二人のイルマン,ギリェルメ・ぺレイラ(Guilherme Pereira)、ルイ・ぺレイラ(Rui Pereira)である。
彼らはサンチェスの六年前に日本に来て、府内で音楽を教え、病院で看護に従事していた。一五五六年七月初旬、フランシスコ・マスカレーニャスの船が府内に入港して、管区長メルキオール・ヌニェス(Melchior Nunes)とガスパル・ヴィレラ(Gaspar Vilela)神父と共に来た。
イルマン,ギリェルメ・ぺレイラ(Guilherme Pereira)、ルイ・ぺレイラ(Rui Pereira)はその中の五人でゴアのコレジオの学生たちだった。彼らはポルトガルからきた孤児で、ゴアの修道院で教育を受け、言葉を覚えるにはもっともすぐれた素質と音楽の才能を持ち、グレゴリオ聖歌と『オルガン伴奏歌唱』に、もっとも習熟した人たちであった。彼らの選抜の基準はまさに典礼的音楽の才能であった。後にギリェルメ・ぺレイラ(Guilherme Pereira)はイエズス会に入会してイルマンになり、日本に永住した。
布教地・日本の典礼音楽に与えた影響は大きい。この派遣団が、ある種の経済的余裕によって準備され得たので、新布教地のために入手した書籍の中には、典礼のための本が何冊かあった。教会の発展のために有効な『グレゴリオ聖歌・canto chao 一冊、オルガン伴奏歌唱一冊である。これらは日本にもたらされた最初の典礼音楽書である。府内での教会教理学校を始めとして、教会で使用する音楽の教育が体系化されて,教会が発展するとともに徐々に音楽も充実していった。
一五八〇年以後になると、キリスト教会側の音楽の教育機関も体系が整ってきて、当時のグレゴリオ聖歌・西洋音楽だけが教会の中で教育され演奏されるようになる。
第五節 府内教会の発展と病院の終焉府内病院の発展と評判
アルメイダによって一五五五年、晩秋の頃、豊後府内に孤児院が作られたが、孤児院は維持が難しく約一年足らずで消滅した。府内教会、住院を仮の診療所として再出発した医療活動は着実に発展を遂げ続けた。アルメイダは一五五六年の秋(一一月頃)病院のための土地の購入と新病院の建築を大友義鎮に願って許可され、仮の診療所としていた教会や住院から本格的に病院の建物に体制を移行してより効率的に診療に従事した。府内病院の評判を聞き多くの患者が集まり、遠くは五畿内、京都や堺から豊後府内まで訪ねてくる患者もあった。
一五五九年(永禄二)七月一日、新病棟の落成と増築をして、府内病院はより一層発展した。 府内病院の発展と評判はキリスト教会にとっても素晴らしい布教の機会となっていた。豊後の領主大友義鎮(宗麟)は、府内病院開設当初から許可を与えて全面的に支援してくれていた。
大友義鎮は豊後の配下の重臣たちをようやく統率できる状態になり、内政面でも豊後の治安は良くなった。戦国の世の下剋上の争乱は北部九州でも起こり、旧大内家の豪族や、大内家を滅ぼして、北部九州にまで勢力を拡大しようとする安芸の毛利元就との間で、略奪戦が繰り返し行われた。
一五五九年に大友義鎮は『九州探題』の地位に就いて以降、大友家は全盛時代を迎えた。地域の安定によって豊後府内のキリスト教も発展して、府内病院も増々多忙を極めていた。
しかし、一五六〇年七月『イエズス会士により医学研究、教授、施術を禁止する決議』がなされ、豊後府内に入港したマヌエル・メンドーサ船長がイエズス会の『医療禁止令』の通達を日本教区長トーレス神父に届けた。この『医療禁止令』というのは、一五五八年、イエズス会本部で行われた『最高宗門会議』で決議された『聖職者の地位にある者は人間の生命に直接かかわる医療施術,生死の判決に係わる裁判官(法律家)の職についてはいけない』という特別命令である。『聖職者は死すべき宿命を持つ人間の魂の救済こそが真の職務であり、現世での肉体の生死に関わる医療行為や、生殺与奪権をもつ裁判官になってはいけない』というのがこの禁止令の主旨であった。
イエズス会士の医療活動は禁止され、病院の全てを担っていたアルメイダ医師は、宣教師として布教活動に専念することとなった。禁止令を受け取った病院に勤務していたイエズス会士たちも医療行為から手を引きトーレス神父の指示に従い各自が与えられた場所へ赴き開拓伝道を始めた。
アルメイダの修道士としての布教活動の専念に伴い、今まで繁栄をしていた府内教会の病院及び育児院,慈悲院は、府内教会員による慈悲の組・ミゼリコルディアの会員によって維持運営されるようになった。
府内病院の後を託された日本人医療従事者の技術は高くなく、徐々に評判は悪くなり、病院は衰退の一途をたどった。
一五六〇年七月のメンドーサの船を最後にポルトガル船の豊後来航はなくなった。
一五六二年(永禄七)七月、イエズス会本部 は肥前の横瀬浦(長崎県西海町)に移っていった。イエズス会本部の肥前横瀬浦への移転に伴い、豊後府内在中の宣教師数もイルマン三名だけになり、豊後における活動は徐々に下火になった。デュアルテ・デ・シルヴァ、ギリェルメ・ぺレイラ、アイレス・サンチェスの三名の修道士が府内には残り府内の教会及び病院の責任を負った。
イエズス会の豊後府内から肥前横瀬浦への移転は、大村の領主・大村純忠がイエズス会に対して、新しい布教地として横瀬浦を全面的に提供して、大村純忠自身も洗礼を受けて布教活動を支援する約束が取り交わされたためであった。
横瀬浦は一年半の間繁栄を極めたが、一五六三年一一月下旬、短い使命を果たして焼失した。
一五六四年四月、避難先の肥後高瀬(現・玉名市)でイルマン・シルヴァが死去した。
一五六四年六月、トーレス神父は島原口之津へ移住し、イエズス会の仮の本部を口之津教会に置いた。一五六七年には、イエズス会布教本部は長崎に移された。
一五六二年、イエズス会本部が肥前横瀬浦へ移転したことで、府内教会には三名の修道士デュアルテ・デ・シルヴァ、ギリェルメ・ぺレイラ、アイレス・サンチェスが駐在することになった。三名の修道士の指導のもと、府内教会は一教会としてその敷地と施設、病院と慈悲院等を維持していたと思われる。
一五六二年(永禄五)五月三〇日、大友宗麟は京都大徳寺(臨済宗大徳寺派)に塔頭(子院)瑞峯院を建立。京都の大徳寺から怡雲宗悦(いうんそうえつ)という高僧を招き、怡雲宗悦のために『臼杵の御殿と城に向かい合った』(フロイス・日本史)
位置、臼杵城(丹生島・にうじま)の北側、臼杵川が流れ込む臼杵湾を隔てた対岸の北側の臼杵の諏訪山に大きな禅宗寺院を建立した。この寺が『紫野壽林寺』であり、この寺で大友義鎮(三三歳)は入道して『瑞峯院三非斎宗麟』と号した。
『壽林寺』は現在の臼杵市諏訪地区にあったことが江戸時代中期に著かれた『臼陽寺社考』等などから推定されている。
壽林寺は一五八六年(天正一四)島津軍臼杵侵攻直後、あるキリシタン女性の放火によって全焼したことがフロイスの記録にある。壽林寺跡には江戸時代臼杵藩別邸が建てられていた。
大友宗麟は府内より臼杵丹生島城に移り、臼杵を城下町として整備して、臼杵の丹生島に城を築き、臼杵が大友氏の政庁所在地となった。
一五六三年、ジョアン・バプティスタ・デ・モンテ神父が府内教会の責任者として赴任してきた。イルマン、デュアルテ・デ・シルヴァはモンテ神父と交代で一五六三年以降は宣教師として肥後の川尻(現・熊本市川尻)へ派遣された。府内教会は、一神父(モンテ神父)、二修道士(ギリェルメ・ぺレイラ、アイレス・サンチェス)体制が一五七四年(天正二)まで続いた。
一五六五年(永禄八)八月、臼杵教会(永禄の教会)完成。(フィゲレード神父在中)宗麟、イエズス会に丹生島城前の土地と寄進し、府内のキリシタンたちが大量に臼杵に移住する。
一五七四年二月、宗麟は嫡男義統に家督を譲り、フランシスコ・カブラルが豊後に来た。一五七五年七月頃、一条兼定と夫人(大友宗麟の長女)が受洗、同年一一月、大友親家(大友宗麟の次男)と宗麟の娘二人が受洗、同年一二月、大友宗麟次男・親家洗礼を受け、ドン・セバスティアンと称した。一五七七年四月八日には、老臣田原親堅の養子親虎が洗礼を受け、ドン・メシアンと称している。
府内教会の最盛期とコレジヨの開設
一五七七年(天正五)七月、長崎に一四名の宣教師が来日した。そのうち、ペドロ・ラモン、ゴンサロ・レベロ両神父と六名の修道士が豊後に配置され、ラモン神父は府内の司祭館の上長に任命されている。当時の布教長カブラルは、来日前の巡察師ヴァリニャーノによる神学校開設の命令を受けて、その準備のために府内教会にラモンと多くの修道士たちを配置したと考えられる。
一五七八年のイエズス会の教勢は、次の通りである。 在日イエズス会員五一名、神父二一名、修道士三〇名。京都 神父二名、修道士三名筑前博多 神父二名、修道士一名肥後天草 神父三名、修道士一名肥前口之津 神父一名、修道士一名肥前大村長崎 神父三名、修道士三名肥前平戸 神父二名豊後府内 神父四名、修道士一三名豊後臼杵 神父二名、修道士六名
一五七八年の時点で、豊後府内にはイエズス会宣教師のほぼ半数が居住している、その中でも府内教会には最も多い一七名のイエズス会員が在籍している。
一五七八年八月二八日、大友宗麟が臼杵教会で洗礼を受けて、ドン・フランシスコと称した。宗麟の新婦人、およびその子も受洗した。これを機会に豊後にある大きな寺院を除く、大多数の寺社仏閣が宗麟の命令により破却された。
大友宗麟も、この年までは全盛を極めたが、同年一一月一二日、日向髙城・一二月一〇日、耳川の戦いで島津軍に敗れて以来、大友氏の勢力は急激に衰えていった。
一五七九年(天正七)、巡察師ヴァリニャーノが来日し、翌一五八〇年(天正八)、イエズス会の日本布教組織を再編した。長崎に本部を置き、そこに日本布教長が常駐して、日本を都、豊後、下の三地区に分割した。豊後地区は一五八〇年に新しく設置された府内コレジオ院長のラモンが就任した。
同年、ロレンソ・メシア神父の豊後よりの報告に府内病院の現状が報告され『わずかに癩に罹り遺棄された者を治療して、彼らを救助して帰依した者が教会の信徒になった』と記載されている。この頃には府内病院の機能はほとんど停止していたと推測される。
一五八一年(天正九)、大友宗麟は臼杵に日本で最も美しい教会堂(天正の教会)を建てた。この教会には、日本で初めてのホジティブオルガンが設置された。また。府内にコレジオが開校し、院長にフィゲレード神父。臼杵の修練院院長にラモン神父がついた。
一五八二年、親盛(宗麟の三男)が受洗した。ドン・パンタレアンが洗礼名。伊東義賢(甥)受洗、一五八五年には、志賀親次(親善)が一九歳で受洗した。
しかし、一五八六年(天正一四)末、島津軍の豊後侵攻に伴い、臼杵の教会施設、府内の教会施設、細々と活動をしていた病院等は壊滅的被害を受けた。
一五八六年(天正一四)末、島津軍の豊後侵攻により壊滅的被害を受けた府内の町だったが、宣教師たちが退去した後の教会施設は、豊臣秀吉の使者・木喰応其上人(興山応其上人)の宿舎になっていたために、島津軍は火を掛けなかった。府内に入ったキリシタン武将・黒田如水孝高のとりなしにより、教会施設はイエズス会に返還され、そこにレベロ神父が入ったが、占領した豊臣軍による略奪が絶えなかった。さらに羽柴秀長の軍勢が到着して、宿舎として教会施設は接収された。辛うじて修道院と倉庫は残ったが、教会堂は破壊された。
木喰応其(もくじきおうご)上人(興山応其上人)
一五三六~一六〇八年(天文五~慶長一三年)、安土桃山時代の真言宗の僧。応其は、元は近江の武士であり、姉川の戦いに参戦、その後、戦いの愚かさと人生の無常を感じて出家した。一五八五(天正三)年秀吉の紀州攻めの時、精強な鉄砲部隊を持つ根来衆・雑賀衆が攻略され、次は高野山が目標とされた時に、高野山の客僧であった応其に全権を託されて、応其が秀吉の本陣の粉川寺へ和議に赴いた。応其は交渉に際して誠意を尽くして説得を続け、秀吉に深い感銘を与え、秀吉から篤い信頼を受けた。応其は和平交渉の条件として、高野山の僧兵の武装解除と高野山の領地をすべて献上した。これに対して、秀吉は逆に二万一〇〇〇石の寺領を高野山に認めている。このうち、半端な一〇〇〇石は応其個人に与えられた俸禄であり、この地が本市の中心地となった『橋本』で、一五八七年(天正一五)に本市の里にあった荒れた寺を再建して定住、応其屋敷と呼ばれ、この屋敷が後に『応其寺』になった。その後、応其は秀吉により髙野山を統べる人物として指名された。秀吉の生母・大政所の供養として高野山に青厳寺(後の金剛峰寺と改名)を建立し、その他の諸堂の修理、荒れていた高野山を天下の菩提所として再整備を行った。秀吉の行った土木工事のうち約百ヵ所の道路や橋、用水等の整備修復を行った。 一五九五年(天正一三)『薩摩旧記雑録』には、応其が秀吉の全権使者として薩摩との交渉に大きな役割を担っていたことが記録されている。秀吉の九州征伐は、島津の九州統一を目前に、豊後の大友宗麟が秀吉に助けを求めたことに始まる。一五九七年(天正一五)三月、応其は一色昭秀と共に薩摩に最終交渉に赴いたが、交渉は決裂して、秀吉が二〇万を超える大軍を率いて九州侵攻を開始、四月、豊臣秀長・黒田官兵衛率いる八万の部隊と、日向髙城の根白坂で戦い、薩摩との決着がついた。この時点で、応其は一色昭秀と再度講和交渉に向かったが、降伏を潔よしとはしない島津義弘は抵抗を続けた。しかし、最終的には薩摩は無条件降伏を行っている。 応其の働きは具体的な戦功として現れるものではないが、戦いの長期化での人材や物質の損失等を考えれば、和平交渉の中での応其の役割の重さを認識させられる。
一五八七年三月二〇日、大友義統(宗麟の嫡子)一家が中津において受洗したが、一五八七年(天正一五)五月、大友宗麟が津久見で死去(五八歳)した。(五月六日、二三日、死去の説)同年七月二五日、豊臣秀吉が『伴天連追放令』を博多の筥崎宮で発布し、それに伴い豊後に残っていた宣教師三名は長崎に退去した。この後、府内教会は放棄され、再建されることはなかった。
補遺 年表
一五五三年 二月一〇日 ガーゴ神父、フェルナンデス、山口より府内到着 二月一一日 大友義鎮(宗麟)より土地が寄進される
七月二一日 慈悲の聖母教会創立,教理学校開校
一五五五年 九月二〇日 アルメイダ、平戸に来日、一〇月初め府内に到着 一一月初旬 アルメイダ 孤児院を創設
一五五六年 四月 トーレス神父 山口より府内にイエズス会本部を移す 一一月 アルメイダ 孤児院廃止、病院設立(下の地所)一一月 新府内教会堂落成(上の地所)
一五五七年 七月一日 下の地所に病院の増改築をする
一五五九年 七月一日 病院が新築される
一五六〇年 七月 イエズス会本部より『医術・施術禁止令』が届く アルメイダ他、イエズス会の医療従事者達は布教活動に専念する
一五六二年 七月 イエズス会本部、肥前の横瀬浦に移る。デュアルテ・ダ・シルヴァ、ギリェルメ・ペレイラ,アイレス・サンチェスが府内に残り、教会と病院の責任者になる
一五六三年 モンテ神父、府内の責任者として赴任、デュアルテ・ダ・シルヴァ熊本川棚に赴任
一五六三年 一一月四日 横瀬浦、焼失、本部を高瀬に移す
一五六四年 四月三〇日 デュアルテ・ダ・シルヴァ 髙瀬にて死去(三〇歳) 六月 イエズス会の仮の本部を島原・口之津に置く
一五六五年 八月 臼杵教会(永禄の教会)完成、宗麟、イエズス会に丹生島城前の土地を寄進
一五六七年 イエズス会本部、長崎に移る
一五七七年 七月 長崎に一四名の宣教師が来日、府内神父四名、修道士一三名、臼杵神父二名、修道士六名が配置された
一五七八年 八月二八日 大友宗麟・受洗ドン・フランシスコと称した
一五七九年 七月 ヴァリニャーノ巡察師、来日
一五八〇年 ヴァリニャーノ臼杵に滞在、豊後に関する宣教会議が開かれる。同年 府内の病院、機能停止状態に陥る
一五八一年 臼杵に新しい教会(天正の教会)完成する。府内にコレジオ開校、臼杵に修練院
一五八六年 島津(薩摩)軍により、臼杵の教会、府内の教会が壊滅的被害を受ける
一五八七年 五月 大友宗麟・津久見にて死去(五八歳)七月二五日 秀吉・『伴天連追放令』を出す、豊後の三名の宣教師、長崎へ退去
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