感想文紹介「細川興秋400年目の真実」

大阪・高槻市在住の久保田典彦氏「髙山右近研究家」より感想文と紹介文をいただきましたので、掲載いたします。
髙山右近研究室ブログより
【 「 細川興秋 生存説 」 400年目の真実 】 ( 1 )

2021年07月25日  テーマ:キリシタン

    ※ 「 全国かくれキリシタン研究会 会誌 」 第29号 より

● 髙田重孝さん ( 宮崎県 ) が、貴重な研究論文を 発表してくださっています。

      『 細川興秋 生存説 』 400年目の真実

 細川興秋 ( 与五郎 ) は、忠興 ・ 玉 の次男。 忠興は、キリシタンであった 嫡男 ・ 忠隆を、 妻ガラシャの死の時の不手際で、廃嫡処分。

 更に、江戸幕府の キリシタン禁令強化の中で、 キリシタンであった 次男 ・ 興秋をも廃して、 三男 ・ 忠利を、細川家の当主としました。 興秋は、江戸への人質として 送られますが、 それを嫌い、途中、京都まで来て 出奔します。

 1614 ・15年の 「 大坂の陣 」 の時、豊臣方につき、 大坂城落城後、忠興から 死を命ぜられ、 元和元年 ( 1615年 ) 6月6日に、京都で切腹し、生涯を終えました。 32歳の生涯でした。

 これにより、興秋についての、細川家での公式記録はなくなり、 興秋の名前は、歴史の舞台から消されてしまったのでした。
しかし、死んで この世にはいないはずの 細川興秋なのですが、「 細川興秋は、  熊本より、天草 島原の乱 ( 1637年 ) の前に、天草に移ってきた。 天草の乱に際しては、島民に、乱徒に組みしないように、説いて回った。 」━━ という、 『 天草の 興秋伝承 』 が 伝えられてきているのです。
 更に、天草の、 『 池田家文書 』 ( 1802年頃のもの ) には、「 元和元年 ( 1615年 ) 6月6日、京都伏見の東林寺にて切腹。 尾州春日部郡小田井村に しばらく お忍びなされ、それより 直ちに、肥後国 天草郡御領村に 御居住なされ候て、宗専様と申し奉り候よし。」となっているのです。

 “ 細川興秋は、切腹して 死んでしまったのではない! ”

 天草において、『 細川興秋 生存説 』 が、伝承として、語り継がれてきたのでした。

【 「 細川興秋 生存説 」 400年目の真実 】 ( 2 )

2021年07月26日

 細川忠興 ・ 玉の 次男 ・ 興秋 ( 与五郎 ) は、 豊臣方に味方し、大坂城落城の際に 落ち延びますが、忠興の命で、元和元年 ( 1615年 ) 6月6日、京都伏見の東林院で切腹し、32歳の生涯を終えていきました。
しかしながら、天草地方では、 「 興秋伝承 」 が語り継がれ、 実は、“ 興秋は、切腹して亡くなったのではなく、生きている ( 秘かに 生かされている )! ” ことを伝えてきていたのです。

しかし、これらのことは 口伝 ( くでん ) でしたので、はっきりとした史料の裏付けがなかったのでした。
一方、公には、 “ 興秋 ( 与五郎 ) 生存 ” など考えもしなかったために、 きちんと検証 ・ 解明されないままになってきていた 一通の書状が、「 興秋生存説 」 を裏付ける 貴重な史料であることが わかりました。
今回、そのことを 究明してくださったのが、髙田重孝さんだったのです。

「 長岡与五郎 ( 細川興秋 ) 宛 元和7年 ( 1621年 ) 5月21日付け
細川忠利 ( 内記 ) 書状 」  ( 熊本県立美術館 ・ 蔵 )

長岡与五郎というのは、細川興秋のこと。
元和7年 ( 1621年 ) 5月21日 といえば、興秋が切腹したことになっている、元和元年 ( 1615年 ) 6月6日から、6年後のことになります。 細川家を継いでいる 三男 ・ 忠利から、 次男である兄 ・ 与五郎に
宛てた手紙です。
 与五郎は生きているのです! 秘かに 生かされているのです!!

 ( 本文 )    ( 髙田さんによる 現代語訳 )

  一筆申候。
  然者其方 肢煩候処、
  与安法印 療治候て 本復之由、
  一段之事候。
  然者 湯治候て、可整之由、
  法印も御申候。 通尤候。

  一筆申し上げます。
  あなたが、手足を患っていたところ、
  与安法印が療治して 回復したことは、
  一段と喜ばしいことです。
  さらに 湯治をして、体を整えてください。
  法印も そう申しており、もっとものことと思います。

  更に、三斎様 我等も 在国にて、
  其元 人質ニ有之者候と
  心侭ニ 湯治させ申度とハ 難成事候間、
  半左衛門尉と申合、
  伊喜助殿へ相談候而、
  兎角、喜助殿之次第ニ仕 可然候。

  更に、三斎様 ( 忠興 ) も私も、在国 ( 豊前 ) にいて、
  あなたは人質で有る者として、
  心易く湯治をさせてあげることは 難しい事ですので、
  半左衛門(田中半左衛門)と申し合わせて、
  伊喜助殿 ( 伊丹喜助 ) へ相談してください。
  とにかく、喜助殿の考え次第です。

  此方、相易、事も無之候間、可心易候。
  我等も 六月廿一日ニ 小倉へ移り申筈候。
  尚、近日 可期申候。 謹厳。
  己上。
  又 申候。
  法印へも、其方 煩候様を 被入候事、
  於礼にて、書状遣申候。  以上。
               内記
  五月廿一日 ( 花押 )
  長岡与五郎殿

  私の方は何事もないので、ご安心ください。
  私も、六月二十一日に、小倉へ移る予定です。
  尚、近日、書いてお知らせします。  謹言。
  以上。
  
  追伸ですが、
  法印へも、あなたの煩いを治療して頂いたことに
  御礼状を遣わします。  以上。
                 内記 ( 忠利 )
  五月二十一日 ( 花押 )
  長岡与五郎殿

内記・細川忠利書状と花押

【 「 細川興秋 生存説 」 400年目の真実 】 ( 3 )

2021年07月27日

細川忠興 ・ 玉の 次男 ・ 興秋 ( 与五郎 ) が、大坂の陣の時に豊臣方に味方した責任を取らされて、切腹させられたのが、元和元年 ( 1615年 ) 6月6日のこと。

 天草地方に伝えられている 「 興秋伝承 」。“ 細川興秋は、熊本より、天草の乱 ( 1637年 ) の前に、天草に移ってきた。天草の乱に際しては、乱徒に組みしないように 説いて回った。”
興秋は、1615年に 切腹したのではなく、その後も、ひそかに 生かされていた! そのことを裏付ける 貴重な史料となった、

「 元和7年 ( 1621年 ) 5月21日付け、長岡与五郎宛、 細川忠利書状 」 この 「 忠利書状 」 が書かれたのが、1621年。
 
今年は、2021年ですから、実に “ 400年目の真実 ” !
 興秋が、1615年、大坂の陣の後、切腹したのではないこと
 これまで 天草で語り継がれてきた 「 興秋伝承 」 が真実であったことが、  証明されたのでした。

「 忠利書状 」 の内容 ( 髙田重孝さんの本文 )
 この 「 忠利の書状 」 を 現代語訳にすると、
 元和7年 ( 1621年 ) 5月以前、興秋 ( 38歳 ) は、どういう病かは断定出来ないが 手足を患い、幕府御典医である 「 与安法印 ・ 片山宗哲 」 が、わざわざ江戸より呼ばれて、興秋の病状を回復させたことが判る書状である。その後の興秋の病状を回復させるために、与安法印は、湯治を勧める内容まで記されているが、人質として匿われている興秋を、湯治に行かせることは難しいと書いている。しかし、伊丹喜助殿に相談の上 決める様にと言っている。興秋は、人質扱いをされて、厳重な監視下に置かれていたことが判り、半左衛門(田中半左衛門・長束半左衛門)が付き添い、興秋の責任者として 伊丹喜助殿丹監視下に置かれていたこと、興秋を湯治へ行かせるかどうかの判断は、喜助殿に委ねられていることが判る内容になっている。
 また、書状に、 「 三斎様と私も在国にて 」 とあるので、三斎 ・ 忠興 ( 小倉城 ) と、忠利 ( 中津城 ) が、在国 つまり豊前にいることが判るし、 興秋も、豊前において、人質扱いを受けて 隠蔽されていることが明確に書かれている。
 この書状は、忠利から興秋宛に出した秘密裏の書状であるから、中津城にいる忠利から、香春城の城主で、2歳年下の叔父 ・ 孝之 ( キリシタン ) を経由して、香春 ( かわら ) 町採銅所の 「 不可思議寺 」 に、住職として隠棲している興秋へ届けられた書状である。

【 「 細川興秋 生存説 」 400年目の真実 】 ( 4 )

2021年07月29日

細川忠興 ・ 玉の 次男 ・ 興秋 ( 与五郎 ) が、大坂の陣の時に豊臣方に味方した責任を取らされて、元和元年 ( 1615年 ) 6月6日に、京都で切腹させられたことに公けでは なっていましたが、実は、細川家では、内密に、興秋を 人質という形でかくまい、生かされていたのでした。

そのことを、決定的に裏付ける史料となったのが、 「 元和7年 ( 1621年) 5月21日付け、長岡与五郎 ( 興秋 ) 宛  細川忠利書状 」でした。

髙田重孝さんによる検証の成果でした。
このことにより、興秋が 生かされていたことは証拠だてられましたが、
「 忠利書状 」 では、元和7年 ( 1621年 ) には、興秋は、まだ豊前の地でかくまわれていて、天草には行っていません。天草に移り住んだ という 「 天草 興秋伝承 」 を証拠だてる史料はあるのでしょうか?

 1632年 ( 寛永9年 )、細川藩が、豊前から 肥後熊本に 移封され、 細川忠利は、豊前・ 小倉城から 熊本城に移っていきます。興秋を、豊前の地で かくまっておくことは出来ません。「 天草 興秋伝承 」 では、“ 細川興秋は、熊本より、天草の乱 ( 1637年 ) の前に、天草に移ってきた ” ということですから、興秋は、1632年に、熊本の 「 泉福寺 」 の住職として身をひそめ、1635年に、小笠原玄也一家が処刑され ・ 殉教していきましたが、その 穿鑿 ( せんさく ) 訴追に巻き込まれることを避けて、天草の乱 ( 1637年 ) の前に、細川藩の 秘かな手引きで、天草へ逃避したのでした。天草の 「 池田家文書 」 では、“ 肥後国 天草御領村に隠棲、宗専 と称して ”芳證寺裏の長興寺に 移り住んでいます。芳證寺境内には、興秋の墓所もあります。

長興寺薬師如来縁起 芳證寺所蔵

 天草の 芳證寺には、「 長興寺薬師如来縁起 」 という、細川興秋 直筆の書状が 残されてきています。内容は省略しますが、巡検使が天草島にやって来て、長興寺について尋問があった場合に備えての、興秋直筆の、答弁のための 心得書きになっています。口伝 として、 “ 細川興秋 直筆 ” と言われていますが、明確な 興秋の印は ありません。
 ただ、別の、 “ 興秋直筆 ” 史料である 「 長岡興秋起請文 」 と照らし合わして、筆跡を 比較鑑定してみて、“ 同一人物 ( 興秋自筆 ) の筆跡と判断出来る ” という結果が出ています。「 興秋 天草伝承 」 の “ 天草移住 ” は、 史料の裏付けもある、歴史事実である、と言えるのです。



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