キリシタンが歌った六つの聖母マリア讃歌について

左・村上茂則氏・右・安東邦昭・全国隠れキリシタン会長夫妻・長崎キリシタン大会にて
村上茂則氏・外海黒崎地区カクレキリシタン帳方


昔の破損したオラショの断片・村上茂則氏所蔵
天地始まりの本・村上茂則氏所蔵
オラショ・村上茂則氏所蔵
グレゴリオ聖歌・四線譜・フランスの修道院・1400年代・
羊皮紙・縦75㎝・横51㎝ 髙田重孝所蔵
外海・黒崎教会内陣

キリシタンが歌った六つの聖母マリア讃歌について

六つのアヴェ・マリア讃歌【聖母讃歌】(作られた年代順)

1、アヴェ・マリア(Ave Mari)めでたし、マリア、恵みに満ちた人     1000年頃
2、サルヴェ・レジナ(Salve Regina)めでたし元后・憐みの母       1000年頃
3、サルヴェ・マーテル(Salve Mater)めでたし、慈悲深い聖母       1000年頃
4、アルマ・レデムットリス(Alma Redemptoris)救い主を育てた母     1100年頃 
5、アヴェ・レジナ(Ave Regina)天の元后・天の女王           1100年頃
6、レジナ・チェリ(Regina caeli)天の元后・喜び給え           1250年頃

聖母への結びの交唱(Antiphonae finales)は終課(現:寝る前の祈り)の結びに歌われる聖母讃歌

終課の歌は、詩編3編(共通の交唱付)
讃歌「私たちは光の消える前にお願いします・Te lucis ante terminum 」
「シメオンの讃歌」(ルカによる福音書 2章29~32節)(交唱付)終課終了後に聖母への交唱を1曲歌う

 下記の4曲の聖母讃歌は、1568年、ローマ聖務日課書で歌われる時期が定められた。

 1『麗し救い主の御母・アルマ・レッデムプトリス・Alma Redemptoris Mater』待降節から2月2日の聖母マリア潔めの祝日までの間に歌われる

2『めでたし天の元后・アヴェ・レジナ・Ave Regina caelorum』
2月2日から聖週間(復活祭のための週)の水曜日までの期間

3『天の元后・レジナ・チェエリ・Regina caeli』
聖土曜日(復活祭の前の土曜日)から三位一体主日までの期間

4『めでたし元后・サルヴェ・レジナ・Salve Regina Mater misericordiae』
三位一体主日後から待降節第一主日の前の日までの期間

これら4曲の『聖母マリア讃歌』はベネディクト会が定めた聖務日課の最後の祈り(就寝前の祈り)終課の最後で歌われる聖母マリアを称える歌、ラテン語の表題は『聖母マリアへの結びの交唱』である。 

この聖務日課は、朝課、一時課(午前6時)三時課(午前9時)六時課(正午)九時課(午後3時)晩課(午後6時)終課(午後9時)、暁課から構成されていて、詩編の唱和が中心となっている。終課の最後で歌われる聖母マリアのための交唱歌は4曲あり、教会暦の季節ごとに異なった美しい交唱が歌われる。 

日本に於いての聖母マリア讃歌
日本にキリスト教がフランシスコ・ザビエル(Francisco de Javier)によって、1549年(天文18)に伝えられた時には、上記の4曲の聖母讃歌は、1568年、ローマ聖務日課書で歌われる時期が定められてはいなかったが、おそらく、1568年(永禄11)の数年後、日本にもこの聖母讃歌のローマ聖務日課書で歌われる時期の決定が伝達され、それに従って、教会内に於いて、このローマ聖務日課書で歌われる時期が規則通り守られ歌われていた。 

1560年代に豊後府内(大分市)で制定された最初期と同じ形式の祈祷文・オラショの中にすでに「アヴェ・マリア」「サルヴェ・レジナ」の2曲はオラショとして歌われ祈られていたので、1568年、ローマ聖務日課書で歌われる時期が定められた4曲と合わせて計6曲が、キリシタンの聖母マリア讃歌として日々歌われ祈られていた。 

聖母マリア讃歌の6曲は、年代的に1,000~1,250年頃までに成立し、グレゴリオ聖歌として制定され、伝統的、かつ正統的な美しい旋律を持つ名曲である。日本のキリシタン時代、1550年~1640年代の約100年間、前半の1610年までの50年間は、教会側の指導者の偏見と差別により、日本人に対するキリスト教育は順調とは言えなかったが、心から神に献身している宣教師たちと、命を賭けて信仰を守っている多くのキリシタンにより、キリシタン人口は驚くべき成長を記録している。 

しかし後半の1610年代から始まった全国的禁教令により激しい迫害の元、殉教する多くのキリシタンが、オラショとして祈り、讃美として、聖母マリアへの祈りとして、聖歌「アヴェ・マリア」「サルヴェ・レジナ」を殉教の時に歌っている。 

アヴェ・マリアの歌詞の断片・外海民族資料館所蔵

箏曲の中に生きている六つの聖母マリア讃歌の伴奏譜

ロレンソ了斎が創作した「六つの聖母マリアの讃歌」のための伴奏譜
1550年頃、フランシスコ・ザビエル(Francisco de Javier)から見出され山口に於いて洗礼を受け修道士となりグレゴリオ聖歌を習った平戸の盲目の琵琶法師・ロレンソ了斎が自分の得意とした琵琶で独自に伴奏を付け、1557年(弘治3)豊後府内で出会った筝曲の祖・諸田賢順にその伴奏譜を伝えた。 

ロレンソ了斎が付けたグレゴリオ聖歌の伴奏は、日本に初めて入ってきた西洋音楽(グレゴリオ聖歌・八つの教会旋法)と、日本独自の固有の音楽・音階(*五音階旋法)とが出会い、融合した初めての独自の独創的伴奏音楽だった。ロレンソ了斎は、グレゴリオ聖歌の旋律に、彼が持っている独自の日本の五音階旋法で伴奏を創作して、初めて西洋音楽と日本音楽が融合した作品を作り出している。 

*五音階旋法 
日本独自の五つの音で音階が構成されている。俗に「ヨナ抜き旋法」とも呼ばれている。第四番目のファ(F)と第七番目のシ(B)の音が、西洋音楽の音階、七つの音、ドレミファソラシの七音から構成されている音階の、第四番目、第七番目の音が抜けているため「四、七抜き旋法」と日本独自の五音階旋法の事を呼んでいる。 

ロレンソ自身が得意とする琵琶でミサ曲の伴奏をするときだけという、教会の中では非常に限定された制約の中での機会しか与えられなかったが、山口と豊後府内に於いて,当時、日本の教会の指導と全責任者であったトーレス(Cosme de Torres)神父は、ロレンソ了斎の音楽的才能を認め容認して、ロレンソ了斎を教会の中での宣教の担い手として見出し用いた。トーレス神父の宣教を担う人材を適材適所に用いる優れた才能により、ロレンソ了斎の非凡な音楽的才能は見事に開花した。また当時の名説教家、仏教宗派との論争の卓越した理論家、宣教師たちの通訳家として、イエズス会の記録には、ロレンソ了斎の活躍が紹介されている。 

その後、1557年(弘治3)ロレンソ了斎は、豊後府内で出会った筝曲の祖・諸田賢順にその伴奏を伝えた。諸田賢順よって編集・編纂されたミサ曲の伴奏譜が、筝曲の段物として厳しい禁教時代をかいくぐり抜け、筝曲の段物として460年間、筝曲の世界に伝承された。その中には「クレドの伴奏譜が筝曲六段へ」と姿を変えていた。六曲のアヴェ・マリア讃歌の総ては琉球筝曲と筝曲七段に編曲されている。 

1592年(文禄元)2月3日、長崎のトードス・オス・サントスの修道院(現春徳寺・長崎市夫婦川町)でのロレンソ了斎の死去と共に、彼が創作した琵琶の伴奏譜は、教会の中では、いつしか忘れ去られていった。

ロレンソ了斎が死去したト-ドス・オス・サントス修道院跡・春徳寺・長崎市夫婦川町

約400年後の1990年頃、この事実『筝曲の段物・六段がグレゴリオ聖歌のクレドの伴奏譜である』との「神からの啓示」が与えられたのが当時福岡県大牟田市在住の筝曲家の坪井光枝氏であり、坪井氏の研究によりこの事実が音楽的に証明と確認がなされ公にされた。
坪井光枝氏の2012年2月の死去により、現在研究は私が受け継いでいる。

 琉球筝曲の七段は総てグレゴリオ聖歌の伴奏譜だったことが、筝曲の段物の楽譜とグレゴリオ聖歌の旋律の対比楽譜から証明され解明されている。
「聖母マリアの祝祭日のミサ曲・通常文第1番」のキリエ、グローリア、サンクトス,アニュスデイの旋律にも伴奏譜が作られていて、これらは本土筝曲の5段から12段として現在も筝曲の楽譜に中にある。

琉球筝曲
瀧落菅撹・一段   アヴェ・マリア
地菅撹・二段    サルヴェ・レジナ・めでたし元后
江戸菅撹・三段   アルマ・レデムプトリス・麗し救い主の御母・
拍子菅撹・四段   レジナ・チェリ・天の元后
佐武也菅撹・五段  サルヴェ・マーテル・めでたし憐れみ深い御母
六段菅撹      クレド【原曲と推定される・陽旋法】
七段菅撹      キリエ・ミサ通常文第一・聖母マリアの祝祭日より・ 

本土箏曲
七段        アヴェ・レジナ・めでたし天の元后・

本土箏曲
五段       『ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・Sanctus 』六段  『信仰宣言・クレド・Credo』【原曲を装飾している・陰旋法】
七段        『めでたし天の元后・アヴェ・レジナ・Ave Regina caelorum』
八段      『ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・Agnus Dei』
九段        『ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・グローリア・Gloria』
みだれ・山田流12段 『主の祈り・Pater Noster』

豊後府内教会での音楽教育(府内の教会と修道院の布教の記録から)
教会の中では、1560年代以降、教会音楽の専門知識と演奏ができる教育者も徐々にではあるが日本に来て、豊後府内の教会学校でグレゴリオ聖歌を指導するようになった。 

ギリェルメ・ぺレイラ(Guilherme Pereira)、ルイ・ぺレイラ(Rui Pereira)
1556年(弘治2)7月初旬に府内に到着した。彼らの指導で始まった音楽訓練は著しく上達した。彼らはその時日本に来たイルマンの中の5人でゴアのコレジオの学生たちだった。彼らはポルトガルからきた孤児でゴアの修道院で教育を受け、言葉を覚えるにはもっともすぐれた素質と音楽の才能を持ち「グレゴリオ聖歌とオルガン伴奏歌唱」に最も習熟した人たちであった。彼らの選抜の基準はまさに典礼的音楽の才能であった。後にギリェルメ・ぺレイラ(Guilherme Pereira)はイエズス会に入会してイルマンになり、日本に永住した。布教地の典礼音楽に与えた影響は大きい。この派遣団が、ある種の経済的余裕によって準備され得たので、新布教地のために入手した書籍の中には、典礼のための本が何冊かあった。教会の発展のために有効な『グレゴリオ聖歌・canto chao 一冊、オルガン伴奏歌唱一冊』である。これらは日本にもたらされた最初の典礼音楽書である。この二冊の楽譜が日本で最初の音楽のための楽譜として使われた。 

アイレス・サンチェス(Aires Sanches)は、府内にアルメイダが作った病院の医療従事者の中でも特に音楽的才能を持ち、日本に来る前にインドのゴアで専門的に音楽の訓練を受けていた。サンチェスは1561年(永禄4)の夏頃にゴアから平戸に着き府内にきた。

『私(アイレス・サンチェス)は1561年(永禄4)平戸につき、日本に骨を埋める覚悟でトーレス神父やイルマンたちとともに豊後に滞在し、コンパニヤ(イエズス会)への入会を許された。』 

『当修道院に居住する日本人の同宿たちは、昼間は来訪者たちに「日本語とその文字で書かれた本」によってドチリナ(教理)を教え、夜、アヴェ・マリアの時刻に、つづいて、パードレ(神父たち)と共に、我ら一同はパーテル・ノステル、アヴェ・マリア、クレド(信仰宣言)サルヴェ・レジナの祈祷(オラショ)を行い、また、航海者、特に日本に来る司祭と修道士のため、パーテル・ノステルを一度唱えたのち、ラダイニャス(聖母連禱)をともに唱えていた。』
*1555年9月20日付 豊後(大分)発 デュアルテ・ダ・シルヴァ修道士書簡 『16.17世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第Ⅰ巻』214頁。

 ギリェルメ・ぺレイラ(Guilherme Pereira)、ルイ・ぺレイラ(Rui Pereira)アイレス・サンチェス(Aires Sanches)
この3人は特に音楽の才能があり日本の教会での音楽教育のために派遣された修道士たちで、1555年(弘治元)以後、府内教会での教理学校で音楽教育を担当していた。教会内での音楽教育は充実していき、毎日1時間グレゴリオ聖歌が教えられるようになった。 

府内での教会教理学校を始めとして教会で使用する音楽の教育が体系化されて,教会が発展するとともに徐々に教会音楽も充実していった。1580年(天正8)以後になると府内にもコレジオが設立され、キリスト教会側の音楽の教育機関も体系が整ってきて、当時のグレゴリオ聖歌だけが教会の中で教育され演奏されるようになる。当時の府内教会内での音楽訓練・グレゴリオ聖歌の歌唱法は3人の音楽の専門家たちにより指導されていた。 

『彼ら三人はグレゴリオ聖歌の専門家であり、教会内の音楽を充実させることが本来の目的である』。彼ら3人により日本の教会音楽の基礎が創られた。しかしながら、彼ら3人が日本音楽である5音階旋法に馴染むことは皆無であった。

1『アヴェ・マリア・Ave Mari・めでたし、マリア、恵みに満ちた人』

☩ ラテン語、アヴェ・マリア・Ave Maria
Ave Maria, gràtia plena; Dóminus tecum; benedicta tu in muliéribus,
Et benedictus fructus ventris tui Jesus.
Sancta Maria, Mater Dei, ora pro nobis peccatóribus,
Nunc et in hora mortis nostae. Amen.

歌詞】
めでたし、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたと共にまします。あなたは女に中で祝せられ,また、ご胎内の御子も祝せられます。神の御母聖マリア、祈りたまえ、罪びとなる我らのために、今も臨終の時にも、アーメン
 

☩ オラショ・ガラサ(アヴェ・マリア・天使祝詞)
ガラサみちみち給うマリアに御礼をなし奉る。御主は御身と共に在す。女人の中においてはきて御果報いみじきなり。又、御胎内の御身にて在す。ゼウスは尊くまします。デウスは御母サンタマリア、今も我等が最後にも、我等悪人のため頼み給え。アーメン。 

 ガラサ(アヴェ・マリア)ラテン語のカタカナ表記
アヴェ・マリア、ガラサベーナ。ドメレコ。ベラットツウヨーイイモノイレクツイクレナレ。
ツルレツレケレツゼズサンタマリア。ビルゴモッテテンテンホーラツランノゲンノトイヤノナンキイナンツ。アメンゼズス。
*長崎外海・黒崎地区カクレキリシタン帳方・村上茂則氏に伝承されているオラショ

曲目解説・アヴェ・マリア
聖母マリアへの祈り。3節より構成されている。
1、天使ガブリエルがマリアへの受胎告知をした際の祝詞(ルカ1:28)
2、マリアを迎えたエリザベツの祝詞(ルカ1:42)
3, 聖母マリアへ執り成しの願い。現在の祈りは6世紀から15世紀にかけて形成された。

祈りの前半(上記1,2)の原型は6世紀の東方教会の典礼書に見られ、西方教会では7世紀のローマ典礼書に待降節主日の奉献唱として記載されている。15世紀以降、後半の3の聖母マリアへの執り成しの祈りが付け加えられた。 

有名な『アヴェ・マリア』の旋律は11世紀初頭の写本(ハルトカ―390~391, f, 38)にネウマ符で記されている古い旋律である。旋律の始めの箇所に非常に印象的な5度の跳躍があり、第1教会旋法ドリア旋法がもつ荘厳性、深い崇敬性、奥床しい色調が特徴的に旋律に表われている。 

3の、後半の聖母マリアに神へのとりなしを願う言葉と旋律は15世紀に加えられた箇所で、言葉に合わせて旋律も嘆願調になっている。交唱『アヴェ・マリア』は聖母の祝祭日の聖務日課の他、お告げの祈りとして、また様々な機会に非常に多く歌われている。 

長崎の外海地区、生月島、五島列島、天草地区に残っていた、カクレキリシタンたちにこの二つの祈り「アヴェ・マリア」「サルヴェ・レジナ」が伝えられている。 

アヴェ・マリアの歌詞の断片・外海民族資料館所蔵

フランシスコ・ザビエル(Francisco de Javier)が日本に来た1549年以来、1560年代に豊後府内(大分市)で制定されたと最初期と同じ形式の祈祷文として唱えられていたことがイエズス会の記録から判る。 

*1561年(永禄4)10月8日付け、ジョアン・フェルナンデス・João Fernàndez de Oviedo(1525~1567年)修道士書簡
『彼らに(教える際に)取る順番は以下のようである。すなわちパーテル・ノステル(主の祈り)、アヴェ・マリア、クレド、サルヴェ・レジーナをラテン語で、またデウスの十戒と教会の掟,大罪とこれに対する徳、並びに慈悲の所作を彼らの言語で唱えるに止める。』 

『当修道院に居住する日本人の同宿たちは、昼間は来訪者たちに「日本語とその文字で書かれた本」によってドチリナ(教理)を教え、夜、アヴェ・マリアの時刻に、つづいて、パードレ(神父たち)と共に、我ら一同はパーテル・ノステル、アヴェ・マリア、クレド(使徒信教)サルヴェ・レジナの祈祷(オラショ)を行い、また、航海者、特に日本に来る司祭と修道士のため、パーテル・ノステルを一度唱えたのち、ラダイニャス(聖母連禱)をともに唱えていた。』
*1555年(弘治元)9月20日付け 豊後(大分)発 
ドゥアルテ・ダ・シルヴァ修道士書簡
『16・17世紀イエズス会日本報告集』第Ⅲ期第Ⅰ巻214頁 

『当時、我らの同僚たちの司祭館では、キリシタンたちに信心を教え、彼らがデウスのことを喜ぶように導くために、一日の七度の聖務日課の時間に合わせて、七回、ちいさな鈴を鳴らす習わしであった。それを聞くと、司祭館にいる全員は聖堂に参集し、一人の少年が大声で主の御苦難の物語の一ヵ所を朗読する。そしておのおのは、その御受難を追想しながら、当地方のために「パーテル・ノステル」を五回、「アヴェ・マリア」を五回唱えて祈った。そしてこれは多年にわたってキリシタンの間に広まり、いろいろの地方で彼らは自分たちの家で同様のことを行った。』173~174頁 

*コスメ・デ・トーレス神父が修道士たちと共に豊後府内の司祭館で行った修行について
ルイス・フロイス著『フロイス日本史』第6巻 大友宗麟編I 第17章(第I部19章) 

『かつまた教会の国と当地方の発展のため、パーテル・ノステルとアヴェ・マリアを三度唱える』『我らが死者とともに修道院を出る前に、私は留まって少し祈り,三度パーテル・ノステルを称えると、キリシタンも唱和し、墓所においても死者を葬る前に同じことをなす。』
*1555年(弘治元)9月23日付け 豊後(大分)発 バルタザール・ガーゴ神父書簡 『16・17世紀イエズス会日本報告集』第Ⅲ期第Ⅰ巻182~183頁

 日本のキリシタン時代の教理門答書『どちりいなきりしたん』(1600年)のなかに、現在の形とほとんど同じ形で書かれている。1560年代に制定された最初期の祈祷文・オラショの形が、日本各地のキリシタンによって、現代まで450年間の長きに渡り、忠実に形も変えずに伝承されていることは驚異的な事である。 

特に長崎の外海地区、生月島、五島、天草に残っていたカクレキリシタンは、伝承だけでこれらの聖母マリアへのオラショ(祈り)を先祖代々語り伝えてきた。特に生月島に於いては三つの歌を伴う「歌オラショ」が伝承されていた。宣教師たちがこれらの地域のキリシタンにこの聖歌を伝えたのが1570年代、実に450年前に伝えられた聖歌が、楽譜もなしに、歌詞を紙に書いて写本として、先祖代々、祈りとして唱え、旋律は伝承として暗記して、口伝えに旋律を伝えてきた。時代的に、また地域的に変容があるが、その変容も原譜と比べたら、十分に原譜の旋律と同様であると認識できるくらいの誤差である。

オラショ・手書きの写本・外海民族資料館所蔵

450年間に代々のカクレキリシタンが守ってきた伝承のオラショと聖歌は、貴重な文化遺産である。それを支えてきた先祖代々のキリシタンたちの信仰の篤さを思うとき、敬服と尊敬の念に頭が下がっている。 

キリシタンたちが自分の信仰の告白として『アヴェ・マリア』を歌った記録

 *有馬の殉教者 1613年(慶長18)10月17日 島原半島の有馬に於いて

『1613年(慶長18)10月7日、島原・有馬の日野江城下の河原にて火刑に処せられた、アドリアーノ髙橋主水と妻ジョアンナ、レオ林田助右衛門と妻マルタ、及び18歳の娘マグダレナと11歳の息子ディエゴ。レオ武富右衛門と息子パウロ団右衛門の八人。島原中の約2万人のキリシタンが集まり、主の祈り、クレド、アヴェ・マリアを歌いながら、火刑に処せられる8人を励ました。』
*日本切支丹宗門史 上巻 レオン・パジェス著 311~313頁

  『アドリアーノ髙橋主水とヨハナ夫人、レオ林田助右衛門、マルタ夫人と二人の子供、マグダレナ19歳、ディオゴ12歳。レオ武富勘右衛門とその息子パウロ。計八名。
 
10月17日の朝、囚徒たちは牢から引き出された。彼らは、聖母の会の頭から贈られた晴れ着を着、子供の外は、腕を十文字に縛られていた。殉教者は、銘々二人の会員の間に挟まれて進み、片手には灯のついた蝋燭を持ち、片手にはロザリオを持っていた。先頭は、聖母の連祷(Litaniae Lauretanae・さんたまりあのらだにあす)を歌っていた。彼らは道を横切っている小川を舟で渡った。然るに、ある高貴なキリシタンは、殊に子供を背負って浅瀬を渡し、面目を施したいと思っていた。然し、子供は慎ましく之を断った。侍がその理由を尋ねるとディオゴは素直に答えた。「イエス様はカルヴァリオ山に歩いて行きました」 

キリシタンたちは、もう遺物を尊重して難行者の衣服を引きちぎって行くのであった。創手までが、前以って犠牲者の許しを乞えば、犠牲者は悦んで之を許した。 

レオ勘右衛門(武富)は、豪の上に登って、二言三言口をきいた。漸く人々の聞き取れたのは僅かに次の言葉であった。『我々は天主様の御栄のために、又信仰の証のために死んでいくのです。我が兄弟たちよ。皆様方も信仰をお守りくだされ』

 時宛も、会全部の司であるガスパル栄太夫は、殉教者達の前に我が主の十字架の像を高く捧げて彼らを激励した。この間、キリシタンたちは皆「使徒信教・クレド」と「主禱文・主の祈り」「天使祝詞・アヴェ・マリア」とを歌っていた。
 火は点ぜられた。之等すべての魂は、このエリア(列王記の預言者)の車に乗って、意気揚々と天に昇って行った。

 一番初め縄目の切れた子供は、まだ息のある母の方に向かって行き、母はその子に言った。「御覧よ、天を」子供は母によりよったかと思うと息が絶えた。

 感心な童女マグダレナは、燃え盛る薪をかき集めてそれを己の頭に乗せ『尊敬のしるしに頭に乗せます」とでも言っているかのように見えた。彼女は、主が興へ給うた無限の聖寵を感謝して、その薪を愛し拝んでいた。やがて頭を右手にもたせたまま息が絶えた。

 キリシタンたちは、遺骸を持ち去ることができた。或る者は、信心のためにマグダレナの両腕を奪って行った。彼らの尊い遺物は皆に長崎に運ばれた。神津浦の信者に引き取られたマグダレナの遺骸は、後に他の遺骸と一緒にされた。キリシタンたちは、この殉教地を尊び、馬に乗って通る人は、皆下馬して祈祷した。』
*レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史・上巻』312~313頁

『1619年(元和5)11月18日、長谷川権六はイエズス会のレオナルド木村と長崎における神父たちの宿主に死刑を宣告した。ドミニコ会のデ・モラレス神父の宿主・村山東安、同じくドミニコ会のデ・メーナ神父の宿主・吉田、一名吉田秋雲、オルスッシとヨハネ・デ・サン・ドミニコの二人の神父の宿主・コスメ竹屋、スピノラ神父とアンブロジオ・フェルナンデス修士の宿主・ポルトガル人ドミニコ・ジョルジの人々であった。(中略) 

彼らは苦しみを受けながら、騒がず従容として死につき永遠の勝利を得た。ジョルジは、確っかりとした高い声で使徒信教・クレドを唱え「人体を受け・Incarnatus est」という文句を口にした時、息を引き取った。 

レオナルド木村は炎が縄を焼き切った刹那、地面まで屈み、燠を恭しくかき集めて、それを天の紅玉ででもあるかのように頭に乗せて讃美歌「主を褒め讃えよ」Laudate Dominum 詩編117編を歌った。』
*日本切支丹宗門史 中巻 レオン・パジェス著 110~112頁

マグダレイナ墓碑・島原市
原譜・四線譜・1861頁
伴奏譜・原譜・四線譜より1音高い調性
原譜・四線譜と同じ調性・伴奏譜

カトリック聖歌集 282~283頁に掲載

楽譜の出典は『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(1979年ソレム修道院出版) 1861頁、聖母讃歌(Honorem B Mariae V )マリア交唱歌(Antiphonae B. Mariae Virginis )単純調(tonus simplex )教会第1旋法ドリア旋法による。

1500年時代・スペインの修道院で使用されていたグレゴリオ聖歌・五線譜
羊皮紙・縦75㎝ 横51㎝ 髙田重孝所蔵

2『サルヴェ・レジナ・Salve Regina Mater misericordiae・めでたし元后・』

☩ ラテン語、サルヴェ・レジナ・Salve regina
Salve Regina, Mater misericordiae; Víta,dulcédo et spes nostra salve.
Ad te clamàmus éxsules filii Hevae.
Ad te suspiràmus gemétes et flentes in hac lacrimàrum valle.
Eja ergo, adovocàta nostra, illos tuos misericórdes óculos ad nos convérte.
Et Jesum, benedictum fructum ventris tui,
Nobis post hoc exilium ostende.
O Clemens, O pia, O dulcis, Virgo Maria.

【歌詞】
めでたし元后 憐みの母、我らの命、喜び、希望。旅路からあなたに叫ぶエヴァの子よ、嘆きながら、泣きながらも 涙の谷にあなたを慕う。いざ、我らのためにとりなす方。
憐みの目を我らに注ぎ、尊いあなたの子、イエスを旅路の果てに示してください。おお、いつくしみ深く、恵みあふれる乙女、マリア。

☩ オラショ・サルヴェ・レイジの祈り
憐れみの御母后妃にて在す。御身に御礼をなし奉る。我等が一命かんみ頼みかけ奉る。流人となるエハ(エヴァ)の子供、御身にさけびをなし奉る。この涙の谷にてうめき泣きて、御身に願いをかけ奉る。これによって我等が御とりなしで憐れみの御眠を我等に見むかせ給え。又、この流浪のあとは御体内の尊き身にて在す。ゼズスを我等に見せ給え。深き御柔軟、深き御哀隣すぐれて甘くございます。ビルゼンマリアかな。尊きデウス御母キリストの御約束を受け奉る身となるために、頼み給え。いかにガラサと御憐れみの御母サンタマリア、御身我が敵を防ぎ給い最後に(・・・)さんを受け取り給え。アーメン。
*長崎外海・黒崎地区カクレキリシタン帳方・村上茂則氏に伝承されているオラショ

サルヴェ・レジナの書かれた断片・外海民俗資料館所蔵

 曲目解説・サルヴェ・レジナ
1568年、ローマ聖務日課書で歌われる時期が定められた
三位一体主日後(その前夜土曜日)から待降節第一主日の直前の金曜日夜までの期間の終課(就寝前の祈り)の最後に歌われるマリア交唱歌。 

ベネディクト会が定めた聖務日課の最後の祈り(就寝前の祈り)、終課の最後で歌われる聖母マリアを称える歌、ラテン語の表題は『聖母マリアへの結びの交唱』。 

この名曲はグレゴリオ聖歌の中で最も美しい旋律を持つ有名なマリア交唱歌。最も古い聖母讃歌のひとつで、天の元后(女王)、神の母、取次者である聖母マリアを称え祈る讃歌。 

最古の史料は11世紀のもので、歌詞、旋律共にフランスのル・ピュイの司教・アデマール作と言われている。このSalve Reginaが典礼において用いられるようになったのは1135年、クリュニーに於いてペトルス・ヴェネラピリスが定めた行列聖歌であった。1218年以降、シトー会がこの曲を毎日の行列聖歌と定め、1230年からはドミニコ会でも毎日の終課の後で歌うことを定めた。 

またこの曲は『神のお告げの祝日』のマグニフィカト(マリアの賛歌・ルカによる福音書第1章46節~55節)のアンティフォナAntiphonとして用いられていた。13世紀にシトー会、ドミニコ会等の修道会がそれぞれに日々の祈りの中に取り入れるようになり、教皇グレゴリウス9世(在位1227~1241)がこの曲を毎金曜日の終課の後に唱えるように定めた。14世紀以降は、すべての終課の後に唱えられるようになった。修道士たちは全員聖堂に集まり、一日を神の御恵みのうちに過ごすことができた感謝と共に、この日の最後の聖歌を聖母マリアへの誉れのために捧げる。 

最後のカクレキリシタン
長崎の外海地区、生月島、五島列島、天草地区に残っていた、カクレキリシタンたちにこの二つの祈り「アヴェ・マリア」「サルヴェ・レジナ」が伝えられている。 

カクレキリシタンの存続は、時代の変化や地域性による過疎化と共に存続が難しくなり、最近まで残っていた長崎の外海地区の2つのカクレキリシタン組織も帳方(信徒の指導者的役割を果たし,洗礼や葬儀を司る役目をする人)の高齢化に伴い致し方なく自然に解散して消滅した。今では外海の黒崎地区の村上茂則氏の組織だけが存続している。 

☩ オラショ・ガラサ(アヴェ・マリア・天使祝詞)
ガラサみちみち給うマリアに御礼をなし奉る。御主は御身と共に在す。女人の中においてはきて御果報いみじきなり。又、御胎内の御身にて在す。ゼウスは尊くまします。デウスは御母サンタマリア、今も我等が最後にも、我等悪人のため頼み給え。アーメン。 

 ガラサ(アヴェ・マリア)ラテン語のカタカナ表記
アヴェ・マリア、ガラサベーナ。ドメレコ。ベラットツウヨーイイモノイレクツイクレナレ。ツルレツレケレツゼズサンタマリア。ビルゴモッテテンテンホーラツランノゲンノトイヤノナンキイナンツ。アメン ゼズス。
*長崎外海・黒崎地区カクレキリシタン帳方・村上茂則氏に伝承されているオラショ 

☩ オラショ・サルヴェ・レイジの祈り
憐れみの御母后妃にて在す。御身に御礼をなし奉る。我等が一命かんみ頼みかけ奉る。流人となるエハ(エヴァ)の子供、御身にさけびをなし奉る。この涙の谷にてうめき泣きて、御身に願いをかけ奉る。これによって我等が御とりなしで憐れみの御眠を我等に見むかせ給え。又、この流浪のあとは御体内の尊き身にて在す。ゼズスを我等に見せ給え。深き御柔軟、深き御哀隣すぐれて甘くございます。ビルゼンマリアかな。尊きデウス御母キリストの御約束を受け奉る身となるために、頼み給え。いかにガラサと御憐れみの御母サンタマリア、御身我が敵を防ぎ給い最後に(・・・)さんを受け取り給え。アーメン。
*長崎外海・黒崎地区カクレキリシタン帳方・村上茂則氏に伝承されているオラショ 

フランシスコ・ザビエル(Francisco de Javier)が日本に来た1549年以来、1560年代に豊後府内(大分市)で制定されたと最初期と同じ形式の祈祷文として唱えられていたことがイエズス会の記録から判る。 

*1561年(永禄4)10月8日付け、ジョアン・フェルナンデス(João Fernàndez de Oviedo・1525~1567年)修道士書簡
『彼らに(教える際に)取る順番は以下のようである。すなわちパーテル・ノステル(主の祈り)、アヴェ・マリア、クレド、サルヴェ・レジーナをラテン語で、またデウスの十戒と教会の掟,大罪とこれに対する徳、並びに慈悲の所作を彼らの言語で唱えるに止める。』 

日本のキリシタン時代の教理門答書『どちりいなきりしたん』(1600年)のなかに、現在の形とほとんど同じ形で書かれている。1560年代に制定された最初期の祈祷文・オラショの形が、日本各地に残っているキリシタンによって、現代まで450年間の長きに渡り、忠実に形も変えずに伝承されていることは驚異的な事であり、450年に渡りオラショの継承を続けた歴代のキリシタンたちの並みならない努力と熱い信仰心に深く敬意を表する。

原譜・四線譜・279頁
伴奏譜・原譜・四線譜より1音高い調性
伴奏譜・原譜と同じ調性・カトリック聖歌集

 原調は第5旋法リディア旋法による。
使用した楽譜の出典は『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(1979年ソレム修道院出版) 279頁、マリア交唱歌(Antiphonae B. Mariae Virginis )単純調(tonus simplex )  

3『サルヴェ・マーテル・Salve Mater misericordiae・めでたし憐れみ深い御母』 

☩ ラテン語・サルヴェ・マーテル・Salve Mater misericordiae
(A) Save,Mater misericódiae, Mater Dei, et Mater véniae, Mater spei et mater grátiae Mater plena santae laetítiae o María 

(B) Salve,decus humáni géneris: Salve,virgo dígnior céteris, Qoae virgins omnes transgréderis, Et áltius sedes in súeris, o Maria. 

【歌詞】
(A,)めでたし憐れみ深い御母よ、天主の聖母,かつ許しの聖母、望の聖母、かつ恵みの聖母、聖なる喜びにあふれる聖母、おお、マリア。 

(B) めでたし、人類の栄誉、めでたし、童貞のうちすぐれて尊き童貞。すべての童貞にまさり、天において、より高きに座りたもう、おお、マリア。D.C.(ダカーポ) 

曲目解説・サルヴェ・マーテル
美しい旋律を持つこの曲は、グレゴリオ聖歌の中で最も美しい旋律のひとつと言われている有名なマリア交唱歌。最も古い聖母讃歌のひとつで、天の元后(女王)、神の母、取次者である聖母マリアを称え祈る讃歌。 

最古の史料は11世紀のもので13世紀にシトー会、ドミニコ会等の修道会がそれぞれに日々の祈りの中に取り入れるようになり、教皇グレゴリウス9世(在位1227~1241)がこの曲を毎金曜日の終課の後に唱えるように定めた。14世紀以降は、すべての終課の後に唱えられるようになった。 

『めでたし憐れみ深い御母・サルヴェ・マーテル・Salve Mater misericordiae』この聖歌は13世紀から歌われ始めた聖母マリア讃歌。
この曲は他の聖母マリア讃歌の5曲とは違い、1節のみの有節では作られていない。

(A)『めでたし慈悲深い聖母・Salve Mater misericordae 』を始めに歌った後、再度、同じ(A)旋律を再度繰り返して(B)『めでたし、童貞の母よ、あなたは天の父の右に座して、天と地と大空とを司られる御方は、あなたの御胎内に身ごもり給う、おおマリア。』D.C.
(A)の後に (B) の5節の有節歌詞が続く。
形式表にすると(A)1回、(A)+(B)5回の繰り返し。
聖母マリア讃歌の中では比較的長い曲に属する。

伴奏譜

カトリック聖歌集 283頁に掲載。*D.Cダカーポ、繰り返しの記号に注意 

原調は第5旋法リディア旋法による。

使用した楽譜の出典は『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(1979年ソレム修道院出版) ?頁、マリア交唱歌(Antiphonae B. Mariae Virginis )単純調(tonus simplex ) 

4『アルマ・レッデムプトリス・Alma Redemptoris Mater・麗し救い主の御母』 

☩ ラテン語・アルマ・レッデムプトリス・Alma Redemptoris Mater

Alma Redemptóris Máter, quae pérvia cáeli porta mánes, Et stélla máris、
Succúrre cadénti, surgére qui cúrat pópulo: Tu quae genuísti, natúra miránte túum sanctum Genitórem: Virgo prius ac postérius,
Gabriélis ab óre súmens íllud Ave, pecatórum miserére. 

【歌詞】
麗しい救い主を育てた母、開かれた天の門、光り輝く海の星、倒れた者に走りより、力づけてくださる方。すべての者が讃える中で、造り主を生んだ方。ガブリエルから言葉を受けた永遠の乙女よ。我らのために祈りたま

 曲目解説・アルマ・レッデムプトリス
1568年、ローマ聖務日課書で歌われる時期が定められた
待降節第1主日から2月2日の聖母マリア潔めの祝日までの間に歌われる終課(就寝前の祈り)の最後に歌われるマリア交唱歌(Antiphonae B. Mariae Virginis )。ベネディクト会が定めた聖務日課の最後の祈り(就寝前の祈り)、終課の最後で歌われる聖母マリアを称える歌、ラテン語の表題は『聖母マリアへの結びの交唱』 

最古の写本は12世紀で、本来聖母被昇天祭の六時課(正午)の賛歌として用いられていた。

作者はライヘナウの修道士ヘルマンヌス・コントラクトゥス(1013~1054)と考えられているが確証はない。 

本来、詩編やカンティクムの前後に歌われていた。稀に見る旋律の流れるような美しさと独創性を持つ旋律は、中世・ルネサンス期に多くの多声楽曲の基礎(原旋律の歌)として使われた。
現行のカトリック聖歌集には掲載されていない。

原譜・四線譜・277頁
伴奏譜・原譜・四線譜より1音高い調性

原調は第5旋法リディア旋法による。
使用した楽譜の出典は『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(1979年ソレム修道院出版) 277頁、マリア交唱歌(Antiphonae B. Mariae Virginis )単純調(tonus simplex )


5『アヴェ・レジナ・Ave Regina caelorum・めでたし天の元后・』 

☩ ラテン語・アヴェ・レジナ・Ave Regina caelorum
Ave Regina caelórum, Ave Dómina Angelórum: Sálve radix, salve porta,
Ex qua múndo lnx est órta: Gáude Virgo gloryósa,
Súper ómnes speciósa: Vále, o valde decóra,
Et pro nóbis Chrístum exóra. 

【歌詞】
天の元后、天の女王。世に光を生み出した命の泉、天の門。喜べ乙女、輝く乙女、総てに優る尊い乙女、我らのためにキリストに祈りたまえ。 

曲目解説・アヴェ・レジナ
1568年、ローマ聖務日課書で歌われる時期が定められた
2月2日から聖週間(復活祭のための週)の水曜日までの期間

聖母マリアが天の元后になられたことを祝い、救いの取次ぎを願う歌。本来、聖母被昇天の祭日の九時課の讃歌として用いられた。作者、作曲時期、共に不明だが12世紀から唱えられている。
現行のカトリック聖歌集には掲載されていない。

原譜・四線譜・278頁
伴奏譜・原譜・四線譜より1音高い調性
原譜・四線譜と同じ調性
伴奏譜・作譜・花岡聖子、作譜・髙田雅弘

原調は第6旋法ヒポリディア旋法による。
楽譜の出典は『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(1979年ソレム修道院出版) 278頁、マリア交唱歌(Antiphonae B. Mariae Virginis )単純調(tonus simplex ) 

6『レジナ・チェエリ・Regina caeli・天の元后』 

☩ ラテン語・レジナ・チェエリ・Regina caeli
Regína caéli laetáre, alleluia: Quia quem meruísti portáre, alleluia:
Resurréxit, sícut díxit, alleluia: Ora pro nóbis Déum, allelúia. 

【歌詞】
天の元后 喜び給え。アレルヤ。あなたに宿られた方は、アレルヤ。仰せのように復活された。アレルヤ。我らのために祈りたまえ。アレルヤ。 

曲目解説・レジナ・チェエリ
1568年、ローマ聖務日課書で歌われる時期が定められた
聖土曜日(復活祭の前の土曜日)から三位一体主日までの期間
復活の主日(現:至聖なる主キリストの過ぎ越しの徹夜・聖土曜日(復活祭の前の土曜日)の終課から50日後の聖霊降臨祭の祝日後の金曜日の終課まで。 

イエス・キリストの復活の時の聖母マリアの喜びを記念する曲。本来は復活祭晩課マニフィカト(マリアの讃歌・ルカによる福音書 1章46~55節)用の交唱歌だったが、13世紀半ばから復活祭の終課に用いられるようになった。 

教会の祈りでは復活祭中、寝る前の祈りの結びとして歌われる。歌詩の成立は9~12世紀で作詞者は不明。グレゴリオ聖歌では13世紀中頃に由来する荘厳旋律と17世紀に作られた簡素な旋律の聖歌が伝わっている。
四線譜・275、278頁
現行のカトリック聖歌集には掲載されていない。

原譜・四線譜・278頁
伴奏譜・原譜・四線譜より1音高い調性

原譜・伴奏譜は第6旋法ヒポリディア旋法による。
楽譜の出典は『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(1979年ソレム修道院出版) 278頁、マリア交唱歌(Antiphonae B. Mariae Virginis )単純調(tonus simplex )

原譜・四線譜と同じ調性
伴奏作譜・花岡聖子 作譜・髙田雅弘
グローリア パトリ、アレルヤ・グレゴリオ聖歌・羊皮紙・五線譜
1500年代・スペインの修道院で使用・縦75㎝ 横51㎝ 髙田重孝所蔵

紹介できなかった旋律が違う聖母マリア讃歌

Stabat Mater(悲しみの聖母) 1634v頁・五つの続唱のひとつ
Stabat Mater (悲しみの聖母) 1874頁
Ave maris stella (めでたし、海の星) 1259、1261、1262頁
Ave Regina 274、278、1864頁
Ave Maria     355、1318頁
Alma Redemptoris Mater 273、277頁
Maria Mater gratiae 1863頁
O gloriosa Virginum 1314頁
Regina caeli (天の元后) 275、278頁
Salve Regina 276、279頁
Sancta Maria 1254、1634v頁

外海・黒崎教会にて


くまモンとご挨拶・これからもよろしくお願いいたします


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