三宅藤兵衛重利が天草全島で行ったキリシタン迫害について

細川興秋が建立した天草御領城内にあった「長興寺薬師堂」明治時代の写真 芳證寺所蔵
天草御領 芳證寺墓地にある細川興秋(中央)と二人の従者の墓碑
三宅藤兵衛重利の墓碑 天草市広瀬 撮影:原田譲治


天草御領芳證寺野過去帳 興秋の関する追記
中村家家系図の冒頭 細川藤孝・忠興・興秋・興季・中村藤右衛門衛門     中村社綱氏所蔵


明智光秀・細川ガラシャ・興秋・興季・中村藤右衛門子孫・中村社綱氏(左)(右)髙田重孝


ガラシャが甥・そつ(三宅藤兵衛重利)宛てに書いた書簡
三宅家文書・熊本県立美術館所蔵 縦330,3㎝ 横51,1㎝


三宅藤兵衛重利宛 細川忠利書状 三宅家文書 熊本県立美術館所蔵

三宅藤兵衛重利の行った天草全島での迫害
天草御領における三宅藤兵衛と長岡興秋と嫡子興季の関係について

 1609年(慶長14)に来日した、クリストヴァン・フェレイラ(Cristovão Ferreira)は1614年(慶長19)の伴天連追放令の後も密かに日本に留まり、主に西九州で布教活動に従事していた。1629年(寛永6)から1630年(寛永7)にかけて5ヶ月間、天草の大矢野島に滞在して布教活動をしている。徳川幕府の政策によりキリシタン禁教令が一段と厳しくなり、多くのキリシタンの尊い血が殉教により流された。

大矢野島のキリシタン組織
1587年(天正15)8月、大矢野種基(たねもと)はドン・ジャコベと称し、アルフォンソ・ゴンザレス(Alfonso González)神父より洗礼を受けた。妻はジョアナ。嫡子・種量(たねかず)はドン・ジョアンと称した。天草五人衆の中で大矢野氏は第3番目の受洗だった。家老の安芸殿はペイトロ、本山(会津)代官の山城殿はジョアンと称した。

大矢野元種基の居城跡地は国道226号沿いにある現・大矢野中学校の敷地となっている。

大矢野キリシタン教会跡地は「現・天草四郎メモリアルホール」前の国道266号、100mほど三角方面へ向かった国道沿いに『大矢野教会跡地』の案内板が立てられている。

 1587年(天正15)8月、大矢野種基(たねもと)はドン・ジャコベと称し、改宗しているので、大矢野島にはその後、駐在所・レジデンシアが置かれている。大矢野島は、肥後本土の小西行長の領地・宇土城にも近いので、長い間、肥後の国への伝道拠点にもなっていた。 

小西行長が1600年(慶長5) 関ヶ原の戦いで敗れ斬首されてからは、小西行長の領地は肥後の北を治めていた加藤清正によって占領されたので、大矢野島に在ったレジデンシアはその時以来廃止されている。大矢野島のレジデンシアは1600年まで13年間の期間、肥後の国への宣教と上矢野島地方の宣教の拠点だった。 

1600年以降、キリシタンを保護してきた小西行長が消えてからの大矢野島のキリシタンたちの活動は、表面的には停滞した様に見えるが、天草全体では、各地のキリシタンたちは連携して、信仰を守り維持するために各々の土地でコンフラリアを再組織して、潜伏しながら信仰共同体を維持し続けている。 

1614年(慶長19) 徳川幕府による全国的迫害が本格化してきた。しかし、大矢野島においては1626年(寛永3)多くのイグナシオの組(コンフラリア)が組織されたと報告されている。

大矢野種基がキリシタンになったこの時期は豊臣秀吉が島津討伐を終えて、博多より大坂に帰る時に「伴天連追放令」を発布した直後である。大矢野種基は禁教令が出された直後、秀吉から滅ぼされる、あるいは御家断絶の危険を顧みず、家族、家臣と共に洗礼を受けた。

大矢野島の領民は殿のキリシタンになりたいという希望に感銘を受けて、4,000人以上が洗礼を受けてキリシタンになった。

「予は今や関白殿がどのように教会とキリシタン宗団を迫害しているかを承知している。だがそれは予がキリシタンになりたいとの意欲をいっそう燃え立たせるのみである。予に関しては何らの疑念の念をお抱きなさるな。何故ならば、もし関白殿が予に棄教するように命ぜられるにおいては命を絶つ覚悟であり、万事に付けて伴天連さま方と予の従兄弟なるドン・ジョアン(天草久種)に御従い申す決意でいるからである。」

1586年(天正14)12月、志賀親次の居城竹田の岡城の近くに、薩摩軍に投降した一万田紹伝の治めていた小牟礼城があった。薩摩軍は同行していた天草五人の領主をこの小牟礼城の監視と防御として配置した。一万田城付近から薩摩軍が撤退したことを知った志賀親次(ドン・パウロ)は一万田城・小牟礼城を奪還するために自軍を率いて城を包囲した。城中に取り残された天草五人の領主と兵士たちは、薩摩軍からの援助を断たれて孤立無援と化した。 

志賀親次(ドン・パウロ)がこの時取った小牟礼城にいる天草五人の領主に対しての行動は実にキリシタンらしく勇敢で慈愛に満ちた行動だった。志賀親次のこのキリシタン同士の慈愛に満ちた救済解放行動により命を救ってもらったことで天草五人の領主はキリシタンの素晴らしさと恩を感じて、キリシタンになる機会が来たらキリシタンになることを決意した。

*フロイス著 「日本史8 大友宗麟編Ⅲ」第70章(第2部87章)221~223頁

この時の天草久種(ドン・ジョアン)と豊後軍の志賀親次(ドン・パウロ)のキリシタン同士の慈愛に満ちたやり取りを見て、新しい命を授かった大矢野種基はキリスト教の教えに深く心を動かされてキリシタンになることで、人生の転換を決意した。

「志賀殿(ドン・パウロ)の優しい心遣いとキリシタン達を相互に難く結びつけている絆と一致を目撃したからである。日本の習慣に従う限り、もし志賀殿が異教徒だったら、皆を処刑していたはずで、予は既に地獄に葬り去られていたであろう」

残念なことに大矢野父子は6年後の1593年(文禄2)朝鮮の役で戦死している。

大矢野島のキリシタン指導者たち
 1617年(元和3)8月、中浦ジュリアン神父が天草のキリシタン指導者59名の署名を集めているが、大矢野島では7名が署名している。大矢野村は上島の上津浦に次いで2番目に多い数字である。下記の人々は、一般農民が苗字を持てない時に持っているので、元々は武士であったと推測できる。恐らく1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いで敗れた小西行長家臣だった人々である。

渡邊小左衛門 うれんそ 「惣代」 *天草・島原の乱当時の渡辺小左衛門の義父
同 九右衛門 さんちょ 「庄屋」
内田与右衛門 はひあん  同
会津重右衛門 阿れ所   同
内田清左衛門 見げる   同
越路将監(こしじしょうかん) けれめんそ
山下与左衛門 はるなべ 

*松田毅一著『近世初期日本関係南蛮史料の研究』イエズス会士コーロス徴収文書 第45文書 肥後国 天草 1104~1108頁 

1617年(元和3)8月、中浦ジュリアンにより記録されたコーロス徴収文書に記載されている人々の多くは、指導的立場の元武士階級の人々であり、苗字を持つ階級の人々である。寺沢氏の迫害の激化に対して、迫害に対峙するために、キリシタン側もより一層広範囲に、キリシタン組織力が強化されたと考えている。 

これらの指導者の人々の下で、地元のキリシタンたちは、それぞれに「組み講」コンフラリアを組織して、相互扶助、慈悲の組等を形成して、キリシタン生活を送っていた。 

迫害の激化と共に、各地にあった教会や駐在所、集会所が破壊されたにもかかわらず、天草のキリシタンたちは、ミサを執り行い、自分たちが組織したコンフラリアを頼って民家を装い教会に集まった。また一向宗寺院を偽装(camouflage)した教会に集まり、寺院に偽装したいくつかのキリシタン教会同士の組織(network・constitution)に集い 互いに信仰を高め合い、組員の貧困に瀕している人々には食物を分かち与えて相互扶助をしている。
迫害激化に反比例する形で天草に於いては信徒数が増えている。 

1625,1626年(寛永2,3)大矢野島にクリスファン・フェレイラ(Cristvão Ferreia)神父が宣教に訪れた時にも匿っている。

1629年(寛永6)アントニオ・ジャンノネ(Antonio Giannone)神父が下島の大江に宣教に訪れた時には下島の大江、高浜、﨑津、今富の信者たちが協力して匿っている。

島原有馬からイエズス会管区長マテオ・コーロス(Matteo Couros)神父が、舟で﨑津に入り、官憲から追われた時には大江の信者たちに匿われている。高齢で持病を持つコーロス神父は、長崎の茂木から橘湾を舟で渡って駆け付けた長崎の信者の助けで、大江より長崎へ戻り逮捕を免れている。この時棄教した元キリシタンだった富岡城番台の三宅藤兵衛重利(細川興秋の従兄弟)が迫害と神父の逮捕を命じている。 

 唐津藩寺沢広髙の統治していた天草に於いては比較的穏便な対策が取られていたが、幕府の方針に従い、1619年(元和5)を境に天草に於いても迫害が開始された。幕府のキリシタン政策の手前、各藩とも足並みを揃えなくてはいけない事情があった。
天草番代である三宅藤兵衛重利にもキリシタン迫害の命が通達された。

1621年(元和7)明智光秀の孫で、熊本藩主・細川忠利とは従兄弟にあたる三宅藤兵衛重利(父は明智光秀の家老・明智左馬介、母は細川ガラシャの姉の倫)が、寺沢藩主・寺沢広髙より遣わされて第七代天草富岡番代として着任した。藤兵衛は幼い頃、伯母ガラシャに引き取られ育てられていて、ガラシャの長男・忠隆、次男、興秋とは兄弟のように育てられていた。藤兵衛はガラシャの影響により洗礼を受けたキリシタンだった。その後いつ棄教したかは定かではない。藤兵衛自身がガラシャの姿を見て育ったキリシタンだったので、何の罪のないキリシタンに迫害を加えることに関して熟思たる思いがあった。無実のキリシタンに危害を加えることに関して藤兵衛はどのような思いで臨んだのであろうか。

 フェレイラは「富岡城代三宅藤兵衛の計画に基づく迫害だった」と記し、日本の史料には「藤兵衛は常々慈悲深き侍であった」と真逆の記録を残している。

三宅藤兵衛の迫害開始
 1619年(元和5)初春頃から、三宅藤兵衛は各郡代にキリシタン百姓を強制的に棄教させるように命じている。迫害は富岡城のある志岐から始められた。
*レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』下巻 131~133頁

『天草のキリシタンの管理を託されていたイエズス会の二人の神父(フェレイラとジャノネ)は、今年(1619年)の初めにこの群島を訪ね五ヶ月間逗留した。然し、この良き収穫が、七月に起こった迫害の為に一部破壊された。

 天草の領主寺澤志摩守は、志岐の代官兼群島の奉行として、棄教者で、且つ熱烈な迫害者たる三宅藤兵衛重利を選んだ。藤兵衛は代官、すなわち支配役に、百姓を強制的に棄教させよと命じた。最初の厳命は、奉行の所在地富岡の城を含む志岐で実施された。

 最初、家長たちが簡単な言葉と威嚇とで攻撃を受けた、或る者は下ったが、また他の者は頑として動じなかった。婦女子が監禁され、而もその数は、間もなく二一三人になった。

 その夫たちは、監禁されている妻の許に、貧弱な食物を少しばかり運んでやらなくてはならなかった。この哀れな人々は、懊悩のパンと苦悶の水で生きていたと言える。この最初の試練は七日間続いたが、誰一人死ななかった。藤兵衛は、陽の良く当たる畑の中に、かけで編んだ一種の小屋を建てた。その園内は誠に低く、立っていられないので、跪き通しでいなければならなかった。この小屋の中は棘で一杯であった。妻と乳飲み子とは、別々に監禁された。日に一回だけ、囚徒の父や夫が、食物を運んで行くことができるのであった、七、八日の間このままでいた。妻や子供が、夫の目の前で拷問を受けた。大勢の家長が次々と転んだ。かくて彼らが棄教すると、心配なしに妻や子供が返された。

 然し、色々な立派な例があった。その中にはキリシタンたちの頭で富岡の奉行の一人、トマス興三左衛門の如きがそれであった。彼の妻と子供のドミンゴスは監禁された。トマスはこの試練で少しも弱らなかった。しかも、彼は毎日家族のもとに食事を運んで来ては艱難に耐えよ、時によっては死にさえ耐えよと激励した。藤兵衛は、敢えてトマスを殺さず、息子を追放して、妻には邸内に於ける謹慎者の番を命じた。

 ジュリオという八十二歳の一老人、彼は近江の生まれで、元イエズス会の同宿であったが、八月の初めから十一月二十九日まで虐められた挙句、天草の領主の直々の命令によって、首に大きな石を付けられ海中に投ぜられ溺死させられた。他の犠牲者たちも同じ刑を宣告された。

 アントニオ・ジャノネ(Giacomo Antonio Giannone)神父は、天草で迫害が猛威を逞うしている間に、大江で人(信者)の世話をしていた。河内浦にいた領国の代官は、神父の宿主を監禁した。扨(さて)この神父は、淋しい所に退去せねばならなかった。八月、代官(川崎)は、信者の子供を竹の籠の牢屋に入れて、陽と雨に曝されることにした。この哀れな子供たちは、一日に僅か一握りの粉と水しか与えられなかった。十二日たって転宗した親達は、出かけて行った。然し、子供たちは弱りもせず牢番たちが同情してくれた食物さへ拒んだ。異教徒たちは、キリシタンの信仰の高い理想を会得した。なお続いて起こった二つの奇跡は、彼らをこの上なく感嘆させた。空中に充満していた蚊も牢内に入らなかった。そして瀧の様に降ってきた雨は、幼い難教者にはかからなかった。

奉行の下役は、同時に大江のキリシタンにぶつかって行った。彼らは、少なくとも各家庭で一人棄教することを望んでいた。同じ光景は﨑津の港にもあった。多数のキリシタンたちが弱った。』

 天草で迫害が猛威を振るっている中、大江の信者の世話をするためにジャノネ神父が島原の千々石から派遣された。この情報を入手した河内浦の代官・川崎伊右衛門は、ジャノネ神父の宿主を監禁した。ジャノネ神父は信者の手により大江村の裏山へ隠れ住んで、大江周辺の信者の世話をした。

1629年(寛永6)河内浦の代官所はドン・ジョアン天草久種の城跡、現在の崇円寺にあった。代官川崎伊右衛門は大江の各家族の戸主を集めて、ジェノネ神父の隠れ家を詰問したが、彼らは「伴天連など全く知らない」と答えて棄教命令も拒否した。大江の信者たちは浜の近くに拵えた牢屋に投獄されたが効果はなかった。そこで信者の子供たちを牢屋に閉じ込めた。八月初めの夏の暑さの中、一日一回、わずかばかりの食物を与えて十二日間、暑い日差しと雨の中に曝したが、子供たちは弱りもせずに立派に迫害に耐えた。

「空中に充満していた蚊も牢内に入らなかった。そして瀧の様に降ってきた雨は、幼い難教者にはかからなかった。」 

捕らわれていた子供たちの上に起こった二つの奇跡を見せられて、子供たちの為に棄教した親たちは信仰を取り戻した。 

イエズス会の管区と司教管区の責任者であったマテオ・デ・コーロス(Mateo de Couros)神父は、キリシタンの指導者として、地元島原の松倉豊後守重政が最も捕縛したかった最重要人物だった。コーロス神父は数年間、有馬の深江に潜伏して布教活動とイエズス会の指導をしていたが、迫害が厳しくなり、1627年、28年(寛永4,5)の雲仙での大量の殉教者を出した後、深江から有馬へ隠棲場所を変えた。松倉の詮索がさらに厳しくなったので、1630年(寛永7)6月初め、有江から小舟で天草へ渡ろうとした時、役人に見つかり、早崎海峡の速い潮の流れに助けられて3日後に﨑津港へ無事入ることができた。 

コーロス神父は﨑津の乙名であった孫十郎アドリアンの手引きにより、大江の信者の指導者ルカス・ゲンサイ老人宅に隠れ住んだ。コーロス神父が有馬から小舟で天草へ渡るのを手引きした一人の若者が有江に戻ると逮捕され拷問により、コーロス神父の大江の隠れ家を自白した。コーロス神父の居場所を突き止めた松倉重政は直ちに使者を富岡へ送り、三宅藤兵衛へコーロス神父の逮捕を要求した。三宅藤兵衛はキリシタン撲滅のためには、是非ともコーロス神父の逮捕は絶好の機会と考え、また同時に手柄を立てて藩主寺沢志摩守に取り入ろうと考えた。 

藤兵衛から報せを受けた河内浦の代官川崎伊右衛門は16人の手下を連れて大江のルカス・ゲンサイの家を包囲した。しかし、大江のキリシタン信者たちは、いち早く代官の動きを察知して、コーロス神父を別の信者の家に移し、そこから四人の信者の担ぐ梩(もっこ)に乗って大江の深い山の中に身を隠した。コーロス神父は老齢であり中風を病んでいた。大江の山中で丸一週間、降り続く梅雨に打たれながら、幾度となく場所を変えて役人の追及を逃れた。その間、信者たちが運んでくれる冷えた握り飯と塩付の大根で命を繋いだ。七日目に長崎から報せを受けた一人のキリシタンが小舟でコーロス神父を迎えに来た。その小舟に乗ってコーロス神父は大江を脱出することができた。 

 大江のキリシタン指導者ルカス・ゲンサイは家族全員河内浦の代官所へ取れていかれて、厳しい詮議と拷問を受けたが、誰も信仰を棄てなかったし、コーロス神父については何も話さなかった。代官は諦めて拷問を止め彼らを牢屋に留置した。

フェレイラ神父は大江のキリシタン指導者ルカス・ゲンサイの家族の殉教を記している。 

『この総ての捕らわれ人のうちで一番幸せな運命がルカスの二人の孫にあたった。彼らは牢屋で亡くなって殉教の冠を得て天国へ行った。一人はミゲルと呼ばれ、﨑津に住んでいたアドリアンの息子でちょうどその年に生まれていた。もう一人はザビエルで、ジョアン善七郎の息子であった。善七郎も﨑津に住んでいた。ザビエルは六歳、1630年9月11日に亡くなった。』
*結城了悟著『キリシタン蕾・殉教した子供たち』121~124頁 日本26聖人記念館 2002年 

1556年(弘治2)10月、領主志岐麟泉の模範に従ってキリシタンになった領民は、後に領主志岐麟泉からの迫害弾圧があっても屈服せずに信仰を守り抜いた。志岐麟泉の領地は、現在の苓北町富岡、志岐を中心に、現・五和町を含む旧・御領組の(御領、鬼池、二江、手野、城河原、佐伊津、広瀬、本泉、下河内、新林、本村)が大まかな地域であり、領民の大半がキリシタンであった。キリシタンの数は1万3,000人と記録にある。 

1629年(寛永六)
*レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』下巻 第14章 131~133頁

天草番代として赴任した興秋の従兄弟・三宅藤兵衛重利がキリシタンを迫害した記録が克明に記載されている。富岡城下の志岐と大江で行われた迫害の記録が、天草のキリシタンたちの強い信仰を物語っている。数多くの信仰篤き信者が迫害により尊い命を奪われた。 

三宅藤兵衛重利のキリシタン迫害は、キリシタン伝道と同じ工程を辿っていて、まず地元の富岡・志岐から西の海岸線に沿って南へ下がり大江地区、﨑津地区、天草河内浦と迫害を進めている。 

三宅藤兵衛重利は既に佐伊津にいる興秋の息子・興季の存在を知っていて、藤兵衛が興季を佐伊津の庄屋に取り立てた。興季はこの庄屋就任の時、正式に中村五郎左衛門興季と名乗っている。何故、興季は父興秋と同じ長岡を名乗らなかったのだろうか。興秋は歴史上、大坂の陣の後、父忠興の命令で切腹していることになっているので、興秋と同じ長岡を名乗れなかったこと。また、当時興秋は徳川幕府から大坂の陣の大将として認められていたので、その遺児が生きていたら、父興秋と同じ責めを負わされて殺される危険があったこと。それ故に、興季の育ての親(養父)である、中村半太夫の苗字を貰って中村五郎左衛門興季と名乗った。 

藤兵衛と興季の間には、富岡城代としての藤兵衛と佐伊津の庄屋としての興季との間に、政策と年貢に関しての政治的なやり取りがあっていた。藤兵衛は興秋の従兄弟になるので、興季にとって藤兵衛は叔父になり、二人は血縁関係を隠して信頼関係を築いていたと考えられる。 

三宅藤兵衛重利は従兄弟の興秋の息子・興季が庄屋をしている御領・佐伊津地区では、キリシタン迫害を行ってはいない。さすがに甥興季の前では酷いキリシタン迫害をできなかったと考えられる。藤兵衛は従兄弟の興秋の存命も知っていたし、まして甥、興秋の息子・興季の前では酷いキリシタン迫害はできなかったであろう。それが元キリシタンであった藤兵衛に中に残っている棄教者としての良心だった。佐伊津の庄屋をしている甥の興季の存在が、三宅藤兵衛にとっても、この佐伊津地区・御領地区に多くいるキリシタンの存在を知っていた藤兵衛にとっては、大きな抑止力として機能していたことは確かなことである。 

彼らキリシタンの信仰は「天草島原の乱」(1638年・寛永15)の後迄、かくれキリシタンとして受け継がれていた。天草の下島・現在の五和町の二江、鬼池、大島、浜田、御領、佐伊津地区には多くのキリシタン墓碑(約1,000基)が存在している。これらキリシタン墓碑はほとんどが無名の御領石で出来ていて、大概は貧しい農民の墓碑であるので、荒削りの切り出した石に名前さえ彫ってないものがほとんどである。☩(十字)の印があればましな方であろうと思われる。小さい墓碑は30㎝四方の物から、1mの大きさの墓石までいろいろである。この天草地方のキリシタン史を学べば、それら無名の墓碑が語る天草のキリシタン史を知ることができるだろう。 

貧しい百姓農民や半農半漁で生活を営む人々がどうしたら立派な墓が作れるだろうか。自分と家族にだけ判る、切り出した荒削りの御領石を墓碑として身内を埋葬した場所に置くことが彼らの精いっぱいのキリシタンとしての信仰の証だった。 

細川興秋、山鹿庄の「泉福寺」を出て天草御領へ避難して身を隠す
興秋(52歳)は1635年(寛永12)10月中旬から10月下旬、つまり山鹿郡庄村(現・鹿本町庄)の訴人百姓仁左衛門(助十郎とも)が長崎の奉行所に小笠原玄也を訴え出て、長崎の奉行所から細川藩へ問い合わせがあった時点で小笠原玄也一家は庄村の自宅に監禁された。それと同時に興秋は身を隠すために山鹿郡庄村の「泉福寺」を密かに出て、山鹿から菊池川を(あるいは玉名を経て髙瀬から)舟で下り、海路天草の御領に向ったと推測される。天草の御領の選定と隠蔽の準備は米田監物是季(49歳)が天草御領の隠れキリシタン代表の庄屋・特に佐伊津の庄屋・興季達と連絡を取り全て手筈を整えた。天草への渡海の準備と警護は米田監物是季の精鋭が務めたと推測される。 

興秋の存在を表に出さないために、世間の目を興秋から逸らすため、興秋を逃がすために小笠原玄也一家15人は興秋の身代わりとなり犠牲となった。 

小笠原玄也の遺書第九号・山田半左衛門宛の書状の最後に『申たく候文ニて申べく候へとも、熊(わざと)これを進申さず候。せすす・まりや申候。』 

小笠原玄也の遺書第二号・御みやさま宛のかえし書に『此の一ぶ(分)はこともあまた御さ候まま、しせんの事のためにと、そんし候て、おき申候。』 

玄也の言いたいこととは何だったのか? あえて言わずに死に臨んだこととは、人に言わずに神であるイエス・キリスト、聖母マリアに訴えたかった事とは何だったのか? 

玄也の面目(一分)とはなんだったのか? 玄也一家を死にまで追いやったキリシタン信仰小笠原玄也一家の殉教の記録は、細川藩の記録にのみ見ることが出来る。 

小笠原玄也処刑の総責任者・米田監物是季の国家老・長岡佐渡守宛の1635年12月24日付の書状に、興秋の安否が『御やと御無事ニ御座候』と書いてある。 

*國家老・長岡監物書状、長岡佐渡守ニ遣候書状之内(寛永十二年十二月廿四日付)

『御やと御無事ニ御座候、爰元相替儀無御座候、併玄也儀ニ付而、何も気をつめ申候処、相済らち明申候而、今ハ何も落着申候、』 

『御主人は御無事です。こちらは変わりありません。しかし玄也の件については、何とも気を詰めていましたが、処罰が済み解決しました。今はすべて落着しました。』

『御やと御無事ニ御座候』の「御やと・ご主人」とは興秋のことであり、小笠原玄也の処刑報告の冒頭に興秋の安否を報告している。
小笠原玄也処刑の総責任者・米田監物是季(これすえ)の国家老・長岡佐渡守宛1635年12月24日付けの書状に、興秋(52歳)の安否が『御やと御無事ニ御座候』と書いてある。 

米田監物是季が小笠原玄也の処刑報告の冒頭に興秋の安否を『御やと御無事ニ御座候』と報告している。米田監物是季にとっての御主人とは細川興秋であり、米田監物是季は大坂の陣以来、興秋の警護を担当し隠蔽の全責任を負っていた。このことは興秋と小笠原玄也とが1615年以来行動をともにしていたことも示している。 

この時、藩主細川忠利は江戸に在勤、父忠興は八代にいることが国家老の長岡佐渡守(松井新太郎興長)、長岡(米田)監物是季の両名には分かっているのに、『御やと御無事ニ御座候』との報告は、興秋についての安否報告であり、米田監物是季のこの書状は、この時点で細川興秋が生存していて、小笠原玄也の一件に巻き込まれずに無事に鹿本町庄村泉福寺から天草御領のキリシタン寺(了宿庵・東禅寺)に避難したことを示す唯一の重要な証拠となっている。

興秋・天草へ避難する
当時、天草は唐津藩主、寺沢広高が拝領していて、1621年(元和7)以来、三宅藤兵衛重利が天草富岡番代になっていた。(萬松山却記簿)

三宅藤兵衛重利は細川忠興の妻、玉ガラシャ夫人の姉の子であり細川興秋と三宅藤兵衛は従兄弟同士である。寺沢広高の妻は妻木貞徳の娘、明智光秀の妻も妻木家の出身。明智家、寺沢家ともに、細川家とのつながりが深い親戚関係である。米田監物是季はこの血縁関係も考慮に入れ、あえて寺沢藩領の天草御領を選択したと推測される。 

天草の佐伊津、御領は興秋の側室(妾)、嫡子興季の母の郷里であり、また確固たる基盤を持つキリシタン信徒組織コンフラリアが存在していた。 

1617年(元和三)、中浦ジュリアン神父が集めたコーロス徴収文書に天草内野村の信徒代表として三名の名前が記載されている。(正確には内野村とは現在の城河原一帯を指し、井手組庄屋の長嶋家が代表)。天草御領のキリシタン大長嶋九兵衛(安当仁)、ささ原与兵衛(備前天)、飛瀬外記(伊即所)。 

秘密裏に米田監物是季(49歳)が興秋(52歳)の受け入れを興秋の嫡子・興季に打診していたと思われる。興季は御領のキリシタン指導者である東禅寺の正願和尚に、父興秋の受け入れを願った。正願和尚は即座に興秋の御領での受け入れを了承している。

米田監物是季はこれらのキリシタンコンフラリア・信徒組織代表者に連絡を取り、すでに秘密のキリシタン礼拝堂のあった御領城跡に興秋は隠れ住んだと思われる。キリシタン寺(礼拝堂)を偽装(Camouflage)ために後に「長興寺薬師堂」を建立した。表面的には「長興寺薬師堂」の住職として興秋は身を隠して潜伏した。 

長興寺薬師堂


興秋が建立した「長興寺薬師堂」明治時代の写真 芳證寺所蔵

「長興寺」の号は、長岡の長、興秋の興を取って長興寺と名付けた。元々はキリシタン寺。

1648年(慶安元)以降、長興寺薬師堂の御領城内の建てられていた場所については、江戸時代の御領城跡芳證寺所有の二枚の絵図(見取り図)に克明な記録が残されている。 

御領城地は廃城後キリシタン寺が建立され、鈴木重成時代の茶屋(陣所)を経て、1648年から芳證寺の境内と墓地になった。(芳證寺文書による)(2枚の見取り図参照) 

「島鏡」に『寺屋敷東西弐拾四間、南北三拾壱間、此外薬師堂屋敷東西拾弐間、南北拾間、同所廻り畑弐反六畝支配之事』とある。

興秋が居住していたと思われる薬師堂屋敷は東西12間、南北10間と記録されている。 

明治初期に撮影された貴重な芳證寺薬師堂古写真には(南向きに東西)間口3間、(南北に)奥行き2間と但し書きがあり薬師堂の姿と大きさが確認できる。3間=5,46m 2間=3,64m (1間=1,82m)


天草御領 芳證寺墓地にある細川興秋公主従の墓

 薬師堂は現在の芳證寺の本堂の東側と、細川興秋公主従の墓(宗専和尚主従三基の墓)の北側の間に建っていた。 

興秋が天草御領の東禅寺へ避難した1635年(寛永12)10月頃から、三宅藤兵衛重利が本渡の戦いで戦死する1637年(寛永14)11月14日までの約2年間、興秋と藤兵衛は密かに連絡を取り合って会っていたと考えられる。従兄弟同士の実に1614年(慶長19)以来、21年ぶりの再会だった。興秋と藤兵衛は母であるガラシャの想い出話に懐かしく昔の良き時代を偲んだことであろう。 

三宅藤兵衛重利の戦死
1637年(寛永14)11月14日、三宅藤兵衛重利が本渡の戦いで戦死した時、当時佐伊津の庄屋だった興秋の息子興季(中村五郎左衛門興季・キリシタン)が、叔父藤兵衛の晒された首と遺体をキリシタン乱徒軍から引き取り、懇ろに広瀬の高台に葬っている。場所は、現在の天草市広瀬の「三宅藤兵衛重利の墓地」である。 

 これまでの「天草の乱」についての記録には「佐伊津の庄屋・右衛門とか、市右衛門」と言う名前で記録されていて、今までに書かれた「天草の乱」についての記録には、佐伊津の庄屋が興秋の息子の興季であること、三宅藤兵衛と血縁関係があり、叔父と甥の関係だと書かれた物はない。今回佐伊津の庄屋の末裔である中村社綱氏の所蔵している『佐伊津庄屋・中村家系図』の開示と教授により、三宅藤兵衛と佐伊津の庄屋・興季が興秋の息子であり、藤兵衛とは叔父と甥の関係であることを教えて頂けた。
新しい天草の歴史の発見である。 

「藤兵衛の首は介錯をした山本五郎兵衛が田の中に押し込んで隠したが、後一揆の者が探し出し、本戸の浜に曝し首にした」「その後佐伊津の庄屋右衛門がもらい受け、広瀬の高台に埋葬したのが、現在の藤兵衛の墓である」
*『上天草市史 大矢野町編3 近世』148頁 
鶴田倉造著『天草島原の乱とその後』平成17年 

「この時、佐伊津の庄屋、市右衛門が一揆の者どもから遺骸をもらい受け埋葬したのが、現在の広瀬にある藤兵衛の墓地である。」
*『五和町史』503~504頁 五和町史編纂委員会 平成14年 

興秋の息子、佐伊津の庄屋の「興季・キリシタン」が叔父・三宅藤兵衛重利の晒されていた首と遺体を一揆軍よりもらい受け、広瀬の高台に埋葬した後、石塔を建てて供養した。 

「天草島原の乱」の終息後、御領に帰ってきた興秋も、息子興季の案内で、従兄弟の藤兵衛の墓に詣でている。興秋と興季は藤兵衛の為に本来ならば武将三宅家藤兵衛に相応しい墓所を建立したかったのであろうが、あまりにも墓所が立派すぎると、建立した興季と興秋との関係を疑う者が出ることを避けるために、派手な墓所建立は避けて、質素な石碑のみに留め置いたと考えている。


天草市広瀬にある三宅藤兵衛の墓碑 撮影:原田譲治


天草・御領・芳證寺の過去帳の細川興秋(宗専)と嫡子興季に関する記録

佐伊津の庄屋・中村家系図の冒頭(五代)
細川藤孝・忠興・興秋・興季・中村藤右衛門

佐伊津庄屋・中村家家系図より

元祖

細川興五郎源興秋入道

 長岡兵部大輔源藤孝入道・細川幽斎の孫

 丹後国・豊前国主細川忠興三斎および細川玉ガラシャの二男、肥後国藩主忠利の兄 天正十一年未(1583)生まれ。洗礼名・ジョアン
 大坂夏の陣(1615年・元和元)後 天草島御領隠棲
(長興寺殿慈徳宗専大居士・寛永十九年壬午(1642)六月十五日)病死 
行年六十歳
*芳證寺の過去帳の死去した日付け六月十五日の記録は追記だった。 

興秋
寛永十九年壬午(1642)六月十五日歿(東禅寺過去帳)

東禅寺の過去帳にある興秋・宗専の記録 (2020年9月26日再調査)

富村(御領)大庄屋 先祖
寛永十二乙亥(1635年)六月十五日 宗専
右享保十九甲寅(1734年)歳追百年忌富
※東禅寺過去帳の死去した日附け、六月十五日の記載は追記だった。 

芳證禅寺の過去帳にある興秋の死亡記録

興秋
長興寺殿慈徳宗専 細川興五郎興秋 入道シテ宗専ト号ス
慈徳院殿宗専大居士 寛永十九年壬午(1642)六月 大庄屋開祖
右享保十九甲寅(1734年)歳追百年忌富
※芳證寺過去帳の死去した日附け、六月十五日の記載は追記だった。 

*興秋が死去した1642年(寛永19)6月には、まだ芳證禅寺は存在していなかったので芳證禅寺の過去帳には興秋は追記として記載されていた。

長興寺薬師堂の薬師如来像 御領芳證寺


細川興秋の位牌 長興寺薬師堂 御領 芳證寺所蔵

芳證禅寺 長興寺薬師堂の興秋の位牌、
表 長興寺殿慈徳宗専 裏 寛永19年壬午(1642)6月15日


細川興秋の墓碑(中央)左右 従者の墓碑

芳證禅寺 長興寺薬師堂横の墓碑銘
表 長興前住泰月大和尚禅師
(2020年10月10日再調査)

興秋の妻(側室)
天草富岡城城代伊佐津金浜城主・関主水の女、中村半太夫養育
月山妙雲大師
寛永十二年乙亥(1635)七月十日歿 (東禅寺過去帳では確認できなかった)
寛永十二年乙亥(1635)七月十日歿 (芳證寺過去帳にて確認)
大庄屋元祖宗専大居士妻(長岡与五郎)
旧佐伊津村庄屋役 中村家系図にて確認 

東禅寺過去帳、芳證禅寺過去帳に記載されている興秋の妻の墓碑を、御領城内芳證寺墓地にある興秋の墓周辺の古細川家墓地を探したが確認できなかった。すでに廃棄、撤去されていると考えている。墓碑がどこにあったかを示す記録もなかった。おそらく興秋が自分の墓碑を妻の墓のすぐ横に建立したと考えるがこれも推測である。 

初代・大庄屋
中村五郎左衛門興季(おきすえ)
 
幼名与吉・興吉
 寛永十八年癸丑(1641)大庄屋役拝命
 桂月英枝居士 長岡家二代 五郎左衛門
(寛文十年庚戌(1670)八月十七日)歿 年齢不明 (芳證寺過去帳)

2020年11月16日 再調査 中村社綱氏、芳證禅寺・村上和光住職、髙田重孝、花岡聖子 

興季の誕生年推定 1606年(慶長11年丙午)64歳
         1607年(慶長12年丁未)63歳
         1608年(慶長13年戌申)62歳
         1609年(慶長14年乙酉)61歳

死亡年齢は東禅寺過去帳・芳證寺過去帳にも掲載されていなかった
 

興季が何時、佐伊津の庄屋に抜擢されたかについて
通常、庄屋に任命される者は、千石以上の武士の家系の次男が多かった。

興季は佐伊津城主・関主水(立家進之助の娘の嫡子)の孫であるから、おそらく三宅藤兵衛重利が富岡城代に赴任した1621年(元和7)に、従兄弟の興秋の嫡子として佐伊津の庄屋に取り立てたと考えられる。興季にとって三宅藤兵衛重利は叔父にあたり、興季と藤兵衛重利は、叔父、甥の関係を秘めて、共に政策の協調を計っていたと考えている。 

1641年(寛永18) 興秋存命中、興季は鈴木重成によって御領の大庄屋を拝命した。その時、次期御領大庄屋に嫡子の長野宗左衛門興茂(長男)、佐伊津庄屋には中村藤右衛門(初代・中村五郎左衛門興季次男)が任命されている。 

妻(興季の妻)
長崎町年寄・髙木勘兵衛の伯母 一翁母
潤相妙徳大姉 元禄二年己巳(1689年)十一月七日歿 妙徳 
(東禅寺過去帳) 

以下省略

明智光秀・細川ガラシャ・興秋・興季・中村藤右衛門の子孫 中村社綱氏(左)(右)髙田重孝


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?