天草五和町御領に伝わる伝承・四つのキリシタン組織・コンフラリアについて

薬師如来三尊像・室町時代作 長興寺薬師堂 芳證禅寺所蔵  天草五和町御領 撮影・原田譲治
長岡興秋主従墓碑 芳證寺墓地 中央・細川興秋墓碑 撮影・原田譲治
岩谷観音堂「岩屋観音像石板絵』1730年・享保15年
聖母マリア観音の掛け軸 天草四郎ミュージアム所蔵

天草市五和町御領の伝承「細川興秋と專福庵」に関する調査報告

はじめに
 
1635年(寛永12)10月頃、肥後国山鹿郡鹿本町庄にある「泉福寺」に住職として3年間、隠棲していた細川興秋(52歳)は、同村周辺に隠棲していた小笠原玄也一家のキリシタン穿鑿訴追から逃避するため、興秋の護衛を任されていた米田監物是季により、天草佐伊津の庄屋である興秋の嫡子・興季に、父興秋の避難先の相談が持ち掛けられた。佐伊津の庄屋である興季は、御領城跡地にあるキリシタン寺(了宿庵・東禅寺)の第2代住職・正願和尚(有馬仙巌の5男の息子・志岐麟泉の養子の息子)に父興秋の受け入れを要請した。事は急を要する案件だけに、正願和尚は興秋の受け入れを即座に承諾している。 

米田監物是季は正願和尚の承諾を受けて、興秋を山鹿郡鹿本町庄の「泉福寺」より無事に連れ出し、山鹿より舟で菊池川を下り、髙瀬に於いて船に乗り換え、有明海を渡り、天草御領まで運び、無事東禅寺に避難させている。「泉福寺」にあった『薬師如来像』他の諸々の荷物は後日、米田監物是季が東禅寺へ届けている。 

興秋の存在を表に出さないため、世間の目を興秋から逸らすため、興秋を無事逃がすために小笠原玄也一家は興秋の身代わりとなり犠牲となった。小笠原玄也一家15人は1635年(寛永12)12月23日、禅定院にて斬首処刑された。小笠原玄也一家は興秋の身代わりのために供された山羊(scapegoat)だった。 

 御領に無事避難した興秋は、暫くの間は正願和尚の「了宿庵・東禅寺」に匿われていたが、キリシタン寺である東禅寺にいつまでも隠れているわけもいかず、御領城跡にある一角を貰い受け、そこに「長興寺薬師堂」を建立して住む場所として庫裏(住居)を造り引っ越した。 

 興秋の天草御領移住により、御領に於いて「了宿庵・東禅寺」の正願和尚、『長興寺薬師堂』の細川興秋という二人の指導者が、御領周辺のキリシタン組織を導く体制が確立した。 

 1600年(慶長5)関ヶ原の戦いで敗れた小西行長の家臣が、天草に領地を貰い治めていたが、新しく天草の支配者である加藤清正の法華経への強制改宗に反発して、帰農して、地元でキリシタンの指導者となっていた。加藤家の改易により天草は唐津藩により収められていた。 

 細川興秋が御領へ移住した2年後、1637年(寛永14)天草全土に於いて天候不順による不作が続き、年貢を治められない農民が多く出て、天草を治めている唐津藩に対する農民の不満が高まり暴動へ発展した。天草全土の農民が唐津藩への政治に不満を抱き、地域の指導者でもあるも小西行長の家臣だった武士を中心として組織的暴動へ発展した。「天草の乱」の勃発である。 

 細川興秋と東禅寺(了宿庵)の正願和尚は御領周辺のキリシタンたちを「天草の乱」に参加させないために、興秋の家臣である長野幾右衛門、渡辺九郎兵衛、興秋の息子・佐伊津の庄屋である興季、正願和尚等が、できる限りの手を尽くして、御領周辺のキリシタンたちを「天草の乱」に参加させないために説得して回っている。 

 下記の4つの場所は、御領周辺に残されている興秋に関する伝承として語り伝えられている場所であるが、興秋が実際住んでいた場所ではなく、御領のキリシタンの組織・コンフラリアがあり、志岐領内にあった14の教会を支えていたコンフラリア(組み講)の実在していた場所があった処だったと思考している。 

故山本繁先生への感謝
 
御領周辺の全ての場所の伝承は、御領地区にお住まいで「天草に於ける興秋研究」を40年に渡りしてこられた故山本繁氏から資料を譲り受け教授して頂いた。地元に住んで細川興秋の研究をされた山本繁先生でなければ、これだけの伝承史料は集めることはできなかった。また集められた資料を惜しげもなく後輩である興秋研究をしてきた私に教授して下さった山本繁先生の心の優しさと懐の深さに改めて感謝しています。

髙田重孝(左)山本繁先生(右) 中央・聖母マリア観音掛け軸 サンタマリア館にて

下記の4ヵ所の伝承は御領周辺の興秋に関する伝承を、受け継いだ資料を基に構成している。御領地区に伝わる「興秋伝承の記録」であり、実際の興秋の行動とは違うことを了承して頂きたい。 

天草市五和町御領の伝承「細川興秋と專福庵」に関する調査

1、長崎鼻キリシタン寺跡地(五和町御領字長崎)
2、松ヶ迫地区の仙福庵跡地(五和町御領字松ヶ迫)
3.御領城近くの專福庵跡地(岩谷観音堂の崖上・五和町御領字堀)
4、御領城内の長興寺薬師堂跡地(五和町御領字馬場)
 

1     長崎鼻のキリシタン寺跡地(五和町御領字長崎)
  現在地:若宮海水浴場東側(字長崎の東端)

二つのキリシタン井戸跡の推定地 天草セントラル病院屋上より撮影

現在の若宮海水浴場横・五和海洋レジャーセンター先の長崎鼻。現在は「海老の養殖場」になっている一帯から波瀬(なみぜ)と呼ばれる岩礁の近くにある二つのキリシタン井戸跡。 

古くは海に突き出た岬で、長崎の岬の上(現・長崎市江戸町)に建てられた「被昇天のサンタマリア教会」(礼拝堂)に似ているため、御領地区のキリシタンたちから長崎鼻と呼ばれていて、そこに若宮地区のかくれキリシタン教会(礼拝堂)があり、細川興秋が1635年(寛永12)10月頃、熊本鹿本(現・熊本県山鹿市鹿本町庄)の「泉福寺」から逃避してきて最初に匿われた。かくれキリシタン教会(礼拝堂)に庵を構え「専福庵」と名付けて住み始めた跡地とのこと。

岬自体は1792年(寛政4)の雲仙普賢岳大噴火の際、地震により地滑りや陥没で地形が変わってしまったところに普賢岳噴火の際の眉山崩壊による大津波で流されてしまい海になった場所。現在は「海老の養殖場」の先、海の中の波瀬(なみぜ)の近くに井戸跡が二つ残っている。この井戸が「長崎鼻のキリシタン井戸」と呼ばれている。波瀬は春と秋の大干潮(旧暦)の時のみ姿を見せる岩礁。 

若宮地区のかくれキリシタン教会は、天草に40あったキリシタン教会(集会所・組み講)の一つと考えられる。現・五和町には14の教会があったと報告されている。 

キリシタン井戸の調査(2013年3月の大潮の時期)
地元御領の漁師・金子高廣氏から波瀬のキリシタン井戸跡のあった大体の場所を教えて頂いた。金子氏の話では、昔は井戸の両側の横に鶴瓶を掛けるための2本の石柱が倒れているのが見えていたとのこと。
泉五郎氏の舟で現地に行き海面より探索したが、キリシタン井戸のある周辺の砂地は大量の海藻が自生していて井戸跡の痕跡も井戸脇の石柱も砂に埋もれていて発見することができなかった。 

2つの海中キリシタン井戸の場所の推定
御領新町交差点より国道324号で北上、約2キロ、左側に五和中学、右側に天草セントラル病院がある。天草セントラル病院の手前に「ケアセンターなぎ」がある。「ケアセンターなぎ」の海岸線から東に約200m沖の海の中。天草セントラル病院の北側に突き出た「エビの養殖池」の南の端から南方へ約200m海の中。両方の交わった砂地の付近にキリシタン井戸と呼ばれる2つの井戸が存在することが判明した。この地点は御領の漁師金子高廣氏から教えていただいた地点とほぼ一致している。また、故山本繁氏が近くに住む漁師の古老から聞いた話では、漁師たちが若いころ漁に出た時、飲料水として、また昼ご飯を炊くときに、この海中井戸に潜り、空の徳利に井戸から沸いている真水を汲んで使い飲み水としても利用していたと証言されている。この話は、本島兵吉著『御領村史跡 第10号』御領小学校郷土室編 昭和28年夏・1953年発行にも書かれている。 

また地元の伝承として「天草島原の乱」の時、1638年1月13日~27日まで、オランダ船二隻がこの海上に姿を現している。指揮官・松平伊豆守信綱は、当時日本と貿易関係にあったオランダに海上からの砲撃を要請している。松平信綱は二隻のオランダ船を動員して海上より大砲を原城に向けて撃たせている。「平戸オランダの商館日記」「ニコラス・クーケバックル日記」には、12ポンドの青銅砲と5ポンドの鉄製ゴーデリング砲門が陸に設けられていた砲台に備え付けた。陸上の砲台からは10日で292発を打っている.海上と陸の砲台からの砲撃により420発の砲弾が原城に打ち込まれた。この時2隻のオランダ船は、水の補給のために、近くの長崎鼻にあったキリシタン井戸から水の補給をしたと言い伝えられている。 

キリシタン井戸と言われている井戸の形は「東禅寺前に置いてある麥大石(ばくだいし)」の説明板には六角形と記されている。一尾(ふとお)の「庵の川」(井戸の意味)と同じ四角形と言われているが、現物の井戸が未だに目視で確認されていないので、六角形なのか四角形なのか判明していない。 

『土地の様子から考えると、この近くに千切(ひぎれ)れという地名があります。干潮時に干し切れる意味から出た地名であります。依って向長崎の満守を一つにした島であったことを物語っています。その名のように切支丹宗徒が集まって長崎に似せたと言われています。

この海岸の沖合に波瀬(なみぜ)という所があります。一つは小波瀬と言い「小波瀬は大干潮時に少し頭を出す処」この小波瀬の南西五六十間の地点に切支丹井戸が「二個」あります。

老人の言う所によれば,此の地点は、昔は陸であった。ここが切支丹の根拠地でありましたが、温仙岳(雲仙普賢岳)の大爆発時(1792年・寛永4)に地震があって、津波があって地滑りや陥没があって海になったということです。海の中に井戸跡を残しています。この井戸が長崎鼻の切支丹井戸であります。 

この井戸の井桁という一つは当村(御領)の東禅寺(これは禅宗で後で真宗になる)に運び移されて今も残っており,庫裡の庭石・仙水の飾りとなっております。(現在は本堂左横に移設されている)この石に俳句があります。『よしあしのちえのさらえはぎょうぎょうし』麦太と銘があるのでバクダ石といいます。(バクダとは俳人名) 

キリシタン井戸と同じ井戸桁 山本繁氏

井戸蓋というのは、池田正次氏(御領)が前庭雪見燈籠の傘石として移し運ばせたと伝わっています。(銘なし)両個とも自然石であって、人力ではどうすることも出来ない大石であります。井戸跡というのは老人の話によると海中にあるけれども真水が湧き出て、極めて沢山湧き出て、徳利をからにして泳いで井戸底に至って真水を汲んだと言います。これから案ずれば湧き出る水の量はきわめて多くして、しかも二つも井戸を掘削したのは,或いはこの土地は外国から来た船に水を給したと言います。または一時の上陸安息所にあてたのではないかと思われます。出来れば識者の鑑定を受けたいものです。』
*本島兵吉著『御領村史跡 第10号』御領小学校郷土室編 昭和28年夏・1953年 

『一尾(ふとお)地区の庵の坂、庵の跡地、庵の川(井戸)』
現在地:旧・御領小学校跡の北東側、国道324号を挟んだ北東側、海に面した高台の一角

一尾地区の庵の坂 庵の跡地(左奥)

長崎鼻のキリシタン寺は1792年(寛永4)の雲仙普賢岳大噴火の際、地震により地滑りや陥没で地形が変わってしまったところに、普賢岳噴火の際の眉山崩壊による大津波で流されてしまい、海になってしまったので消滅したと言われている。 

長崎鼻から御領方面へ国道324号を少し南下した国道沿いの海側、旧・御領小学校横の北東側、海に面した一尾(ふとお)地区の小高い丘に「庵の坂、庵の跡地、庵のかわ(井戸)」という地名が残っている。「庵の坂」は一尾から浜口へ下りる坂の名称。「庵の川」は一尾にある金子利光氏宅の井戸の名称。 

この場所もキリシタン寺があった場所という伝承があるが、1792年(寛政4)の雲仙普賢岳大噴火後に長崎鼻から移ってきたキリシタン寺なのか、それ以前から存在していたキリシタン寺なのかは不明。「庵の坂、庵の跡地、庵のかわ(井戸)」という地名からして、專福庵の坂、專福庵の井戸ではなかったかと連想してしまうが、ただ単に「庵の坂、庵のかわ(井戸)」という名称・地名のみが残っているだけで、專福庵との関連性が不確かで断定する史料がない。 

「庵の坂、庵の跡地、庵のかわ(井戸)」との名称から考えられることは「キリシタン寺」より集合人数の小さい信者達の集会場所を「キリシタン庵」と呼んでいたと考えられる。「庵の坂」を登りつめた一角が高台で小さな岬のようになっていて、その高台にキリシタン庵があった場所「庵の跡地」と言われている。 

確かに細川興秋が隠れるに都合が良い条件が揃っている場所である。高台は海に向かって180度以上開けていて、北に早崎瀬戸、島原半島、正面に有明海と湯島、その奥に熊本、右に下って三角半島、大矢野島、松島、その奥に満越ノ瀬戸、大戸ノ瀬戸を通ると八代、天草上島、左に本渡、本渡瀬戸を通って薩摩方面へ船ですぐに逃げ出すことができる、見張るにも逃げるにも好条件が揃った場所である。 

「庵の跡地」高台の北側、谷間になっている切り立った場所の低底に「庵のかわ(井戸)」があった。「庵のかわ(井戸)」庵の井戸は現在でもその地区の農業灌漑用水として使用されていて2m四方の御領石で枠組みがしっかりと作られ、井戸の西側に水神様の小さな祠が祭ってあり大事にされている。 

庵の井戸と祠

御領地方の方言で井戸のことを「かわ」と呼ぶ。井戸の水を汲むことを「かわの水を汲む」と表現する。湧水や井戸のことを「かわ」と呼び、流れる川のことは「流れごう(河)」と混在して使い表現や呼び方が難解だった。現在では井戸は(井戸)、流れる川は川の名前別に(かわ、がわ)と呼ぶのが一般的である。 

2     松ヶ迫地区の仙福庵跡地
現在地:御領芳證禅寺より北西約1,6キロの松ヶ迫地区の仙福庵 

松ケ迫地区・仙福庵付近の風景

いつの頃から松ヶ迫地区のこの地が「仙福庵」と呼ばれるようになったのか不明だが、おそらく細川興秋が熊本山鹿(現鹿本町庄)の庄村の「泉福寺」から避難してきて、先ずは長崎鼻のかくれキリシタン寺に入り後、より安全な内陸部の、すでにキリシタン組織のしっかり構築されている松ヶ迫地区のかくれキリシタン寺に移ってきた時以来、その場所が「仙福庵」と呼ばれるようになったと推測される。 

細川興秋は1635年(寛永12)末頃からこの松ヶ迫に庵を結んで、その庵を以前住んでいた山鹿と同じ寺の名前の「泉福寺」から取って「仙福庵」と名付けたと推測される。泉を仙に変えることで自分の逃亡の痕跡を消す意図があったと考えられる。 

1620年(元和6)に父忠興が「三斎宗立」と号した同時期に細川興秋は自分の法名を「宗専」と号した。興秋の事を天草御領地元のキリシタンたちは「宗専和尚」と呼んでいたのか、あるいは興秋の墓碑銘が「長興前住秦月大和尚禅師」となっているので、地元の人々には「秦月和尚」と呼ばせていたかもしれない。細川興秋は松ヶ迫の「仙福庵」(キリシタン寺)での居住は短期間で早い時期、1635年の末から1636年前半に御領城内のキリシタン寺「長興寺薬師堂」に移ってきたと推測される。

御領城内のキリシタン寺に本格的に移ってきて元々あったキリシタン寺を「長興寺薬師堂」として偽装(Camouflage)して居住した。2年後の1637年(寛永14)には「天草島原の乱」が勃発しているので、その前に鬼池・御領・佐伊津・二江地区のキリシタンの人々が乱に加担しないように指導していることを考えると、長崎鼻のキリシタン寺、松ヶ迫での居住は短期間を推測している。 

松ヶ迫の「仙福庵」のキリシタン組織(細川興秋移転後)
細川興秋が御領城内のかくれキリシタン寺に移った後も、引き続き松ヶ迫地区のかくれキリシタン寺として機能し、松ヶ迫地区のキリシタン信徒組織の重要な役割を果たしていたと推測できる。松ヵ迫「仙福庵」にあった聖母マリア観音が享保15年(1730)に現在地の御領字堀の「岩谷観音堂」の場所に移動しているので、少なくとも1635年から1730年までの95年間は、地元のキリシタン達は松ヵ迫のかくれキリシタン集会所(仙福庵)を根拠地にして潜伏キリシタン組織としての活動があったと推測できるのではないだろうか。松ヶ迫地区の「仙福庵」という地名は、細川興秋が天草に来る前に住んでいた鹿本町庄の「泉福寺」に由来していると推測される。それ以外に「仙福庵」という名前が地名になる根拠が他にないから、その様に推測するならば、1635年以来、松ヶ迫地区のキリシタン集会所が「仙福庵」と呼ばれ、やがて地名として現在まで名を残していると解釈できる。 

鹿本町庄の「泉福庵」は、天草御領に於いては、専福庵、泉福庵、千福庵、仙福庵と、4通りの表記がなされている。現在の松ヶ迫での表記は「仙福庵」であるが、過去の文献には統一された表記はなく自由に使われている。 

3 御領城近くの專福庵跡地・御領字堀(岩谷観音堂の崖上)
「岩谷観音と石仏群(御領字堀)」撮影・原田譲治

岩谷観音堂の崖上 仙福庵跡地

『もとは北西方、松ヶ迫仙福庵に祀られていたものを、お告げを受けた農夫某がこの地に移したものである。高さ約2mの板碑に柳の小枝を持った楊柳観音が刻まれている。特に子宝・出産・乳の出などの悩みに御利益があると言われ、女の願いを聞いて下さるありがたい観音様として名高い。地域はもとより県内外から参詣者が多く、年中香の香りが絶えない。地元では「いわや(岩谷)さま」と言って親しまれ、祭礼は旧暦の1月と6月の18日に行われる。』
*『五和の文化財を訪ねて』五和町史跡文化財案内 五和町教育委員会 平成12年 

「岩谷観音」の説明板
『板碑に等身大の見事な観音像が彫刻されているが作者は確かでない。享保15年(1730年)の開眼、左手に洒水をのせ右手に柳の小枝を持った楊柳観音である。もと、この観音はここより西北方の專福庵(松ヶ迫)にあったが人里へ移り困っている人々に功徳を授けたいと三郎右衛門の夢枕に立ち、ここに移されたもの。乳授けや安産祈願の観音として近隣の人々の信仰が篤い。俗説によればこの観音様は、毎年一度は京のぼりをされ、その時は衣の裾がほこりで汚れていると伝えられている。』
*五和町役場 岩谷観音堂前の説明板より 

「専福庵」の崖下にある岩谷観音は聖母マリア観音像と考えられるので、禁教時代1730年(享保15)以降のカクレキリシタン礼拝堂ではなかったかと考えられる。 

「美人観音像」
『楊柳観音がある岩谷観音へ行ってみた。禅利芳證寺の西側の坂道を上り下ってからさらに西へ約200メートル細い道を行ったところ。そこには高さ約5メートルくらいの凝灰岩の岩壁が30メートルほど続いており、北に面している岩陰で陽射しの無いところでヒンヤリとしていた。

一番手前の入り口に当たる所には屋根付の大きな地蔵が立っていた。古そうに見えたが、実は明治34年3月3日建立の南無地蔵大菩薩で施主郷若連中であった。岩壁にはいくつも刳り抜いて砂岩で造った観音像を安置してあった。これが「岩谷観音」と呼ばれているもので、その数の多いことと天草では例のない観音像なので驚いた。奥の方には長さ3間、幅1間半の御堂があった。さらにその奥には、また感嘆するほどの美人観音像が立っていた。高さ150、幅62、厚さ6センチの砂岩の板石に約1センチ位の浮彫になっていた。その観音像は高さ143センチ、当時の女性の等身大で、12色のきれいな彩色になっていた。この板碑の右上方の表面に『享保十五年(1730)庚戌六月十八日開眼』と銘記してある。この観音はしなやかな手指に柳の枝を持っているので「楊柳観音」と言われているが、信仰上は、子を恵んでくれるとか,乳を出してくれるとかで「子宝観音」として近在近郷の人々から親しまれている。(中略) 
 天草における岩谷(岩壁)の観音像群があるのは五和町だけで、この岩屋観音群を初め、浦園、鬼之城、城河原の野口、手野の三岳などに無数の観音群が存在しているのは石材としての凝灰岩が多いということばかりでなく、観音信仰の宗教的傾向を明確にする必要もあろう。といっても、ここで簡単にできるわけではなく、今後の課題として考えてみたい。 

凝灰岩の多い御領を中心にキリシタン墓碑群と観音群が多いということが一致していること。天草の乱後(1637年・寛永14)仏教の全盛期を迎えた天草に於いて表面は仏教徒になった隠れキリシタンたちと観音信仰とのかかわりがないものかどうかということ。お寺参りを中心とした仏教信仰と少々変形した野外の偶像信仰としての観音信仰は、隠れキリシタンがお寺の支配に対して合法的な中でのレジスタンス(resistance・抵抗運動)の現われではなかったのであろうか。 

もちろん、これはあくまでも主観的な仮説であるがとにかく前にも述べたように五和におけるキリシタン墓碑群と観音像群との関連性について解明することは文化財保護の立場から重要な研究課題であるといえよう。』
*鶴田文史著『天草の歴史文化探訪』80~81頁 天草文化出版社 1986年 

「子安観音」
『もともと子安観音なるものは仏教にはなく、古来より「木花咲耶姫命」(このはなさくやひめ)を安産、子育ての「神」として祀る信仰が仏教の観音や地蔵と合併して出来たものとされている。

すなわち、日本古来より信仰の主流をなしていた神教は仏教が伝わり盛んになるとその主流をうばわれ、日本の神々はその本地である仏(本地仏)が形を変え、神として現れたものと考える「本地垂迹」(ほんちすいじゃく)の思想が生まれた。その結果、「子安神」に「観音」や「地蔵」信仰が加えられ「子安観音」が誕生したと言われている。天照大神の本地仏は大日如来で、八幡大神が八幡大菩薩になったりしたのは、この本地垂迹の思想からであった。

このような思想の中,禁教になり「聖母子像」を拝むことを禁じられたキリシタンはいち早く、子安観音や子育て地蔵・鬼子母神・慈悲観音を聖母子と見立てて拝みはじめたのである。 

これを「マリア観音」と言っている。観音であって観音でないこの「マリア観音」はキリシタンの間にたちまちの内に広まり、本地垂迹の思想はキリシタンにしてみれば絶好の逃げ道であったのである。さらに好都合でキリシタンの心を励ましたのは、子安観音の子供をいつくしみ抱くその姿は、聖母の御姿に通じ鬼子母神の持つ柘榴(ざくろ)はキリスト教では復活や純潔のシンボルとされ、中国から輸入された慈母観音の「白磁」はキリスト教の純潔の「白」の象徴でもあった。

 九州において、マリア観音は素人でも作られたが、有名なものに長崎県の北高木郡の古賀焼がある。これは熊本に伝播され、さらに広田政吉によって天草にも広められた。特に天草土人形の中では「山婆(ヤマンバ)」と呼ばれるものは信者の中で愛用されていた。その他、白磁で人気があったのが九州では平戸焼であった。(中略) 

本来のキリスト教の教えは、観音や地蔵を聖母やイエズスに見立てて信仰することは厳禁されていたにもかかわらず、日本の隠れキリシタンの間では慣例となり、これが幕末までの長い禁教期を乗り越えるための、ひとつの支えとなっていた。 

 『長崎地方では、その方言で天王(デウス)のことを地蔵尊(ジゾース)、イエスのことを地蔵菩薩像(ジゾーズ)、マリア像のことを丸屋仏とよんでいたという。』
*三田元鐘著『切支丹伝承』。高田茂著『聖母マリア観音』142~143頁 

『このマリアの懐妊や受胎告知について日本のキリシタンは観音の腹を大きくして妊娠した姿として現している』58頁
『お腹の大きい観音様、天草(五和町御領)の元キリシタンの家にあった観音だがお腹が大きく十字架を無数に付け、冠には日と月が描かれている。観音を仮託したマリア像であろう。』
「天草サンタマリア館所蔵の岩谷観音の掛け軸」59頁
*浜崎献作著『かくれキリシタン・信仰の証』1997年 

聖母マリア観音の掛け軸(天草四郎ミュージアム館所蔵)と岩谷観音板碑絵との相違点と類似点 (冒頭口絵写真参照 撮影・原田譲治)

浜崎献作先生の御父様、濱崎栄三先生が戦前に五和町御領の元隠れキリシタン信者から譲り受けた江戸時代の掛け軸。出所は御領の庄屋である長岡家と思われ五和町御領の岩谷観音像元絵と言われている。 

観音について
観音像とは本来仏が慈悲の姿として現されている像のことであり、表情はあくまでも優しく女性の様な表現である。仏は元来男性であるので、女性に例えた表現はあるものの、妊娠した姿を取ることは仏教ではなかった。妊娠した観音様とは、キリスト教の影響・イエス・キリストを身ごもった聖母マリアの影響が反映された姿である。したがって「妊娠した観音像」とはキリシタンたちが独自に作り出した仏教とキリスト教の融合した「聖母マリアの観音様」と考えられる。 

おそらく、江戸時代初めの松ヶ迫の仙福庵の観音像はこの掛け軸と同様のマリア像が描かれていたのであろう。冠にはマリアを象徴している月と神を象徴している太陽が描かれていて十字架も飾られている。耳飾り(イヤリング)に左右一対の十字架、首飾りからも沢山の十字架が確認できる(6個)衣には刺繍であろうか、沢山の十字架が描かれている。衣の膨れ具合からお腹が大きく妊娠していることが窺い知れる。 

禁教時代に入り「聖母子像」を拝むことを禁じられたキリシタンはいち早く、子安観音や子育て地蔵・鬼子母神・慈悲観音を聖母子と見立てて拝みはじめた。これを「マリア観音」と言っている。観音であって観音でないこのマリア観音はキリシタンの間にたちまちの内に広まり、本地垂迹の思想はキリシタンにしてみれば絶好の逃げ道であった。さらに好都合でキリシタンの心を励ましたのは、子安観音の子供をいつくしみ抱くその姿は、聖母の御姿に通じることから、観音を仮託したマリア像として拝むようになった。 

天草四郎ミュージアム所蔵の「聖母マリアの掛け軸」(非公開)と「岩谷観音の板碑絵」の女性の立ち姿、首を少し前に垂れ、右手に楊柳を持ち、左手に洒水を器に入れて載せている構図も共に同じである。 

「聖母マリアの掛け軸」の色は経年劣化のためか少々茶色がかっているが、足元の赤色や袖の中の赤色は鮮やかな色彩を保っていることを考えると、元々描かれた当時から色彩を抑えて描かれたと思われる。岩谷観音の板碑絵は鮮やかな色を保っている。明確な資料がないので不明だが、描かれた当時のままの色なのか、後年、何度か色を塗り重ねたのか知りたいところである。 

天草四郎ミュージアム所蔵の「聖母マリア観音の掛け軸」は岩谷観音の原画と推測される。掛け軸ゆえに禁教時代も丸めて隠せば場所を取ることなく隠しやすく、携帯にも優れているので、詮索からの避難の時の移動も容易いという利点が数多くあるゆえに、信徒代表の家で大事に保管保存され代々受け継がれてきたのであろう。現在は表装部分に痛みが散見されるが、表装からも、聖母マリアに対しての崇拝尊敬の念と聖遺物として信仰の対象として大事にされてきたようで、当時としてはかなり贅沢な造りとなっているのが判る。 

五和町御領の岩谷観音の元絵になった「マリア観音の掛け軸」は400年の時を超えて現・大矢野島の「天草四郎ミュージアム館」に収蔵されている。「マリア観音の掛け軸」は、御領の大庄屋・長岡家に伝わっていた掛け軸と考えられ、長岡家の初代・細川興秋が肌身離さず持っていた掛け軸、マリア観音の顔は興秋の母である細川ガラシャ夫人を写したと考えられる。現在の所、細川ガラシャ夫人の顔を写した絵は一枚も存在が確認されていない。したがって天草四郎ミュージアム所蔵の「マリア観音の掛け軸」が日本で唯一現存する細川ガラシャ夫人の絵姿と思われる。 

 現在の所、天草四郎ミュージアム館に収蔵されている「マリア観音の掛け軸」は正確な鑑定をさせてもらえない状態が続いている。正確な鑑定、紙質、絵画の技法、表装の年代の特定等の鑑定が行われるならば「マリア観音の掛け軸」の価値が正確に判り「岩谷観音」との整合性も確認されることになる。しかし、現段階で正確な鑑定ができない状態ならば、伝承の域をでない物としての取り扱いしかできない事は誠に残念である。 

「聖母マリア観音の掛け軸」についての別の解釈

石本家寄進説
石本家は御領に於いて経済的にもキリシタンたちを支えているので、松ヶ迫の「仙福庵」のマリア観音像の元絵である「掛け軸は」石本家が交易で手に入れて、地元の松ヶ迫「仙福庵」に寄進した絵かもしれない。興秋が持参した掛け軸ではない可能性もある。

明らかに松ヶ迫の「仙福庵」という名称は、興秋の山鹿庄の「泉福寺」に由来していることは確かな事だが、興秋が「マリア観音の掛け軸」まで持ってきたのかどうか、それが松ヶ迫の「マリア観音」になったのかどうかまでは現在のところ断定できない。正確な美術鑑定の結果を待ち、その鑑定の結果の後、改めて解釈や推測しても遅くはないのではないかと考えている。
参照 御領の石本家 (天草に於けるキリシタン組織の発展) 

「岩谷観音の板碑絵」
岩谷観音の板碑絵は厳しい禁教時代を生きるために「マリア観音の掛け軸」にある沢山の十字架や冠の月と太陽等が塗りつぶされたのか、初めからキリシタン信者以外の仏教徒の目を意識してキリシタンと判る十字架、月、太陽等の象徴が意識的に省かれていて、ただ聖母マリアを象徴するお腹を大きく描いた懐妊した姿のみが強調された絵になっている。キリシタンにとって懐妊した姿の観音は聖母マリアであり、観音を仮託した聖母マリア像として拝がんでいた。拝み祀る信仰の対象としてはそれで充分であったと思われる。初めのうちは聖母マリアとして崇拝していたのであろうが、時が経つにつれキリシタン信仰そのものが土着の宗教・神道・仏教・修験道等の思想が入交り、仏教化した観音信仰(妊み観音)へ変形していったと考えている。 

細川興秋が天草に避難してきた1635年(寛永12)には、すでにこの「聖母マリア信仰」が天草の地にあったと思われるが「專福庵」にマリア観音が根付いて現在まで伝えられていることを思えば、細川興秋と岩谷観音が、天草五和町御領に伝わる伝承「專福庵」及び「聖母マリア観音」という媒体を通して結びついてくる。天草に伝承されていた「專福庵伝説」と鹿本町庄(現・熊本県山鹿市鹿本町庄)の「泉福寺」とが、細川興秋の天草への避難を証明している。細川興秋の天草への避難の跡が、山鹿(現・鹿本町庄)の「泉福寺」と同じ名前の「專福庵」であること。鹿本町庄の「泉福寺」と天草五和町御領の松ヶ迫地区の「仙福庵」。有明海を隔てた二つの「泉福寺と專福庵」は二つの割符のごとく見事に一つに符合する。 

その後の專福庵・御領字堀(岩谷観音堂の崖上)
芳證寺四世蜜嚴老師御事跡「記録」同師の真筆ならん
芳證寺四世蜜嚴道国老師御事跡(芳證寺文書)18~25頁
*『五和町史資料編(その9)御領城跡・鬼池城跡』天草郡五和町教育委員会 平成10年 

芳證寺四世蜜嚴道国老師御事跡(芳證寺文書)18~25頁に掲載。
25頁以降は(以下略)により記載されていない。しかし略された芳證禅寺の原文書には「泉福庵」の事象が記載されているので、その個所を抜粋記載する。 

『(前略)十月二十日ニ帰国いたし、直ニ天草行脚に出て湯崎、大矢野,方々いたし、十二月二十四日,本戸(本渡)姉はしが所ニ一宿いたし、米壱升,薪壱駄もらいて十二月二十五日ニ御領中村観音堂ニ入、破屋実ニ浅間敷風情なり。半四郎方より火鉢壱ツかりよせ、かゆをたき、その年を越えたり。巳ノ正月泰林和尚来訪して偒有り、観音堂本屋敷ハ四間ニ六間ニて候所ニ余りせまく、在家近ク候故,古屋敷ハ、道ち壱間ニ二十四間替地ニいたし、今の所ニ観音屋敷とり致也。岩谷観音屋敷ハ、五郎右衛門,又兵衛、両方より出シ合せ寄進いたすなり。寄進證文有り。庵号、泉福庵と名付け院寮ニいたし、取立可申と存、十年暮(らし)居候処ニ、心ニ不叶事有之候故、享保十発辺ノ二月十一日、泉福庵を捨て、立出、二月より七月まで内野川内村ニ借庵し、七月、又大嶋子村ニ来りて薬師堂をかり、辺寅ノ両年を暮すナリ。享保十九甲寅(1734年)十月五日小屋入、大工才津村前介開聖竹林建立す。荒普請して十二月十八日ニ入、仏供養す。内普請ハ卯ノ三月成就せり。(後略)』 

上記の芳證寺文書により芳證寺四世蜜嚴道国老師は1714年(正徳4)12月25日に御領中村観音堂に入り、庵号を「泉福庵」(芳證寺の末庵・四世密厳道圀の隠居所)と名付け、10年に渡り泉福庵に於いて暮している。

1725年(享保10)に泉福庵を捨てて、内野川内村を経て大嶋子村に移り住み「聖竹林」を建立して住んでいることが述べられている。残された御領字堀の「泉福庵」はその後、代々庵主が代わりながら住み続け、大正12年(1923)4月5日まで最後の尼庵主・梅仙尼(享年58歳)墓碑「前永平大輪源光和尚 千福庵住戒法梅香尼和尚」が住んでいた。その後庵主を失った「泉福庵」は朽ち果てて姿を消してしまい、現在は畑と墓地となっている。 

調査のまとめ
1、 細川興秋は1635年10月頃、山鹿から避難してきた直後、現・若宮漁港の長崎鼻の高台にあったキリシタン寺に庵を構え「專福庵」と名前を付けて住み始めた。長崎鼻の高台に若宮地区の信徒のためのキリシタン礼拝堂がすでに存在していた。現五和町地区には14のキリシタン教会があったとイエズス会の記録にある。 

2、 しばらくして、細川興秋は長崎鼻のキリシタン礼拝堂より、芳證寺の西北方の松ヶ迫にあったキリシタン寺「仙福庵」に移って身を隠した。松ヵ迫のキリシタン礼拝堂はその後1730年(享保15)までキリシタン観音堂として松ヶ迫地区に残り、1730年に現在地の御領字堀に移ってきて、現在地に於いて「岩谷観音様」として祀られている。
2021年(令和3)2月28日、新しい「岩谷観音堂」が建立され厳かに落成式が行われた。 

3、 細川興秋は、松ヶ迫のキリシタン寺「仙福庵」より御領字馬場城内のキリシタン寺(現芳證寺境内)に早い段階1635年ないし1636年前半には移ったと推測される。 

4、 細川興秋が松ヶ迫の「仙福庵」より御領城内のキリシタン寺に移った後も、松ヶ迫地区の隠れキリシタン信徒組織は「仙福庵」を中心に継続していたと推測される。 

5、 松ヶ迫地区の「仙福庵」はその後も松ヶ迫地区に地名として現在まで名を残している。松ヶ迫「仙福庵」にあった「聖母マリア観音」が享保15年(1730)に現在地の御領字堀の岩谷観音堂の場所に移動しているので、少なくとも1635年から1730年までの95年間は松ヶ迫のかくれキリシタン寺(仙福庵)を根拠地にして地元の潜伏キリシタン組織としての活動があったと推測される。 

6、 岩屋観音堂の上の「專福庵」は、芳證寺第4世蜜厳道国老御事跡(芳證寺文書)に、芳證寺四世蜜嚴道国老師が1714年(正徳4年)12月25日に御領中村観音堂に入り、庵号を「泉福庵」と名付け、10年に渡り「泉福庵」において暮している。1725年(享保10年)に「泉福庵」を捨てていることが述べられている。その後「泉福庵」は代々庵主が住み続け、大正12年(1923)4月5日まで最後の尼庵主・梅仙尼(享年58歳)墓碑「前永平大輪源光和尚 千福庵住戒法梅香尼和尚」が住んでいた。その後庵主を失った「泉福庵」は朽ち果てて姿を消してしまい、現在は畑となっている。 

7、 鹿本町庄の「泉福寺」は、天草御領に於いては、專福庵、泉福庵、千福庵、仙福庵と、4通りの表記がなされている。現在の松ヶ迫での表記は「仙福庵」であるが、過去の文献には統一された表記はなく自由に使われている。 

8、 岩谷観音の上の專福庵の住職だった梅仙尼墓には「千福庵」と書かれている。 

結論 「泉福寺(山鹿)」「仙福庵・専福庵(五和町御領)」の符合
細川家が豊前小倉より肥後熊本に移封された1632年(寛永9)12月以後、細川興秋の足取りが途絶えていたが、1635年(寛永12)10月頃小笠原玄也の訴人、助十郎が長崎奉行所に鹿本町庄(現・山鹿市鹿本町庄)から訴え出ていることで、小笠原玄也と常に行動を共にしていた細川興秋が山鹿付近に潜んでいることが判明した。 

香春町採銅所「不可思議寺」と同じ真宗大谷派を調査して、山鹿市の金剛乗寺の末寺、鹿本町庄にある真宗大谷派の「泉福寺」を探し出したが、天草にも伝承として「專福庵」として同じ名前があったことに驚いている。 

このことは、細川興秋が山鹿から小笠原玄也の穿鑿(せんさく)に巻き込まれるのを避けるために、玄也が訴追された1635年(寛永12)10月以後、慌ただしく鹿本町庄の「泉福寺」から天草御領に避難してきたことを意味している。細川興秋と岩谷観音が、伝承「專福庵及び聖母マリア観音」という媒体を通して結びついてくる。 

鹿本町庄の「泉福寺」と天草に伝承されていた「專福庵伝説」とが細川興秋の天草への避難を証明している。細川興秋の天草への避難の跡が、熊本県山鹿市(現・鹿本町庄)の「泉福寺」と同じ名前の「專福庵」であること。鹿本町庄の「泉福寺」と天草五和町御領の松ヶ迫地区の「仙福庵」。有明海を隔てた二つの「泉福寺」と「專福庵」は、二つの割符のごとく見事に一つに符合する。 

山鹿市鹿本町庄の「泉福寺」跡地 毘沙門堂
泉福寺跡地 毘沙門天

細川興秋と「天草の乱」
口伝を立証する「天草島原の乱」の記録より
天草に伝わっている『細川興秋は熊本より天草の乱の前に移ってきた。天草の乱に際しては細川興秋公と長野幾右衛門家重様は島民に乱徒に組みしないように説いて回った』という伝承・口伝

天草の佐伊津、御領は興秋の側室、嫡子興季の郷里であり、また確固たる基盤を持つキリシタン信徒組織コンフラリアが存在していた。1617年(元和三)のコーロス徴収文書に天草内野村の信徒代表として三名の名前が記載されている。(正確には内野村とは現在の城河原一帯を指し、井手組庄屋の長嶋家が代表)。天草御領のキリシタン大長嶋九兵衛(安当仁)、ささ原与兵衛(備前天)、飛瀬外記(伊即所)。秘密裏に米田監物是季(49歳)が興秋(52歳)の受け入れを打診していたと思われる。米田監物是季はこれらのキリシタンコンフラリア・信徒組織代表者に連絡を取り、すでに秘密のキリシタン礼拝堂、正願和尚の「了宿庵」のあった御領城跡に興秋は隠れ住んだと思われる。 

御領城内にあったキリシタン寺(礼拝堂)を偽装(Camouflage)するために後に「長興寺薬師堂」を建立した。表面的には長興寺薬師堂の住職として興秋は身を隠して潜伏した。表面的には長興寺の住職として興秋は身を隠して潜伏、法名も「宗専」か「泰月和尚」に変えて、御領の「了宿庵」の正願和尚、御領周辺のキリシタン庄屋達三人と協力して共に指導したと思われる。 

これらは天草に伝わっている『細川興秋は熊本より天草の乱の前に移ってきた。天草の乱に際しては細川興秋公と長野幾右衛門家重様は島民に乱徒に組みしないように説いて回った』という伝承・口伝とも一致する。 

口伝を裏付ける井口少左衛門の報告書
*井口少左衛門より熊本藩三家老へ(御書捧書写言上 )寛永14年11月17日付け

天草へ参様子承届候覚
『一、十一月十六日ニ天草の内五料(御領)と申浦へ着仕候、五料(御領)村の百姓共ハ此中きりしたんニては無御座候ニ付て、一揆とも五料村を放火仕候故、五料村の百姓共ハ逃散り舟ニ乗居申候処、一揆共申候は、きりしたんに成候ハバ組ニ入可申候、無左候ハバ討果し可申候と申ニ付て、無了簡昨日十六日ニ五料村の者共きりしたんニ成申候由申候、家共ハ悉く焼払申候ニ付て、五料の百姓共ハ船ニ其侭居申候、此様子尋申候百姓ハ、五料村の内蔵丞と申者ニて御座候事、』以下省略
*『原史料で綴る天草島原の乱』井口少左衛門より熊本藩三家老へ 289頁 平成6年
*福田八郎著『寛永平塞録・熊本細川藩原城の乱記録』53頁 2003年

『本戸(本渡)の近所御領と申所へ同十六日昼の八ツ時分に着仕候村々浜辺にのぼりを立置岡へ船を引上とまをふきくるすを立居申候私を見候て船より一人立ちあがり申候此方商人の儀に候か私申候は是はおひただ敷躰何たる儀哉と尋申候処に彼者申候は切支丹起候て此在所も放火仕に付て百姓共此中船に乗沖にゆられ居申候得共一揆共申候は切支丹に成申候はば組に入可申候無左候はば悉く討果可申候由に付て不及是非十六日の朝御領村居不残切支丹に成申候由申候』
*写本『肥前有馬切支丹一揆根源』(九州大学図書館所蔵)『天草土賊城中之話』(『改定史跡集覧』第16冊 266頁 
*『山田右衛門作口書写』『島原半島史』中巻190頁 

大意
「本渡の近所御領に16日の八ツ(午後2時頃)船を着けた。村では浜辺に幟を立て陸に引き揚げられた船にも、苫(とま)をおおいクルスが立てられていた。舟内から一人の男が私を見て立ちあがった。少左衛門は『商売に来たものであるが、この仰々しい様子は何事か』と尋ねた。男は内蔵丞という農民で、この男の話によると『御料はキリシタンではなかったから、一揆軍が村に放火して焼き払った。村人は逃げ去り、舟で沖に避難して揺られていた。一揆軍は村人に『キリシタンになるなら組に入れてやるが、ならないなら討ち殺してしまう』とのことで、16日朝、御領村人は仕方なくみんなキリシタンになりました。三宅藤兵衛殿も14日の合戦で討ち死にされました。わたしも藤兵衛殿知行地の百姓なので首が晒されている所まで行き拝んでまいりました』また、一揆軍は17日朝、富岡城を責める予定で、御領から西の二江に四朗が本陣を構えている、と少左衛門に答えた。一揆軍は一万の兵を五手に分けて、一組ごとに頭を決めて、本渡から富岡までの五里の間の村々を焼き払っていった。キリシタンに背くものは殺されるので、これらの村の者達は、表面上皆キリシタンに加わるようになった。」
井口少左衛門より熊本藩三家老へ(御書捧書写言上 )寛永14年11月17日付け 

井口左衛門はこの旨を17日高瀬へ出張して来ていた熊本藩家老、長岡佐渡守、有吉頼母に報告したところ,至急に府内(大分)の御目付にも報告するようにとのことで、19日昼八ツ時(午後2時頃)府内に行き報告した。御目付はこの井口左衛門の報告を早速江戸への御書として書き送った。それまで江戸では島原のことだけしか報告を受けていなかった。

11月26日、井口左衛門の報告書が府内目付によって幕府へ届けられ、この報告が初めての天草の状況報告になった。翌27日、評定所にて審議され、再度追討上使・松平伊豆守信綱派遣のきっかけとなった。この意味でも井口左衛門の偵察と報告の意義は大きい。

後日、井口少左衛門は細川忠利より感状をもらっている。細川忠利から『姿を変え、心を砕き賊の中に忍び入り良く働いた』として新知二百石の加増、馬回組になった。原城攻めでも立花左近へ使いに立つなどして相当の働きがあった。 

ではこの時、米田監物是季(これすえ)はどこにいたのであろうか?熊本城留守居役として城に詰めていたのだろうか?それとも、細川興秋の隠れが確保のために八代において秘密裏に行動していたのであろうか? 

御領でもキリシタン一揆勢が攻めてきた。それで村人たちは舟に乗り沖に漕ぎ出して難を逃れた。運悪く捕まった者たちに、一揆の者が『キリシタンに成るなら組に入れてやる。しかし、ならないなら討ち果たす』と脅したので、仕方なく皆なキリシタンになりました。一揆に加担しなければ『討ち果たす』とか『家に火をつける』と言って脅し強要したことが解る。その頃、各地で頻繁に火災が発生しているのは一揆勢が放火をしたためと思われる。火災の記録を見ると11月16~17日にかけて本渡から富岡の間の村々で家々が放火されている。一揆軍は、村々にある寺社等にも放火、この時、御領城内にあった、興秋の隠れ家,長興寺薬師堂も一揆軍の焼打ちにあっている。したがって、一揆に同心しない者は山に隠れたり、舟に乗り沖に漕ぎ出して難を逃れたりしている。しかたなくキリシタン軍になった者たちも、富岡城攻撃に参加させられていたが、隙を見て逃げ出したと思われる。元々天草の佐伊津、御領は興秋の側室(妾)、嫡子興季の郷里であり、また確固たる基盤を持つキリシタン信徒組織コンフラリアが存在していた。

1617年(元和三)のコーロス徴収文書に天草内野村の信徒代表として三名の名前が記載されている。(正確には内野村とは現在の城河原一帯を指し、井手組庄屋の長嶋家が代表)。天草御領のキリシタン大長嶋九兵衛(安当仁)、ささ原与兵衛(備前天)、飛瀬外記(伊即所)。この地域の隠れキリシタン組織の人々は、細川興秋の指導の下、もし一揆になったときは、表面上はあくまでも仏教徒を装い一揆には極力参加せずに、難を逃れることを示し合わせていたと考えられる。もし、一揆軍に捕まり強制的に参加させられた時には隙を見て一揆軍より逃げ出して郷里に帰り隠れている事、一揆が終息するまで仏教徒を装い、一揆には加担しないことを申し合わせていたと推測される。一揆終息後に、平時の隠れキリシタンの生活に戻り、今までどおりのキリシタン組織を中心としたキリスト教生活を始めたと推測される。 

細川興秋と長野幾右衛門家重が島民に乱徒に組みしないように説いて回ったという伝承・口伝とも一致する。

 

*鶴田文史著『西海の乱・下巻』西海文化史研究所
天草・島原の乱に参加しなかった村々・原城に籠城しなかった村々の参加人数と地図(別紙参照)天草の乱参加状況地図 94~95頁 

志岐村102名、坂瀬川村0名、ニ江村30名、下内野村0名、上内野村0名、荒河内村0名、城木場村0名、鬼池村0名、御領村0名、佐伊津村0名、本村0名、新休村0名、下川内村0名、本泉村0名、広瀬村0名、本戸馬場村0名、
出典:『松平氏覚書』(内閣文庫)
*鶴田文史著『再海の乱・下巻』(別紙参照)西海文化史研究所発行
「乱の天草一揆参加状況地図」94~95頁、「原城一揆勢総数一覧」88、98頁

 天草の乱参加状況地図94~95頁と原城の一揆勢総数一覧88、98頁より、天草から参加した村ごとの参加人数表と地図でも判る通り、興秋が住んでいた御領を中心として北西は坂瀬川村、西は本村、南は本戸馬場村を境とした地域が天草の乱に参加しなかった。この地域は1617年(元和3)8月29日付けで中浦ジュリアン神父が中心となって作成した『イエズス会士コーロス徴収文書』に署名している代表者達が治める地域であり、信徒組織・コンフラリアが強固に確立されている地域でもあった。同地域とコーロス徴収文書に重複する村名と代表者名を下記に揚げる。 

内野村 大長嶋九兵衛・安当仁、ささ原与兵衛・備前天、飛瀬外記・伊那所二江村 松田杢左衛門・はうろ、宮崎権兵衛・理庵、茂嶋与三兵衛・はうろ、
坂瀬川村 川崎市右衛門・平とろ、溝野上与四右衛門・さんちょ、前田弥右衛門・とめい、
下津深江村 西嶋金七郎・志ゆ阿ん、西嶋右馬丞・ふらんそ、
*松田毅一著『近世初期日本関係南蛮史料の研究』
「イエズス会士コーロス徴収文書 第45文書 肥後国 天草」1104~1108頁 

天草の乱における興秋の対応
1637年(寛永十四)夏頃より10月にかけて天草全土に不穏な気配が流れる。興秋(54歳)、1600年9月(15歳)、関ヶ原の戦いで徳川家康に組みして勝利。1615年5月、(32歳)大坂の陣に於いて豊臣秀頼に組みして大敗。興秋は戦いに於ける悲惨さを経験しているので、自分を匿ってくれている同じキリシタンである御領地区の人々を勃発する乱(一揆)の巻き添えにすることは断じて出来なかった。興秋には自分の経験からすでに戦いの結果が見えていた。自分に従ってきた家臣長野幾右衛門家重と渡辺九郎兵衛と共に、人々に乱の結末がどうなるのかを説明して乱徒達に組みしないように説得して廻った。その結果、キリシタンの多い地区、*御領組の鬼池、御領、佐伊津村のキリシタン達は興秋達の説得に応じて乱に加担せず、島原に渡らず、原城に立て籠もらずに全滅を避けられた。忠告を聞かずに個人的に乱に参加した人々は原城と共に玉砕、全員殺害された。 

島原原城本丸跡地 天草丸より望む
原城遠望 左・三の丸 中央・本丸 右・天草丸 海上に湯島(談合島)を望む

御領組
細川興秋の生存中の天草の行政区画は122ヶ村に区分されていた。1641年(寛永18)鈴木重成が天草代官を命ぜられる。重成が天草で大庄屋10人を任命する。御領組は大庄屋(御領)庄屋(鬼池、佐伊津、広瀬、本泉、下河内、新休、本村)の8ヶ村で構成された。この時、興秋の息子・興季が御領組初代・大庄屋に任命された。(興秋の子孫系図より)

1659年(万治2)、天草初代代官鈴木重成の養子で天草第2代代官鈴木重辰の時、天草の行政区画が1町(富岡町)87ヶ村(庄屋)に再編された。 

1637年(寛永14)10月25日「天草島原の乱」勃発。興秋(54歳)
10月26日  長岡監物是季(米田是季)(51歳)島原の乱の大筒の音を聞く。
11月14日  三宅藤兵衛重利(興秋の従兄弟)、天草富岡城代、本渡の戦いに於いて戦死。
11月16日  井口少左衛門、天草の御領へ偵察のために上陸して現地の情報を収集する。
11月17日  井口少左衛門、高瀬の熊本藩家老、長岡佐渡守、有吉頼母に報告 

三宅藤兵衛重利は既に興秋の息子・興季の存在を知っていて、藤兵衛が興季を佐伊津の庄屋に取り立てて、藤兵衛と興季との間には、富岡城代としての藤兵衛と佐伊津の庄屋としての興季との間に、政策と年貢に関しての政治的なやり取りが既にあっていた。藤兵衛は興秋の従兄弟にあたるので、興季(甥)に取っては、藤兵衛は叔父にあたる。二人は血縁関係を隠して信頼関係を築いていたと考えられる。 

1637年(寛永14)11月14日、三宅藤兵衛重利が本渡広瀬の戦いで戦死した時、当時佐伊津の庄屋であった興秋の息子興季が藤兵衛の遺体を引き取り、懇ろに広瀬の高台に葬っている。

三宅藤兵衛重利の墓碑 天草市広瀬 撮影・原田譲治

4 御領城内の長興寺薬師堂跡地

「御領城内の長興寺薬師堂」
興秋は松ヶ迫のキリシタン寺「仙福庵」での居住は短期間で、早い時期の1635年(寛永12)ないし1636年(寛永13)前半には、御領城内(御領字馬場)にあったキリシタン寺に移り「長興寺薬師堂」として擬装(Comouflage)して使用したと考えられる。興秋は表面的には「長興寺薬師堂」の住職として身を隠し、法名も「宗専」か「泰月」に変えて、御領の「了宿庵」の正願和尚、御領周辺の庄屋たちと協力して共にキリシタンたちを指導していた。「長興寺」の号は、長岡の長、興秋の興を取って「長興寺」と名付けている。 

長岡与五郎興秋の墓碑
実際の興秋の墓はその墓の区画より東側にある古墓地の三体の出家した入道の円塔式墓碑(俗称・坊主墓)である。この古墓地には円塔式墓碑が三基並んでいる。中央が『長興前住泰月大和尚禅師』とあり長岡与五郎興秋の墓である。右は「栄應玄盛菴主」・長野幾右衛門の墓。左は「以心別傳上座之塔」渡辺九郎兵衛の墓で、共に興秋の家来にあたる人たちの墓である。 

長岡興秋公墓碑と二人の従者の墓碑  芳證寺墓地内

長岡家の古墓地は長い間ほとんど無縁墓地と化していたようで、興秋と二人の家臣の三基の墓碑は確認できる。しかし、興秋の妻、初代の長岡五郎左衛門興季とその妻、第三代長岡五郎左衛門茂辰、四代長岡彦八郎茂直、五代長岡半左衛門茂相、六代中村五郎左衛門茂勝の墓碑は確認できなかった。 

この調査は故山本繁氏たち五和町史談会が1975年(昭和50)4月9日と、再調査1991年(平成3)12月21日にされた調査によって墓碑の無いことが二度の再調査で確認されていたが、今回2020年7月12日の再調査によって、初代中村五郎左衛門興季の墓が、二代長野宗左衛門興茂の東側に存立していたはずであるが、その興季の墓を壊してまで他家の納骨堂敷地(墓地)となっていることを改めて確認した。 

 初代中村五郎左衛門興季の嫡男、二代長岡宗左衛門興茂の実弟、中村藤右衛門の子孫・中村社綱氏(天草市南新町)が、初代中村五郎左衛門興季の墓碑があった場所(現在は他家の墓所となっている)のすぐ横に「初代中村五郎左衛門興季の墓碑」を建立することを提案され、興秋の墓碑と二代長岡宗左衛門興茂の間の土地の使用許可を芳證寺様より頂き「興季の墓碑」を改めて今回建立することになった。建立する場所は、興季の元墓の直隣であり、興季の墓としては最もふさわしい場所に建立することができることになった。 

2020年(令和2)12月27日、中村家第13代当主・中村社綱氏の発願により、取り壊されていた中村五郎左衛門興季とその妻の墓碑が建立され、芳證寺村上和光住職により厳かに入魂式が執り行われた。墓碑はできるだけ当時の残されていた墓石(土台と笠石)を利用し、失われた部分(戒名を刻んでいる本体)のみ補う形で、興季の息子・興茂と同じ形の墓碑として作成した。これにより、元祖興秋、初代興季、二代興茂の三世代の墓碑が並ぶ形に再興できた。素晴らしい先祖供養式だった。 

長興寺薬師堂跡地
長興寺の号は、長岡の長、興秋の興、を取って「長興寺」と名付けた。元々はキリシタン寺。
1648年(慶安元)以降、長興寺薬師堂の御領城内の建てられていた場所については、江戸時代の御領城跡芳證寺所有の二枚の絵図(見取り図)に克明な記録が残されている。御領城地は廃城後、キリシタン寺が建立され、鈴木重成時代の茶屋(陣所)を経て、1648年から芳證寺の境内と墓地になった。(芳證寺文書による)(見取り図参照) 

この2枚の江戸時代の「御領城跡芳證寺所有の二枚の絵図」(見取り図)には、第九代長岡五郎左衛門興道(1749~1815年・寛延2~文化12年)建立した墓地の区画が描かれている。興道は1770年(明和7)苗字御免、1776年(安永5)帯刀御免、興秋の顕彰墓碑の左側に1802年「享和2年壬戌6月15日 第7世孫長岡五郎左衛門興道謹建」と刻まれているので、墓地が作られた同時期に『天草長岡家系譜』を肥後髙橋司市 斎藤権之助に提出している。 

したがってこの江戸時代の「御領城跡芳證寺所有の二枚の絵図」は1802年(享和2)以後に書かれた絵図であることが判る。
正確に年代は特定できないが、①の絵図では、墓地の面積が狭いことが指摘でき、②の絵図では、墓地の面積がかなり拡張されているので、それにより②の絵図が①の絵図よりも後世に描かれていることが指摘できる。

「島鏡」に『寺屋敷東西弐拾四間、南北三拾壱間、此外薬師堂屋敷東西拾弐間、南北拾間、同所廻り畑弐反六畝支配之事』とある。 

寺屋敷 東西24間、南北31間
薬師堂屋敷 東西12間、南北10間
長興寺薬師堂 東西3間、南北2間
寺屋敷 東西43m68㎝、南北56m42㎝ (1間=1m82㎝)

興秋が居住していた庫裏と思われる薬師堂屋敷 東西21m84㎝、南北18m02㎝。長興寺薬師堂 東西5m46㎝、南北3m64㎝ と記録されている。 

明治初期に撮影された貴重な「長興寺薬師堂」古写真には(南向きに東西)間口3間、(南北に)奥行き2間と但し書きがあり薬師堂の姿と大きさが確認できる。薬師堂は現在の芳證寺の本堂の東側にある「第九代目・長岡五郎左衛門興道家の墓地」の東側と、細川興秋公主従の墓(宗専和尚主従三基の墓)の北側の間に建っていた。長興寺薬師堂は大正3年(1914年)夏の台風により倒壊した。以後100年、倒壊した「長興寺薬師堂」の跡地が正確に判っていなかったが、2021年2月、芳證寺村上和光住職と原田譲治氏による芳證寺薬師堂古写真からの位置割り出し作業の確認により薬師堂の建っていた正確な場所が判明した。

長興寺薬師堂跡確認 
芳證寺大門の道路沿い右側に御領城内墓地へ上がる馬坂という小道があり、坂道を上がる途中の左手に、芳證寺を囲む石塀内に大楠がある。その右手に大庄屋長岡家墓地と細川興秋公主従の墓がある。長興寺薬師堂の場所の正確な位置は、口頭や文献でも諸説あり正確な位置が確定していなかった。 

2021年(令和3年)2月14日、芳證寺・村上和光住職と原田氏が、江戸時代の芳證寺絵図や明治時代に撮影された長興寺薬師堂の古写真、更には和光住職の幼年期からの御領城内墓地の変貌を辿りながら、今までの諸説とは違う位置を確定した。特に決め手と成ったのは、明治時代の古写真で長興寺の左右に写っている墓碑だった。 

長興寺薬師堂の正確な位置は、大庄屋長岡家墓地の東隣で、細川興秋公主従の墓からは北に位置する忘僧墓群(住職でない方のお坊さんの墓)の場所である。
 長興寺薬師堂は1914年(大正3)夏の台風で倒壊し、その跡に御領城内墓地に分散していた忘僧墓を現在地に集約した場所である。(記載 原田譲治)

 興道以後の墓地
興秋の顕彰墓碑を中心に九代から十三代までの墓で一区画を形成している。興秋の九代目の子孫、長岡五郎左衛門源興道が1802年(享和二)壬戌6月15日建之の興秋の墓石は実に大きく堂々としたもので、高さ1,55㎝、幅53㎝、厚さ39,5㎝、台石の大きさ、上が高さ23,5㎝、下が高さ54,5㎝である。しかしこの墓碑はあくまで顕彰墓碑であり、興秋の骨は納められていない。 

興秋の九代目の子孫、長岡五郎左衛門源興道が1802年(享和二)壬戌6月15日、天草郡御領の大庄屋の時、初めて長岡姓に改め、興秋の顕彰墓碑を建立すると共に、家伝も初めて公にして、肥後髙橋司市(町奉行)斎藤権之介へ届けて認められた。
興道は1770年(明和7)二月、長野家に「長岡」の苗字が許され、六年後の1776年(安永五)九月十一日には帯刀が許されている。かくて長岡家は天下晴れての時代を迎えたのである。 

十代・長岡五郎左衛門興生、1830年(文政13)十一月二十三日、三十七歳で死去している。 

十一代・長岡五郎左衛門興就任(おきなり)は義民と呼ばれ、1845年(弘化2)十月、興就(39歳)の時『百姓相続き方仕法』復活を要求する天草の農民の総代として、天草の上役所である長崎奉行所を超えて江戸幕府へ超訴(直訴)をした。十一月に勘定奉行所へ駆け込み訴をしたので、身柄は町宿預けとなっていたが、抜け出して十二月に老中阿部伊勢守に直訴を行った。厳重な吟味の末、長崎奉行所江戸詰め所に引き渡されて長崎送りになり長崎の牢屋に収監された。その後、天草の親類宅の座敷牢に入れられた。明治維新で恩赦を受けたが永牢がたたり、体が衰弱していたので1869年(明治2)九月二十五日に死去した。 

十二代・長岡快太郎興英、十三代・長岡専一郎興隆までこの墓地区画に埋葬されている。

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