自己紹介

【著者】
髙田重孝(たかだしげたか)
1952年 宮崎市生まれ。日本三育学院神学部卒業。

髙田重孝(歌曲)・花岡聖子(チェンバロ)
宮崎芸術劇場コンサート

ピーター・ピアーズ卿(Sir Peter Pears)ジェラール・スゼー(Gérard Souzay)エリザベス・ホーズ(Elizabeth Hawes)教授諸氏に師事。

ロンドン・トリニティー(Trinity college of Music)音楽大学に英国政府の奨学金を得て入学。英国歌曲、フランス歌曲、ドイツ歌曲、教会音楽、オラトリオ等を専攻して在学中に演奏家資格とFellowship Diplomaを取得。

ピアーズ卿に認められて英国作曲家ブリテンの奨学金を授与されてブリテンの音楽についての解釈と演奏の指導を受ける。ピアーズ卿の推薦により、ロンドンを中心に数多くの演奏会、オラトリオコンサートに出演する。

モーリス・ラヴェル国際音楽アカデミー選考審査第一位。スゼー氏に声楽家としての卓越した音楽性を認められ英国代表として推薦を受け、フランス政府給費留学生としてフランス歌曲を学ぶ。

1987年以来25年間開催した、英国大使館、フランス大使館後援のリサイタルは常に高い評価を受けて、英国・フランスの文化を担う歌い手として認められている。 

髙田重孝氏は私と共に学びました。 私は、彼が印象的で力強いテノールの声に恵まれていることを知りました。彼は献身的な歌い手であり、真摯で勤勉、また責任ある音楽家です。
ピーター・ピアーズ卿(1910~1986)

私に師事し、多くの曲を学んだ髙田重孝氏は素晴らしい人です。声楽家として、卓越した音楽性を持っています。彼は確かに賞賛を受けるに価します。ジェラール・スゼー(1918~2004) 

声楽家としてキリシタン研究にも深く携わり、天正遣欧少年使節が1585年にローマ教皇から贈られた3種類の衣装を史料に基づき425年ぶりに復元した。

グレゴリオ聖歌演奏・花岡聖子(ヴァージナル伴奏)
天正遣欧使節復元衣装を着てのグレゴリオ聖歌演奏・花岡聖子(ヴァージナル伴奏)

 キリシタン時代に歌われていたグレゴリオ聖歌の再演にも取り組んでいる。当時歌われていたグレゴリオ聖歌は無伴奏だったが、現在は和声的に伴奏を創り、天正遣欧少年使節が歌った聖歌、キリシタンたちが歌った聖歌、キリシタンたちが殉教した時に歌った聖歌。6曲の「マリア讃歌」の演奏。

現在まで伝承されている「オラショ」の中で祈られている4つの聖歌『主の祈り』『クレド・信仰宣言』『「アヴェ・マリア』『サルヴェ・レジナ』をオラショと共に奉献ミサの中で再演している。
長崎・生月島の「三つの歌オラショ」の伴奏譜を作り再演している。
フランシスコ・ザビエルが1550年に初めて日本へ持ってきた当時の楽器ヴァージナルの伴奏でこれらの聖歌を演奏している。 

各地の教会で「キリシタン時代の聖歌」コンサートを開催。神への演奏奉仕活動を無料で行っている。交通費、滞在費もいただいていない。御奉仕の機会を頂けたら幸いです。ご連絡をお待ちしています。 

小笠原玄也と加賀山隼人の殉教・髙田重孝著
左の原文は加賀山みや(小笠原玄也の妻)の残した第12遺書

「どんな情の強き者でも命を捨てるほどの得はございません。どんなうつけ者でも、自分の命を捨てる阿呆はございません。ただただ、捨てがたい信仰あっての事でございます」加賀山みや・第12遺書より

2020年『小笠原玄也と加賀山隼人の殉教』刊行
キリシタン文献と日本文献の比較研究調査により伊東マンショの後期の活動、1608年、長崎において神父に叙階され1612年まで小倉教会に奉職した4年間について、特に1610年の長門・周防への伝道、伊東マンショの死亡原因、長崎での埋葬場所等が特定された。 

伊東マンショ神父の小倉時代の信者で、1635年12月23日熊本で殉教した小笠原玄也一家の15通の遺書、385年間キリシタンの残した遺書ゆえに隠されていた遺書の原文・読み下し文・現代語訳を一冊に掲載して解説をしている。これにより、玄也とみやがいかに信仰に生き殉教していったかを知ることができる。

 人間の尊厳や人間の存在そのものまで疑わせるキリシタン禁教の時代に在って、キリスト教の信仰を自分のものとして受け止め、絶対に譲れない神を信じる信仰の自由、それに命を懸けて自分の生き方を神の前に問い続ける姿勢をもって日々を生きた。確立した自己を持ち、人間の生き方、信仰の高貴さや魂の優しさを証する必要があった時、一人の人間として神の前に真摯に生きることを選んだ人達、殉教者からの遺書である。

細川興秋の真実・髙田重孝著

2021年『細川興秋の真実』刊行
ガラシャの信仰を受け継いだ人々
小笠原玄也関係のイエズス会史料の中に1615年(元和元)6月6日、大坂の陣の責任を取らされて切腹をしたはずの細川ガラシャの次男・細川興秋の実存を指摘、細川興秋の天草への1635年(寛永12)の避難までの21年間の追跡調査を20年かけて証明した。

長岡与五郎宛て 1621年(元和7)5月21日付け 細川忠利書状
熊本県立美術館所蔵

興秋に関する「長岡与五郎宛て1621年(元和7)5月21日付け細川忠利書状」熊本県立美術館所蔵と、興秋自筆の2つの書状の筆跡鑑定により、2つの書状の間にある27年の時が、興秋の生きていた歴史の証拠と証明された。イエズス会史料と状況証拠、及び書状等の原史料から、1615年の興秋の切腹後から1642年の天草御領での死去までの動向を解明した。 

これにより400年目にして「興秋の伝承」が真実であったことを原史料から解明して、天草の伝承「細川興秋の生存説」が証明され、日本史の定説を覆す最大の発見として認められた。  

キリシタン史の中で最大の謎とされてきた中浦ジュリアン神父の1627年から1632年12月の小倉での逮捕までの6年間の隠棲場所(香春町採銅所・不可思議寺)の特定と隠蔽した細川興秋が住職をした「不可思議寺」等、興秋が罹患した脳梗塞等の解明も含まれている。

細川興秋と月圭山芳證寺・表紙

「細川興秋と月圭山芳證寺」パンフレット(小冊子)について
芳證寺様所有の寺宝開示のお礼として、明智光秀・細川ガラシャ・細川興秋・細川興季の子孫である中村社綱氏が「芳證寺のパンフレット」の作成を発案されたので喜んで協力させていただきました。興秋がキリシタン宣教師として生き『長興寺薬師堂』がキリシタン寺であり、興秋が「天草の乱」の時に地元御領周辺のキリシタンたちを乱に参加させなかったこと。すべての歴史事実を集約した芳證寺様独自のパンフレットが完成しました。この様な素晴らしい機会を頂き、禁教時代に多くのキリシタンを受け入れ檀家として保護した寺の存在を詳しく調べることにより、その地域におけるキリシタンの存在を把握できることに繋がりました。「キリシタン寺」と言われている地域の寺の過去帳と、その地方のキリシタン史(イエズス会史料)の両方を照らし合わせて調査することが、これからのキリシタン研究のひとつの道筋であり新しいキリシタン研究の方向性を示しています。

御領の東禅寺(キリシタン寺)もこれから詳しく調査していきたいと願っています。1617年には天正遣欧使節だった中浦ジュリアン神父がこの東禅寺に長逗留して「コーロス徴収文書・天草地域」を作成しています。遠藤周作著「沈黙」にも描かれている転びバテレン・フェレイラ神父が1629年から1633年の5年間、この東禅寺に匿われていたことも判っています。

申し込み先
〒860-2201 熊本県天草市五和町御領6610 曹洞宗・月圭山芳證寺
☎ 0969・32・0359
定価 1000円 送料 180円(スマートレター)


表紙写真不可思議山不可思議寺(現明善寺・採銅所)細川興秋が1615年(慶長20)から1632年(寛永9)まで18年間 第2代宗専和尚として奉職したキリシタン寺。中浦ジュリアン神父も1627年(寛永4)から1632年(寛永9)12月まで細川興秋(宗専和尚)により匿われていた。

郷土史・かわら・第97集 特集 香春とキリシタン
発行2024年(令和6年4月)香春町教育委員会発行

はじめに
キリシタン史の中で香春の名前は出てこない。私が香春を知ったのは、伊東マンショ神父が、小倉教会の副司祭としてセスペデス(Gregorio de Céspedes)神父と共に奉職した1608~1611年(慶長13~19)の4年間に、教会信徒の支柱として活躍した加賀山隼人正興良とその娘、長女みやの婿・小笠原玄也が1635年(寛永12)12月22日の処刑殉教の前に書き残した15通の遺書の原文・読み下し文・現代語訳を手掛けた時が最初だった。小笠原玄也と妻みやの遺書は、365年の間、2000年(平成12)まで訳されることもなく顧みられなかった。

小笠原玄也一家15人の処刑を担当した細川藩家老・米田監物是季から長岡佐渡守(松井新太郎興長)宛て書状に「御やと御無事ニ御座候、爰元相替儀無御座候、併玄也儀ニ付而、何も気をつめ申し候処、相済らち明申候而、今は何も落着申候」とある。「御主人(細川興秋)は御無事です。こちらも変わりありません。しかし玄也の件については、何とも気をつめていましたが、処罰が済み解決しました。今はすべて落着しました。」(筆者訳)

「御やと御無事ニ御座候」米田監物是季の書状の冒頭にある「御やと」とは誰、という謎の人物を探す旅が始まった。米田監物是季の主人が細川興秋であり、共に1615年(慶長20)大坂の陣に参戦している。興秋は大坂の陣の大将としての責任を取らされ1615年(慶長20)6月6日に切腹させられている。

しかしこの切腹が仕組まれた偽の報告であるとすれば、生きている興秋はどこへ匿われたか。1615年(慶長20)以前に豊前に於いて細川家により建立された寺はどこに作られたか。探し出したのが田川郡香春町採銅所の「不可思議山不可思議寺」(現明善寺)だった。創建は1610年(慶長15)香春領主細川孝之による。おそらくこの不可思議寺に興秋は匿われていたと考え、明善寺片山円秀住職様に「寺の由緒録」閲覧の申請をした。4,5ヵ月後に明善寺様より快諾を頂き、2011年(平成23)4月4日、香春町教育委員会立ち合いの元、村上利男教育長、柳井秀清・香春町郷土史会会長、坪根清博氏、香春町学芸員・野村憲一氏と共に明善寺へ伺い、寺の「由緒録」を記録させて頂き、コピーを頂いた。その後、絵踏みが行われていた光願寺跡地、中津原浦松の水神様と伝わっている加賀山隼人正興良、加賀山半左衛門の2つの墓碑を案内して頂いた。

この日以来、香春はキリシタン史の中の最も重要な土地へと昇華した。 後日、鹿毛豊著「光願寺における切支丹踏絵と当時小倉藩の切支丹に対処した姿」郷土史誌『かわら』第9集 昭和53年(1978)に掲載されている論考を柳井秀清氏が送付してくださった。

鹿毛豊氏は、香春に潜伏(かくれ)キリシタンがいた証拠を、九州大学附属図書館付設資料館に所蔵されている「六角文書」1829年(文政12)の「宗門改め」「年々記録」から調査して「像踏み申さず分2078人」という潜伏(かくれ)キリシタンの確固たる数字を示めされていた。また『香春町史 上巻』第2章 小笠原時代と藩政の整備 田川郡ノ宗門改め527~529頁にも掲載があり、既に「香春に潜伏(かくれ)キリシタン」が存在していたことが書かれていた。

46年前の鹿毛豊著の論考を読み、如何に香春に於ける潜伏(かくれ)キリシタン研究の先駆けであったか、先達に対する尊敬の念を深くしている。鹿毛氏の論考に記されている1829年(文政12)「六角文書」「宗門改め」「年々記録」が現在糸島にある九州大学附属図書館付設資料館に所蔵されていることが判り、2024年(令和6)1月、付設資料館で原文書を閲覧した。この時「年々記録78・9」から新たに2件の潜伏(かくれ)キリシタン史料を見つけることができた。再度、九州大学附属図書館付設資料館を訪れ「宗門改め」「年々記録」の全ての原文書を入手し、現代文にして調査することにより、真の潜伏(かくれ)キリシタンの姿を明確にできると考えている。

申し込み先
郷土史誌かわら 第97集 特集 香春とキリシタン 
一冊 600円 送料 180円(スマートレター)計 780円
香春郷土史会
福田隆太郎(代表)〒822・1401 福岡県田川郡香春町採銅所3872
携帯 070・4700・8713 ☎ 0947・32・2752
Email skygw744@ydd.ne.jp

香春町教育委員会 ☎ 0947・32・8410(代表)

著者 連絡先
髙田重孝
〒880・0035 宮崎市下北方町横小路5886・3
Email shige705seiko214@outlook.jp
携帯 090・5933・4972

くまモンとご挨拶・どうぞよろしくお願いいたします


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