豊前藩主・細川忠興のキリシタン迫害と殺害(殉教)1614年(慶長19)から1632年(寛永9)まで18年間の記録

 

細川忠興の居城・中津城・大分県観光協会提供写真


細川忠興・ガラシャの墓碑・京都大徳寺髙桐院


細川忠興所有の阿弥陀如来坐像・撮影・麦島勝氏 八代市立博物館未来の森ミュージアム寄託


細川忠興所有の阿弥陀如来坐像・撮影・麦島勝氏 八代市立未来の森ミュージアム寄託
細川興秋が匿われて第2代住職・宗順として18年間いた香春町採銅所・不可思議寺・
中浦ジュリアン神父も1627年から6年間、この寺に於いて興秋により匿われていた
細川忠興により処刑された加賀山隼人正興長(左)加賀山半左衛門(右)墓碑・香春町中津原浦松

田川郡香春町中津原浦松にいる小笠原玄也・みやにもたらされたキリシタン同胞達の殉教報告 

一六一五年(元和元)二月三日、マニラに於いて、
元髙槻城の城主、ユスト髙山右近が国外追放になり一六一四年(慶長一九)十一月七日、長崎からマニラに向け出航(追放)、マニラ到着四十日後に熱病(マラリア病)に感染して二月三日(六三歳)死亡した。右近の徳の高さ、霊的生活の素晴らしさ、清貧に生きる謙虚さ、勇敢な信仰のゆえに多くの人々から尊敬を受け慕われていた。 

葬儀に際して、人々はユスト髙山右近を聖人の如く敬い、その足に接吻をして、鄭重に埋葬した。小笠原みやの父、加賀山隼人が若い頃に仕えていた髙山右近は、小笠原玄也にとっても憧れの武人、キリシタンとして模範となる偉大な信仰の持ち主だった。玄也が直接に髙山右近と会ったという記録は見出せないが、細川忠興の小姓をしていた玄也が、一六○○年、関が原の戦いのとき、(当時玄也十五歳)髙山右近に会えた可能性は高いと歴史的史実に即して推測することはできる。細川忠興と髙山右近は親友であり二人とも千利休七哲の間柄、両者邂逅の折、玄也が高山右近に会う機会はあったと考えられる。 

一六一五年(元和元)二月二八日、マニラに於いて、
一五六六年(永禄九)豊後生まれの修道士アンデレ斉藤は、一五九五年(文禄四)十月にイエズス会に入会した。一六○○年(慶長五)中津に於いて教会創立初期、一六○三年(慶長八)以来セスペデス(Gregorio de Céspedes)神父の下で働き、小倉に於いてはただ一人の日本人修道士として加賀山隼人の良き理解と協力者だった。小笠原玄也とは玄也が教会に来始めたとき以来の仲であり、一六○七年(慶長十二)の玄也とみやの結婚式にも立ち会ったと考えられる。 

一六○八年(慶長十三)に伊東マンショ神父が小倉教会に赴任して以来、カミロ・コンスタンチオ(Camillo di Costanzo)神父とともに働いていた修道士アンデレ・斉藤は、一六一四年十一月七日、ユスト髙山右近とともに長崎からマニラに追放された。修道士アンデレ斉藤は追放(出航)当時、病気だったが、無理やり船に載せられ、船中では十分な介護も受けられずに苦難を極めた。マニラ到着後に介抱の甲斐なく死亡した。 

アンデレ・斉藤は中津教会・小倉教会が創られた初期、一六○三年(慶長八)からセスペデス(Gregorio Céspedes)神父と共に働いた。特筆されるのは、一六○九年(慶長十四)カミロ・コンスタンチオ神父と共に長門・周防(山口・萩)に伝道に出かけ、カミロ・コンスタンチオ神父(イタリア人)がその容姿から一目で神父とわかり殺害の危険に晒(さら)されると判断したときコンスタンチオ神父一人を小倉に帰した。その後アンデレ・斉藤は一人ですべての宣教計画を引き受けその長門・周防地方を一人で巡回して多くのキリシタン達に慰めを与えその年の伝道計画を成功させている。次の年、一六一○年(慶長一五)前年の経験を生かして伊東マンショ神父の道案内をして長門・周防地方を共に巡回した。この二年の彼の活動を見ても判るようにアンデレ・斉藤は一人でも活動できる非常に勇敢で優秀な伝道士(修道士)であり、また神父の補佐役としての義務を忠実に果たしている。 

一六一五年(元和元)三月十八日、小倉に於いて、
ロマン・片野八十右衛門(一五八二年生・三二歳)一六一四年八月牢に入れられて、八ヶ月後に、斬首された。 

ロマン片野八十右衛門は豊後杵築の生まれ、身分の高い家柄の出身で、殉教の数年まえに小倉で結婚をした。キリシタンとしての模範的な生活を送り、夕方と早朝夜明け前に祈りを捧げた。修行に於いてはひたむきであり、金曜日には主の御受難に敬意を表わし、土曜日には聖母マリアに敬意を表すために断食をしていた。友人や身内、奉行の棄教の勧告を拒否して迫害に備えていた。小笠原玄也が迫害のために小倉城二の丸の加賀山隼人の屋敷に監禁されていたと同じ一六一四年八月、片野八十右衛門の身内の宗十郎がロマン八十右衛門のためを思って偽りの誓文を書き奉行に提出した。ロマンは奉行の嫌がらせが止んだのを不思議に思い、友人の又右衛門に問い質したところ、宗十郎が偽の誓文を出したことが判明した。ロマン片野八十右衛門は奉行に面会に行き整然とした口調で、『自分はキリシタンであり、キリシタンとして死ぬ覚悟は出来ている。提出された誓文は偽造されたものであり、自分の名誉を傷つけるものである。』と抗議した。奉行は烈火のように怒りすぐに牢屋に入れた。それから八ヶ月の間、彼は牢屋の中で、妻、友人、義母、身内の懇願を拒否し続けた。 

一六一五年三月十八日、細川忠興によって死刑の宣告が下された。死刑の宣告を受けると彼は喜びに溢れ感謝の祈りを捧げた。処刑場まで遠かったが、裸足で歩くことを望んだ。人々はロマンが足から血を流しながらも歩み、心を神との対話に没頭させているのを見て憐れみの念に心打たれた。彼は自分に話しかけてくる人々に対して何一つ返事をしなかった。ただ、『気を確かに持つように』と言って彼を励ましたキリシタンに対してだけは、『御気遣いなく』と答えて慈愛に満ちた眼差しを返した。身分の高い二人の若者が偶然この処刑の行列に遭遇した。ロマンがキリシタンゆえに処刑されると知るとこの二人の若者は信仰の為に命を捧げようとするキリシタン達を『狂気じみ馬鹿げている』といって大声で叫びながら非難した。 

ロマンはこの若者達を見て冷笑して『天地の主なる父よ、我、汝を称賛する。主はこれらのことを学者、知者に隠して、小さき人々に顕わし給いたればなり』(Confiteor tib Pater,Quia absconndisti hec a sapienntibus,& reuelasti ea paruulis)(マタイの福音書十一章二五節)と言って天を仰いで主を称えた。処刑場に到着後、跪いて一時間祈り、その後斬首された。享年三三歳。 

コーロス徴集文書について
一六一七年(元和三)八月二四日豊前の国小倉、八月二五日中津、両町のキリシタンの代表者達がイエズス会日本菅区長マテウス・デ・コーロス(Mateo de Couros)の求めに応じて信仰を告白して署名した文書。小倉三一名、中津十七名が記録されている。 

小倉のキリシタン代表者の名簿 31名  1048~1050頁

御出世以来千六百十七年(1617年)元和参年八月弐四日、
松野はんた理庵、松野ふらん志すこ、小笠原寿庵、結城志ゆすと、中村志ゆすと、加賀山了五、山田寿庵、清田志門、大串寿庵、大西了五、田中(安)あてれ、関備世天、菅原ちにす、大野満所、宮崎寿理庵、鷹巣ろまん、大串志もん、角野ミける、木付はうろ、吉良志もん、佐田とめい、甲斐志よらん、糸永理庵、了意志もん、田代理庵、田吹(安)あてれ、薬師寺志めあん、米や寿庵、ぬしや寿庵、ときやへいとろ、をひや寿庵。 

中津のキリシタン代表者の名簿 17名   1051~1052頁

御出世以来千六百十七年(1617年)元和参年八月弐五日
久芳寿庵、櫛橋理庵、川井寿庵、小嶋パウロ、志賀ビセンテ、内田寿庵、矢田ジャコウベ、内山トウマ、田房ベント、内田シモン、久恒寿庵、同シモン、蠣瀬自庵、推田ペイトロ、御手洗ゑすてハん、今永トメイ、魚住たい里やう。 

*『近世初期日本関係南蛮史料の研究』  松田毅一 風間書房1967
  第六章 元和3年、イエズス会士コーロス徴収文書 1022~1145頁 

コーロス徴収文書は日本在住の托鉢修道会から、イエズス会の指導司祭たちは迫害の下、日本人信徒を見捨てて信徒達に躓きを与えているとの非難に答えるために、全国各地の信徒代表者から証言を集めることにした。この文章は日本文に訳文を添えてヨーロッパに送られた。 

私達はこのコーロス徴収文書により、一六一七年(元和三)の日本に於ける各地の七五五名の信徒代表者の名前を的確に知ることができる。この最高機密書類はプロクラドールといわれた日本イエズス会の代表者がヨーロッパまで肌身離さず携帯して行った。蒐集の過程で官憲に没収された地方の徴収文書もあったようだ。没収された文書から壊滅的迫害の被害を受けた地方があることを、その後の殉教の事実と歴史が語っている。 

小倉中津の豊前地方に於ける迫害の過程を見ると、細川忠興に没収された徴収文書の写しがあるように思える。(あるいは拷問により白状をさせたのかもしれない)なぜなら、コーロス徴収文書が書かれた次の年、一六一八年二月末から八月初めにかけて六二名という多くのキリシタン達がコーロス徴収文書に記帳した指導者達と共に殉教している事実がそれを物語っている。 

一六一八年(元和四年)イエズス会報告書補遺には『二月末から八月の始めにかけて三七名が殉教した。小倉に於いて二五名、斬首。

中津に於いて十二名が殉教、内五名、斬首。七名が逆さ十字架に掛けられて槍で胸を付かれて殉教した。』と報告されている。 

フライ・アロンソ・デ・メーナ(Alonso de Mena)神父の一六一八年二月付け『豊前において信仰のために遂げた聖なるキリシタンの殉教』の報告より 

一六一八年(元和四)二月二五日、小倉に於いて、
ジュスト中村源七と十五歳(二六歳?)の息子ヨハネ、シモン小野五郎左衛門と十二歳の息子パウロ、トマス小柴善衛門(宿主)、細川忠利の家臣、ジョアン久保又左衛門、が斬首された。 

*ジェスト中村源七と十五歳の息子ヨハネ、
ジェスト中村源七は初め呼び出されて大きな賞を与えることと引き変えに棄教を勧められたが、キリシタンらしく強固に拒否したため、後に一人でいたとき、斬首された。 

*一六一七年(元和三)八月二四日豊前の国小倉の分のコーロス徴収文書には中村志ゆすとの名前で花押があり、イエズス会年報のジュスト中村源七と同一人物と思われる。 

シモン小野五郎左衛門と十二歳の息子パウロ、
キリシタンゆえに殺されることを知り、逃げられるにもかかわらず、逃げずに祈りや懺悔をして殉教の準備を始めてその時を待ち殺された。

十二歳の息子パウロは、父の殺されたことを知って準備を始め、胸に聖母マリアの像を抱いて神に祈った。友人から呼び出しがあったので、そこに行ったときに刀で切られ殺された。

トマス小柴善右衛門(宿主)、
細川忠利の家臣、ジョアン久保(久芳)又左衛門、

一六一四年(慶長十九)に棄教したが、翌年オルファネール神父の訪問の時に改心して殉教を決意した。その時から神のために死ぬことを言明していたが、忠興の再三の改宗の勧めにも応じなかったので死刑を言い渡された。中津から小倉まで後ろ手に縛られて連行され斬首された。翌日、中津に於いてジョアン久保(久芳)又左衛門の息子ヒャクノスケ(十六歳)が斬首された。 

オルファネール(Jacinto Orfanell)神父は、一六一五年(慶長二〇)中津訪問のとき、ジョアン久保(久芳)又左衛門の家に滞在した。 

* 一六一七年(元和三年八月二五日)豊前の国中津の分のコーロス徴収文書冒頭には久芳寿庵の名前で花押が押されている。イエズス会年報の久保又左衛門と久芳寿庵とは同一人物と思われる。 

一六一八年(元和四)オルファネール(Jacinto Orfanell)神父の書簡、(f.126v)には
『三月に死んだ人々の中に中津市に住んでいたマタザエモン・クボ(久芳寿庵)という者がいます。(その地の殿の息子・細川忠利の執事である身分の高い武士でした。)私は数年前〔一六一五年の半ば頃〕その地方を通った時にこの人物の家に泊まりました。前に述べたように迫害が酷しくてキリシタンが激しい恐怖心を抱いている時でしたから、私はそこに着いたとき彼らの中に私を泊めてくれる者がいるかどうか見るためにイルマン〔修道士〕をさきに送りました。私が来たのを知ると、マタザエモンは直ちに自分の家を提供してくれました。私は二日そこに泊まって数名の者を信仰に立ち戻らせました。マタザエモンも一年前に棄教したのですが、それを深く後悔し、私がその時と事情に応じて与えた償いを果たし、再び棄教しないと約束しさらに行いによってこれを証明すると言いました。私は家中の者全員の告解を聴き、慰めを与えた後に、その家を出ました。出発に際して彼はミサの用具と衣服を運ぶために家来をつけて馬を貸してくれ、この家来はその一日の旅の案内をしてくれました。前に述べたようにこの秀れたキリシタンは中津に住んでいましたが、捕らえられ手を後ろに縛られて殉教の地となった小倉市まで連れて行かれました。その後〔一六一八年二月二六日〕トマスという彼の長男も同じく信仰のために中津で殺されました。』 

一六一八年(元和四)二月二六日、中津に於いて
前日小倉に於いて処刑された、トマス小柴善衛門の息子ミゲル善衛門、ジョアン久保(久芳)又左衛門の十六歳の息子トマス(ヒャクノスケ・百之助)。斬首。 

前日小倉に於いて処刑された、トマス小柴善衛門の息子ミゲル善衛門、前から殉教を覚悟していて殉教の希望を持っていた。彼も騙されて殺された。
ジョアン久保(久芳)又左衛門の息子トマス(ヒャクノスケ・百之助)十六歳、深い信心を示して死んだ。二名の子供が斬首された。 

一六一八年(元和四)二月二八日、小倉に於いて
*レオ利斎(リアン理斎)と妻マルタ、幼い二人の児童。
ジョアン島田治兵衛と妻アンナ、一歳半(十八ヶ月)の息子トマス、
ペテロ助右衛門と六歳の息子マルコ、が斬首された。 

*一六一七年(元和三)八月二四日の豊前の国小倉の分のコーロス徴収文書には、松野はんた理庵と糸永理庵と田代理庵の三人の名前が記録されている。レオ利斎(リアン理斎)が松野はんた、糸永、田代なのか?どの人物に該当するかは目下のところ不明。 

同日中津に於いて
ベネディクト九右衛門、ヤコブ久慈治右衛門、トマス金助(順助)、が斬首された。 

小倉に於いて
*レオ利斎(リアン理斎)と妻マルタ、妻マルタは幼い二人の児をかかえていた。子供と共に殺された。

*一六一七年(元和三)八月二四日、豊前の国小倉の分、コーロス徴収文書に記載されている三人の理庵のうち、(松野はんた理庵、糸永理庵、田代理庵、)いずれか目下のところ照会不明。

ジョアン島田(山田)治兵衛と妻アンナ、一歳半(十八ヶ月)の息子トマス、ジョアン島田(山田)治兵衛の親族友人が集まり棄教するように説得したが、聞き入れず、ついにそのために殺された。 

*一六一七年(元和三)八月二四日、豊前の国小倉の分のコーロス徴収文書にはジョアン島田治兵衛と近い名前に山田寿庵の署名があり、イエズス会報告の島田寿庵は(山田寿庵)の聞き違いによる記録誤記と思われる。 

バルトリ著『イエズス会史抜粋』(一六一七、一六一八年補遺・三一七頁)『特別に記憶すべきことはジョアン(山田寿庵)キヒョウエの妻であったアンナがいる。彼女は自分の命のみでなくトマスというわずか十八ヶ月(一歳半)の彼女の小さい子供の生命さえも死刑執行人に懸命に差し出した。そして彼女がたった一人で足早に非常に朗らかに行くのを見た人に「子供を腕に抱いてそんなに急いでどこへ、そして何をしに行くのか」と聞かれた時、「もっとも望ましいことに。もっとも嬉しい所に。つまり、牢獄に死に天国に」と答えた。彼女の首を切ってから子供は虐殺された。』 

ペテロ助右衛門と六歳の息子マルコ、が斬首された。

*一六一七年(元和三)八月二四日、豊前の国小倉の分のコーロス徴収文書には、ときやへいとろの名前がありイエズス会年報のペテロ助右衛門と同一人物と思われる。ときやは時屋か?屋号なのかは目下のところ不明。 

中津に於いて(同日)
ベネディクト九右衛門、ヤコブ久慈治右衛門、トマス(宮成)金助、が斬首された。 

ヤコブ久慈治右衛門
父親と同じく長い間棄教していたが、終に元に戻って告解をして、今や充分に覚悟して殺された。 

*一六一七年(元和三)八月二五日、豊前の国中津の分のコーロス徴収文書には、矢田ジャコウベ(花押)の名前があり、イエズス会年報のヤコブ久慈治右衛門と同一人物と思われる。 

トマス金助
キリストの勇敢な兵士として殉教した。

*一六一七年(元和三)八月二五日、豊前の国中津の分のコーロス徴収文書には山内

トウマと今永トメイの二人の名前が記録されている。イエズス会年報記載のトマス金助がどちらかの人物に該当するかは目下のところ不明。 

一六一八年(元和四)三月一日(十五日?)中津に於いて
イエズス会の前の伝道士ヨハネ宮中友信、イエズス会の宿主ペテロ延太郎、ビンセンテ志賀市左衛門、シモン十右衛門とその兄弟ヨハネ与兵衛(弥兵衛)、ステファノ斉藤老斎、ベネディクト利右衛門、が逆さ十字架に架けられて胸を槍で付かれた。 

*一六一七年(元和三)八月二五日、
豊前の国中津の分のコーロス徴収文書には、椎田ペイトロはイエズス会の宿主ペテロ延太郎と同人物、
志賀ビセンテはビンセンテ志賀市左衛門と同人物、御手洗ゑすてハんはステファノ斉藤老斎と同人物、
久恒寿庵と久恒シモンはシモン十右衛門とその兄弟ヨハネ与兵衛(弥兵衛)と同人物、
田房ベントはベネディクト十右衛門と同人物、と考えられる。 

一六一八年(元和四)七月二九日(二五日?)、小倉に於いて
レオ(リアン・スオカネヤ)五郎右衛門、ヨハネ伝蔵、パウロ与助、パウロ藤右衛門、レオ(リアン)助蔵、ヤコブ清三、ルカス久兵衛(九兵右衛)、ヨハキム勘兵衛、ヨハネ五兵衛、パウロ市助、ヨハネ三次郎、が斬首された。 

レオ五郎右衛門(リアン・スオカネヤ)
信仰を失ったが、すぐに告解をして真実に神に近づき、終に神の御慈悲によってキリシタンとして死んだ。

*一六一七年(元和三)八月二四日、豊前の国小倉の分コーロス徴収文書には三名の理庵の名前が書かれている。松野はんた理庵、糸永理庵、田代理庵。レオ五郎右衛門(理庵・スオカネヤ)が誰なのかは特定できていない。スオカネヤは屋号だろうか? 

一六一八年(元和四)八月十七日、小倉に於いて
ジョウチン?斬首。 

一六一九年(元和五)十月十五日早朝、小倉に於いて
細川忠興の元家老、小笠原みやの父、加賀山隼人正興良(興長・六千石)、斬首。

加賀山隼人(右)加賀山半左衛門(左)墓碑・香春町中津原浦松

加賀山隼人、妻アガタ、娘ルイザとアンナの一家四人は、一六一八年三月から『(御船宮内の)貧しいひどい小屋に監禁され』『所有していた道具も米も取り上げられ、この世にあるありとあらゆる罰と苦痛を与え』られた。殉教する一六一九年十月十五日までの一年半を御船宮の貧しいひどい小屋で監禁生活を強いられた。 

十月十五日早朝の加賀山隼人処刑の仕手(執行人)について、藩臣閥閲録巻之六仕物の部所載に『山本三四郎、後に三郎右衛門(三左衛門とも言う)加賀山隼人被誅候時仕手被仰付』とあり、山本三郎右衛門が加賀山隼人のときの仕手(処刑人)である。 

同日同時刻、豊後日出に於いて
バルタザル加賀山半左衛門と四歳の息子デエィゴ、斬首。


加賀山半左衛門・息子ディエゴ・殉教地跡・日出藩処刑場跡地・日出殉教公園

加賀山隼人の『遺体は(隼人に同伴した)二人のキリシタンによって出来うる限り鄭重に葬られた。』その日のうちに二人のキリシタンは隼人の遺体を小笠原玄也・みやの追放地、田川郡香春町中津原浦松まで運び、玄也とみやが鄭重に葬ったと推測される。 

加賀山隼人正興長(右)と加賀山半左衛門(左)墓碑・香春町中津原浦松
小笠原玄也一家はこの墓碑の近くの貧しい農家に監禁されていた

又、数日後、豊後の日出で処刑された隼人の従兄弟、バルタザル加賀山半左衛門と四歳の息子デエィゴの遺体も香春町中津原浦松に運ばれてきて、玄也とみやが父加賀山隼人の墓の隣に二人の遺体を鄭重に葬ったと思われる。 

「三人の墓は、現在も田川郡香春町中津原浦松、愛宕山照智院・愛宕神社の下、浦松川に架かる庚申橋という小さな橋のたもとに建っていて、地元の人々に水神様として祭られている。両方の祠(墓碑)とも、名前、死去年月日は刻んでなく不明。左の墓碑の表面の扉の左右には十字架が二つ、右の一回り大きな墓碑の扉の左右にはギリシャ十字が二つ、浮き彫りにされている。」郷土史かわら 香春町歴史探訪 四三 一二〇頁 香春町教育委員会

 玄也の長兄・小笠原長基は細川忠興の姪・おたねを妻として、長基の嫡子・長之(ながゆき)は忠興の弟、細川休斎の娘・こまんを養女にして妻に迎えている。玄也の次兄、長良は忠興の妹・おせんを妻として迎えている。婚姻関係に於いて小笠原家は細川家と深く結ばれているので忠興は寵愛の家老、みやの父加賀山隼人を誅しても玄也一家を殺害することを好まず『身内の者ゆえ、許してやれ。』と小倉を追放して、棄教させるために厳しい艱難の中に追いやり貧困に喘ぐ苦しい生活をさせた。 

推論
小笠原玄也とみやは、父加賀山隼人正の殉教をどの様な悲しみで受け止めたのだろうか。みやは愛する父隼人正の遺体を深い悲しみの中で自分達の家の近くに埋葬した。 

数日後、豊後の日出から送られてきたバルタザル加賀山半左衛門と四歳の息子デエィゴの遺体をどの様な深い悲しみで父隼人正の左隣に埋葬したのだろうか。処刑された四歳のデエィゴと同じ幼い子供を持つみやと玄也の流した涙と張り裂けるような心の叫びを思うとき、このような極限の悲しみの中にあっても、その悲しみを神の試練として受け止めて深い悲しみを乗り越えていく揺るぎのない神に対する信頼の強さ、信仰の深さを玄也とみやの心の中に見ることができる。 

みやの父・加賀山隼人正の残した言葉『人生のすべての苦労を力強く耐えることがすべてではない。喜んで耐えることだ。』とは、与えられた試練をどの様に受け止め、神の前に自分の人生をどの様に生きるかを教え諭した言葉だった。細川忠興によって多くのキリシタンの仲間達が処刑されている迫害の最中にあっても、みやの心の中に『逆境のときにこそ、強く雄々しく、喜びを持って生きていく。』という父隼人正の言葉が生きていた。 

みやと玄也は、父隼人の言葉を自分達の生活の中で実行していった。迫害の時代だからこそ、殺されることがわかっているからこそ、子供を産まないのではなく、この様な難しい時だからこそ、子供を産み育てるという、一人の女性の強い意志が信仰により裏図けられている。 

一六二十年(元和六)八月十六日、日の出から約二時間後、小倉に於いて

シモン清田朴斎(六〇歳)、妻マダレイナ、家僕トマス源五郎、妻マリア、息子(少年)ジャコウベ文蔵、逆さ十字架に架けられた。シモン清田朴斎、妻マダレイナは翌日十七日の日没時に絶命した。トマス源五郎、息子ジャコウベは三日目(十八日)にも息をしていた。まだ長く生きそうであったので槍で貫かれ、至聖なるイエズスとマリアの御名を唱えているなかに死去した。マリアの死亡時刻は不明。五人の遺体は火中に投じられて焼かれ、その灰は海に棄てられた。シモン清田朴斎と妻マダレイナの遺体を焼いているとき、三日月形の虹が二つ、☽☾ 互いに背中あわせに出現した。逆さ虹の両端は天に付いていた。翌日、五人の灰が海に棄てられるときにも、同様の虹が出現した。 

シモン清田朴斎は加賀山隼人とともに「小倉教会の柱石」と称えられるほど豊前のキリシタン信徒達の中心人物であり、細川家家老・加賀山隼人正も特にシモン清田朴斎を常に称賛していた。一六一七年(元和三)八月二四日、豊前の国小倉の分、コーロス徴収文書にも清田志門(花押)と名前がある。 

シモン清田朴斎は豊後のキリシタン大名・大友宗麟に仕えていた武士で、家柄も貴く、心も気高く、少年時代から武道に親しみ、戦場を疾駆して勇名を轟かしていた。 

宗麟の嫡男、大友義統(よしむね)が、一五九三年(文禄二年、朝鮮・文禄の役)二月八日、明軍の平壌城攻撃のとき大友軍は軍律に違反して撤退した。報告を聞いて激怒した豊臣秀吉によって、五月三一日、勘当状が出されて義統は改易され豊後の領地を失い、追放されて毛利輝元に預けられた。その後豊後は七つの小藩に分割された。 

その時シモン清田朴斎は世の無常を感じて人間的な一切のことを止めて、神にのみ仕える決心をして伝道者として非常に熱心に教会のために働いた。伝道者という職務柄、いつ殉教するか判らなかったので、シモン清田夫妻の生活は清貧を旨とした修道者の様な生活を送り、常に殉教のために自分を整えていた。 

信仰を棄てよとどのように脅かされようとも、他人の救霊のために職務を棄てず、異教徒をキリシタンに導き、新しい信徒達の信仰を励ましていた。シモン清田の徳の模範は非常に強い刺激を人々に与え、また徳自体は人々を極めて親密にして、同じ敬虔の徳を重ねさせた。妻マダレイナは『何も私たち夫婦を引き離せるものはありません。どんな苦しみも、どんな刑使もこの口から背教の声を出させることができません。だから私はこの戦いを逃れず、むしろこれを望み、これによって私の信仰を、あなたにもキリスト様にも証明いたします。誰が死を妨げたり、拒めましょう。私はキリスト様のために死ぬことができますし、またあなたと共にさえ死ぬことができます。』と言った。 

役人達はジャコウベ文蔵少年を脅して拒否されるとついには拳固で殴る、足で蹴る暴行を加えた。ジャコウベ少年は『その馬鹿げた脅しは何ですか。あなたがたはふざけていると思います。この幼稚な威嚇に心を動かす私ですか。そんな不名誉な転びはしません。なぜ平民を打つように私を打つのですか。なぜつまらぬ傷を加えるのですか。頭はここ、脇はここです。なぜ刀を研がないのですか。斬ってください。どうしてためらうのですか。他は少年でも心と信仰はそうではありません。』と言った。 

家僕トマス源五郎、妻マリア、息子ジャコウベ文蔵少年も、シモン清田の清貧の生活を見習い、同じ道を歩んで共に殉教の栄冠に与かった。 

一六二○年(元和六)八月十六日、日の出から二時間後、五人は逆さ十字架に付けられた。シモン清田と妻マダレイナは、翌日十七日の日没時に死去した。三日目の十八日、トマス源五郎と息子ジャコウベ文蔵少年はまだ生きていたが、至聖なるイエズスとマリアの御名を唱えている中に、槍で貫かれて死去した。妻マリアの死亡時刻は不明。五人の遺体は信徒達に崇められないように火の中に投じられ、完全に灰にしてから海に棄てられた。 

一六二○年(元和六)十二月二五日、細川忠興は剃髪して隠居、三斎宗立と号して中津城に移り、細川忠利が父忠興に代わりに豊前の領主になって小倉城に移り居住する頃からキリシタン迫害は収まり、以後一六三二年(寛永九)十二月の肥後熊本移封まで豊前に於いて殉教者は少ない。表面的には平安を装っているこの時期をキリシタン達は潜伏し、キリシタン組織・コンフラリアを中心に互いに助け合いながら信仰を保ち続けている。 

一六一一年(慶長十六)十二月、セスペデス(Gregorio Céspedes)神父の死去とともに忠興の命令により破壊された豊前の教会に代わり、伊東マンショ神父により再組織された信徒組織(コンフラリア)が、以後信徒達の大事な信仰維持の役割を担っていった。 

カミロ・コンスタンチオ(Camillo di Costanzo)神父
一六二二年(元和八)九月十五日、平戸の田平に於いてカミロ・コンスタンチオ(Camillo di Costanzo)神父(五〇歳)、火刑にて処刑され殉教。 

一六○五年(慶長一〇)マカオから来日。マカオでは伊東マンショ、中浦ジュリアンと共に二年間、倫理神学を学んでいる。恐らく日本に行くことが決まった時から、日本語を同僚の伊東マンショと中浦ジュリアンが教えていたと考えられる。 

日本に来てからは有馬のコレジオで二年間、日本語の勉強をした後、一六○七年(慶長十二)に小倉に神父として派遣された。小倉では一年早くセスペデス神父の下で働き、一六〇八年からは伊東マンショ神父とともに働き、シモン清田朴斎、ディエゴ加賀山隼人正、小笠原玄也とともに宣教に従事した。一六一一年(慶長十六)十二月、セスペデス神父の死去に伴い、小倉教会が細川忠興の命令により破壊・追放されるまで五年間小倉に於いて働いた。 

追放前に伊東マンショ神父と共に小倉に於いて信徒組織編成を新たに再構築している。細川忠興の迫害に耐えうるように、キリシタン信徒組織をより強固にして、相互扶助と信仰維持のためにコンフラリアを再編した。コンスタンチオ神父は追放後、しばらく下関の伝道所に留まり、小倉の信徒達を指導していた。後、大坂・堺に遣わされ、堺の信徒達を指導して司牧に従事した。一六一四年(慶長一九)三月、神父追放令により長崎に戻り、十一月八日、長崎よりマカオに追放された。マカオに於いて日本仏教についての本を書き上げている。 

一六二一年(元和七)日本の和船で長崎に密入国、佐賀県嬉野の不動山にて潜伏宣教していた。唐津においてしばらく滞在して信徒組織(コンフラリア)を構築後、平戸へ移動した。 

一六二二年(元和八)平戸、生月島に三ヶ月滞在、納島にて三日間告解を聞き、四月二四日、宇久島へ渡ったときに捕らえられた。壱岐の島の郷の浦の牢屋に繋がれていたとき、カミロ神父とともに働いていた平戸出身のアウグスチヌス太田が八月十日(水)牢屋の前の浜辺で斬首された。九月十一日、長崎よりカミロ・コンスタンチオ神父に同行していたガスパル籠手田(二一歳)が長崎・西坂に於いて斬首された。九月十五日、コンスタンチオ神父が平戸の田平に於いて火刑により処刑され殉教した。 

 「コンスタンチオ神父は、火刑にために柱に付けられていたが、日本語、ポルトガル語、フランドル語の三か国語で群衆に向かって説教した。神父は、聖書の言葉を引用して『身體を殺す者を懼れるなかれ』といった。彼は渦巻く煙になか、いな焔の真最中もの最後まで、総ての殉教者たちのこの栄えある歌『諸人来りて主を讃え奉れ』Laudate Dominum,omnes gentes! を最後まで歌い、そして五度『聖なるかな』Sanctus! を唱え、彼はすでにセラフィム(最高の天使)たちの中にあるかの如くに、主に霊魂を返し、永遠の聖歌を続けようとしていた。」
日本切支丹宗門史 第七章 中巻 二四五~二四七頁 

一六二三年(元和九)二月十七日、豊前の國(おそらく小倉)に於いて
トマス喜右衛門、斬首。

*一六一七年(元和三)八月二四日、豊前の国小倉の分、コーロス徴収文書に記載の佐田とめいがイエズス会報告に記録されているトマス喜右衛門と同一人物と思われる。他の報告書では殉教の日付が一六二四年(寛永元)十一月一日、小倉に於いて武士のトマス・パウロ喜右衛門、斬首となっている。 

一六二四年(寛永元)イエズス会日本年報には
『中浦ジュリアン神父は、当時、筑前と豊前を訪問中であった。彼は困難辛苦のためにすっかり衰え、身動きも不自由で、たびたび場所を変えるのに人の腕を借りる有様であった。』『豊前の領主は、長岡越中殿の子(細川忠利)で、その父とは大いに違い、宣教師に対して非常に心を寄せ、母ガラシャの思い出を忘れないでいることを示した。』 

推論
中浦ジュリアン神父と同宿のトマス・リョウカン(了寛)は、いつ頃からか明確に言及できないが、島原半島の宣教師団がほぼ壊滅した段階(一六二六年頃)で、活動の場を(長崎・島原)高来地方から、昔活動していて土地勘のある豊前地方(小倉)に移した。一六二七年頃から細川興秋を頼って興秋が匿われている香春町採銅所の不可思議寺に身を寄せて匿われていたと推測される。 

一六二七年(寛永四)から一六三二年(寛永九)十二月の細川藩の肥後熊本への移封までの六年間について中浦ジュリアン神父の活動記録がイエズス会の日本年報にはない。キリシタン史の中で中浦ジュリアン神父の動向が掴めない空白の六年間、報告書もないこととその理由とが大きな謎だった。一六二四年(寛永元)のイエズス会日本年報には『中浦ジュリアン神父は当時、筑前と豊前を訪問中であった。彼は困難辛苦のためにすっかり衰え、身動きも不自由で、たびたび場所を変えるのに人の腕を借りる有様であった。』との報告があり、健康に重大な問題を抱えていたことが報告されている。脳卒中(脳梗塞)による半身不随あるいは部分的な麻痺障害が残って後遺症により筆記が出来なかったかもしれない。 

中浦ジュリアン神父の六年間の動向空白が脳卒中(脳梗塞)説を示唆していると考えられる。 

中浦ジュリアン神父が忠実な伴侶・同宿トマス・リョウカンと共に、豊前地方に於いて活動を続けることが出来たのは、細川忠利のキリシタンに対する理解ある態度と共に、当時香春町採銅所の不可思議寺に秘密裏に匿われていた忠利の実兄・興秋にとって中浦ジュリアン神父が信仰を維持する上で必要不可欠な神父であったこと、中浦ジュリアン神父にとっても興秋に匿ってもらうことで身の安全を保障され、治療に専念する事が出来ること。互いの利点に於ける相互扶助の関係が出来上がることを考えると、中浦ジュリアン神父が最も身を隠すのに適していた場所が興秋の隠蔽されている香春町採銅所の不可思議寺だった。それゆえ中浦ジュリアン神父は最も安全な隠れ場所である興秋の不可思議寺に大胆にも身を寄せたと推測される。 

中浦ジュリアン神父が一六二七年(寛永四)を境に逮捕までの六年間、報告書を書かなかった理由とは何か、書けなかった訳とは何か。脳卒中(脳梗塞)説とは別に、もしも報告書が役人の手に落ちた場合、検閲されて幕府に通達、詮索の結果必ず興秋にたどり着くからではないのか、そうなれば細川藩に隠蔽されている興秋だけではなく小笠原玄也一家、田川周辺のキリシタン組織、それを見ぬ振りをしている細川藩自体まで累が及ぶことが明白である以上、中浦ジュリアン神父はあえて報告をしなかったのではないかと推測される。 

興秋が中浦ジュリアン神父を採銅所不可思議寺で密かに匿っていると報告を受けた興秋の父忠興は激怒したであろうが、興秋の隠蔽自体が細川藩の最高機密である以上、下手に騒ぎ立てて幕府に事が露見したら細川藩自体幕府により取り潰しになりかねない危険性を孕んでいるために、その中に逃げ込まれてしまえば最も凶暴な迫害者・忠興でさえもうかつには手出しは出来ない問題であった。忠興にとっては中浦ジュリアン神父の不可思議寺寄宿の件は忌々しい限りの問題であったことは容易に理解できる。教会側もイエズス会報告には書けない出来事、細川藩も記録には残せない問題、だからこそ両者が何も語らない六年ではないかと考えられる。 

また豊前地方に於いてはキリシタンの組織が確固と構築されていた。中浦ジュリアン神父を匿う組織とは、都市部に於ける武士・商人を中心とした都市型信徒組織(コンフラリア)、農村地方に於ける庄屋を頂点とした農民達で構成する農村型信徒組織(コンフラリア)、被差別民で構成する被差別部落型信徒組織(コンフラリア)に大別される。中浦ジュリアン神父と同宿トマス・リョウカンは信徒達の求めに応じて、宣教活動の時は定住することなくこれら三つの信徒組織間を渡り歩いていたと推測される。 

一六三二年(寛永九)十二月、細川家は肥後熊本へ移封した。興秋は豊前の国田川郡香春町採銅所の不可思議寺を出て肥後の国熊本の山鹿郡庄村の「泉福寺」(真言宗)に移った。不可思議寺に一六二七年以来、六年に渡り匿われていた中浦ジュリアン神父と同宿とトマス・リョウカンの肥後への同行を細川忠興・忠利は決して許さなかった。 

興秋の肥後山鹿郡鹿本町庄の「泉福寺」への移動には、米田監物是季の部隊の警護と輸送力が必要だった。不可思議寺の興秋の家財道具、仏具等の運搬には、米田部隊の運搬の加勢が必要だった。この部隊に中浦ジュリアン神父を同行させた場合、途中で殺害される恐れがあった。そのため興秋は中浦ジュリアン神父とトマス・リョウカンを一時的に小倉のキリシタン指導者へ預け、興秋が肥後山鹿郡鹿本町庄の「泉福寺」に落ち着いた頃あいを見て、鹿本町庄の「泉福寺」へ呼び寄せる計画だった。 

行き場を失った中浦ジュリアンと同宿トマス・リョウカンは、興秋の指図で小倉の信徒代表(宿主)を頼り潜伏していたが、二人を忌々しく思っていた忠興によって後任の小笠原忠真に内通され、同十二月小倉の潜伏先で逮捕された。興秋を頼って熊本まで来られては細川藩の存亡に係わるので、移封を機に二人を切り捨てたと考えられる。小笠原玄也一家の隠蔽問題でさえ細川藩の取り潰しになりかねないのに、忠興、忠利にとって間接的といえども神父を匿っていたなどあってはならないことであった。 

一六三二年(寛永九)十二月九日、細川忠利とともに肥後・熊本に移った小笠原玄也一家は、塩屋町の奉行田中兵庫の監視の下で年を越し、一六三三年(寛永十)春頃までに山鹿郡鹿本町庄村付近に移されて新たな土地で生活を始めている。細川家の後には、徳川家譜代の大名、小笠原忠真が小倉に入国している。 

一六三三年(寛永十)九月頃(?)小倉に於いて、(藩主が小笠原忠真に変わって)
トマス・了寛、中浦ジュリアン神父の同宿、
ルイス・禍福、ベント・フェルナンデス(Bento Fernandes)神父の同宿、
ディオニジオ・山本、ヨハネ・ダ・コスタ神父の同宿、

三人とも日本人で小倉の牢屋内に於いてイエズス会に入会した後、火刑により殉教した。 

トマス・了寛、
中浦ジュリアン神父の同宿(共働者)
天草の人、コレジオの生徒、はなはだ雄弁。

ルイス・禍福、
ベント・フェルナンデス(Bento Fernandes)神父の同宿、
有馬の人、コレジオの生徒、マニラに流されていたが、密入国してフェルナンデス神父と共に潜伏して宣教に従事していた。

ディオニジオ・山本
ヨハネ・ダ・コスタ(João da Costa)神父の同宿、
広島の人、しばらくコレジオにいた。マカオに流されていたが、密入国してダ・コスタ神父とともに潜伏して宣教に従事、ともに捕らえられた。

 三人とも日本人で小倉の牢屋内に於いてイエズス会に入会した後、火刑により処刑、殉教した。

 一六三三年(寛永十)十月十八日、長崎、西坂の丘に於いて
イエズス会の菅区長クリストファル・フェレイラ(Cristov ão Ferreira)神父、中浦ジュリアン神父、ヨハネ・マテオ・アダミ(Giovanni Matteo Adami)神父、アントニオ・デ・ソーザ(António de Sousa)神父、フライ・ルカス・デル・エスピリット・サント(Lucas del Espíritu Santo)神父、日本人のペテロ修士、マテオ修士、フランシスコ修士が穴の中に吊るされた。 

フェレイラ神父は処刑開始後五時間で棄教した。中浦ジュリアン神父は二一日に絶命した。遺体は焼かれて灰にされ長崎の海に撒かれた。 

 クリストファル・フェレイラ(Cristov ão Ferreira)神父は棄教後、沢野忠庵と名乗り、キリシタン目明しとなった。 

クリストヴァン・フェレイラ(Cristovão Ferreira)神父(五三歳)は一六三三年(寛永十)十月の棄教後「転び伴天連」と呼ばれ、長崎の笠頭山洪泰寺(後に皓台寺(こうたいじ)と改称)の檀家として登録され、沢野忠庵という日本名、長崎本五島町に住居を与えられて居住。死刑に処せられた中国人商人の妻だった日本人女性を妻として嫡子忠二郎と女子を授かり三〇人扶持、宗門吟味役が仰せ付けられた。 

フェレイラは江戸幕府大目付付きの通詞として長崎奉行所で働き、後に初代宗門改役を務めた井上筑後守政重(一五八五~一六六一年)に通詞として仕えている。長崎奉行所に於いて捕縛されたキリシタンたちや不法入国した外国人宣教師の詮議と通訳、押収されたキリシタンたちの持ち物(聖遺物や信心道具)、押収された日本に潜伏している宣教師宛て書簡の翻訳等に従事して宗門目明しとしてキリシタン詮議に協力した。 

一六三六年(寛永一三)フェレイラ(五六歳)は、一六三三年(寛永一〇)の棄教の三年後、キリスト教教理排耶書『顕偽録』を書いてキリスト教と仏教の比較論を展開してキリシタンを仏教徒に改宗するための反駁書を作成している。フェレイラの書いた『顕偽録』は教会内の聖職者としてカトリック教理教説の欠陥を指摘する内容が認められる。その反駁はフェレイラ自身の棄教を正当化しようとする自己弁明であった。 

おそらく、長崎の皓台寺住職一庭融頓(四九歳)の助けと指導により『顕偽録』は書かれている。フェレイラは若い仏僧たちに『顕偽録』を用いてキリシタンたちを仏教徒にするための講義を宗門吟味役の仕事の一環として教えていたと推測される。 

長崎の皓台寺に学んでいた当時二五歳の若き僧・出羽国秋田出身の益峰快学(えきほうかいがく・一六一八~一六九九年)は、フェレイラより『顕偽録』を教本として、直接にキリスト教と仏教の比較宗教論とキリシタンを如何に仏教徒に導く改宗方法論を学んでいる。 

キリシタンたちを仏教徒に改宗させる改宗論と方法、及びキリスト教理論を直接元神父であるフェレイラより学んだ益峰快学は、天草の代官・鈴木重成により見出されて、特にキリシタン信徒が多くいる天草の御領に一六四五年(正保二)十一月十五日に創建された「月圭山 芳證寺」に住職として招かれ、一六四六年(正保三)長崎の皓台寺から益峰快学(二八歳)が入寺して開寺となった。 

天草御領の芳證寺・益法快学が入寺して開寺・1646年 細川興秋の墓碑がある

以上の多くのキリシタンたちの殉教報告が興秋と小笠原玄也にもたらされた。黙々として日々の生活のために出来る限りのことをしながら、神から与えられた命を懸命に生きている玄也とみやにとっても、困難の中、危険を省みずに自分たちの信仰を支え続けてくれた中浦ジュリアン神父の長崎での殉教は大きな悲しみだった。 

また中浦ジュリアン神父は、採銅所「不可思議寺」の住職・細川興秋と共に一六二七年より六年間、滞在して、近くに居て信仰面でも指導してくれた神父であり、玄也とみやにとっては、大きな心の支えだった。 

香春町での不可思議寺を中心としたキリシタン寺の組織化(network・construction)を構築できたのも中浦ジュリアン神父の助言と熱心な宣教活動の賜物だった。香春岳城主・細川孝之の保護と容認の元、興秋と中浦ジュリアン神父、トマス・リョウカン修道士、小笠原玄也、地元のキリシタン庄屋たちの協力の結果、香春町にはキリシタン三,〇〇〇人を抱える一大キリシタン組織の構築が出来上がっていた。 

キリシタン同志としての興秋と中浦ジュリアン神父との信頼関係は、兄弟以上の神による堅い絆で結ばれた運命共同体だった。 

不可思議寺の住職・細川興秋にとっても中浦ジュリアン神父の殉教は、心の大きな痛手だった。香春から肥後山鹿郡鹿本町庄の「泉福寺」に移って、すぐにでも中浦ジュリアン神父を呼び寄せようと計画していた興秋にとって、中浦ジュリアン神父の逮捕、殉教は大きな誤算であり、悔いても悔やみきれない出来事だった。父忠興のキリシタン迫害、穿鑿(せんさく)は過酷なまでの残忍さを持っていることを改めて痛感することとなった。 

 肥後山鹿郡鹿本町庄の「泉福寺」に落ち着いた興秋は、父忠興の謀により失望の底に落とし込まれていた。中浦ジュリアン神父という大きな心の支えを失った興秋は如何に心を立ち直すかさえ見失い、この新しい山鹿の土地で如何にキリシタンとしての生きて行けばよいのかさえ見失っていた。

 

 


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