クレドの伴奏譜「筝曲六段」の創作者・ロレンソ了斎の生涯

ロレンソ了斎(南蛮屛風より部分、神戸市立博物館所蔵)
ロレンソ了斎が死去した長崎のコレジオ跡地・トードス・オス・サントス教会跡地
現・春徳寺・長崎市夫婦川町

ロレンソ了斎の生涯

第1章 生い立ち
  ロレンソ了斎は、一五二六年(大永六)、肥前の國・白石(現・長崎県平戸市春日町白石)に生まれた。長崎県平戸市にある平戸島の北部、現在、生月島と平戸島を結ぶ生月大橋が掛かる平戸島の山の下の海辺の小さな入り江にある白石という一〇軒ほどの集落に、一五二六年、体が弱く目の不自由な子が生まれた。片方の眼の視力はなく、もう片方の目で歩ける程度にぼんやり見えるだけであった。一六・一七世紀の日本では目の不自由な人々は、生まれた家の経済状態や教育の程度によって医者や音楽家,按摩師として生活し、時には身分ある人の相談役として選ばれることもあった。しかし、貧しい家庭(おそらく父は漁師だったであろう)に生まれたロレンソ(その姓は記されていない)には、ひとつの可能性しか残されていなかった。それは当時の他の貧しい盲人と同じように琵琶法師になることだった。琵琶を奏でながら、昔の武士物語(平家物語等)を唱えながら道を歩き、物を乞いながら生活することだった。時には仏教の教えに精通した雄弁な琵琶法師は、その宗派の伝道師として利用されることもあった。物心付くようになったロレンソは、近くの寺に預けられ、そこで寺の修行をしながら、琵琶の奏法を学び、また、預けられた寺の宗派の教理や他の宗派の教理、いくつもある仏教宗派の教理の違う点等を学んだと思われる。

 後年一五七一年、ロレンソがフランシスコ・カブラル(João Cabral)神父と共に、織田信長に挨拶するために岐阜まで行ったとき、信長がロレンソに向かって、宗教にかかわるいろいろな質問をした。ロレンソは尋ねられたことについて答えた後、神の正義と憐れみについて長い話をした。信長が、ロレンソが説明したことに賛同したので,そばにいた元僧侶であった友人は『ロレンソが神の教えのことをよく知っているのは神父たちが教えたのであろうから私は驚かないが、日本の諸宗派の秘儀について僧侶たちが大抵知らないのに、彼がこれほどよく理解している点において私は驚きます』と述べている。このことからも、ロレンソが、寺に預けられていた時に、仏教の諸宗派について学んでいたことが判るし、また、寺院から琵琶を奏でながら巡礼にでた時も、各地の寺院に宿を乞い、その所で各宗派の奥義について熱心に学び知識を積んでいたことが推測される 

 ロレンソは幼いころ寺に預けられて将来の生活のために琵琶の奏法や演奏演目である武士物語、平家物語等を暗記していった。字を書くことも読むこともできなかったロレンソは、ある日琵琶を背にして右手に杖をにぎり、故郷に別れを告げた。習ったばかりの物語を吟唱しながら、町から村へ歩き、個々の家々の軒先で琵琶を弾き、さ迷い歩く巡礼の道にでた。ロレンソには神から他の盲人にはない才能がすでに与えられていた。『溌刺とした才気と大いなる見識、人並み以上に優れた知識と才能、理解力と恵まれた記憶力、非常に豊富な言葉を自由に操り、それらの言葉はいとも愛嬌があり、明快、かつ思慮に富んでいたので、彼の話を聞く者はすべて驚嘆した』と後年、ロレンソによってキリシタンに導かれた人々の記録にロレンソの姿が描かれている。 

『山口には、片眼が全然見えず、他の眼はごくわずかしか見えない一人の盲人がいた。彼は日本での一般の習慣通り、琵琶で生計を立て,貴人たちの邸で奏でたり歌ったり、洒落や機知を披露し、昔物語を朗吟したりしていた。というのは、彼は、この点、盲人たちがたえず従事している按摩以外に、その溌刺とした才気や大いなる識見、また理解力と恵まれた記憶力によって、他の多くの盲人たちに抜きんでており、好まれたのである』
*ルイス・フロイス著『フロイス日本史』第六巻 大友宗麟編I 第四章(第I部五章)五四~五六頁 

『ロレンソは、外見上ははなはだ醜い容貌で,片眼は盲目で、他方もほとんど見えなかった。しかも貧しく穢い装いで、杖を手にして、それに導かれて道をたどった。しかしデウスは、彼が外見的に欠け、学問も満足に受けないで、読み書きもできぬ有様であったのを、幾多の恩寵と天分を与えることによって補い給うた。すなわち、彼は人並み優れた知識と才能と、恵まれた記憶力の持主で、大いなる霊感と熱意をもって説教し、非常に豊富な言葉を自由に操り、それらの言葉はいとも愛嬌があり、明快、かつ思慮に富んでいたので、彼の話を聞く者はすべて驚嘆した』
*ルイス・フロイス著『フロイス日本史』第一巻 織田信長編I 第一四章(第I部三八章)一六九~一七一頁 

『あの方(ロレンソ)は、片眼は見えず他の方の眼もほとんど何も見えませんし、まだ異教徒であった頃には生計を立てるために、手には杖を持ち背には琵琶を負い、家々で琵琶を弾き、そして機知に富んだ着想を語って歩く物乞いに過ぎませんでした。しかも彼は都地方の人ではなく、日本の片田舎である肥前の国の、しかも賤しい家の生まれでありました』
*ルイス・フロイス著『フロイス日本史』第二巻 織田信長編Ⅱ 第三一章(第一部七九章)九三~九九頁

(三箇伯耆守頼照サンチョ殿が、その三箇の教会において、一司祭、一修道士、ならびに数名の高貴なキリシタン兵士たちの前で、都地方の改宗に関して行った説話のこと) 

 平戸を出たロレンソは、琵琶を奏でながら旅を続ける。町から町へ村から村へ遍路を続ける。寺から寺へ歩みを進め、雨の日も風の日も、日々の食べ物を乞いながら、琵琶で生計を立て,貴人たちの邸で奏でたり歌ったり、洒落や機知を披露し、昔物語を朗吟したりして旅を続けていた。毎日が新しい出会いであり、新しい人々に出会い、それまで知らなかった仏教の他の宗派の寺で説法を聞きその宗派の教理を学んだ。時には宿を共にした他の琵琶法師から、新しい物語を習いながら、ロレンソの使う言葉は徐々に上達していき、語彙も豊富になっていった。

 ロレンソの性格と人格は次第に強くなり、相手への洞察力も増してくる。このようにして、ロレンソは遍路を二五歳の年、一五五一年(天文二〇)まで続ける。いつ九州から山口に海を越えて渡ったか判らないが、一五五一年には、ロレンソは山口近郊にいて、家々を物乞いして歩いていた。 

ロレンソの持っている仏教に関する理解力は群を抜けて素晴らしかったことが記録されている。
 『彼(ロレンソ)は公然と非常に学識のある仏僧たちや身分ある人々と論議し討論したが、かつてその誰からも論破されたことがなく、彼の説教によって幾千人もの人々が改宗させられた。いな彼の説教の大いなる説得力に打ち負かされ、傲慢で僭越な学者たちも彼の足下に跪き、彼から福音の聖なる教えを受け入れるに至った。ところで彼は、説教において泰然とし、力強く、堅忍不抜であったが、同様に彼は、生活の亀鑑という点でも、また信仰を弘めるにあたって、甘んじた果てしない困苦という点でも、はたまた彼が遭遇したひどい危険の中にあっても、つねに大いなる教化と模範を示したので、たとえ彼がキリスト教国の真只中におり、主なるデウスがヨーロッパにおいて、その僕たちに分ち給うたあの精神の中で教育されていたとしても、今の彼は以上の点では、その徳操においては、いささかも劣るところがないのである。それのみか彼が有徳の人であることは、彼を傍に置いている司祭たちがつねに大いに景仰してやまぬところであり、今でも(彼はすでに六五歳を超え、日本のイエズス会で四〇年間堪えてきた苦労のために,もはや病み、かつ弱っているけれども)下の地方のドン・バルトロメウ(大村純忠)の領内におり、必要ならば日中、二、三回はキリシタンや異教徒たちに説教をし、福音の説教師としての職務にいそしんでいる』
*ルイス・フロイス著『フロイス日本史』第六巻 大友宗麟編I 第四章(第I部五章)五四~五六頁 

第二章 ザビエルとの出会い
 『彼(ロレンソ・二五歳)は,異国人たちがその市(山口)で新しい宗教を説いていることを耳にしたので、司祭を訪れる決心をし、事実訪問した。彼は司祭に自らの疑問を提出し、その答弁に接して満足した。そして回を重ねるごとにその聖なる教えを受け入れることができるようになったので、メストレ・フランシスコ(フランシスコ・ザビエル・Francisco Javier)師は,十分教えこんだ後に彼に洗礼を授け、ロレンソの名を与えた。司祭の愛情は彼の心を獲得した。司祭たちが、幾千里もの遠くから多大の困難、危険、労苦のもと、ただ人々の霊魂を強化しようとの目的でなんら現世的な利害を求めずに日本へ渡ってきたその大きな企ては、彼を非常に感動させるに至り、彼は、物語をし、琵琶を弾き、朗吟したりして人々を楽しませる仕事で生計を立てていたのを断念し、自分の性質に応じてできそうな任務で我らの主なるデウスに奉仕するために、教会に一員になることを決意した。そして全能なるデウスは、栄光の使徒パウロの言葉どおり、強き者を辱めんとしてきわめて低く賤しき者を選び給うたように、同じ主は、ほとんどまったく視力を失い、生まれつき非常に滑稽な容貌のこの男を選び、日本における最初のイエズス会修道士として受け入れることを嘉し給うた。しかも同時に主なるデウスは、彼をその聖なる福音の宣布者、また都の市ならびに他の近隣諸国におけるカトリックの教えの最初の弘布者に選び給い、主は彼に満ちあふれるほどの恩寵を授け給うたので、彼は今までにイエズス会が日本で有したもっとも重要な説教者の一人となった』
*ルイス・フロイス著『フロイス日本史』第六巻 大友宗麟編I 第四章(第I部五章)五四~五六頁 

 ロレンソがザビエルから洗礼を受けた時期については、一五五一年五月頃から、トーレス神父が平戸から山口に赴任する九月一〇日までの四ヵ月の間と考えられる。ロレンソという名前は、洗礼の時にフランシスコ・ザビエルが与えた名前で、ロレンソの日本名(本名)は判っていない。「了斎」は斎名すなわち修道生活に入ってから選んだ名前である。出家する人の習慣に従ってイエズス会に入った日本人はしばしばそのようにした。 

 大道寺を訪れる人々の数は増え、教えを受ける人々の数も増した。その中にあって、ロレンソはザビエルを模範にして、ザビエルから直接に教えと指導を受けながら、フェルナンデス・Oviedo deFern ández)の助けも受けながら、キリスト教教理の学びを深めた。新しい信仰についても知識を増し加えると同時に、修道生活を学びながら祈りの生活を味わう日々が続いていた。この時期から、カトリック教理の学びと共にグレゴリオ聖歌を習い歌い始めたと考えられる。ザビエルの指導の下の数ヵ月の共同生活で修道士の道とは何なのかを学び、使徒職の熱意も受け取ったロレンソは、フェルナンデスの語る説教や教理の教え方などのすべてがロレンソの以後の伝道の仕方の基礎になった。またフェルナンデスはすべてにおいて何でも話し合える主にある兄弟でもあった。 

ザビエル版『ドチリナ』の訂正
 ザビエルが一五四九年八月一五日に鹿児島に上陸した時、日本における宣教のために既に一種のテキストができていた。マラッカで初めて日本人に会った時、今まで知らなかったこの民族が、高度な文化を持っていることがわかった。薩摩出身のアンジロウーと二人の彼の友を連れてゴアに行き洗礼の準備を受けさせるとともに、日本に布教に行く計画をたてた。この時、ザビエルが常に教理説明に使っていた「ドチリナ」を、アンジロウーの手を借りて日本語に翻訳して準備をした。

 ザビエルが参考にしたバロシュ(Joao de Barros)著の三三ヵ条のドチリナは幼児教育のために編成した文法書の付録だった。バロシュのドチリナに、ザビエルはインドの現状に合わせるために手を加えて二九ヵ条とした。この二九ヵ条のドチリナはザビエルの宣教の基礎となりインド、インドネシア、マラッカで使用され、また各地方の言葉に翻訳された。

 日本に持ってきて使用したザビエルのドチリナは、翻訳文も未熟で、宗教用語に仏教用語を使用していたので混乱が生じ、山口で用語の改正を行い、キリスト教の神の概念を表わすために『神』をラテン語の『デウス』と表現した。この時の改正に、当時、山口にいた宣教師団の中で、ただ一人の日本人である仏教用語に詳しいロレンソの知識が生かされた。

 日本に来た時には説教用のテキストができていたが、同年冬、ザビエルはさらに詳しい教理説明として、天地の創造、キリストの生涯から最後の審判に至るまでの、いっそう詳しい説明を翻訳してもらい、それをローマ字で書いて一冊の帳面にまとめて、それを群集の前で朗読することにした。アンジロウーが翻訳した教理書の中で使われていた宗教用語は仏教用語であったために非常に多くの誤解を招き、説教を聞いた仏僧には新しい仏教の一派と思われた。 

 ザビエルがバロシュ(Barros)の三三ヵ条のドチリナを訂正して二九ヵ条とした。この二九ヵ条の「ドチリナ」のアンジロウーの翻訳文もかなり未熟だったし、使用された仏教用語からくる混乱や混同が、群衆への説明の明確さを欠いていることがザビエルには判りだした。山口において、ザビエルはこの「ドチリナ」の訂正を決めた。ザビエルに訂正を進言したのはロレンソであった。その頃のザビエルの宣教師団の中で、仏教用語に精通しているのはロレンソ只一人であり、正確な日本語に出来る唯一人の日本人でもあった。このことから、山口での二九ヵ条の「ドチリナ」の修正にはロレンソが関わっていたと考えられる。 

 この時のロレンソの「ドチリナ」の修正作業に携わった経験が、次の一五五五年にガーゴ神父が平戸において著わした二五ヵ条の「ドチリナ」改正の時、再度、仏教用語に詳しいロレンソが起用されたことと決して無関係ではない。後にこの『ドチリナ』は更に改訂され、キリシタンの間では『ドチリナ・キリシタン』と呼ばれて、重要な教理要綱となった。 

第三章 トーレス神父との出会い
 『善良な年寄り』と親しみを込めて、部下の宣教師たちとすべてのキリシタンたちから呼ばれていたトーレス(Cosme de Torres)神父は、深い祈りの精神、使徒職への熱意を内に秘めて、日本の初期キリシタン教会の布教の舵を取っていた。彼の人柄は温厚で控えめで忍耐強かった。日本人の特性をよくわきまえて日本の習慣を学び、日本に順応するために衣食住のすべてを日本風に変えて、日本の行儀作法を行ったので、日本人から好感を持たれた。日本の布教は日本人の中から聖職者を育成して、将来において日本の宣教を任せるべきとの信念を持って布教に当たった。誕生したばかりの日本の教会のために、新しい働き人の養成に全力をあげ、部下の仕事を注意深く指導し、自分の力の許す限り与えられた教会の司牧に努力したトーレス神父の生活そのものが、一緒に生活していた人々への手本であり、すべてのキリシタンたちの崇敬の的であった。 宣教においてトーレス神父は戦うことを知っていた。山口、平戸、博多での布教の成果が破壊されて、豊後の地の避難場所に逃れたが、彼は自分が敗北したとは思ってはいなかった。神の定めた時の来ることを知っていて、ひとたび道が閉ざされたと思う時でも、神が必ず道を開かれると信じて、閉ざされている期間には、自分に与えられた人々の教育と指導に自らの身を持って示し尽力した。強固な精神力と忍耐強さを内に秘めて、トーレス神父は九年と数ヵ月を過ごした。トーレス神父の許で宣教の訓練を受け、トーレス神父の模範的生活を見て育った宣教師たちは、完全に信頼できる伝道者となり、次の時代の日本の教会の急速な拡大の礎となった。

 トーレス神父は日本布教長を一八年務め、一五七〇(元亀元)年、天草の志岐で死去した。この時、信者数三万人、教会数五〇であった。トーレス神父はザビエルの開拓したキリスト教を日本に根付かせ教会の基礎を固め、将来における興隆の基を築いた。 

『府内で彼(トーレス神父)と一緒に生活していたイルマンたちは、彼の生活や模範によって深い感化を受けていたから、大きな苦労や窮乏が生じても、それを軽微で忍びやすいここと考えていた』(Luis Frois, “Historia” , Ⅰ、cap. 一九.) 

『神父様(トーレス)は毎日ミサを捧げています。神父様は一〇年以上、病気でもミサを捧げることをやめずに続けています。ただ数回だけ持病のためできなかったことがありますが、彼の持病は時にははなはだ粗略に扱われています。しかし今は、日本の薬の中に良いのを見つけて時々それを服用し、健康は非常に良くなっています。私たちおよび日本のこれらの地方のキリシタンや異教徒にとって、彼の生命は極めて貴重なものでありますから、神がこれを延ばし給わんことを』(Cartas Ⅰ、七八.) 

『すでに老年であり、仕事や贖罪によって体が弱っているにもかかわらず、コスメ・デ・トーレス神父の生活は、その多くが心の祈りにあてられ、そのために毎日何時間もが費やされた。太っているし身長も高いのに、食事は非常に質素で常に粗末で味のない物を食べていたが、それは他の人にとっては絶えざる断食として役立つほどのものであった。日本の寒気は非常に厳しいものであるのに、彼が体を暖めるために火に近づくのを誰も見たことがないし、貴人を訪ねる時のほかはほとんどいつも帽子をかぶらず、素足でいた』

『毎日ミサを捧げることを大きな慰めとし、立っていることができないほど体の悪い時には、祭壇に寄りかかったり、時には膝をついて唱えた』 

『決して昼間眠ったことがなく,常になすべき仕事をしていた。夜は連祷や聖務日課をとなえて 黙想した後に、イルマンと共に小麦を挽いた。家の仕事をするとき、一番先に棒や石を運ぶのは彼であり、こういう仕事で示す彼の力は二人分あった』 

『(豊後の修院で)九時半以後、全員が良心の糾明を行っている時に、神父は翌日観想すべき点をイルマンに指示した。皆が眠ったと思われるころ、毎夜欠かさず火を点じた燭台を持って静かに自分の部屋を出て、修院で教育を受けている少年同宿の部屋を訪ね、風邪をひかないように彼らに寝具をかけた。それから台所へ行って,従僕の不注意で鍋やフライパンが汚れたままになっていたり瀬戸物類が洗ってないと、井戸から水を運んで、これらをことごとく洗った後、それぞれの場所に収めて台所を掃除した。それから木材やそのほか修院に必要なものを運搬する一,二頭の馬のいる馬小屋へ行って、もし汚れていれば掃除し、夜の飼料を与え、水を運んで飲ませた。それから修院内の各所や扉を見回った後に、自分の部屋に戻った。こうした仕事にもかかわらず、祈りのために起床するのは早朝であった』
(Lufs Fróis,"Historia", Ⅰ, cap.19.) 

 トーレス神父は、信者であるキリシタンだけでなく、彼を訪ねてくるすべての人々に分け隔てなく公平に接している。彼の持っている公平無私の姿が人々の心を打ち相手に尊崇の念を抱かせていた。トーレス神父はキリストに仕える様に人々にも僕のように仕えていた。 

『彼(トーレス神父)は、涙という、神から授かった特別の恵みをもっていた。だから、神父やイルマンが遠方から来た場合だけでなく、何ヵ月か前に訪ねてきたことのある近くのキリシタンが来た時でも、彼らを迎える最初の挨拶は涙を伴っていた。それにもかかわれず誰にとっても、その涙は煩わしいものではなかった。人との対応においていささかも憂鬱や悲しみの色は示さず、反対に喜びと笑みを浮かべ、また日本人の性格にぴったりと合った慎みや宗教的円熟さを伴っていたので、すべての人々の心を捕らえ、彼らの霊魂の幸せのためにしたいと思うことを彼らに説得することができた』 

『神は深い思慮と、この地の改宗の仕事を巧みに処理する方法についての高度の知識を彼に与え、また異教の貴人たちと交際し、その心を捕らえる特別な能力を与えたもうた。日本の貴人たちは尊大であり、彼らの名誉の程度を表わす無数の儀式儀礼を有するので、彼らとの対応の方法を彼がこれほどよく知り、一人ひとりとの面目・礼儀を守るのを見て彼らは感嘆した』 

『あらゆる愛の仕事に適した偉大な心の所有者であると同様に、たびたび彼に加えられた侮辱、不名誉、軽蔑を耐え忍ぶのに特別な忍耐を持っていた。人びとから加えられる不当、理不尽なことにも顔色を変えなかった。キリシタンがしばしば彼らの風習として,とるに足らないことに長々と理屈を並べてはなはだしく煩わしい思いをさせたが、それを楽しげに聞いて彼らを喜ばせるように努力した』 

宣教師たちが直面した日本音楽(五音階旋法)との相違
 一五六三年(永禄六)日本の肥前・横瀬浦に来たフロイス(Lufs Frós)神父は、ヨーロッパの音楽と日本の民衆音楽(俗謡・謡曲・今様)が非常に違っていること、日本の音階(*五音階旋法)も演奏法もヨーロッパの音楽の音階とも教会音楽(グレゴリオ旋法)とも共通点が少ないことを記録に残している。   

初めて日本の民衆の音楽(俗謡・謡曲・今様)を聴いたフロイス神父の驚きと衝撃、それに伴う困惑と戸惑いがこの記録の中によく表れている。フロイス神父はヨーロッパの音楽の中にある3度や5度の和声の調和した心地よさ、また音楽による喜びを表現する楽しみを知っていたが、当時の日本には調和する和声という概念はなかった。またフロイス神父が育ったカトリック教会の中で歌われるグレゴリオ聖歌の整えられた斉唱する美しい響き等、日本音楽の中には存在しなかった。 

『我々はクラヴォ、ヴィオラ、フルート、オルガン,ドセイン等の旋律によって愉快になる。日本人にとってはわれわれの全ての楽器は、不愉快と嫌悪を生じる。我々の間では多声による音楽は良く響き、快感を与える、日本は皆が声を合わせてわめき、ただ戦慄を与えるばかりである。ヨーロッパの国民はすべて声を振るわせて歌う。日本人は決して声を振るわせない。我々はポリフォニーに合わせて歌う時の協和音と調和を重んじる。日本人はそれをカシマシと考え,一向に楽しまない。ヨーロッパでは、少年は大人より一オクターブ高い声で歌を歌う。日本では高音部の音階が欠けているので、すべての人が同じ音階でわめき歌うのである』
*ルイス・フロイス著『ヨーロッパ文化と日本文化』一七三~一七四頁 

 日本に一五四九年(天文十八)に来たフランシスコ・ザビエル(Francisco Javier)、コスメ・デ・トーレス(Cosme de Torres)、ベント・フェルナンデス(Oviedo de Fernández)の三人は、ヨーロッパの教会で行われていた豊かな伝統のある典礼のための音楽を経験して知っていた。またインドのゴアで歌われていたような親しみやすいインドの俗謡や民謡曲を準備して来日している。彼らが携えてきたインドの旋律や俗謡がどのような音楽だったかを知ることはできないが、インドや西洋の音楽を初めて聴く日本人には耳慣れないもの、日本の民衆の音楽・俗謡、今様とは全く違う異質な音楽と感じたであろうことは理解できる。 

一五五二年(天文二十一)二月の降誕祭前、日本に到着したばかりのバルタザール・ガーゴ(Baltasar Gago)、ペドロ・デ・アルカソーヴァ(Pedro Alcáçova)、デュアルテ・デ・シルヴァ(Duarte de Silva)の三人が豊後から山口に来て、オルガンもない状態の中、歌付降誕祭のミサを挙げることに決めた。この降誕祭の歌付ミサは、日本で初めて行われた歌付ミサである。一二月二五日、日本にいるすべての宣教師たちが山口に一堂に会し、この年のクリスマスは出来る限り厳粛に執り行われた。 

『雄鶏のミサは以下のように歌ミサが挙げられた。コスメ・デ・トーレス神父はミサをたて、バルタザール・ガーゴ神父が助祭としてアルバとストラを重ね着して、福音書と書簡を朗読し、我々三名のイルマンは歌って応誦した。降誕祭の日、我らはミサを歌い、良い声ではなかったが、これを聴いてキリシタンらは皆、深く慰められた。同夜は終始、キリストの生涯(についての書)を読み、二人の司祭が六回ミサを執り行い、これを行った理由を説明した。そして、日本人たちは、我々が歌うことは不快である、と言っているけれども、キリシタンらが神の事柄に抱いている敬愛の念が。我々に歌を彼らに気に入らせたようだ。この様にして彼らは篤い信心を持ってミサを聞いた』
*一五五四年、ペドロ・デ・アルカソーヴァ修道士の書簡
 一六・一七世紀イエズス会日本報告集 第III期第I巻 一一〇頁 

日本音楽(五音階旋法)の教会内への導入
 日本の*五音階旋法は確かにヨーロッパの音階とは相いれない異質な独自の旋法である。フロイス神父やヨーロッパから来た宣教師たちには、日本人の音楽(俗謡・謡曲・今様)は彼らヨーロッパ人にとって耐えがたく耳障りと感じていた。この相違はヨーロッパ人側の持つ異文化理解(inculturaion)の問題である。一方的に自分たちの文化が優れていると過信しているヨーロッパ人の持つ偏見思想が根本にあり、日本人の持つ異質な文化を受け入れず、排除する思想がそのような行動となり表面化している。異文化理解の問題は、違う文明・文化が接触する際に必ず起こる問題である。特に感覚的に敏感に表れるのが芸術の分野であり、最も顕著な感覚的問題が「音楽の相違」の面で表面化する。簡単な言葉で言うならば「好き、嫌い」「自分の好みか、否か」という感性で判断する異文化理解である。

 一五四九年(天文十八)にザビエルと共に日本に来たトーレス神父は、日本の音楽が持つ独自の五音階旋法は、トーレス神父が知っているヨーロッパの音楽や教会内で歌われているグレゴリオ聖歌とは異質な全く違う音楽と理解し感じていたが、それでも、ロレンソの持つ才能と琵琶で演奏する日本独自の旋律と歌唱法を個人的に受け入れることができた。特に山口の教会で元琵琶法師だったロレンソを受け入れてからは、ロレンソの演奏する琵琶に乗せて歌われる民衆の音楽・俗謡・謡曲・今様等によって、日本の神話も世俗物語(平家物語)も、歌により忠実に次の世代に伝承されていることを理解した。 

トーレス神父はロレンソを宣教師として訓練する過程と日々の交わりのうちにおいて、ロレンソが生業としていた琵琶の演奏を教会の中に取り入れた。教会の中ではグレゴリオ聖歌を典礼(ミサ)に即して歌っていく。ロレンソはグレゴリオ聖歌に日本独自の五音階旋法を当てはめて伴奏を作っていった。

これこそ、西洋音楽と日本音楽とがひとつに融合した瞬間であった。グレゴリオ聖歌の旋律を支える日本の琵琶の伴奏。これこそが二つの文化が邂逅し結晶として生まれでた音楽だった。クレド(信仰宣言)に琵琶で独自の伴奏を付けた曲が、豊後府内で諸田賢順に伝えら整えられて「筝曲六段」として箏曲の世界に於いて現代まで伝承されている。 

*五音階旋法 日本独自の旋法であり俗に「四七抜き音階」とも称する。ド、レ、ミ、(ファ)、ソ、ラ、(シ)の五つの音階から構成されている。四番目のファ、七番目のシの音が、西洋音階から抜けているため、四七抜き音階という。 

歌の旋律に乗せて教えた公教要理
 「ヨーロッパの、特にスペインのイベリア半島出身の宣教師たちは、平易なリズムと親しみやすい旋律による教理伝達になれていたので、日本の伝道にもこれら歌による教理問答を示した。これは『ドチリナ・La doctrina』と呼ばれて、典礼を補佐する役割があった。その学習には、日本人の子供も大人も優れていることが有名な記録力が役立った」
*キリシタン布教における琵琶法師の役割について 140~141頁
 イエズス会士とキリシタン布教 ルイス・デ・メディナ著 岩田書院 

「宣教の当初から、イルマン・ファン・フェルナンデス(Fern ández)が土地の専門家に助けられて日本語に翻訳した福音書などを、書き写し始めたキリシタンたちがいた。この翻訳の仕事はイルマン・ドゥアルテ・ダ・シルヴァ(Duarte de Silva)に1559年(永禄2)からはパードレ・ガスパル・ヴィレラ(Gaspar Vilela)に受け継がれた。詩歌に秀でた日本人らが、更に聖書の叙述の韻律と整えるという仕事をおこなったが、経験から、聖書の普及はまず口頭でなされるのが成功への道と思われた。木版印刷による本の不足を、新しいキリシタンらの「手で」、「彼らの流儀で」作られた韻文や歌の韻律と吟唱が、効果的に補った。このことは初期の宣教師の書簡に繰り返し出てくる。日本の音楽を取り入れることで、聖書のテキストが、教会に初めて来た人たちにも、キリシタンたちにも容易に記憶され,より良く染み通った。」
*キリシタン布教における琵琶法師の役割について 137頁
 イエズス会士とキリシタン布教 ルイス・デ・メディナ著 岩田書院 

教会の中で唯一人、琵琶法師時代に歌っていた日本の全ての俗謡・謡曲・今様に精通していたロレンソが、教理に合うであろう旋律を選び、ロレンソと仏教から改宗したキリシタンたちが協力して、教理要綱を歌で平易に歌えるように整えたと考えられる。読み書きができない人々が多い文盲の多い時代、教理の暗証はまずは口頭でなされるのが普通であった。木版印刷による本の不足は、文字が書けるキリシタンたちが、自分達の手で書き写して不足の分を補った。また教養のある公家らが喜びと信心から、聖書中の多くの物語について詩を作って歌った。教会の教理要綱は、キリシタンたちが理解した後に、彼らの流儀で作られた韻文と吟唱が採用されて宣教師たちの非力を補った。 

『当地(豊後)では主の降誕祭ははなはだ荘厳に行われる。というのも、アダムからノアまでの物語のような新約・旧約の両聖書中の玄義を多数劇にして演じるからである。その物語は日本語の韻文に訳され、キリシタンはこれをほとんどすべて暗記し、行列で歩くときや祝祭において歌う。これは当地の人々が異教の歌を捨て、主の歌を歌うために取りうる最良の方法の一つであり、かくして彼らは聖書の大部分を暗記するようになる。このことは彼らがいっそう信心を深めるうえで大きな助けとなっている』
*一五六四年一〇月九日付け 豊後発 ジョバンニ・バティスタ・デ・モンテ神父の書簡、一六・一七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第二巻 二三九頁 

『降誕祭の晩餐は他の地方で通常行っているようなものではなく、夜に公家らが喜びと信心から、聖書中の多くの物語について詩を作って歌った』
*一五六六年一月三〇日付け 堺発 ルイス・フロイス神父の書簡
 一六・一七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第三巻 八五頁 

日本に残存している4つのスペイン・イベリア半島固有の聖歌
   聖なる秘跡・Tantum ergo『サクラメント提要 第15曲目』(1300年頃)
 スペイン・イベリア半島固有の聖歌には、もうひとつ同様の三拍子を持つ「聖なる秘跡」が存在する。1605年、長崎で発行された『サクラメンタ提要』の中の「聖なる秘跡」にはスペインのイベリア半島固有の聖歌の旋律が採用されていて、スペイン独自の特徴をこの聖歌から聴くことができる。おそらく、この聖歌の選択の裏にはスペイン系宣教師達の独自性と地域性が色濃くこの『サクラメンタ堤要』に反映されているものと思われる。単純な2節の有節形式による讃歌で、3拍子の旋律も平易で記憶しやすく、当時の一般信徒達によって広く愛唱されていたと推測される。 

長崎・生月島に伝承されている3つの歌オラショ
 
生月島の『オラショ』は、祈りとして唱えられるだけのものが大部分だが「らおだて」「なじょう」「ぐるりよざ」の3つだけが節(曲)を付けて唱えられた。これら3つは「歌オラショ」と呼ばれて区別されている。

ヨーロッパの、特にスペインのイベリア半島出身の宣教師たちは、平易なリズムと親しみやすい旋律による教理伝達になれていたので、日本の伝道にもこれら歌による教理問答を示した。スペインのイベリア半島出身の宣教師たちは、母国において歌われていた聖歌を長崎生月島のキリシタンに伝えている。現在まで生月島に伝承されている『歌(旋律)が付けられて歌われている3つの歌オラショ』といわれている3つの聖歌がある。 

口伝えの伝承だけで1560年代から現在に至るカクレキリシタンに、あの過酷な迫害の時代の江戸時代の260年間を乗り越えて、実に450年間の長きに渡り伝承された3つの歌オラショである。 

「ぐるりよざ」
「おお、栄光の御母よ、星空高くいます・O gloriosa Domina,Excelsa super sidera」
「ぐるりよざ」は長崎・生月島に伝承されている歌オラショの中の有名な聖歌。「ぐるりよざ」は聖母マリアを讃えるスペイン由来の聖母マリア讃歌である。1500年代スペイン・イベリア半島固有の聖母マリア聖歌。

単純な4節の有節形式による讃歌(イムヌス)で、軽快な三拍子を持ち、旋律も平易で聖母マリアを讃える讃歌である。旋律は平易であるが、どこか物悲しい哀愁を帯びた旋律は魅力的である。『サクラメンタ提要』の中の「聖なる秘跡」も、同様の軽快な三拍子を持つ旋律が掲載されている。「おお、栄光の御母よ」は「聖なる秘跡」同様スペイン系宣教師たちのイベリア半島固有の地方性と独自性の色濃い旋律が、生月地方のキリシタンたちの心を深く魅了して「歌オラショ」として現在まで伝承されてきた。

「らおだて」
ラテン語の詩編117編「ラウダテ・ドミヌム・オムネス・ジェンテス」
Laudate Dominum Omnes Gentes「もろもろの国よ、主を讃美せよ」に栄唱が付されて歌われる。

「ラウダテ・ドミヌム」は第3旋法(フリジア旋法)に属している。
詩編唱(Psalmorum)定式という、詩編を歌うときに付けられる独特の旋法の歌い方に属し、古くはユダヤ教の時代からの旋律形式に由来している。

詩編の各節は、詩編の持つ構造に対応して対を成すように、前半句と後半句がひと続きで歌われる。独特の発唱句で前半句を歌いだし、同音の朗誦音の上で祈る様に続けて唱え、中間句でいったん止り、その後、後半句を同音の朗誦音の上で唱えてから、終止句へと下降して歌い終わる形式の事を言う。 

【歌詞】詩編117編
もろもろの国よ、主をほめたたえよ、もろもろの民よ、主をたたえまつれ。我らに賜るその慈しみは大きいからである。主の誠はとこしえにたえることがない。主をほめたたえよ。栄光が御父と御子、聖霊にありますように。
はじめにそうであったように、今も、いつも、世々に至るまで。アーメン

 使用した楽譜の出典は『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(1979年ソレム修道院出版)166頁 Tonus 1 

「なじょう」
「シメオンの賛歌」と称される讃歌。Canticum Simeonis.
ルカによる福音書2章29~32節に記されている預言者シメオンの讃歌。

【歌詞】
主よ、今こそ、あなたは御言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます。私の目が今あなたの救いを見たのですから。この救いはあなたが万民のまえに御備えになったもので、異邦人を照らす啓示の光、み民イスラエルの栄光であります。

Canticum. 福音的讃歌・福音の歌(カンティクム)
ルカによる福音書から引用されていることから「Canticum福音の歌」と呼ばれている。

Magnificat マニフィカト・聖マリアの讃歌。ルカによる福音書1章46~55節Nunc Dimittis シメオンの讃歌。ルカによる福音書2章29~32節
Canticum Zachariae ザカリアの讃歌。ルカによる福音書1章67~79節

「ヌンク・ディミッティス Nunc dimittis 今こそ御言葉に従い、この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たのですから」

エルサレムの神殿でイエスに会った預言者シメオンの讃歌に、結びに栄唱が付けて歌われる。

生月島で伝承されている「ヌンク・ディミッティス Nunc dimittis」は、グレゴリオ聖歌のシメオンの讃歌の原旋律とは多少異なっているが、時代を経ているうちに徐々に変化したものと考えられる。しかし生月島で聖歌が書物として楽譜が伝えられていないことを考えると、伝承、それも暗記による口伝だけで、よく400年の時を超えて忠実に伝承されていることに驚かされる。「ヌンク・ディミッティス Nunc dimittis」は第3旋法(フリジア)に属している。

使用した楽譜の出典は『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(1979年ソレム修道院出版)271頁 Canticum Simeonis. 

「マニフィカト」
聖マリアの讃歌。Canticum B.Mariae Virginis.

「Magnificat anima mea Dominum・私の魂は主を崇め、私の霊は救い主なる神を讃えます」ルカによる福音書1章46~55節によるマリアの讃歌。

受胎告知を受けたマリアが、エリザベトを訪問した際に、エリザベトから祝福を受け、マリアが答えて唱えた讃歌。聖務日課に含まれていて、毎日の晩禱(晩の祈り)で歌われるが、聖務日課以外でもよく歌われる。
西教会では5世紀ころからザカリアの讃歌、マリアの讃歌を晩祷で用いて来た。 

【歌詞】
私に魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主なる神を讃えます。この卑しい女をさえ、心に掛けてくださいました。今から後代々の人々は、私を幸いな女と言うでしょう。力あるかたが、私に大きなことをしてくださったからです。その聖名はきよく、その憐れみは、代々限りなく、主をかしこみ恐れる者に及びます。主は御腕を持って力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引き下ろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良い物で飽かせ、富んでいる者を空腹もまま帰らせます。主は、憐れみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました。私たちの祖父アブラハムとその子孫とをとこしえに憐れむと約束なさったとおりに。 

神の恵みが人に注がれて満たされた人は聖母マリアである。聖母マリアと言われるが、イエスの母マリアは人間であり神ではない。人が神になることはできない。しかし、神の恵みに満たされてマリアは主イエスを体内に宿す特権を神から与えられた。エリサベツは『主の母上が私の所に来て下さるとはなんという光栄な事でしょう』とマリアに祝福を贈っている。ルカによる福音書1章42~44節 

エリサベツの祝福に答えてマリアは有名な『Magnificat・マリアの讃歌』を歌っている。ルカによる福音書1章46~55節 

『Magnificat・マリアの讃歌』は当時も同じ旋律で歌われていた。現在東京国立博物館所蔵『キリシタン・マリア典礼書写本(耶蘇教写経)』に中に『Magnificat・マリアの讃歌』が収められている。第一部『聖マリアの連祷・Litaniae』、第2部『晩禱』、第3部『終祷』で構成されていて、その第2部『晩祷』の中に『Magnificat・マリアの讃歌』が含まれている。また生月島に伝承されている3つの「歌オラショ」と共に、今は唱えるだけだが『まにへか』として伝えられている。この「まにへか」には結びに栄唱が付けられる。 

グレゴリオ聖歌(原譜・四線譜)Canticum B.Mariae Virginis. 209頁
使用した楽譜の出典は『グラドウアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(1979年ソレム修道院出版) Desclee&Socii  Misasa Pro Defunctis  

山口での陶晴賢の反乱
 一五五一年九月二八日 ザビエルが豊後に赴いて一〇日あまり後、大内義隆の家臣・陶尾張守晴賢の乱が勃発した。陶晴賢は武断派の重鎮であったが、大内義隆より日頃から心好きからぬ扱いを受けていた。晴賢は徳佐口より、江良丹後守は防府口より山口を目指して攻め寄せたので、義隆は流泉寺に移って防いだが力及ばず、一旦九州に逃れるため大津郡仙崎の浜から船を出したが、波浪のために進めず、深川大寧寺に引き返して自害して果てた。

 この内乱の時、トーレス神父とフェルナンデス修道士は友人であった内藤興盛の保護下にあった寺に身を寄せ、その後、陶晴賢と手を結んでいた内藤の屋敷にかくまわれた。その時ロレンソがどこに避難していたのかは明らかではない。おそらく有力なキリシタン信者のもとに身を寄せ、その家族と共に疎開させられていたと考えられる。大道寺はこの内乱の戦火で焼失した。 大内義隆が自害した後、陶晴賢はかねてからの密約通り、豊後の大友義鎮(宗麟)の実弟・八郎晴英(はるふさ・大内義隆の姉の子)を迎えて大内氏の跡を継がせた。 

一五五二年二月、大友八郎晴英は実兄大友義鎮(後の宗麟)の止めるのも聞かず豊後を発って三月三日周防山口に入り、名を義長と改めて、陶晴賢の後ろ盾のもと、荒廃した山口の街の復興に乗り出した。義長が豊後にいる時に、豊後に滞在していたザビエルは、もし義長が山口に赴くことがある時には山口のキリシタン信者を保護するように依頼していたから、義長が山口の新しい領主として赴任したことは、トーレス神父、フェルナンデス修道士にとって大いなる希望と力を与え、山口のキリシタンたちもキリスト教会も活気付いた。八月二八日付けで、新しい領主・大内義長は、トーレス神父の懇請により、かの有名な『裁許状』を与え、彼らに教会の再建築と伝道の自由の許可を与えた。 

大内義長より大道寺を受ける
 九月一六日、山口に平和が戻り、領主・大内義長より大道寺を受ける。その後五年間,義長の庇護のもとに、トーレス神父たちは布教を続けた。内乱の後、ロレンソも教会に戻り、トーレス神父の指導の下修道生活にもどった。ザビエルに代わりトーレス神父がロレンソの新しい指導者,霊父となった。トーレス神父は、ロレンソの粗野な姿の奥に隠されている、神が与えたもう才能を見出し、ロレンソを神の器として、一人の宣教者として日々育てていく。
 ロレンソはトーレス神父の指導のもと修道生活を始めた。山口の教会に於いての組織的教理の学び、説教の方法、仏教とキリスト教の比較宗論の方法、グレゴリオ聖歌(教会音楽)等、修道士の学びに修練するかたわら、実践的に伝道に携わり説教をしたり教理を教えたりした。また宣教師たちの話すポルトガル語を理解して、通訳が出来るまでに上達していった。 

 この時期、山口の教会には楽器が無く、グレゴリオ聖歌を歌う時は斉唱していたと考えられるから、ロレンソはグレゴリオ聖歌の旋律を覚える時に、ロレンソの得意とした琵琶で独自に伴奏を付けてグレゴリオ聖歌の旋律を暗記していったと考えられる。ただ単にグレゴリオ聖歌の旋律を繰り返し歌って暗記するのではなく、ロレンソの得意とする琵琶で伴奏を付けることによって、ロレンソは明確に、旋律の中の重要な言葉に対しては、その言葉の意味する内容を把握して、それを音に置き換えて琵琶で表現している。毎日繰り返すグレゴリオ聖歌の『主の祈り・パーテル・ノステル・Pater Noster』『天使祝祷・アヴェ・マリア・Ave Maria』『信仰宣言・クレド・Credo』『めでたし天の元后・サルヴェ・レジナ・Salve Regina』等にロレンソは自分の感性で伴奏を付けて歌うようになったと考えられる。毎日教理を教える時に、何度も伴奏を繰り返すうちに、やがてロレンソの中で作り上げた伴奏が固定化していき、教理【後のドチリナ・キリシタン】を学びに来た人々に『主の祈り』『アヴェ・マリア』『クレド』『サルヴェ・レジナ』等を教える時にも、ロレンソは琵琶で伴奏を付けて教えていたと思考している。 

アルメイダ、トーレス神父を訪ねる
 一五五二年の初め、ポルトガル人の医者で商人のルイス・デ・アルメイダ(Luis de Almeida 一五二五~一五八三)がトーレス神父と話すために平戸より山口を訪れた。アルメイダはデュアルテ・デ・ガマの貿易仲間として、またその船の医者として成果を上げていた。この時の出会いで、ロレンソとアルメイダは知り合い、生涯友として共に宣教の道を歩むことになる。

 同年九月、ザビエルがマラッカから派遣した新しい宣教師たち、バルタサール・ガーゴ(Baltasar Gago)神父と二人のイルマン、デュアルテ・デ・シルヴァ(Duarte de Silva)とペドロ・アルカソーバ(Pedro de Alcasova)の三人が、通訳の日本人アントニオと共に、ゴアから鹿児島を経て豊後府内に到着した。大友義鎮の使節として、ザビエルと共にゴアに向かったロレンソ・ペレイラも一行とともに帰国した。豊後府内に着いたガーゴ神父は山口にいたトーレス神父に到着の報告を出し、トーレス神父の返事を持って、日本語の堪能なフェルナンデス修道士が、豊後に新しく到着した宣教師たちの手助けと通訳を兼ねて派遣されてきた。 

 一二月三日、ザビエルがマラッカから派遣して豊後府内で布教活動をするために準備していた新しい宣教師たち、バルタサール・ガーゴ(Baltasar Gago)神父と二人のイルマン、デュアルテ・デ・シルヴァ(Duarte de Silva)とペドロ・デ・アルカソーヴァ(Pedro de Alcasova)の三人が、トーレス神父に挨拶をするために山口に到着した。 

 一二月二五日、日本にいるすべての宣教師たちが山口に一堂に会し、この年のクリスマスは出来る限り厳粛に執り行われた。日本で初めて行われた歌付のクリスマスミサ。
『降誕祭の日、我らはミサを歌い、良い声ではなかったが、これを聴いてキリシタンらは皆、深く慰められた。同夜は終始、キリストの生涯(についての書)を読み、二人の司祭が六回ミサを執り行い、これを行った理由を説明した』
*一五五四年、ペドロ・デ・アルカソーヴァ修道士の書簡
 一六・一七世紀イエズス会日本報告集 第III期第I巻 一一〇頁 

 このクリスマスミサ(降誕祭)がラテン語による『歌ミサ(ミサ・カンターダ Missa Cantada)』であったことを、上記のアルカソーヴァ修道士が書簡に書いている。歌ミサとは、典礼式文が唱えられた後に、グレゴリオ聖歌やポリフォニー音楽が歌われる、音楽付のミサの事である。日本にザビエルがキリスト教を伝えた当初のミサは、典礼式文を唱えるだけの読唱ミサ(Missa Lecta)であった。この一五五二年の山口でのクリスマスの歌つきミサが、現在までにイエズス会会報で確認される、正式な音楽付ミサの最初のものといえる。
 降誕祭の後、トーレス神父は日本における最初の宣教会議を開いた。この会議においてトーレス神父は全員の任務を次のように決定した。 

豊後派遣組
ガーゴ神父とフェルナンデス修道士は豊後府内に行き教会を開く。
一五五三年二月四日、豊後府内に向け山口を出発。アルカソーヴァが同行した。 

山口残留組
トーレス神父とシルヴァ修道士とロレンソ。山口教会を成長させていく。
アルカソーヴァは山口、平戸、豊後の三か所の宣教場所を回った後、日本の状況を説明するためにゴアに報告に戻り、日本のために新しい宣教師を要請する。

  日本語に堪能なフェルナンデス修道士をガーゴ神父に付けたことで、トーレス神父が豊後での布教を進展させる狙いがあったことが判る。フェルナンデスを手放したことは、すでに、ロレンソとシルヴァが、日本語がうまくなかったトーレス神父の通訳として活動していたことを示している。『同宿』という言葉はまだ使われていなかったが、ロレンソの働きを見れば日本の教会で立派な活躍をした最初の同宿となった。この時期、トーレス神父の指導のもとにロレンソは伝道士、修道士、祈りの人として育てられた。当時ロレンソと共に生活した仲間であるガーゴ神父、アルカソーヴァとデュアルテ・デ・シルヴァは短い言葉でロレンソの横顔を紹介している。

 アルカソーヴァ修道士はゴアに帰った後、一五五四年三月の手紙の中でロレンソを描いている。
『私に以上の事柄を伝えたコスメ・デ・トーレス神父とデュアルテ・デ・シルヴァ修道士は山口にいる。司祭はすでに(日本の)言葉をいともよく理解するが、修道士も言葉をよく学んで、いるので、一年経てば話すようになるであろう。彼らには一日本人(ロレンソ)が同伴しており、ごく僅かしか目は見えないが、デウスの教えを甚だよく暗記し、司祭にとって非常な助けとなっている。すなわち、司祭が大いに議論する時には、直ちに彼を用いるのであり、彼はデウスのことどもを語る上で深い思慮と言葉を有するが故に、司祭が日本人と論議することを可能ならしめているのである。当山口の市には一五〇〇名以上のキリシタンがいるであろう。彼らと交われば、私が恥入るほど善良である』
ペドロ・デ・アルカソーヴァ修道士が滞在した一五五二年および一五五三年の日本についての幾つかのこと
*一五五四年 ペドロ・デ・アルカソーヴァ修道士書簡
 一六・一七世紀イエズス会日本年報集 第Ⅲ期第Ⅰ巻 一二〇頁 

トーレス神父と共にロレンソの指導をしたガーゴ神父の言葉。
『コスメ・デ・トーレス神父も山口において、やはり説教をなす別の日本人(ロレンソ)を擁しており、司祭は彼を通じて必要なことを話し、人々に言葉を伝えている。(同日本人・ロレンソは)理解があってはなはだ賢く、言葉が流暢で、デウスのことや日本の宗派に精通し、ジョアン・フェルナンデス修道士が書いたことが理解されうるように、諸本の文章を訂正する。

しかしながら、日本人はジョアン・フェルナンデス修道士が話すのを聞くとたいそう喜ぶ。それが新奇なことだからであり、彼が(日本の)言葉を喋るさまを見て驚嘆している。言葉が発せられると,これに優る言葉を持つ日本人はなく、また、話のまとまりにおいても同様である。コスメ・デ・トーレス神父が山口のキリシタンらに必要な説教を聴かせるため彼を求めているので、直ちにかの地へ戻るであろう』
*一五五五年九月二三日付け バルタザール・ガーゴ神父の書簡
 一六・一七世紀イエズス会日本年報集 第Ⅲ期第Ⅰ巻 一八〇頁 

 ロレンソと共に三年間生活したデュアルテ・デ・シルヴァ修道士は、『いとも親愛なる兄弟ペドロ・デ・アルカソーヴァが一五五三年一〇月に出発した後、私はコスメ・デ・トーレス神父に伴って山口へ赴き、彼および日本人三名とともに滞在したが、彼らの内の一人はロレンソという名前で、日本語を甚だよく話し、デウスのことどもにいっそう向いており、従順,清貧および貞潔のもとに過ごしている』と書いている。
*一五五五年九月二〇日付 デュアルテ・ダ・シルヴァ修道士の書簡 
 一六・一七世紀イエズス会日本年報集 第Ⅲ期第Ⅰ巻 二〇一頁 

山口における修道生活
 ザビエルはロレンソに自分の精神を伝え、洗礼を授け、キリストに対する自分の愛を与え、キリストに仕えるための熱心さをロレンソの心に蒔いた。ロレンソの心の目に祈りと神と一致するための道を教えた。その後、トーレス神父がロレンソの心に蒔かれた種を育て、修道生活の根本的なことを教え使徒職へと導いた。その時代の日本での使徒職の根本は、路上生活をすることで、孤独と真の清貧を味わい体験することだった。ロレンソはすでに琵琶法師時代の生活において、孤独と清貧を十分に味わう経験をしていた。右手には盲人の杖を巡礼者の杖に換え、左手には大きな玉で作られたロザリオを持った。『ロレンソの声の音調は優しくありません』と記されている。その声は昔の武士物語りを吟唱するのではなく、グレゴリオ聖歌によって神を讃える歌に取って変わった。 

豊後府内で初の布教生活(一五五三年春頃~秋頃)
『このころ、日本人イルマン・ロレンソはすでにこの家(山口の修道院)に住んでいた。春頃、ロレンソが父母をキリシタンにするために肥前の国へ行くことを願ったとき、トーレス神父はロレンソにそれを許したが、ロレンソは盲人であったので、道中施し物を乞い求めながら巡礼の旅をしていくことが条件であった。しかし、皆、異教徒の国であったから,喜捨に与かることは容易ではなかった。豊後に着くと、神父バルタザール・ガーゴは、ロレンソがコスメ・デ・トーレス神父のところから持ってきた書簡の内容を,平生説教を聴きに来る異教徒たちに説教させるために、ロレンソをそこに留めておいた。そのために、肥前へ行こうとするイルマン・ロレンソの旅は、その時は実現できなかった。しかし、ロレンソは二,三年後(一五五七年)別の機会に肥前に行き、彼の説教によって父母をキリシタンにした』(Luis Frois ”Historia” vol.I, cap.一三, 八二頁) 

 ロレンソ(二七歳)は、トーレス神父に、肥前白石にいる両親の改宗を願い出て許された。この時トーレス神父がロレンソに課した指導、すなわちロレンソをイエズス会の修練者のように試練を課した。路銀もなしに施しを受けながら巡礼するのは、聖イグナシオがイエズス会の修練者のために定めた試練で、イグナシオ自身の聖地イスラエルでの巡礼の経験の結果であった。その時代の日本での使徒職の根本は、路上生活をすることで、孤独と真の清貧を味わい体験することだった。ロレンソはすでに琵琶法師時代の生活において、孤独と清貧を十分に味わう経験をしていた。もうひとつは、この旅においてロレンソがどれほど精神的に熟しているかも判断できる。トーレス神父はロレンソのイエズス会入会を許可するに先立って豊後のガーゴ神父に協力を頼み、修行を兼ねて豊後府内のガーゴ神父のもとに送り、一層の修練を課したのかもしれない。ロレンソは心から両親の回心を望んでいたので、豊後に留まり、バルタザール・ガーゴ神父の命令に従い,日々キリシタンたちの世話をしながら、説教を聴きに来る異教徒たちに説教をすることは喜びだったとしても、旅の本来の目的である肥前平戸にいる両親のもとに向かうことができないことは内心辛かったであろう。しかし、ロレンソは不平も言わずに従っていた。ロレンソが両親を改宗するという目的を果たせたのは、数年後、一五五七年、ヴィレラ神父と共に平戸で活躍した時であった。日本語がまだ自由に話せなかったガーゴ神父が、ロレンソが豊後府内に立ち寄ったときに、豊後府内の自分の信者を育てるために、成熟した伝道師へと成長しているロレンソを使いたかったことは、ロレンソを悩ませたに違いない。このことは、ロレンソがもう十分にひとりの伝道士として活躍できることを示している。

 知らせを受けたトーレス神父は、ロレンソを山口に呼び戻した。一一月頃、豊後府内から帰ったロレンソは山口でトーレス神父のもと布教に従事する。シルヴァ修道士はロレンソが三誓願(服従・清貧・貞潔)を立てて修道士になったことを『彼らの内の一人はロレンソという名前で、日本語を甚だよく話し、デウスのことどもにいっそう向いており、従順,清貧および貞潔のもとに過ごしている』と書いている。
*一五五五年九月二〇日付け デュアルテ・デ・シルヴァ修道士の書簡
 一六・一七世紀イエズス会日本年報集 第Ⅲ期第Ⅰ巻 二〇一頁

 宮野村での布教活動
 
教理の学び、説教の方法、仏教とキリスト教の比較宗論の方法、グレゴリオ聖歌(教会音楽)等、修道士の学びに修練するかたわら、実際に伝道に携わり説教をしたり、教理を教えたりした。この年一五五四年の何月頃(おそらく秋頃)イルマン・デュアルテ・デ・シルヴァの手紙によると、山口の街から一里ほど離れた郊外の宮野村で人々の回心があった。読み書きもできない貧しい農民の村で、数人の回心したキリシタンが中心となって熱心に集会を開き、特別な集会場所を設けてそこに集い互いに励ましあっていた。 

一五五四年の冬から一五五五年の初め頃にかけて
『或る冬に、山口の市から一里の(宮野・Alienom)と称する町において、五〇名、もしくは六〇名がキリシタンになった。彼らは皆、農夫で、読み書きを知らないが、デウスのことで甚だ熱心なので、非常な学識ある人も彼らの話を聞くときには口をはさめないほどである。その町の仏僧は彼らを妨害したが、彼らと口論して負けると、直ちに同所を去り、彼らは自由になった。また、しばしば一定の場所に集まって互いに論じあい、デウスへの奉仕に尽力している。同地のもっとも寒い時期に、司祭(トーレス神父)はこの町にロレンソを説教のために遣わした。同所では大いに熱意が高まり、彼(ロレンソ)はキリシタンになるべき一二名を同伴し、彼らは寒さに妨げられながら(山口へ)来た。その内の数人は歯もない老女であったが、いとも迅速にパーテル・ノステルを覚え、あたかも生涯を通して学んだかのようであった。こうして(宮野)の人たちの中で、パーテル・ノステルを知らぬキリシタンはなく、それを発音することは我らにも劣らない。数日前、同地から一人のキリシタンが訪れ、(キリシタンの数が)三〇〇名に増えたと述べ、彼らの熱意やその進歩したさまについて語った』
*一五五五年九月二〇日付け 山口発 デュアルテ・ダ・シルヴァ修道士書簡  一六・一七世紀イエズス会日本年報集 第Ⅲ期第Ⅰ巻 二〇三頁 

 ロレンソがトーレス神父によってひとり宮野村に説教のために遣わされた。ロレンソの教える能力と才能には天が授けた素晴らしいものがあり、また天性の語学能力もあることが判る。ロレンソのラテン語の発音と、ロレンソからその『主の祈り』をラテン語で教えられた無学の農民でさえ、ポルトガル人も驚くほどの正確な発音で『主の祈り』を唱えていた。ラテン語に精通しているシルヴァ修道士も、これには大いに驚いたので、この話を取り立ててここに記録している。 

この記録から読み取れることは、人が物を覚えようとする場合、ただ繰り返して暗記するのではなく、それに音楽や旋律を付けたり、また伴奏で補助することにより、より一層正確に正しく発音することができることは音楽の力によるものと考えられる。グレゴリオ聖歌の『主の祈り・パーテル・ノステル・Pater Noster』をロレンソは教えた。

おそらく、ロレンソは自分の琵琶で即興的に伴奏を付け、グレゴリオ聖歌の『主の祈り』の旋律を人々に歌わせて覚えさせたと思われる。教える時に正確なラテン語の発音とラテン語の持つ韻に注意を払いながら、グレゴリオ聖歌の持つ抑揚に乗せて歌わせた。現在でもこの教授法は音楽のみならず、文字を知らない幼い子供たちに対する非常に有効な教え方であり、確実に成果の上がる教授手法である。ロレンソは修道士として訓練を受け始めた時から、グレゴリオ聖歌の旋律に対して自分独自に琵琶で伴奏をつけて歌っていたと考えられる。

ロレンソがザビエルから洗礼を受けて、修道士として学びを始めて以来、すでに三年が経過している。この時期にはロレンソの頭の中にはグレゴリオ聖歌の旋律に対して琵琶での伴奏の形態は完全に完成していたと思われる。

宮野村の回心のイエズス会記録では『主の祈り』だけが記録されているが、当然にロレンソは『主の祈り・パーテル・ノステル・Pater Noster』だけでなく『天使祝祷・アヴェ・マリアAve Maria』『信仰宣言・クレド・Credo』『めでたし天の元后・サルヴェ・レジナ・Salve Regina』等、グレゴリオ聖歌で歌う様に教えていた。 

 以下の記録は、次の年一五五五年の豊後府内での布教の記録だが、ロレンソもこの記録と同じように、宮野村の農民たちに教理とグレゴリオ聖歌を教えていたと考えられる。 

『当修道院に居住する日本人の同宿たちは、昼間は来訪者たちに「日本語とその文字で書かれた本」によってドチリナ(教理)を教え、夜、アヴェ・マリアの時刻に、つづいて、パードレ(神父たち)と共に、我ら一同はパーテル・ノステル、アヴェ・マリア、クレド(使徒信教)サルヴェ・レジナの祈祷(オラショ)を行い、また、航海者、特に日本に来る司祭と修道士のため、パーテル・ノステルを一度唱えたのち、ラダイニャス(聖母連禱)をともに唱えていた』
*一五五五年九月二〇日付け 豊後(大分)発 デュアルテ・デ・シルヴァ修道士書簡
一六・一七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第Ⅰ巻 二一四頁 

山口に新しい教会堂
一五五五年六月二七日
『四日前、同師(コスメ・デ・トーレス神父)は我らに新たな修道院を建てたことを通信してきた。また、ロレンソの書簡によれば、陰暦六月二七日まで、彼らは修道院の建設に従事していたが、修道院は*長さ八プラサ半、幅は六プラサであるという。(教会堂の大きさは長さ約一四、二m、幅一〇m)

彼らは同六月二八日、初めてその修道院でミサを行い、数日の間、新たな教会の建設に続いて説教をした』 *プラサ=長さの単位、一プラサは一六七㎝*一五五五年一二月付けの他のデュアルテ・ダ・シルヴァ修道士の書簡
 一六・一七世紀イエズス会日本年報集 第Ⅲ期第Ⅰ巻 二〇頁 

 一五五一年九月、陶晴賢の謀反により山口の領主・大内義隆が自害した時、山口の街は戦火のためにほぼ焼けてしまい、その時教会だった大道寺も延焼した。それ以来、四年間、トーレス神父たちは、民家を借りて仮の聖堂としてミサを挙げていた。この年、キリシタンの献金と領主・大内義長の援助を受けて、教会建築が始まり六月二七日、小さな教会堂は完成して落成式を執り行った。翌日二八日、新しい教会堂で初めてのミサを執り行った。説教はロレンソがした。

トーレス神父は全面的に山口の教会の司牧に力を注いでいた。後にトーレス神父はこの時期の山口での牧会を振り返り『山口での生活は最も幸せな日々でした』と述べている。 

第四章 バルナバとの出会い

バルナバとともに比叡山に
 一五五六年(弘治二)一月、ロレンソ(三〇歳)はバルナバと共に比叡山に上る。山口の街がまだ荒廃の中にある最中、少しずつ教会活動は再開を始めた。荒廃した山口の街で、教会の活動は新しい展開に入りつつあった。幸いなことに、大和の国の多武峰という有名な寺からの二人の僧侶,キョウゼンとセンヨウの回心は、都での宣教の可能性を試す機会を与えた。仏教の教義について学識のあるキョウゼンはパウロと呼ばれ,センヨウはバルナバという名を受けた。パウロ・キョウゼンはまた医学の知識があり、五畿内ではよく知られた医者でもあった。トーレス神父はパウロ・キョウゼンと相談して、バルナバとロレンソを共に都に遣わすことに決めた。ザビエルの夢、すなわち『都でキリストの教えを述べ伝え、そこに都の聖母に捧げられた教会を建てること』の実現に向けて動き出した。

 パウロ・キョウゼンは数人の知人宛ての紹介状を書いた。一通はすでに八三歳のもっとも尊敬されていた僧侶心海宛で、もう一通は彼の弟子の七〇歳の大泉坊宛であった。

 ロレンソとバルナバは、最初に大泉坊のところにいった。彼は病気だったが、パウロ・キョウゼンの手紙を丁重に扱い、彼らと面会はしたものの、彼らの頼みを聞くと返事はせずに、自分の師・心海のもとに送った。

『イルマン・ロレンソは貧しくみすぼらしい姿をしてやってきたので、威厳と体面とに包まれている心海と面談するには少なからぬ困難があった。しかし、イルマンは能弁であり、このような仕事にかけては老練であったので、ついに心海のところに行くことに成功し、直ちにデウスのことについて極めて巧妙に準備された話をし、少なからぬ熱意を持って語り、そのために自分が遣わされた仕事を首尾よくなしとげた』
(Luis Frois ”Historia” vol.I, cap.13, p85) 

 ロレンソはこの時三〇歳、洗礼を受けてから五年が経っていた。八三歳の心海は親切にロレンソの話を聞いたが、自分の年齢や耳が良く聞こえないという理由で、大泉坊のところにひき返すように勧めた。ロレンソはもう一度大泉坊に受け入れてもらったが、結局大泉坊は、もし比叡山の最高位僧の知人のところに、山口の大名の紹介状を持ってきたならばすべての門が開かれるであろう、といって談話を打ち切った。比叡山において交渉に万策尽きたロレンソとバルナバは山口に戻ることにして比叡山を後にした。 

山口へ戻り、豊後に向かう
 ロレンソとバルナバが、比叡山での交渉に失敗して山口へ戻ったが、二人が目にしたのは、毛利元就の侵攻のために廃墟と化した山口の街だった。

  山口のキリシタンたちは、戦火のために教会堂も失ったトーレス神父と修道士たちに安全な豊後に避難するように進言したが、トーレス神父は『私はあなたたちと共に死ぬ覚悟だ。あなたたちの危険を見捨てて豊後に避難するには忍びない。自分の身は老いて残る年月も少なく、もし死んだとしても恨みにも思わない。』と言って山口に残った。しかし、市中の混乱は激しくなり、脱出する機会を失いトーレス神父たちは恐怖にさらされた。山口は戦乱が相次いで起こったうえに、さらに累年の不作が災いして稀にない飢饉に襲われた。その最中、キリシタン信徒たちは教会を中心として、トーレス神父の指図によって、難民救済のために献身的に働き、付近から、米、および穀類を集めてきて被災民に分配して、炊き出し等もして救済した。当時の社会情勢から見れば、キリシタンの救済活動は誠に大きな活動だった。

この戦乱がようやく落ち着いた頃、トーレス神父は豊後府内への避難を勧めていた山口の信徒たちの願いを聞き入れて、教会の機能のすべてを豊後府内に移した。その後大内氏の後を継いで山口の領主になった毛利元就は、キリシタンに対して全く好意を持たなかったので、再興四年にして、山口のキリシタンたちは、羊飼いのいない羊の群れとなってしまった。山口の信徒の中には、信仰を守るためにキリシタンの盛んな豊後や筑前地方に移り住む人たちも多かった。山口の教会の柱として活躍した、コンスタンチーノ渡辺太郎左衛門一家も山口を離れた。大内氏の重臣安藤某も、山口で信仰に導いてくれたガーゴ神父が博多にいると聞いて,密かにガーゴ神父のもとに行き、厳格な修道をしたり、祈祷会を開いたり説教の手伝いをした。このことが毛利元就に知られ、許可なく領地を出奔した罪により死を命じられたが、最後まで所信を変えず、揺るぎのない信仰は残った山口の信徒たちの希望の光となった。この後一七年間、山口の教会は、司祭不在の無牧の状態が続くことになり、毛利元就の圧政下、残されたキリシタンたちは、ザビエルから洗礼を受けた二人の長老を中心に約三百名の信徒が、司祭なしのミサを挙げ,秘跡を続け、自主的にキリシタン相互扶助組織・コンフラリアを作って互いに励ましあいながら信仰を維持していくことになっていく。

次に山口に宣教師が来るのは十七年後の一五七三年(天正元)新たに日本管区長に就任したカブラル神父が、長崎から博多を経て山口に三ヵ月滞在した時であった。

  山口のキリシタンたちから、戦火のために山口の教会堂も焼け落ち、トーレス神父たちが豊後府内に移り住んだことを聞かされた二人は、トーレス神父たちの後を追い、豊後府内に向かった。ロレンソとバルナバの帰還は、府内に移り住んでいた宣教師たちから大きな喜びで迎えられた。トーレス神父は比叡山の大泉坊の最後の返事を聞くと、ロレンソに山口にひき返して、大泉坊から要求された大内義長の紹介状をもらってくるようにいった。ロレンソは比叡山への長旅で疲れていたが、再度山口に大内義長を訪ねて紹介状を書いてもらい、それを携えて豊後に戻った。ロレンソが大内義長を訪ねた時、大内義長は高嶺城を棄てて豊浦に退却して勝山城に籠って、兄である豊後の大友義鎮【後の宗麟】に援軍を乞うていた。しかし兄義鎮は、敢えて援軍を送らなかったので、義長は運尽き翌年一五五七年四月三日、長門国豊浦郡長府の長福院(現下関市長府・功山寺)において自害した。不幸な大内家最後の大名・大内義長が紹介状を快く書いてくれたことは、宣教師たちに対する最後の保護であった。トーレス神父は、その紹介状を、次の機会に比叡山に行くことがあれば使おうと大切に保管した。

 二回目の豊後府内滞在(一五五六年五月~一五五七年八月まで)
一五五六年五月~
豊後府内の教会は、領主・大友義鎮の保護もあって一五五四年から一五五六年までにガーゴ神父とイルマン・フェルナンデスの働きによって大きく進展していて、周辺の町と村の信者の数は千人を超えていた。

 トーレス神父は山口から避難して府内に到着した時には重い病に罹っていた。山口での五年の活動の実りを毛利元就によって潰されるのを見るのは辛かった。府内でしばらく静養を取った後、新しい府内の地でトーレス神父は教会活動と新しい宣教師の育成を続けた。 

イエズス会に入会
 ザビエルが最初のキリシタンに洗礼を授けたが、トーレス神父は初めて日本人をイエズス会に引き受ける人となった。府内に於いてトーレス神父は三人をイエズス会に迎えた。盲目の琵琶法師だったロレンソ、大和の国の多武峰という有名な寺の僧侶で医者のキョウゼンとポルトガル人のルイス・デ・アルメイダの三人。トーレス神父は管区長ではなかったので、教会法ではイエズス会に入会を許可する権限を持っていなかった。実際にはトーレス神父が彼らの入会を許可し、二ヵ月後の七月に府内に到着したメルキオール・ヌニェス(Melchior Nunes)管区長が、トーレス神父が許可したことを承認した。

 ロレンソの名前は、名簿の一番初めにある。ロレンソのイエズス会入会の日は記録されてないが、比叡山への旅の前であった。

 パウロ・キョウゼンもまた山口における新しい改宗者である。大和の国(奈良県)多武峯の修行僧で仏教の教義についての豊かな学識を持ち、難行苦行をしたが満足が得られずに、京に出て漢方薬の学びを深めて五畿内では良く知られた高名な薬師だった。ルイス・フロイス神父はキョウゼンのことを『日本の(仏教)宗派のなかでもっとも学識がありかつ第一級の医者であった』と紹介している。

 アルメイダの入会については、トーレス神父自身が一五五七年の書簡の中で『ここ(府内)で私は『人の病を癒す力』を有する一イルマンの入会を受け入れました』(Bourdon, “Uma carta inedita”, 一九七頁)と確認している。

 府内で始まる音楽訓練
 一五五六年七月初旬、フランシスコ・マスカレーニャスの船が府内に入港して、管区長メルキオール・ヌニェス(Melchior Nunes)とガスパル・ヴィレラ(Gaspar Vilela)神父、および二人のイルマン、ギリェルメ・ぺレイラ(Guilherme Pereira)、ルイ・ぺレイラ(Rui Pereira)が府内に到着した。この中の五人はゴアのコレジオの学生たちだった。彼らはポルトガルからきた孤児で、ゴアの修道院で教育を受け、言葉を覚えるにはもっともすぐれた素質と音楽の才能を持ち、グレゴリオ聖歌と『オルガン伴奏歌唱』に、もっとも習熟した人たちであった。彼らの選抜の基準はまさに典礼的音楽の才能であった。

ギリェルメ・ぺレイラ(Guilherme Pereira)、ルイ・ぺレイラ(Rui Pereira)が中心となり、早速、府内の子供たちに音楽の訓練が始まった。この成果は、同年のクリスマスと翌年一五五七年の四月、受難週とそれに続く復活祭で、二つの聖歌隊が組織され、歌ミサが挙げられた。

 『聖イグナシオは、特に典礼音楽の使用を必要としていた使徒的型の情況が存在すると即座に理解した。常に虚心な彼自身ローマで荘厳な挽課を導入し、それを諸布教地に対して認可した。彼は一五五三年、ゴアにおける晩課の歌唱を「承認し」「宗教に未知な彼の人々が、その方法によって一層強くデウスの礼拝へ誘うため3年後にインドで聖務日課を容認したのである。教会音楽が初期イエズス会士のもっとも独自の活動の中でも重要な位置を占めていることを忘れてはならない。音楽はアジアの新布教地で計画な目標を漸次達成していった。子の布教地の創始者・聖フランシスコ・ザビエルは自己の使徒的手段に音楽を使用している。クリミナール神父は一五四五年一〇月七日付け書簡の中で「祝日にミサを歌う」一少年グループ・既に二〇歳に達している者もおれば七歳を超えないものもいると聖イグナシオに報告している。かれらはこのような祝日の際にも聖務日課を常に歌っている。バルセオ神父はこれら少年に言及して、彼らの中には「ポルトガル人、カスティソ(ヨーロッパ人の父親とユーラシア人の母親との間に生まれた混血児)ミスティソ(混血児)が数えられ、「その大半はカント・リャノcanto llano=グレゴリオ聖歌とオルガン伴奏歌唱(figurado・グレゴリオ聖歌で歌詞に一音節二つ以上の高さの異なる音符をつける)の一部を歌うことができる」と詳述している。その後、イルマン・ペドロ・デ・アルメイダが聖歌隊を担当し、彼らは祝日、聖母マリアの祝日、および火曜日には「常にオルガン伴奏合唱でミサを歌い」、主日には挽課の歌唱を加え、胸に赤い十字を附けた白衣を着、街頭で教義も歌っている。』

『我々はポルトガルから来た孤児の中から五名の少年を伴っている。彼らは言葉を覚えるのにもっとも素質の優れた者、およびわれわれの信仰問題を象徴する主要な祝日のカント・リャノ(グレゴリオ聖歌)とオルガン伴奏歌唱に、もっとも習熟した者である。我々が聖務日課を極めて荘厳に行うのは、人々がこのような外面的行事によって深く感動するからである。』

  後にギリェルメ・ぺレイラ(Guilherme Pereira)はイエズス会に入会してイルマンになり日本に永住した。布教地の典礼音楽に与えた影響は大きい。この派遣団が、ある種の経済的余裕によって準備され得たので、新布教地のために入手した書籍の中には、典礼のための本が何冊かあった。教会の発展のために有効な『グレゴリオ聖歌・canto chao 一冊、オルガン伴奏歌唱一冊である。これらは日本にもたらされた最初の典礼音楽書である。

音楽書は漸次増加してゆくことになるが、しかしフロイス神父は一五八七年になっても依然、音楽書の中で「日本で極めて不足している」典礼歌集を列挙している。

  一六一四年、キリスト教追放令によりマカオに持ち出された日本で使用された音楽関連書が、一六一六年と一六三二年に図書目録として残されている。

『音符を附した三つの受難書』Tria Passiona cum notis musicis
『合唱堤要』一冊、um Manual de Coro
『大音楽書』三冊、Tres libros de Solfa grandes
『ローマ交誦聖歌集』一冊、um Antiphonario Romano
『ドゥアルテ・ロボのミサ書』一冊、um Libro de Missas de Duarte Lobo
*ロペス・ガイ(Lopez Gay)『キリシタン音楽・日本洋楽史序説』
キリシタン研究第一六輯三~五五頁掲載・吉川弘文館

  七月に府内に到着したメルキオール・ヌニェス管区長は、トーレス神父がイエズス会に入会を許可した三人を承認した。ヌニェスのトーレス神父に対する印象は『善良な老コスメ・デ・トーレスは私たちに会って話しながら涙を止めることができなかった。彼はあらゆる徳や自己制御において完全な人物である。彼はマエストロ・フランシスコと共に日本へ行ったが、神父がインドに帰る時に彼を山口に残した。七年の長い間、山口にいたがその間まったくいかなる肉をも口にしなかった。それは日本人が肉を食べることは大きな罪悪であると考え、特に山口のように人びとが高い教養を有する場合にこの風習が強いからであった。人びとに高い感情を抱かせないために肉を食べず、また苦行を大切にするために、当地にはないパンや新鮮な魚を食べず、ただ日本風に炊いた米、それは余程必要にせまられなければ食べられないものであるが、それ塩にした魚と野菜のほかは何も食べなかった。そして肉を食べると体に害になるほどこの風習になじんでしまった』『トーレスは一生のうちで山口のあの六、七年ほど喜びと慰めに恵まれた生活はなかった、と私に語った。わたしは、彼が慰めの涙の結果として、大部分視力を失っていたと思う。あらゆる徳において試練を経た神父は一方ではこれらの慰めを抱き、一方では悩みを抱いていた。私としては彼をエジプトのあの聖人たちに比べてみた。後者は神を眺め、神との優しい会話のうちに生きていたが、コスメ・デ・トーレス神父は一人のイルマンが一緒にいるのみで、当然考えうる厳しい寒さと飢えに苦しみながら、彼を迫害する敵の中にいた、という違いがある』(Cartas Ⅰ, 49)

  最初の挨拶の後、諸事情の報告を受けた後、人々の新しい配置を行った。府内にはトーレス神父の補佐としてヴィレラ神父が残った。ヴィレラ神父は書簡の中で『トーレス神父がすでに非常に老齢であるし助け手を要する。このように数多くの大きな仕事は常に助け手が必要である。またこれらのキリシタンに対して取っている方法や修練およびこの地の習慣を彼(トーレス神父)から学ぶことが必要であった』(Cartas Ⅰ, 54) 

 トーレス神父の働きは一人でできるものではなかった。トーレス神父は助手のグループを作って共に働き寝食を共にして生活した。自ら修道者としての模範を示して彼らを指導した。ロレンソもトーレス神父と共にいて、府内教会の中の信心深い雰囲気の中に、トーレス神父の生活から、深い祈りの精神、使徒職への熱意を受け取っていた。
(Luis Frois “Historia”, Vol. Ⅰ, cap.一九, 一二三~一二六頁)

 当時府内にいたイエズス会士は九人であった。

トーレス(Cosme de Torres)神父(布教長)
ヴィレラ(Gaspar Vilela)神父、
フェルナンデス(Juan Fernandez)アルメイダ(Luis de Almeida)シルヴァ(Duarte de Silva)ギリェルメ・ぺレイラ(Guilherme Pereira)ルイ・ぺレイラ(Rui Pereira)ロレンソ了斎、パウロ・キョウゼン、他、病院に勤務する日本人数名。

 平戸の教会に派遣されたガーゴ( Baltasar Gago )神父

 

 『府内に駐在していたガーゴ神父は、平戸に派遣された。平戸は、府内の北方にある島の首端の町で、日本最良の港である。ポルトガル船は、多くはこの港に入港する。平戸には若干のキリシタンがいて、港の領主(松浦隆信)は、表面上はわれわれの友人であるとの態度を示している。われわれは、彼から許可をもらって一区画の土地を購入し、聖母の会堂を建立した。この結果、同港にやってくるポルトガル人は、神(デウス)に祈るための会堂ができたし、同地のキリシタンたちは、神(デウス)を崇拝し、キリスト教の教えを説く教えを聞くことができるようになった』
*ガスパル・ヴィレラ神父の書簡、一五五七年一〇月二八日付

 ヌニェスが持参した図書が百冊あまりあった。ヌニェスは聖書の専門家であり学問のある人物だった。持参した本には、クリソストモス、チプリアーノ、アウグスティヌス等の聖教父たちの著書、聖トマス、聖ベルナルド、プラトン、アリストテレス、カルトゥジオ会士ケンピス、聖フランシスコ・デ・ボルジャ等の神秘家の著書、新しい聖書注釈者のティテルマンス、ガーニェ,ナバーロの著作、また典礼書やグレゴリオ聖歌(Hum livro de canto chao)と典礼のための楽譜、オルガンの歌集(Outro de canto d`orgao),その他の図書と数冊の聖書があった。今も残っているこの目録には、聖書と聖書に関する著書が、次のとおりにある。聖書三冊、その中の一冊は大きい【豪華版】、新約聖書六冊、詩編七冊、詩編注釈書一冊、伝道書注釈書一冊,雅歌に関する注釈書一冊、パウロの書簡に関する注釈書一冊、聖書策引(Concordantia)一冊、これらは総べてラテン語かポルトガル語であったが、当時の宣教師たちが聖書研究に大きな関心を持っていたことを示している。 

教会で用いる教理の順序を整理する
『府内の教会で用いた教理の順序は根本的にロレンソが生涯にかけて使ったものである』(Cosme de Torres 府内発、一五五七年一〇月七日付け、イエズス会総長イグナシオ・ロヨラ宛、M.H,137, “Documentos”, p.737~738)

 『ドチリナ・キリシタン』の翻訳を手伝う
 ヌニェスが府内滞在中に日本のキリシタンを念頭に置いて書いた『ドチリナ・キリシタン』がある。この『ドチリナ・キリシタン』の内容は、キリスト教の基本的な教義の根本を説いた書である。それまでの本はインドで普及していた物を、ザビエルが日本に来る時に日本に適合するように教理書を改訂したもので、さらにその版にヌニェスが手を加えたようだ。ザビエルの布教以来使われていたこの教理書を,さらに判りやすい日本語にするためにロレンソが手を加えたと考えられる。ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』の中で『これは(二五ヵ条のこと)一五七〇年代にフランシスコ・カブラル神父が日本に行くまで使われていた。この時期になるとすでに日本人のイルマンたちがおり、またその国の人で諸宗派に精通した者もいたので、この神父は信仰の奥義について、いっそう詳しい公教要理をあらわし、同時に異教徒の諸宗派に反論を加えた。これが現在まで普通に使われているものである』
*フーベルト・チースリク著 『キリシタンの心』第一章 キリシタン時代の教理書 九~六一頁 

教会での役目
『もう一人の日本人、イルマン・ロレンソは我が主の御教えについては深い知識を持っています。ミサの後、洗礼の準備をしている数人に、また、受洗したばかりの他の人にも一時間ほど、または必要な時間を費やして話をします。または質問してくる信者の疑問にも答えます』
*Gaspar Vilela 府内発、一五五七年一〇月二九日付、M.H.vol.一三七 “Documentos” 七九八頁

 コスメ・デ・トーレス神父が修道士たちと共に豊後府内の司祭館で行った修行について
『当時、我らの同僚たちの司祭館では、キリシタンたちに信心を教え、彼らがデウスのことを喜ぶように導くために、一日の七度の聖務日課の時間に合わせて、七回、小さな鈴を鳴らす慣わしであった。それを聞くと、司祭館にいる全員は聖堂に参集し、一人の少年が大声で主の御苦難の物語の一ヵ所を朗読する。そしておのおのは、その御受難を追想しながら、当地方のために「パーテル・ノステル」を五回、「アヴェ・マリア」を五回唱えて祈った。そしてこれは多年にわたってキリシタンの間に広まり、いろいろの地方で彼らは自分たちの家で同様のことを行った』
*ルイス・フロイス著『フロイス日本史』第六巻 大友宗麟編I 第一七章(第I部一九章)一七三~一七四頁 

鄭舜功の豊後来航
一五五五年の同じ時期に、豊後臼杵ではもう一つの出来事が進行していた。勘合(日明)貿易は大内氏が独占していたが、大内義隆が一五五一年八月に、大寧寺に於いて自害したため、一五四七年(天文一六)の勘合船が最後となって以後、明との国交は断絶していた。

当時、明では私貿易船が増加した。鎖国政策を取っていた明では,私貿易の根拠地雙興を官検が弾圧した。一五五二年(天文二一)四月、漳州・泉州の海賊が船千余隻に乗って,倭奴万余人を率い、浙江の舟山・象山等に上陸して,台州・温州等を攻撃して、無数の住民を殺害して捕虜にする事件が起こった。以後、明では大倭寇時代に入った。

一五五五年浙江総督楊宣は倭情探査のために、鄭舜功を日本に派遣した。彼は四月に広州を出発し琉球を経て豊後に到着した。一行は佐賀関を回って府内の沖の浜に上陸した。大友義鎮に謁見した鄭舜功は、倭寇の禁圧を願った。義鎮は、鄭舜功一行を国賓の待遇でもって扱い、臼杵の海蔵寺の塔頭・龍宝庵を宿舎として提供した。(日本一鑑) 

 一五五五年五月頃・明国から鄭舜功が豊後府内に来航して、大友義鎮(宗麟)に謁見して倭寇の禁圧を願っていること。義鎮は、鄭舜功一行を国賓の待遇でもって扱い*臼杵の海蔵寺の塔頭・龍宝庵を宿舎として提供していること。明国の使節の中に『鄭家定・テイカテイ』(『鄭家定』は『鄭舜功』の兄弟、あるいは身内かとも思われる)という素晴らしい楽士がいて、明国の「善鼓・琴」「五音六音の音階や、三・五・七・十三・二十五弦の琴」「伏義・神農・黄帝の時代から伝わる古代中国の古事」更に「文武の宮廷上古の曲譜」等の真髄を会得ていること。また彼は、古代より伝わる中国の琴の音律,漢詩(古詩)及び楽譜の書き方や箏の制作方法も伝授できること。鄭舜功一行は、ほぼ来日の目的を達成して、今年の(一五五六年・弘治二)秋頃にも明へ帰国する予定であること等の情報を、賢順に伝えたと考えられる。 

諸田賢順、鄭家定について明の音楽を学ぶ(一五五六年五月下旬頃~一一月)
賢順は明国使節の楽士であった『鄭家定テイカテイ』について、「善鼓・琴」「五音六音の音階や、三・五・七・十三・二十五弦の琴」「伏義・神農・黄帝の時代から伝わる古代中国の古事」更に「文武の宮廷上古の曲譜」等を学びその真髄を会得したと『諸田系志』は記している。この時、古代より伝わる中国の琴の音律,漢詩(古詩)及び楽譜の書き方や箏の制作方法も教授され、賢順はそれらを学び習得した。同年一一月頃、明国の使節『鄭舜功』一行、明国に帰国した。 

山口より書簡
秋頃から豊後の政治的事情は著しく好転した。その結果としてキリシタン受洗希望者が大きく増加した。山口においても情勢が落ち着いてきたようで、山口のキリシタンたちからトーレス神父に戻る様にと求める使いがきた。トーレス神父は戻りたかったが、毛利元就の情勢と諸般の事情をよく把握している大友義鎮は、今しばらく情勢の変化を見極めるために府内に留まるように勧めた。この判断は正しく、この後、山口における毛利の支配が確立するに従い、宣教師が山口に戻ることは不可能になった。

『一二月、山口の国王(大内義長)とその大身らは、同国よりキリシタンらを介して我らのもとの書状を送り、我らがかの国に戻ることを請うた。我らは、彼の兄弟なる豊後国王(大友義鎮)の許可と意見を仰ぐために彼のもとに赴いたが、それはデウスへの奉仕に必要な彼の好意を得るためであり、かつまた彼がこの地における出来事をことごとく知っているからである。彼(豊後国王)は我らに答えて,未だかの地に戻る時期ではなく、その時に至れば彼自らが伝えるであろうと述べた。我らは彼が戦に関して何か秘密を知っていて、時が答えを出すべく我らを待たせたのではないかと疑ったが,果たしてそうであった。すなわち某大身(毛利元就)がすでに復興している山口の町を攻め、市をことごとく破壊し、略奪を行い多数の人を捕らえ、さらに豊後国王の兄弟なる国王とその配下の大身全員を殺して自ら国主になったのである』
*一五五七年一一月七日付け、豊後発、コスメ・デ・トーレス神父の書簡
 一六・一七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第Ⅰ巻 二三八~二三九頁

  情勢を理解したトーレス神父は、ただ九州だけに全精力を注いだ。彼が府内の責任を持ち、ガーゴ神父に平戸を任せた。イルマンたちは二つの町、および豊後の他の土地のキリシタンたちのために援助をした。 

一二月、クリスマス(降誕祭)
『降誕祭が近づくと、我らは村々のキリシタンにその日取りと、全員が参集することを伝えさせた。市のキリシタンのほかに、八乃十里の多数の地区から大勢のキリシタンが降誕祭の夜のミサに訪れ、その余りの多さの故に修道院、すなわち教会と我らが宿泊している家々、さらにもう一方の地所にある教会にもほとんど入りきれなかった。我らは降誕を讃える数多くの歌とそれに関する説教により、ミサを執り行ったほか、終夜、説教をした』
*一五五七年一〇月二九日付 平戸発、ガスパル・ヴィレラ神父の書簡
 一六・一七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第Ⅰ巻 二五二頁

 七月以来、府内で始まった音楽訓練は、ギリェルメ・ぺレイラ(Guilherme Pereira)、ルイ・ぺレイラ(Rui Pereira)が指導して著しく上達した。ゴアの修道院で教育を受け、優れた音楽の素質と才能を持ち、グレゴリオ聖歌と『オルガン伴奏歌唱』に最も習熟した人たちであった。彼らの選抜の基準はまさに典礼的音楽の才能であった。ギリェルメ・ぺレイラ(Guilherme Pereira)、ルイ・ぺレイラ(Rui Pereira)が中心となり、早速、府内の子供たち、および音楽的才能のある新しい信者たちに音楽の訓練が始まった。この成果は、徐々にミサに反映され、主日ごとのミサが、読唱ミサから歌付のミサにおきかえられた。同年のクリスマスと翌年一五五七年の三月、受難週とそれに続く復活祭で、二つの聖歌隊が組織され、歌ミサが挙げられた。 

一五五七年(弘治三)(ロレンソ三一歳)
三月、受難週と復活祭
前年一五五六年七月から、新しい音楽の指導者のもとで訓練を積んだ子供たちと新しい信徒たちの音楽教育も進んで、典礼聖歌が理解され唱和されるようになってくると、当然、聖歌隊が組織され、ミサでの司祭の応答が歌でなされるようになってきた。イルマンや同宿たちだけでなく信徒達を訓練した聖歌隊がいつどこで一番早く組織されたかは、必ずしも明確にはイエズス会の記録からは確認できない。しかし、この年一五五七年に府内の教会では、すでに聖歌隊が組織されていてミサを始め諸儀式はすべて歌唱を伴って行われていたようである。この年の枝の主日には、二組の聖歌隊が組織されていて、それに滞在中のポルトガル人数人と、五人ずつの聖職者も加わり、相当数の人々によって合唱がミサの中で歌われたことが記録からわかる。 

『歌ミサの後十字架を捧げてプロシッサン(行列)を行ったのち、神父は十字架と共に聖堂の外に留まり、われわれは中に入って戸を閉じて歌った。そして神父が門を開けと言った時、聖堂内において「オルガンの歌」で、大きな信心をこめて三回応唱して、戸を開き、すべてに人々は大きな喜びに満たされた。行列をしてから聖壇に進み、ミサを始め、御パッショ(受難)の時となって、歌声は盛り上がった。われわれは聖務日課officiosすべてを歌唱して行ったが、水曜日には挽課treuas を唱い始めると、二つの聖歌隊には同地において冬を過ごしたポルトガル人数人も参加した。定刻となってオノオノ数人ずつ聖歌隊に加わり跪いて高声に歌唱した。オルガンの歌のベネディクトゥスBenedictusをもってプサルモスPsalmos(詩篇歌)を終り、つぎにミゼレーレメイデウスを歌ったが、その時、聖堂内にいた沢山のキリシタンらは多くの涙を流し信心を表わした』
*一五五七年一〇月二九日付け、平戸発 ガスパル・ヴィレラ神父の書簡
 一六・一七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第Ⅰ巻 二五五~二六〇頁 

第五章 ヴィレラ神父との出会い

復活祭が過ぎた頃
『本年(一五五七年)復活祭が過ぎた頃、ガスパル・ヴィレラ神父はロレンソ修道士を伴って山の地方(朽網)に赴き、老齢のため,或は仕事のため(修道院に)来ることができない者数名の告白を聴き、豊後(府内)の周辺で若干名をキリシタンにした。多数のキリシタンがいる五,六ヵ所の村と、教会に来ることができない数名を毎年訪問し、彼らが回心するように数日説教を行う。このことは年に数回なされている。過る年(一五五四年)の四旬節に、バルタザール・ガーゴ神父とフェルナンデス修道士が、当初から九里の朽網に滞在し、多くの成果を収めた。朽網のキリシタンらは、彼らの領袖であるキリシタン(ルカス・朽網宗策)の家に祭壇があり、毎日ミサと説教を行い、夜は連禱を唱え、苦行をなす。連禱(を唱えること)と、金曜日の夜の苦行は彼らの習慣になった』
*一五五九年一一月一日付 豊後発、バルタザール・ガーゴ神父の書簡、
 一六・一七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第Ⅰ巻 二八七~二八八頁 

『説教をするために恵まれているのはジョアン・フェルナンデスとルイ・ぺレイラ(Rui Pereira)です。説教すればするほど徐々にロレンソもそのようになるでしょう。話し方が生き生きしていますが、声色は優しくはありません。彼は説教台を使います』(一五五九年一一月一日付 豊後発、バルタザール・ガーゴ神父の書簡、Baltasar Gago S,J,府内、M.H.148“Documentos” 一七七,一七九, 一八一頁) 

『一五五四年、バルタザール・ガーゴ神父とフェルナンデス修道士は、一人の主要な人物に懇請されるまま、府内から九里距足り、非常に高い山の上にある朽網へ赴いた。その人は説教を聞き家中こぞって洗礼を受け、その数は百名余りに及んだ。彼は*ルカス(朽網宗策)の教名を授けられた。ところで彼はその地の全住民にとって父のような人であり、我らの主なるデウスが恩寵を授け給うたので、かれはそこでつねに堅実で確乎たる支柱的存在であった。彼は邸の傍に教会を建てたが、それはこの豊後国で建てられた最初の教会であった。彼はそれを喜びとし、清潔に,また良く整えるなど自らその世話をした。この善良な老人には親戚が多かったが、彼の模範的な生活と堅固な信仰によって、その縁者、友人たちもキリシタンとなり、その後まもなく彼に説得されて洗礼を受けたものは三〇〇名に達した』
*ルイス・フロイス『日本史六』大友宗麟編Ⅰ第一一章(第Ⅰ部一二章)一一二頁

 他の人々によって報告された同様の出来事の記事
*一五五九年九月二三日付け 豊後発、バルタザール・ガーゴ神父の書簡
 一六・一七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第Ⅰ巻 一八六~一八七頁

 *一五五五年九月二〇日付け デュアルテ・デ・シルヴァ修道士の書簡
 一六・一七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第Ⅰ巻 二〇九~二一〇頁

 *ルカス・朽網宗策
『朽網』地方の名は、今では聞かれない地名だが、かつて小さな集落、有氏、岳麓寺、七里田,栢木、下河原、原,新田、湯原の周辺は『朽網』と呼ばれていた。当時から、炭酸を有する温泉の湧出するこの地方を治めていたのは、大友氏の重臣の朽網鑑康(宗歴)で、有氏の山野城の城主だった。

ザビエルが大友宗麟から府内に招かれた二年後、一五五四年(天文二二)二月に、ガーゴ神父とフェルナンデス修道士が最初の布教を行った。この布教は、大友義鎮の家臣で、朽網に住んでいたアントニオ(洗礼名)(府内へ来たときトーレス神父の教えを受けて改宗した)の要請によるものだった。アントニオからすでにキリスト教の教えを聞いていた朽網殿は、熱心にキリスト教を住民に奨め、朽網宗策自身も説教を聞きキリスト教を受け入れて改宗し洗礼を受け、『ルカス』と言う洗礼名与えられた。この時二六〇名が洗礼を受けた。一五六二年には『ルカス』は豊後で最も大きい教会堂を建築して寄進している。
『豊後(府内)より、九レグワの朽網に,名をルカスというもう一人のキリシタンがいて、また自費でもって、はなはだ良き大会堂を建設して寄進した。また、死者を葬るため木をもってひとつの地所を囲い、中央に石の大十字架を建て、自分が死んだとき、十字架の下に埋葬するように命じた』
*一五六二年一二月一〇日付、バルタザール・ガーゴ神父の書簡
 一六・一七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第二巻 二〇頁 

 その後、朽網地方の信者は急増して、ついには当時の日本で「キリスト教八大布教地」とまで言われるようになった。 

ロレンソ、両親に洗礼を授ける
 一五五六年九月以来、平戸において一人で布教活動をしていたガーゴ神父は一五五七年に二隻のポルトガル船が平戸に入港して、神父はポルトガル人の世話のために忙しく働いていた。

 トーレス神父は、ロレンソが長年抱き続けていた両親の改宗と洗礼の願いを叶えさせるために彼をヴィレラ神父と共に使わした。生まれ故郷に戻ったロレンソは、この数年間抑えていた両親に洗礼を授けるために両親の改心を心から願い両親に福音を説いた。ロレンソの熱心な誠意により両親は洗礼をヴィレラ神父から受けた。 

ヴィレラ神父がロレンソの誠実で熱心なその横顔を描いている。
『数多いポルトガル人が告解し、御聖体を受けました。私(ヴィレラ)は、ポルトガル人たちには日曜日や祝日に説教していました。日本人のためこの土地の出身であるひとりの日本人(ロレンソ)も同じようにしています。視力が弱く、わが主は御憐れみによって多くの恵みをお与えになり、彼は他の人々を照らしたく思っているし、実際に多くの人々が照らされています』(Gasapar Vilera S.J.平戸発、一五五七年一〇月二九日付 .H.137“Documentos” 七一〇~七一一頁) 

ガーゴ神父、博多に赴任
 大友義鎮が博多に、教会の土地を与えてくれて、九州で一番賑やかな博多の町での布教ができる条件が整った。一五五七年(弘治三)八月、大友義鎮は府内教会を訪れた。彼は住院と教会堂を見て大いに満足して、宣教師たちや府内に滞在中のポルトガル人たちと夕食をともにしながら歓談をした。歓談終了後、義鎮はトーレス神父に対して博多の町に住院を建てるために土地を与えると言われた。念願だった博多の町に土地をもらったトーレス神父は、早速伝道を開始するために、平戸の駐在していたガーゴ神父に、博多に行き開拓伝道を始めるように指示した。 

『バルタザール・ガーゴ神父は、豊後の王が、住院ならびに会堂を建てるため我らに与えたる地所を受け取るために、コスメ・デ・トーレス神父の命により当地(平戸)を発って博多に向かいました』
*一五五七年一〇月二八日付け、ガスパル・ヴィレラ神父の書簡 

『豊後の王(大友義鎮)は、また当地(豊後)より五日路にある商業の盛んなる博多の大市においてひとつの地所を与えた。ガーゴ神父は博多に赴任してデウスの教えを説きなさい。ヴィレラ神父は、ガーゴ神父に代わって平戸に駐在しなさい』
*一五五七年一一月七日付 豊後発 コスメ・デ・トーレス神父の書簡 

平戸における布教
 ヴィレラ神父とロレンソの宣教はポルトガル船の停泊していた平戸の港周辺だけではなく、他の土地でも、特に熱心な信者であり、武士であった籠手田一族の知行地でも行われた。 その知行地は、主に生月,度島と平戸島に西海岸の根獅子、獅子,平、春日等である。ロレンソの生まれた白石は、春日の北側,生月に面した海岸の小さな入り江にたたずんでいる。 

 籠手田一族は安昌、安経、安一の三代に渡り、この地のキリシタンの中心となって、宣教師を保護し、教会を支持し,信徒たちを励ましてきた領主である。特に籠手田安経はドン・アントニオと呼ばれて、安経の弟は一部家の養子となり、ドン・ジョアン勘解由と呼ばれていた。籠手田・一部両家の領地である生月島、度島と平戸島に西海岸の根獅子、獅子,平、春日等の領民は全員がキリシタンになった。

 ガスパル・ヴィレラ神父が平戸に到着の後、若い領主籠手田安経・ドン・アントニオは自分の領地を案内して領民の回収を進めるために、村々を巡回布教した。巡回の時に起こったロレンソと浄土宗の僧との宗論は、ロレンソの仏教に関する知識と理解力、および比較宗教力、弁舌の巧みさを見事に表している。回心した人々が二度と仏像を拝まないようにするため、また回心した仏僧の寺や神社から仏像を持ち出してうず高く積み上げて焚火をたいた。仏寺を教会堂に改めて信徒の祈りの集会場所に替えた。これがこの地方の布教の初めである。 

仏僧と宗論(渡島において)
 『この時、平戸には、浄土宗という阿弥陀の宗派のひとりの仏僧がいたが、彼はつい先頃そこに来たのであった。彼は説教の際、聴衆に向かい、デウスの教えやキリシタンのことについて幾多の悪口を語るのが常であった。ドン・アントニオ(籠手田安経)は、当時まだ若く,大いなる熱意をもって布教事業に率先して、家臣のうちで受洗しない者が一人でもいることに我慢ならないほどであったが、彼は、度島において、数日前にやっと洗礼を受けたばかりの新改宗者に教えを授けていたガスパル・ヴィレラ神父の許へ伝言を届けさせた。その中で彼は司祭に、例の仏僧が公然と講壇においてデウスの教えを中傷し、何びともあんな悪い宗派に入ってはならぬと言っている。ついては誰かを遣わして、その仏僧に答弁するよう取計っていただきたい、と報じた。この時、ドン・アントニオはキリシタンになってまだ満一年と経っていなかった。ところで当時、ロレンソ修道士がそこにいたので、司祭はかの仏僧を訪ねさせるため、修道士を平戸に派遣した。ドン・アントニオと、その兄弟ドン・ジョアン(一部勘解由)、ならびに他の身分の高いキリシタンたちが、ロレンソ修道士を、折から仏僧が説教していた場所に連れて行った。説教が終わったとき、ロレンソ修道士は自分が説教で聞いたことについて,何がしかの疑問を持ち出した。仏僧はそれに対して全然答える術を知らず、キリシタンの教えについて何も謗った覚えはないと否認した。さて日本の僧侶の習慣では、誰かが宗論で打ち負かされると,勝者は敗者から、衣と称される、非常に尊ばれている上衣を剥ぎとることになっている(それは敗者にとっては大いなる屈辱であり不名誉な事であった)ので、ロレンソ修道士は僧侶に向かい、「日本の習慣によれば貴僧の衣を剥ぐところだが、皆が,貴僧が打ち負かされたと白状するのを知ってくれれば満足いたそう。なぜならば、デウスの教えを弘める人々は、何人も辱めようとはしないのだから」と』
ガスパル・ヴィレラ神父が豊後から平戸に派遣された次第、ならびに同地で生じたこと
*ルイス・フロイス著『日本史六』大友宗麟編Ⅰ 第一六章(第一部一八章)一六六~一六八頁 

ヴィレラ神父、仏像を集めて焼く
『ポルトガル人が訪れ、もっとも長く滞在する港である平戸について、この所領では、メストレ・フランシスコ【ザビエル】師が訪れた時、キリシタンになった人々があり、その後,絶えず増えていった。一五五七年、ガスパル・ヴィレラ神父が同地に十ヵ月滞在した。土地の重立った者三名の内ひとりはキリシタンで名をドン・アントニオ(籠手田安経)といい、平戸の港の周辺二,三里にある三,四ヵ所の土地と幾つかの小島を有している。一五五七年にこの領主は司祭の勧めに従って、未だ帰依していない農民と家臣数名、および家族一同をキリシタンにした。キリシタンの人数は総勢一五〇〇名内外である。彼は司祭に伴って村々を歩き、説教をして改宗を勧め、寺院から偶像を取り去って教会に変え、幾つかの場所に墓地を造って、死者のために大きな十字架を建てた。この事業がことごとくキリシタンのものとなるよう、大小の偶像を焼き払ったが、これは偶像の下僕らもまたキリシタンになったためである』
*一五五九年一一月一日付け、バルタザール・ガーゴ神父の書簡
 一六・一七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第Ⅰ巻 二九七 

『ところで平戸では、仏僧たちの反抗と肥州(松浦隆信)の無言の憎悪から、大勢の改宗を期する余地はまったくなかった。それゆえ司祭(ガスパル・ヴィレラ)はドン・アントニオ(籠手田安経)と語り、彼の支配下にある島々で、その家臣たちをキリシタンにするのがこの際適切だと言った。ドン・アントニオ(籠手田安経)は司祭の企てに同意し、さっそくそのことが着手された。度島,生月の島々と(平戸島の)獅子、飯良、および春日で説教がはじめられた。そして人々が受洗し、デウスのことについて良く理解したことを示すにつれて、司祭は(彼らの許に見られる異教の古い根を少しでも早く引き抜こうとして)あちこちの寺社からどんどん偶像を集めさせ、堆く積みあげ、それでもって非常に大きい焚火をたいた。 平戸に住んでいた仏僧たち、ことに安満岳と志々岐山という二僧院の上長たちはこれを知り、仏像に対するそうした侮辱を、自分たち自身に対するものと見なし、すべての他の僧侶やその檀家のひとびとを召集してこう言った。「我らは、仏様に加えられた、かくもひどい辱しめを黙ってはおれぬ。いわんや一人の異国人によってそんなことがなされては」と。彼らは激怒しつつ、平戸の殿である肥州(松浦隆信)の許に出かけ、もし殿が伴天連を処罰し、相当の懲罰を彼に加えなければ、殿自身が危険に曝され、家臣の間に叛乱が勃発するであろうと言った。肥州は実のところ、つねに日本においてデウスの教えをもっとも、激しく、かつもっとも増悪する敵のひとりであって、進んで司祭を殺したいところなのだが、敢えてその挙にでないのは、ポルトガル人が自領に来航することから期待される利益のためであり、またその他のもっとも主要な人物であるドン・アントニオ(籠手田安経)とその一族を畏怖するためである。そこで彼(松浦隆信)は仏僧たちの感情を和らげ引き留めようと、司祭を呼びにやり、彼にこう言った。 「民衆の間に叛乱の兆しと不穏な空気が濃厚だし、彼らは予の領内の各地で切支丹宗門への改宗が行われることを望まぬゆえ、伴天連殿は当地を退かれる必要がある。後日、彼らがもっと平静に復するならば、その時には,予が貴殿を呼ばせるであろう。」と。 かくて彼(ヴィレラ神父とロレンソ)は追放され、そこから博多を経て豊後に帰還した』
(ガスパル・ヴィレラ神父が豊後から平戸に派遣された次第、ならびに同地で生じたこと) *ルイス・フロイス著『日本史六』大友宗麟編Ⅰ 第一六章(第Ⅰ部一八章)一六〇~一六二頁 

『ガスパル・ヴィレラ神父は布教にいとも熱中するあまり、仏の像や、日本の諸宗派の書物などの荷物を俵に詰めて海岸まで運んで行き、そこでそれらを積みあげ、火をつけた。キリシタンの信仰をよく教わっていた人たちは、それによってますます信仰を強められたが、デウスの教えについて、たいして知識がなかった人たちは、この行為を見、それに対して神と仏の大いなる懲罰が下されようと恐れ、いとも戦慄し驚愕するところとなった』
(ガスパル・ヴィレラ神父が豊後から平戸に派遣された次第、ならびに同地で生じたこと)*ルイス・フロイス著『日本史六』大友宗麟編Ⅰ第一六章(第Ⅰ部一八章)一六六頁 

 平戸において、領主・松浦隆信は禅宗に厚く帰依していて、浄土宗・真宗・真言宗の如き仏教諸派は手厚く保護されていた。特に安満岳の西禅寺が領主松浦隆信に対して強力な勢力を持っていた。

『ヴィレラ神父は日本に到着する六ヵ月前にイエズス会に入会したばかりだった。ヴィレラ神父の人々の霊魂をキリスト教に改宗させたいとの熱意は異常なもので、どうすればデウスへの奉仕を一層よくできるか、何か新しいことをすることができるかと、何時もそれについて思いめぐらしていた』
*ルイス・フロイス著『日本史六』大友宗麟編Ⅰ第一六章(第Ⅰ部一八章)一六〇頁 

日本で初めての殉教者・マリアお仙
 
初めて与えられた布教地・平戸での、三五歳前後の若いヴィレラ神父の布教未経験からくる未熟差と、彼の結果を求める異常な熱心さが引き起こした仏像焼却事件は、平戸地方の仏教界に大きな衝撃を与え、この事件が発端となって仏教徒との間に衝突が起きてしました。ヴィレラ神父は、ロレンソの仏僧との宗論の結果に対するロレンソの取った寛大な処置を見習うべきだった。一五五八年になって仏教徒が起こしたキリシタン廃絶運動の結果、仏教側とキリシタンが対立して大事に至る不穏な情勢になったので、領主・松浦隆信はヴィレラ神父に情勢を説明して退去を求めた。この事件が発端となり、この地方のキリシタン多数がヴィレラ神父に従って豊後へ避難移住した。この時キリシタンになったマリアお仙は、信仰を守って仏教に戻らなかったので、主人である仏教徒の武士に切り殺され殉教した。一五五九年、日本最初の殉教者となった。 

一五五八(永禄元)年四月頃、ヴィレラ神父とロレンソは、仏教徒からの迫害を避けるために住み慣れた土地や家を捨ててまで、信仰に生きる道を選んだキリシタンたちと共に博多経由で豊後府内に向かった。おそらく、ガーゴ神父から、博多の住院と教会堂が間もなく完成して復活祭を祝うので、豊後に帰る時に博多に寄るようにと打診があったものと思われる。

 博多の教会での初めての復活祭
『一五五八年復活祭(四月一一日)が終わって、豊後の王(大友義鎮)は、海に面した地所を与えた。同所には農夫が六〇人いる。トーレス神父は住院および教会堂建設のために自分(ガーゴ神父)とイルマン・ジョアン・フェルナンデス(よく日本語を解せる)を(豊後より)派遣した。住院と教会堂が落成して多数の人々が説教に集まり、キリシタンになる人々が少しずつでき始めた』
*一五五九年一一月一日付、バルタザール・ガーゴ神父の書簡
 一六・一七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第Ⅰ巻 二九二頁 

豊後府内に戻る
 一五五七年九月、平戸においてデウスの教えを述べ伝えようと勇んで出かけたヴィレラ神父だったが、三五歳前後の若いヴィレラ神父の布教未経験からくる未熟差と結果を求める異常な熱心さが引き起こした仏像焼却事件は、平戸地方の仏教界に大きな衝撃を与え、この事件が発端となって仏教徒との間に衝突が起きてしました。ヴィレラ神父の初めての布教地・平戸において起こした仏教徒とキリシタンとの対立との結果、領主・松浦隆信より退去を要求され、仏教徒による迫害を避けるために、多くのキリシタンたちが豊後府内に移住してきた。平戸における一〇ヵ月の布教活動は多くの問題点を残した。キリストを受け入れキリシタンになった人びとは信仰について各々考え、それぞれに答えを出した。ある人々は信仰を優先させるためと迫害を避けるために、住み慣れた故郷平戸の地を棄てキリストにある自由を求めて新天地の豊後に来た。またある人々は、信仰を持ったままで平戸での生活の基盤を維持しようと決め、近い将来に起こると予測される仏教徒からの迫害に対するために,いっそう信心を新たにして信仰を深め、残った信者たちで相互扶助組織・コンフラリアを組織した。

『日曜日毎に受洗希望者に説教する人は日本人ロレンソと、デュアルテ・デ・シルヴァならびにジョアン・フェルナンデス両修道士であり、彼らは過る夏から今に至るまで続けている。その方法は、福音書に基づいて道徳上の教えを二つ、三つ説き、終わりに我らの主(なるデウス)が我らのためになし給うた多くのことについて談話(すること)であり(次に)日本語で総告白をするが、皆これを心得ており調子を合わせて応誦する』
*一五五九年一一月一日付け、バルタサール・ガーゴ神父の書簡
 一六・一七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第Ⅰ巻 二八六頁 

豊後府内に戻る
『日曜日毎に受洗希望者に説教する人は日本人ロレンソと、デュアルテ・デ・シルヴァならびにジョアン・フェルナンデス両修道士であり、彼らは過る夏から今に至るまで続けている。その方法は、福音書に基づいて道徳上の教えを二つ、三つ説き、終わりに我らの主(なるデウス)が我らのためになし給うた多くのことについて談話(すること)であり、(次に)日本語で総告白をするが、皆これを心得ており調子を合わせて応誦する。』
*一五五九年一一月一日付け、バルタサール・ガーゴ神父の書簡
 一六・一七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第Ⅰ巻 二八六頁 

ロレンソの教会での役目
『もう一人の日本人、イルマン・ロレンソは我が主の御教えについては深い知識を持っています。ミサの後、洗礼の準備をしている数人に、また、受洗したばかりの他の人にも1時間ほど、または必要な時間を費やして話をします。または質問してくる信者の疑問にも答えます。』
(Gaspar Vilela 府内発、一五五七年一〇月二九日付け、M.H.vol.137 “Documentos” p.798) 

府内ではロレンソは以前一五五六年五月に府内に来てから携わっていた説教活動と、受洗を希望する人々に教会教理を教えていた。

この仕事の他に、また、来日して間もない宣教師たちに日本語の手伝いをするように頼まれた。ロレンソは、ポルトガル語も知らず、目が見えないために字の読み書きもできないので、さまざまな問題にぶつかったであろうが、その困難な務めも引き受けた。 

ガーゴ神父の二五箇条翻訳
 平戸教会の責任者だったガーゴ神父は、平戸在任時にキリスト教布教の助けとして、問答形式の簡潔で明瞭な教理要綱を考え小さな冊子として著わした。ヌニェス神父が豊後に滞在していた時に、ガーゴ神父の草案を訂正していた。平戸で形を成していた冊子を、豊後に持ち帰り、トーレス神父の意見も取り入れて更に読みやすく改良し、ロレンソの助けを借りてその冊子を日本語に翻訳した。この冊子の翻訳は、ロレンソにとっても大きな助けとなった。今迄のロレンソの布教するときの教理の教え方が、この教理冊子の作成の過程に参加したために、ロレンソにとって、ガーゴ神父の教理の説明の方法や本に書かれている事柄全てが、ロレンソ自身のものとなった。ロレンソのずば抜けた記憶力は冊子に書かれているすべてを記憶した。この知識は、すぐに府内の教会で信徒たちを教える教育の現場で活用された。

『平戸においてバルタザール・ガーゴ神父は,カテキズモ(問答)形式の一冊子を著わした。その題は二五ヵ条の教えと称されたが、それは二五章から成っているからである。ドン・アントニオ籠手田(安経)殿は肥州(松浦隆信)に次いで平戸でもっとも高貴な殿で、当時すでにキリシタンになっていたが、たいへん年をとっていた彼の父(安唱)は、そのことを聞くと、小冊子を切に見たがった。彼はその内容にいたく満足し、それを読んだだけで決するところがあってキリシタンになることを決意し、実際にそれを行い、ドン・ゼロニモという教名をもらった。それは仏僧たちを非常に驚かせた出来事であった』(ガスパル・ヴィレラ神父が豊後から平戸に派遣された次第、ならびに同地で生じたこと)
*ルイス・フロイス著『日本史六』大友宗麟編Ⅰ第一六章(第Ⅰ部一八章)一五九頁 

 ガーゴ神父が著した『二五ヵ条の教え』がどのような冊子だったのか実物が残されていないので内容や文体等について詳しくはわからない。ザビエルが一五四九年、日本に来たとき、彼がインドで使用していた二九ヵ条のドチリナを用意して使用した。ザビエルが参考にしたバロシュ(Joao de Barros)著の三三ヵ条のドチリナは幼児教育のために編成した文法書の付録だった。バロシュのドチリナに、ザビエルはインドの現状に合わせるために手を加えて二九ヵ条とした。この二九ヵ条のドチリナはザビエルの宣教の基礎となりインド、インドネシア、マラッカで使用され、また各地方の言葉に翻訳された。 

 日本に持ってきて使用したザビエルのドチリナは、翻訳文も未熟で、宗教用語に仏教用語を使用していたので混乱が生じ、山口で用語の改正を行い、キリスト教の神の概念を表わすために『神』をラテン語の『デウス』と表現した。この時の改正に、当時、山口にいた宣教師団の中で、ただ一人の日本人である仏教用語に詳しいロレンソの知識が生かされた。ガーゴ神父が平戸でこのドチリナの改正に取り組み始めた背景には、ザビエル時代から布教に伴って増えたキリシタン用語の統一化があった。この用語改正を徹底させ、五〇語ほどのキリシタン用語を決めた。ガーゴ神父がこの改正のことを一五五五年九月二三日付けの書簡で詳しく述べている。このキリシタン用語改正に伴い教理書の改訂も必要となってきた。一五五五年七月、日本に来たヌニェスにより、ザビエルの使っていた古い教理書の使用が禁止された。ヌニェスが新しい二五ヵ条の教理書の草案を書いて、ガーゴに完成させるように指示したと思われる。平戸にロレンソが遣わされたのは、ロレンソの長年の希望である両親の改宗を叶えさせるためと、もう一つの目的としてガーゴに任されている二五ヵ条のカテキズモの完成と(すでに山口でロレンソがザビエルの二九ヵ条の修正と翻訳に携わった経験があるので)翻訳を推し進めるためであったと思われる。籠手田安経の父・安唱に手渡された二五ヵ条のカテキズモは、おそらくガーゴが冊子の構成を完成させ、ロレンソが翻訳し,祐筆に書かせたものであり『完成に近い冊子の見本・初稿』を献上したと思われる。

*参考文献 フーベルト・チースリク著『キリシタンの心』 第一章キリシタン時代の教理書 一三~二一頁

第六章 都・京都に於いての布教

ヴィレラ神父と共に都に布教
 一五五九年(永禄二)九月八日、ロレンソは、ヴィレラ神父と共に都に布教に行く。 

『ガスパル・ヴィレラ神父は、(当地から)一五〇里の所にあって、日本のいっさいの文化がある都に派遣された。これは司祭(トーレス神父)がかなり以前から切望していたことであり、学に長じて才知あり、はなはだ鋭敏な日本人で、デウスおよび日本の諸事を理解することにおいては彼に勝る者はない。彼はメストレ・ベルショール師が作成し、まさしく彼ロレンソが日本語に翻訳した、一書を携えている。主(なるデウス)が御慈悲によりかの地の人々に道を開き、己の無知を悟って向上するため、光明を授けんことを。彼らが出発しようとしたとき、コスメ・デ・トーレス神父はこの事業のため諸人に霊的な助けを請うように言い、度々ミサを行い、詩編を七つと、そのほかの祈りを唱えた。こうして、彼らは本年の九月八日に豊後を発ち、深い信心と涙をあらわにしつつ諸人に別れを告げた』
*一五五九年一一月一日付け、バルタザール・ガーゴ神父の書簡
 一六・一七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第Ⅰ巻 二九一~二九二頁 

『私はロレンソと称する日本生まれの修道士を同伴するが、それは議論や談話を行う際の通訳にするためであり、その他主への奉仕となる事柄に用いるためである。というのも、私は(当国の)言葉を解するが、結局私の母国語ではないし、彼にとっては生来の言葉だからである』
*一五五九年九月一日付け、ガスパル・ヴィレラ神父の書簡
 一六・一七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第Ⅰ巻 三〇九頁

 『全員の意見を徴した上で、ガスパル・ヴィレラ神父が都地方に赴くことが決定された。彼は外見が神父としてではなく神父の僕の姿で、神父様がここに滞在していた当時、私に手紙を送った僧侶(大泉坊)宛の手紙を携えて行きます。あのとき彼がつたえたことが本当かどうか確かめるために行きます。そして、計画は予定どおり実行されました』
*一五六〇年一〇月二〇日付け、コスメ・デ・トーレス神父の書簡
 一六・一七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第Ⅰ巻 三一三頁 

 三五歳前後の若いヴィレラ神父の布教未経験からくる未熟差と結果を求める異常な熱心さが引き起こした仏像焼却事件は、平戸地方の仏教界に大きな衝撃を与え、この事件が発端となって仏教徒との間に衝突が起きてしました。ヴィレラ神父の初めての布教地・平戸において起こした仏教徒とキリシタンとの対立との結果、領主・松浦隆信より退去を要求され、仏教徒による迫害を避けるために、多くのキリシタンたちが豊後府内に移住してきた。平戸における一〇ヵ月の布教活動は多くの問題点を残した。 

 平戸においてヴィレラ神父の取った軽率な行動に対して、トーレス神父から布教地における行動の大切さを諭されたヴィレラ神父は、自分の取った行動がもたらした重大な結果についての自己反省をした。京都での布教という最大の使命を任されたヴィレラ神父は、平戸で起こした事件の反省を踏まえて、京都への旅立ちの前にヴィレラ神父は神父の証しである自分の髪の毛と髭を剃って、旅する僧侶が用いる着物に似たものを身につけて旅だった。同行者はイルマン・ロレンソ、若い同宿のダミアン、この青年は博多で受洗した学識のある青年で、後にイエズス会に入りイルマンとして立派な活躍をした。案内役として、比叡山の麓、琵琶湖湖畔の町、坂本出身で中国の上川島(ザビエルが死んだ島)で受洗したディオゴという京都の信者であった。彼らが携えていく冊子は、ガーゴ神父が著して、ロレンソが日本語に翻訳した『二五ヵ条のカテキズモ』を持って行った。一五五九年九月二日、府内の沖の浜から船に乗り、途中色々と問題はあったが、神の御加護のもと無事堺に入港した。 

五畿内教会の誕生と京都での試練と宣教
 都地方におけるキリシタン宗門の伝道が開始されたが、豊後九州と違うのは五畿内においては領主層のキリシタンが出現した。領主のうちのキリシタンの有力者は、南蛮貿易とは無関係に都地方におけるキリシタン領主層は、一五六三~一五六四年(永禄六~七)になされた大和・河内における一連の改宗や、一五五〇年代に行われた布教に基づく改宗者を含む結果として出現した。 

大和・河内における改宗
 一五六三年(永禄六)、ロレンソ了斎は、宗門弾劾を企図した老天文学者の結城山城守等に招かれて奈良で説教した。この時の説教は参会者に大きな感銘を与え、大和・河内の小領主層を多数入信させた。受洗者には、結城山城守忠正、髙山図書(飛騨守)友照、公家の清原賢がいる。 

翌年、一五六四年(永禄七)三箇伯耆守、池田丹後守、髙山図書(飛騨守)友照嫡子の髙山右近が改宗した。

大和・河内における領主層の改宗と同領地におけるキリシタン領主たちの政策の方針は、以後の畿内におけるキリシタン大名領国形成の前提となった。

結城山城守の洗礼名アンリケ、一族には結城弥平次(後の肥後矢部の愛藤寺城、島原金山の結城城の城主)河内岡山を領した結城ジョアン(一五七二年受洗)がいる。

髙山図書(飛騨守)友照の洗礼名はダリオ、大和沢城主。嫡子右近の洗礼名はジェスト、髙山父子はその後摂津高槻を領し、右近の代には播磨明石六万石を所領した。 

三箇伯耆守の洗礼名はサンチョ、河内国三箇領主。領内に教会を建て寺社の破壊と領民の改宗を勧めた。本能寺の変後、明智方に同与して没落、同地のキリシタン集団は離散を余儀なくされている。

池田丹後守の洗礼名はシメオン。河内若狭の武将で、同地に教会を建てイエズス会に地所を寄進した。

京都での第一の宣教と試練 一五五九年~一五六五年
一五五九年(永禄二)九月八日、ロレンソ了斎、ヴィレラ神父と共に都に布教を開始する。

*フェルナンデス修道士書簡 1564年(永禄7)10月9日付け 194~196頁   16,17世紀日本イエズス会報告集 第Ⅲ期第2巻                                

「都の政治は三名の人物に依存している。第一の人は、公方様(将軍足利義輝)と称する全日本の王である。第二は、彼の家臣の一人で、三好(長慶)殿と称する。第三は三好殿の家臣で、名を松永(久秀)殿という。第一の人は国王としての名声以外に有るものがなく、第二の人は家臣ながらも権力を有している。また第三の人は第二の人に臣従し、国を治め、法を司る役職にある。比叡山の仏僧らは日本の全ての仏僧の頭である。というのも,諸宗旨はことごとく、かの比叡山において分派し、かつ承認を受けているからである。過ぐる年、都に二人の有力な妖術師がおり、一方は(結城)山城(守進斎)殿、(*Xamaxicodono. F.Yuquiyamaxiro),他方は(清原)外記(枝賢)(*Quiwuodono.F.Guequidono)と称した。彼らはあらゆる宗旨と偶像礼拝について甚だ学識があり、一人は国主に偶像崇拝に関することを教え、もう一人は悪魔に尋ねて、戦ではいかに対処すべきかを三好殿に教えていた。或る宗派に関して疑いが生じたときは、彼ら二人が判定し、公に示した。彼らは俗人であるとはいえ、大いなる知慧者とみなされているからであった。」

比叡山の仏僧らの、伴天連追放の要請を受けた松永(久秀)殿は以下のように答えた。

「松永殿はこれに対して、司祭は外国人であり、公方様や三好殿、また彼のもとに庇護を請うて来たのであるから、予め尋問することなく司祭を追放するのは彼らの名誉にとって好ましいことではなく,それ故、司祭が説いていることを吟味して、もし国に害をもたらすものであれば、司祭を都から追放し、教会を没収するため、(結城)山城殿と(清原)外記殿の両妖術師に調査を依頼するであろうと答えた。これを知ると,件の妖術師らは司祭を困惑させ、国外に追放し、己のために教会を奪う決意した。」

「その頃、ディオゴと称するキリシタンが金銭を借りようとして(結城)山城殿のもとを訪れるということがあった。彼はその人物(の素性)を知ると、嘲笑って言った。「汝はキリシタンか」。『然り』と答えた。山城殿が、「汝の信じるものは何か」と問うと、ディオゴは「私はキリシタンの教えをいとも神聖にして真なるものと考えているが、己は信仰においては新参者であるため、それを説き示すだけの力がない」と答えた。山城殿は何か話すように強く迫ったので、ディオゴは霊魂が不滅であることや、永遠なる創造主が存在して、物をもたらし,いっさいの被造物を支配していることについて話し始めた。山城殿は彼の言葉を聞くと、それが審理であるように思われ、ディオゴに言った。「行くがよい。そして、今説いている教えを予に説明するためにここへ来るように司祭に伝えよ。何となれば、新参者の汝がこれほどよく語るのであれば、汝の師はされなよく語るであろうし,事によれば司祭は予をキリシタンにすることになるやも知れず、また(清原)外記殿も真理であると理解すれば、これを信奉するやも知れぬからである」と。

 ディオゴはこれをデウスより授かったものと考えたので、直ちに(借金の)請願を取り止めて、(同地から)十六里弱の堺へ向かい、司祭(ヴィレラ)に出来事を語った。司祭と共にいたキリシタンは皆、彼(司祭)を殺すため、偽りの招請を行っているに違いないと考え、決して行かぬように勧めた。司祭も同じ意見であったが、彼(山城殿)らが聴きたがっている説教を拒否せぬため、ロレンソを彼らのもとに遣わし,我が聖なる教えについて説明させることにした。同人(ロレンソ了斎)は肉体の生命を失う危険があるにもかかわらず行くことを喜び、いかなる場合にも四日後に戻ることし、四日目に帰還しなければ悪しき印と見なすことを彼(ヴィレラ)と申し合わせた。ロレンソ(了斎)が発った後、四日経過したが戻らず,諸人は彼(ロレンソ)が死んだか,或いは何らかの難儀に見舞われたものと考え、事情を知るため、アントニオと称するキリシタンを派遣した。彼は途中でロレンソと同行者二名に出会ったが、彼らは(キリシタン宗門に)帰依した山城殿と外記殿に洗礼を授けに司祭が赴くための乗馬一頭を連れていた。そこで司祭(ヴィレラ)は他の人々を伴って都の戻り、二人の妖術者とともに三好殿の親戚で、瞑想の甚だ精通しているシカイドノ(結城左衛門尉)と称する貴人に洗礼を授けた。かくして全キリシタンは大いに喜び(信仰を)堅固にし、仏僧らは、己の支えとしていた重立った二人が今やキリシタンになったのを見て非常に困惑した。」

結城山城守忠正の嫡子結城左衛門尉の受洗
結城山城守忠正は受洗して「エンリケ」という受洗名を授かり、嫡子結城左衛門尉は父の勧めに従いロレンソ了斎の説教を聞き,改心して、自分の友人の七名の武士とともに受洗して「アントニオ」という名前を得た。 

「シカイドノ(結城左衛門尉)は受洗後、都から八里の、飯森と称す得る三好殿の城に行った。彼は同所の出身であったが、友人や同僚らに己の信奉する心理を説いたところ、皆、それを信奉することを希望したので、司祭に対し、自らデウスの教えを説きに訪れるか,或いは誰かを差し向けるように求めた。司祭はロレンソを遣わしたが、その説教を聴いて帰依し、教えを受けた後、貴人六十名とその他の人々、総勢およそ五百名が洗礼を受けた。やがて彼らはデウスのことを語り、祈りを捧げる参集の場として城に教会を設け,かくしてロレンソは都に戻った。」 

第14章(第1部38章)162~175頁 司祭(ヴィエラ)が奈良に赴き、結城殿、清原外記殿、及び屋の高貴な人々に受洗した次第、ならびに河内国飯森城における73名の貴人の改宗について 
*完訳フロイス日本史1 織田信長編Ⅰ 中公文庫

「結城(山城守)殿には30歳になる長男があった。彼は三好殿幕下の武士で,希有の素質とはなはだ優れた理性の持ち主であった。彼は伴天連が堺からその地に赴いた時に、たまたま奈良の父の許にいた。彼は教理の説教をことごとく聞き、そこで7名の他の武士とともに、同じく洗礼を受けた。したがって当時そこでは10名の武士が受洗したことになった。」

「結城山城殿の長男は、既述のように同じく奈良で父とともに洗礼を受け、結城アンタン左衛門尉と称し、当時天下のもっとも著名な支配者の一人であった三好殿に仕えていた。我らの主なるデウスは、キリシタンとして彼に多くの素質を与え給うた。というのは、彼の献身、布教事業における熱意、および司祭たちや教会のあらゆることに対する愛情は並々ならぬものがあったからである。なぜなら彼は従来、はなはだしく悪習や放縦な生活に沈溺していたのであるが、今は大いに変わって皆を驚かせ、非常に落ち着き有能な性格の持ち主となって、一兵士と言わんよりは、むしろ修道士のようになったからである。そして善事はおのずから他に伝わるのが常であるから、彼は奈良から三好殿が居住していた河内国の飯森城に帰ると、自分の同僚であり友人である他の武士たちに、絶えずデウスのことを話し、「御身らは、あらゆる道理、あらゆる良き判断にもかなうキリストの福音の教えを傾聴してみるように。それはいとも耳新しく、日本ではまったく知られていない教えなのだから、少なくとも聞く必要がある』、と説いてやまなかった。この点、彼はいかなる機会も見逃すことなく不断に皆を説きつけたので、ついに他の武士たちは、一つには彼を満足させてやるために、また一つには好奇心から、彼にこう言った。「伴天連の都から我らを訪ねて来てもらおう。そしてそれが不可能なら、少なくとも説教師のイルマン(伊留満)を派遣してもらい、その教えを承ろう」と。左衛門尉は願ったりかなったりでロレンソ修道士を伴うために、すぐ一頭の馬と人を派遣した。そして、「遅滞することなく、できるだけ速やかに当地の武士たちに説教するために御来訪を乞う。彼らが好んで説教を聞くなら、彼らは良い素質を持っていることになれば,必ずやキリシタンになるであろうとデウスに大いに信頼している」と依頼させた。そこには何らの遅滞もなかった。よいうのは、ガスパル・ヴィエラ師はただちにロレンソ修道士をかの地に遣わしたからである。」 

飯森城においてのロレンソ了斎の説教と活躍 169頁
「既述のように、ロレンソは、外見上ははなはだ醜い容貌で、片目は盲目で、他方もほとんど見えなかった。しかも貧しく賤しい装いで、杖を手にして、それに導かれた道をたどった。

しかしデウスは、彼が外見的に欠け、学問も満足に受けないで、読み書きもできぬ有様であったのを,幾多の恩寵と天分を与えることによって補い給うた、すなわち、彼は人並み優れた知識と才能と、恵まれた記憶力の持ち主で、大いなる霊感と熱意をもって説教し、非常に豊富な言葉を自由に操り、それらの言葉はいとも愛嬌があり、明快、かつ思慮に富んでいたので、彼の話を聞く者はすべて驚嘆した。そして彼は幾度となく、はなはだ学識のある僧侶たちと討論したが、デウスの恩寵によって、かつて一度として負かされたことがなかった。」170頁

「ロレンソ修道士が飯森山城に到着し、武士たちが彼を見ると、ある者はその容貌を嘲笑し、またある者はその貧しい外見を軽蔑し、さらにある者は、自分たちの霊魂の救いを願うことよりは好奇心から、彼の話を聞きたがった。しかし我らの主なるデウスは彼とともに在し給い、また彼は弁舌にかけては大胆不敵であったので,彼が一同に説教し始めるいなや、彼らは初めとは違った考えや意見を抱き、彼に対して大いなる畏敬の念を表し始めた。数多くの質問が出され、討論はほとんど昼夜の別なく不断に行われた。彼は一同に非常に満足がいくように答弁し、悪魔が彼らを欺くのに用いている偶像崇拝と虚偽の宗教が誤っていることについて明白かつ理性的な根拠を示し、さらに世界の創造主の存在、霊魂の不滅、デウスの御子による人類の救済について説いていたので、三好殿幕下の73名の貴人たちは全く納得して、すぐにでもキリシタンになることを決心するに至った。その中には三人の首領ならびに重立った人たちがいた。重立った人たちの一人は三ケ伯耆殿、二人目は池田丹後殿、三人目は三木判太夫殿であった。そして彼らは皆すぐに聖なる洗礼を切に願って、伴天連を伴って来るためにさっそく馬と人を都には派遣し、司祭に対しどうか飯森城に来て、自分たちに洗礼を授けていただきたいと乞うところがあった。」 

ロレンソ了斎の印象
(10年後・1573年にフロイスに飯森城主三ケサンチョ頼照殿が語った話)完訳フロイス日本史2 織田信長編Ⅱ 91~99頁 中公文庫 93頁、

「今や我らの主なるデウス様は、我々日本人の傲慢さを恥じ入らせようとして来たり給い、我らがいる都地方に一人の見慣れぬ伴天連様を派遣されるのであるが、その人の言語、衣服、衣裳、風習は、我らの眼には、初めて見た時、冷笑、嘲笑,愚弄の種を提供するほか、何の役にも立たぬと思われるほど、ひどく滑稽なものでありました。私たちはその人が、どこから来たのか天から落ちて来たのか、力は生え出て来たのか判りませんでした。そして彼は自分のことで、我々に異なった考えを抱かせるに足立だけの素質に非常に欠けた人のように見受けられましたので彼は少なくとも、我々をしてその教えを聞くように駆り立てるためには、ある著名な人物とか、我らに知られている偉大な学者の権威や名声に頼るほかあるまいと思われました。しかるに主なるデウス様は、我々の傲慢と不遜を嘲笑おうとなされ、その伴天連様にかの伊留満ロレンソを伴侶として与えたもうたのですが、彼こそは皆さんが今、我らの教会で祈っているのを御見受けになされる方にほかなりません。

あの方は、片眼は見えず、他の片方の眼もほとんど何も見えませんし、まだ異教徒であったころには生計を立てるために、手には杖を持ち背には琵琶を背負い、家々で琵琶を弾き、そして機知にとんだ着想を語って歩く物乞いに過ぎませんでした。しかも彼は都地方の人ではなく、日本の片田舎である肥前の国(平戸の白石)の、しかも賎しい家の生まれでありました。そればかりか、彼は私たちの耳に、いとも風変わりで、私たちの概念からおよそ距たったことを私たちに信じさせるために、今やいとも深い学識を身につけているのです。その学識たるやかつて何も知らず、何も学ばず、ABCと言った最初の文字だけでも学ぶための眼を持っておらず、顔は醜く、衣服はみすぼらしく、ひどい外見なので、私の子供たちは彼を見た時に、恐れて逃げ去ったほどでありました。その後私たちは面白半分から彼の言うことを聞き始めましたが、そこで彼が私たちに対して話をした最初のことは次のようなことでした。私たちが拝んでいる神々は悪魔であり人間の敵である。私たちが頼りとして生きているあらゆる宗教や戒律は偽りであって、それらにおいては何ら救われないばかりか、私たちがそれらを奉じ。それによって生きているならば、永遠の苦しみに陥る、と。しかもその上、彼は率直にこう言いました。『あなた方がおおいに畏敬しておられる、師であり親戚にあたる仏僧たちは、悪魔が欺瞞のために用いる道具であり、彼らの生活は厭うべきもので、その行為は非難と懲罰に価する者である。あなた方はたとえ身分が高く貴い方々であっても、あなた方の行動や振る舞いは理性にもとり、真実の高尚ということには反しています。なぜならば、あなた方が娯楽のために抱えている若衆たちと、品行方正の手本と見なされている仏僧たちとの交わりは極めて重大で嫌悪すべき罪悪だからであります。あなた方はただ一人しか妻を持ってはなりません。そして彼女を死ぬまで去らしめることなく、彼女を捨てて他の女を娶ることがあってはなりません。あなた方は殺したいと思う者を殺してはならぬし、高利を貪り、他人の財産を奪うこともしてはなりません』と。【中略】

97~99頁
「我々は困苦を喜ぶべきであり、侮辱に対しては復讐することなく、それを許し、腹立つことに対しては怒らず忍耐すべきである。また禅宗の教えに反して、我らの何人も理性的霊魂を有しており、それは肉体を離れても死滅することはない、と。彼はまた、そのほかにも我らの許ではかつて見も聞きもしたことがない幾多のことを語りましたが、その際彼が言ったそうした多くのことは、きわめて肉体の掟に反するものでありました。ですがそれにもかかわらず、この伊留満様を通じて語られた伴天連様の子の言葉はいかにも効力があって、私たちの心の奥底にまで滲み通るに至りましたので、ここにおります者は、皆様方御一同も私も、なんらかの権力、あるいは誰からかの強制によることなく、彼らの前にひざまずきました。そしてそれまでにすでに大いなる畏敬と尊敬の念をもって、両手を挙げ、伴天連様の手によって洗礼を授けていただきました。そしてその際、我らの祖先が我らの教えてきたいっさいのものを捨て去って、我らが我らに説いたこの新しい教えを信奉し、それを護るために死を賭するであろうとの確乎たる決心をするに至ったのです。
 ところで私個人について申しますならば、私はキリシタンになってすでに八年ないし十年くらいになりますが、彼らに接するたびごとに、彼らには何か人間を超えたものがあると思うほどあの方々に深い尊敬の念を抱いていることを確言いたします。そして私はまるで自分の一生を彼らに養育していただいたかのように彼らを深く愛しているのです。デウス様の御言葉の力と効能はなんと偉大なことで有りましょうか、そして私たちの間にこれほどの影響を与えた福音の力はなんと偉大なことでありましょうか」と。 

ロレンソに対する興味や好奇心が、ロレンソが語る説教により,ロレンソに対する尊敬と畏敬の念に変わっていった。ロレンソは巧みに語ることにより、キリストがあなたの罪のために死なれ,それ故にあなたはあがなわれ、神の民に加えられるという希望を、一人一人の個人的な問題として受け入れられるように話している。数日間にわたる討議と質疑の後、73名の若者が洗礼を受けた。全員が三好良慶の側近の者たちであった。

この時以後、すでに有名な人物が洗礼を受けている。そのうちの三人は、三箇サンチョ伯耆守、八尾城の池田シメオン丹後守、三木半太夫である。三木半太夫は勇敢な武士で有り、人格的にも素晴らしい武士と言われていた。彼は自分の一人息子を教会に差し出し、教会に養育してもらうために託した。その息子は、1580年(天正8)安土のセミナリオの第1期生で、本能寺の変の後高槻・大阪へ移り、1586年(天正4)豊後臼杵の修練院へ入る。

秀吉が禁教令を出した時には島原の有家,生月へ行き、同地で修練期を終えた。後天草のコレジオで学び、1592年(文禄元)長崎へ移る。イルマンとして大阪で布教に従事。1596年(慶長元)京都で捕らえられ、長崎まで歩かされて長崎西坂において殉教した。 

また結城山城守忠正と清原外記はヴィレラ神父を松永弾正久秀に紹介したが、松永弾正はヴィレラ神父を親切に迎えたが、多忙を理由に説教を聞くのを断った。この時以後、五畿内では松永弾正が教会の最大の敵となった。 

ロレンソ了斎の説教は休みなく続いていた。結城左衛門尉が仕えていた三好長慶の飯森山城と髙山飛騨守友照の沢城が次の舞台となった。 

奈良では結城山城守忠正と清原外記のもうひとりの友人髙山飛騨守友照が、二人からキリスト教の話を聞いていたので、松永弾正からの命令されていた使命があったにもかかわらず、奈良の家に隠れてロレンソ了斎の説教に耳を傾けた。ロレンソ了斎は「唯一の神がすべての者の創造主であり、霊魂の不滅とキリストがすべての人々の罪の贖いのために死んでくださった神の偉大な愛について』語った。ロレンソ了斎の説教によりキリスト教のすべてを悟った髙山飛騨守友照は、大いなる喜びと新しく生きる希望を抱くことができたので、洗礼を願い、受洗してダリオという洗礼名を授かった。 

髙山飛騨守友照と沢城においての宣教
ロレンソは飯森山城での活動の数日後、髙山飛騨守友照の沢城に招かれた。髙山ダリオは回心の時に「神からの豊かな恵みを受けた」と告白している。*完訳フロイス日本史 織田信長編1 第15章(第1部39章)176~188頁

沢,余野,および大和国、十市城における改宗について
「奈良で洗礼を受けた髙山ダリオ(飛騨守)殿は、五畿内全域におけるもっとも傑出した人々の一人であり、正真正銘のキリシタンで、その行いは常にすべての人々の感嘆の念を起こさせるほどであった。すなわち聖霊が彼に宿り、その恩寵と賜物を主が分かち与え給うのにすごくかなった性格のように思われた。彼は当時、奈良から十三里隔たった沢という一城の主で、彼はそれを霜台から授けられていた。」

「ダリオの信仰熱は非常なもので、彼は自分の家族や兵士たちがデウスのことをよく理解した有様に接すると、深い喜びと慰めの感情を禁じ得ないほどであった。そして彼は、最近ようやく洗礼を受けたばかりであるにもかかわらず、受洗してから間もないのに、その熱心さ,宣教の熱意,信心,謙虚などでは、ヨーロッパの古い誠実な信者のように思われた。そして彼の全生涯に一番際立ったのは,愛徳と慈悲の行いであった。ロレンソ了斎はしばらく説教を続け、一同は聞いたことをよく理解するに至ったので、修道士は150名の者に洗礼を授けた。その中には、彼がマリアの教名を与えたダリオの妻や、息子たちと娘たち、また身分ある人たちや城兵がいた。ロレンソが彼らにとやかく勧告する必要はなかった。とうのは、ダリオは自分の行いは何事においても極めて入念にする人であったので、さっそく場内は極めて清潔で、美しく装われた教会を建てたからである。」 

沢城でのロレンソの仕事は、落ち着いてダリオ髙山の家族と家来とに説教すること、キリストの教えを説明することだった。最初の洗礼を受けたのはダリオの妻でマリアの名前が与えられた。次に子供たち、親戚と家来、105名が受洗した。この時ダリオ髙山飛騨守友照の嫡子・右近(11歳)が受洗して、ジェスト(正義の人)という洗礼名を受けた。後の髙山右近(1552~1615年)であり、日本のキリシタン武将の誉れと言われ、信徒使徒職の優れた模範になった。 

髙山飛騨守友照の友人で髙山上の近くにある十市城に石橋殿という老年の武士が亡命していた。髙山ダリオは石橋殿に手紙で、自分が受けた神の大きな恵みについて語り、もし差し支えなければロレンソを伴って友人の石橋殿のところへ行き、説教を聞いていただきたい旨、打診した。石橋殿が承知したので、髙山ダリオはロレンソを伴って石橋殿を訪れ、彼とその妻子にキリスト教について話を聞かせた後、洗礼を授けた。その後、髙山ダリオは自分の母のいる髙山城に行き、キリスト教を勧めて、母と母に仕えている人々をキリシタンに導いた。 

翌年、ヴィレラ神父とロレンソは再度、髙山ダリオを訪ねて沢城へ行き、洗礼を希望する家来たちに洗礼を授けた。また隣国に、髙山ダリオの二人の姉妹がいたが、ロレンソはこの二人を訪ねて説教をして、このふたりの姉妹は家族とともにキリシタンになった。

最後にロレンソは余野城に行き,40日間説教をして余野城主と53名に洗礼を授けた。余野城主の名前は記録にない。ロレンソは1563年から1654年にかけて,城から城へ陣営から陣営へ宣教に行き、奈良、大和、河内、摂津の国を歩いて説教を続けた。

フロイスはロレンソ了斎の活躍を「彼は五畿内の国々での教会の基礎を据えた人であった。」と紹介している。 

髙山右近への影響
 髙山右近の父・髙山飛騨守友照は誠実にキリスト教の信仰を嫡子・右近(11歳)へ伝え、右近は生涯をかけて父髙山飛騨守友照から学んだ信仰に生きた。武将となった右近は戦友として共に戦った人々にも神の言葉を語り、多くの友人の大名をキリシタンへと導いている。

 髙山右近は豊臣秀吉に属し、同配下の武将たち、蒲生飛騨守氏郷、黒田官兵衛孝髙、市橋兵吉、牧村長兵衛、小西行長、京極高吉等が髙山右近の感化と布教活動によりキリシタンとなった。 

蒲生飛騨守氏郷の洗礼名はレアン。近江日野から伊勢松島を経て、会津若松に所領を賜った。蒲生飛騨守氏郷が会津若松に来たことで、東北地方にキリシタンの教えがもたらされて布教活動が進展した。 

黒田官兵衛孝髙の洗礼名はシメオン。播磨から豊前中津に領地替え、嫡子長政の代に福岡・博多の地五二万石を賜り、博多、秋月にはレジデンシアが置かれるなど筑前筑後豊前地方のキリシタンの拠り所となった。 

市橋兵吉は美濃に領地を賜った。牧村長兵衛は近江で所領を得ている。 

小西行長の洗礼名はアゴステーニョ。行長は父小西隆佐(堺の政所)の影響のもとで入信。小豆島、室の津等の領民の改宗に力を尽くした。一五八七年(天正一五)七月、博多筥崎宮に於いて豊臣秀吉が出した『伴天連追放令』に伴う髙山右近の棄教拒否と播磨明石六万石没収後、小西行長は髙山右近を小豆島にかくまった。肥後に増転封された。小西行長の時代、天草はキリシタンの拠り所として多くのキリシタンたちが移住してきた。一六〇〇年、関ヶ原の戦いで西軍に付き敗北、京都の三条河原にて斬首され、領地の肥後は加藤清正に譲られた。 

京極高吉は近江上平城城主。改宗した一族により、近江近辺にいる宣教師たちへの援助がなされた。 

髙山右近はキリシタン理念に基づく領国形成を明確に推進した。摂津高槻で領内の寺社仏閣を破壊ないし教会に転用して、領民の集団改宗を進め、弱者救済のために様々な対策を講じた。移封先の明石でも、領民の改宗を進め、同地でのキリシタン宗門の浸透を進めている。右近は、領民への宣教による霊魂の救済を最終目的としていた。信仰を持たせることが全世界に勝る最高の価値であるとの信念を持って領国の政策を推し進めた。 

第七章 京都に於いての二度目の宣教

京都における宣教の第二の時代
 一五六九(永禄一二)年三月、ロレンソ(四三歳)は、再度、五畿内の布教を任されて堺に赴く。ルイス・フロイス神父と共に布教に従事する。以後、ロレンソの活動は五畿内を中心に行われている。

この後、ロレンソが豊後府内の地に戻ることはなく、ロレンソと豊後との関係はこの年が最後となった。以後、ロレンソの活動は五畿内を中心に行われている。
1565年(永禄8)5月、松永久秀は三好三人衆と組んで将軍足利義輝の邸宅を急襲し暗殺した。暗殺により将軍足利義輝の保護を教会は失った。都地方はあちこちで紛争が起こり混乱を極めていた。更に正親町天皇綸旨によって宣教師たちは京都を追放され堺の日比谷了慶宅に避難した。 

1568年(永禄11)9月、織田信長は暗殺された将軍足利義輝の弟・義昭を擁して京都に入り三好三人衆を阿波徳島に追い落とし、松永久秀を降伏させた。 

1569年(永禄12)4月、ヴィレラ神父の後任としてルイス・フロイスが都地区の責任者となった。フロイスは高山飛騨守ダリオと親しい和田惟政との尽力により入京して織田信長、将軍足利義昭に拝謁した。4月8日付けで信長より京都での布教と居住の許可の朱印状と4月15日付けで将軍義昭の制札とが出された。

4月20日、信長は定宿の京都妙覚寺で、フロイス神父とロレンソをキリシタン宗門に反対の政僧・日乗上人とを面前で宗論させた。内容はデウス論、不可視・不滅の霊魂論に及んだ。論争に敗れた日乗上人はキリシタン反対運動をはじめた。織田信長は一貫してキリシタンを保護した。7月、日乗上人と再度、宗論をする。

1570年(元亀元)7月、日乗上人、信長の側近より遠ざけられる。 

1572年(元亀2)11月、岐阜を訪れた日本布教長カブラルも信長から歓待されたし、1574年(天正2)3月、再度上京したカブラルを信長は引見している。 

1575年(天正3)都の布教長に就任したオルガンティーノ、フロイス、高山飛騨守友照・右近父子、結城弥平次、池田丹後守、ジュスト・メオサン、清水里安等の五畿内の主だったキリシタンたちが、京都四条坊門姥柳町に3階建ての南蛮寺を起工した。1576年(天正4)7月21日、サンタマリア御昇天の祝日に未完成のまま献堂式を挙行して、1577年(天正6)春に教会堂は竣工した。1581年(天正9)には隣接家屋を購入して敷地を拡げ、蛸薬師通りと室町通に門を設けた。織田信長は、近江の安土に1576年(天正4)1月から築城を開始し、2月に安土に移住した。 

1579年(天正7)5月、天守閣が竣工、1580年(天正8)3月、オルガンティーノの要請により安土城下の埋立地(現安土町豊浦新町小字ダイウス)を造成して、同年4月に与えた。
安土教会は和風木造3階建ての教会で、修道院と3階はセミナリヨが開設された。 

1581年(天正9)2月、巡察師ヴァリニャーノは京都本能寺で信長に謁見した後、3月、安土城を訪問、6~7月安土に滞在した。信長はヴァリニャーノが安土を離れる際に安土城と城下を描かせた屏風を送った。屏風は教皇グレゴリオ13世に4人の少年遣欧使節が届けた。 

1582年(天正10)6月2日、信長は京都本能寺で明智十兵衛光秀により殺害された。 

1583年(天正11)髙山右近と共に大阪に羽柴秀吉を訪ねる。右近の友人に説教、小西行長を教化する。ロレンソ(57歳)精力的に五畿内で布教する。 

1584年(天正12)~1585年(天正13) 五畿内での布教は順調に発展する。 

1586年(天正14)5月、コエリョ神父を伴い大阪城に豊臣秀吉を公式訪問、秀吉より厚遇される。ロレンソ(60歳) 

時代を超えた神の摂理・宣教の継承

ロレンソ了斎から清原外記・娘の清原いと、細川ガラシャへの宣教の継承は、神が計画された時代を超えた摂理である。ロレンソ了斎が1559年(永禄二)に撒いた宣教の種は、清原外記・娘の清原いとへ受け繋がれ、1587年(天正15)細川ガラシャの受洗として実を結んだ。その間、実に28年間の時を超えての信仰の継承である。 

清原いとの父・清原外記枝賢(えだかた)の受洗
三好長慶が京都の奉行をしていて、その家臣松永弾正久秀が当時五畿地方の政治を司っていた。都では三好長慶と畠山高政との間に戦いが続いていた。1561年(永禄3)の降誕祭は、初めて和らいだ雰囲気の中で姥柳通りに立てられた小さな教会で行われた。続く1562年(永禄4)の四旬節の間、信者になった人々の信仰教育が熱心に行われ、復活祭の後にヴィレラ神父とロレンソ了斎は堺の日比屋了珪の家を教会として堺において宣教活動をした。三好長慶と畠山高政との間の休戦中の1562年の12月、降誕祭を信者とともに祝うためにロレンソは都に戻った。都での戦いが終わるとヴィレラとロレンソは1563年(永禄5)の復活祭を祝うために堺から都に戻った。復活祭の後ふたたび堺の日比屋了珪の家の教会に戻って堺の新しい教会の司牧の力を注いだ。

神自ら五畿内の教会のために、新しい道を備えて開きたまいた。人の英知では考えが及ばない神の領域が、五畿内の教会の前に備えられた。ロレンソ了斎がその重責を担っている。

松永弾正久秀の支配力は次第に強くなり、奈良に近い居城多聞城から五畿内の政治を行っていた。松永弾正久秀の家臣に結城山城守忠正がいる。結城山城守忠正は天文学や彼の学識と経験で松永弾正久秀に尊重されて用いられていた。キリスト教に不満を持つ仏僧たちはヴィレラ神父とロレンソを都の教会から追放して、その教会を自分の手に入れるために、松永弾正久秀に追放の話を持ち掛けた。松永弾正の意を受けた結城山城守忠正が宗門論争の責任を受け持った。結城山城守忠正とともに結城山城守忠正の友人で、公卿の清原外記枝賢(1520~1590)が宗門論争に加わった。清原外記(43歳)は中国と日本の漢字の専門家で、正親町(おおぎまち)天皇の師でもあった。また清原家は朝廷の要職にある儒学者でもあり,神道の指導者でもあった。唯一神道の大成者・吉田兼倶(かねとも)の曾孫。1535年(天文4)元服後、清原家世襲の大外記に進む。少納言・侍従を経て宮内卿。1581年(天正9)正三位に叙され後出家し、道白と称した。清原外記の娘いとは後に細川ガラシャに仕えキリシタンとなり、セスペデス神父の指導で細川ガラシャに洗礼を授けたのち、教会に仕えている。細川ガラシャ(明智光秀の三女・玉)と細川忠興もこの年、1563年(永禄6)に生まれている。 

マリア清原いとについて
いとは儒学者の清原枝賢に次女として生まれている。清原家と細川家とは姻戚関係にあり(忠興の祖母が清原宜賢・のぶかたの娘であり、この女性は清原業賢、吉田兼右の姉妹である)おそらく明智玉が細川家に輿入れした1578年(天正6)頃から細川家に奉公に入り、1584年(天正12)玉が三戸野の幽閉から宮津城に戻ったときから、玉の侍女頭として仕えていたと考えられる。マリア清原いとの主導の元、玉は徐々にキリスト教に興味を持ち、すでに禅宗で培っていた問答により、禅宗からキリスト教に改宗していった。

『宇野主水記』に「オイトノカタト申上ラウ」と名前が書いてある。「主水記」は、漢字以外はすべてカタカナで表記されているので「清原イト」の表記も平仮名の「いと」であると考えられる。1587年(天正15)マリア清原いとは、玉・ガラシャに洗礼を授ける大役を果たしている。

第八章 九州での再奉仕活動
九州での布教
 一五六五年(永禄八)、ロレンソ・四度目の府内滞在(一五六五年三月~六月)

三月、ロレンソ、アルメイダとパウロ養方と共に京都より豊後府内に赴く。ロレンソ、府内教会で説教をして受洗前の信徒達に教理を教える。

六月、ロレンソ、アルメイダと共に、島原半島の口之津に赴き、トーレス神父の手伝いをする。その後、大村領へ移り布教に専念する。 

 一五六六年(永禄九)一月一三日、五島列島の大名・五島淡路守純定は、口之津のトーレス神父に宣教師を派遣するようにと手紙を送った。トーレス神父は降誕祭の後にロレンソとアルメイダと遣わそうと思ったが、長く居座った吹雪と寒波のために派遣が二週間遅れてしまい、年を越えて一月になった。

一五六六年一月一三日、ロレンソとアルメイダは口之津を出て長崎の福田港まで行き、船を乗り換えて八日間の海路の後、一月下旬、福江港に着いた。ロレンソはアルメイダと共に福江,奥浦において布教が始まった。この時から、五島列島の教会の歴史が始まり、その歴史は現在まで続いている。ロレンソとアルメイダは共に助け合って働き、ロレンソが説教を受け持った。

後日、ロレンソひとりで一年の間、布教をしなければならなくなった時、ロレンソは信者の小さな共同体を作り、相互扶助組織の中でミサを継続した。最後にモンテ神父を手伝って、五島純定の息子、五島純尭の洗礼の準備をして、ロレンソは五島での活動を終えた。 

『金曜日の午後、私(ルイス・デ・アルメイダ)は祭服をまとい、日本人修道士一人(ロレンソ)を伴った。彼は当地で我らが擁する最良の通訳であり、信仰のことに精通しており、日本人からは非常に思慮深い人とみなされている。一四年前からイエズス会に在籍している。領主より使者が遣わされてきたので、我らは彼の邸に赴き、はなはだ大きく、明るく照らされた広間に入った。そこには男はおよそ四〇〇名いるほか、この広間に隣接する別の部屋には婦人らがいた。部屋は幾つかの非常に薄い板の戸によって仕切られているが、説教を聴くため(板戸を外して)全体を一つの部屋にしている。この部屋は甚だ清潔で、よき敷物が敷かれてあり、部屋の一方に高い場所がある。領主は我らをそこに上らせ、彼もまた我らと同じ場所についた。

諸人が着座して静まると、私は修道士(ロレンソ)に、まず初めに彼が話し、多くの理由を挙げて説教を注意深く聴くことを人々に勧めるよう言った。次いで私は彼らの言語に通じていないので説教するのは私でないことを詫びながら、修道士(ロレンソ)が説くことは私が彼を介して述べていることであると(言い)。かくして修道士に説教を始めるように命じた。彼(ロレンソ)の話は大胆かつ軽妙にして明解なものであり、万物の原因たる創造主(の存在)を立証し、彼らの神々が現世においても来世においても彼らを助けることができないことを数多くの理由により証明してこれを打破する上で、彼の示した道理はいとも明白であったが、私は彼の至福なる使徒(パウロ)のことを思い起こした。彼が述べたことは当地で我らが常に説いていることであって、驚くには当たらないが、ただ、彼が(述べたことの)すべてを人々に理解させる際の軽妙さと明瞭さや、人々が彼の言葉を認めざるを得ないようにする話術には感嘆させられた。またいっそう明白にするため、彼は自ら異教徒(の立場)になり、彼自身の(先に示した)道理に反駁した後、極めて明確に疑問を解いたので、説教が終わると(三時間続いたであろう)諸人は驚嘆し、崇拝すべきはデウスであると認めるようになった』
*一五六六年一〇月二〇日付け 志岐の島発 ルイス・デ・アルメイダ修道士の書簡 一六・一七世紀イエズス会日本年報集 第Ⅲ期第Ⅲ巻 一二二~一二三頁 

 五月に、アルメイダは病気のために単身口之津に帰りトーレス神父の許で静養する。ロレンソは、単身,奥浦に残り布教活動に専念する。モンテ神父が一二月中旬に五島福江に着いて領主・五島純定に挨拶に行った後、ロレンソを訪ねて奥浦へ行ったとき、ロレンソの布教によって奥浦の住民は全員キリシタンになっていた。

『そこ(奥浦)では住民は皆、信者であった』『ここの信者は私が着いたことによって大きな慰めを受けました。この港(奥浦)には、すでに茅葺き屋根の小さな家が建っていて、そこにはロレンソという日本人が住んでいました』
 一二月二〇日頃、モンテ(Giovanni Battista de Monte)神父が五島に着任、単身奮闘していたロレンソに協力して、初めての降誕祭(クリスマス)のミサを捧げる。 

『私(モンテ神父)はできる限りきれいに降誕祭の夜中のミサのために祭壇を準備しました。ロレンソにはミサの奥義のことを手短に説明するように、またそれにはどれほど尊敬と落ち着きをもって与らなければならないかを教えるように頼みました。皆は初めてミサに与っているからでした』
(一五六七年一〇月二六日付け、小値賀発、モンテ神父の書簡、Jap.Sin 六, f.297~210) 

『最初のミサの後、イルマン・ロレンソは我が主キリストの御誕生について説教しましたので、皆は非常に慰めを受けました。朝三番目のミサの後、皆,いっしょに食事ができるように準備されていました』 

一五六七(永禄一〇)年、ロレンソは、モンテ神父と共に五島で布教活動に従事する。六月頃、口之津にいるトーレス神父は、ロレンソを五島から引き揚げさせ休息を与えた。その後モンテ神父も五島から呼び戻された。

その後ロレンソは豊後府内で活動しているフィゲレード(Melchor de Figueiredo)神父を助けるために、府内に送られた。

五島には、ヴァリャレジオ(Alexandro Vallareggio)神父とイルマン・ジャコメ・ゴンサルベス(Jacome Goncalves)が任命され赴任した。 

一五六八年(永禄一一)、ロレンソは、二月頃、ロレンソ、豊後に戻る。五度目の府内滞在となる。メルキオール・フィゲレード(Melchior de Figueiredo)神父と共に約一年間、豊後で布教活動に従事する。府内教会では、何時もの通り説教をして受洗前の信徒達に教理を教える。ロレンソは性格や文化の相違を乗り越えて、だれとでも、どのような時でも、互いの融和と協力を、神のための仕事の土台としていた。 

『イルマン・ロレンソ、日本人、世間的には身分の低い人で、片目だけ少し視力がありました。社会では盲人の仕事、すなわち琵琶を弾いたり日本の昔話を語ったりしていました。非常に活発な人で優れた雄弁家でした』(Melchior de Figueiredo S.J.ゴア、一五九三年一一月二〇日、Jap.Sin 一二 I,f. 一三二~一三八v) 

一五六九年(永禄十二)、約一年間の豊後府内での宣教活動の後、ロレンソが豊後府内の地に戻ることはなく、ロレンソと豊後との関係はこの年が最後となった。 

第九章 晩年の活動と死去について
 一五六五年(永禄八)五月、松永久秀は三好三人衆と組んで将軍足利義輝の邸宅を急襲し暗殺した。暗殺により将軍足利義輝の保護を教会は失った。都地方はあちこちで紛争が起こり混乱を極めていた。更に正親町天皇綸旨によって宣教師たちは京都を追放され堺の日比谷了慶宅に避難した。 

一五六八年(永禄一一)九月、織田信長は暗殺された将軍足利義輝の弟・義昭を擁して京都に入り三好三人衆を阿波徳島に追い落とし松永久秀を降伏させた。

一五六九年(永禄一二)年四月、ヴィレラ神父の後任としてルイス・フロイスが都地区の責任者となった。フロイスは髙山飛騨守ダリオと親しい和田惟政との尽力により入京して織田信長、将軍足利義昭に拝謁した。四月八日付で信長より京都での布教と居住の許可の朱印状と四月一五日付で将軍義昭の制札とが出された。

 四月二〇日、信長は定宿の京都妙覚寺で、フロイス神父とロレンソをキリシタン宗門に反対の政僧・日乗上人とを面前で宗論させた。内容はデウス論、不可視・不滅の霊魂論に及んだ。論争に敗れた日乗上人はキリシタン反対運動をはじめた。織田信長は一貫してキリシタンを保護した。七月、日乗上人と再度、宗論をする。 

一五七〇年(元亀元)七月、日乗上人、信長の側近より遠ざけられる。 

一五七二年(元亀二)一一月、岐阜を訪れた日本布教長カブラルも信長から歓待されたし、一五七四年(天正二)三月、再度上京したカブラルを信長は引見している。 

一五七五年(天正三)、都の布教長に就任したオルガンティーノ、フロイス、髙山飛騨守・右近父子、結城弥平次、池田丹後守、ジュスト・メオサン、清水里安等の五畿内の主だったキリシタンたちが、京都四条坊門姥柳町に三階建ての南蛮寺を起工した。 

一五七六年(天正四)七月二一日、サンタマリア御昇天の祝日に未完成のまま献堂式を挙行して、一五七七年(天正六)春に教会堂は竣工した。一五八一年(天正九)には隣接家屋を購入して敷地を拡げ、蛸薬師通りと室町通に門を設けた。 織田信長は、近江の安土に一五七六年(天正四)一月から築城を開始し、二月に安土に移住した。 

一五七九年(天正七)五月、天守閣が竣工、一五八〇年(天正八)三月、オルガンティ-ノの要請により安土城下の埋立地(現安土町豊浦新町小字ダイウス)を造成して、同年四月に与えた。安土教会は和風木造三階建ての教会で、修道院と三階はセミナリヨが開設された。 

 一五八一年(天正九)二月、巡察師ヴァリニャーノは京都本能寺で信長に謁見した後、三月、安土城を訪問、六~七月安土に滞在した。信長はヴァリニャーノが安土を離れる際に安土城と城下を描かせた屏風を送った。屏風は教皇グレゴリオ一三世に四人の少年遣欧使節が届けた。 

一五八二年(天正一〇)六月二日、信長は京都本能寺で明智光秀により殺害された。 

 一五八三年(天正一一)髙山右近と共に大阪に羽柴秀吉を訪ねる。右近の友人に説教、小西行長を教化する。ロレンソ(五七歳)精力的に五畿内で布教する。 

一五八四年(天正一二)~一五八五年(天正一三) 五畿内での布教は順調に発展する。 

 一五八六年(天正一四)五月、コエリョ神父を伴い大阪城に豊臣秀吉を公式訪問、秀吉より厚遇される。ロレンソ(六〇歳) 

第十章 最晩年について

晩年(一五八七年~一五九二年)
一五八七年(天正一五)(ロレンソ六一歳)
七月二五日、豊臣秀吉による九州平定が終わり、博多箱崎において、豊臣秀吉により出された『伴天連追放令』の後、ロレンソは平戸に避難している。平戸から長崎にいつ移ったのか定かではない。 

 一五八八年(天正一六)年、ロレンソは、ヒル・デ・ラ・マタ(Gil de la Mata)神父と共に、長崎郊外の古賀の教会で布教活動に従事している。

『それのみか彼が有徳の人であることは、彼を傍に置いている司祭たちがつねに大いに景仰してやまぬところであり、今でも(彼はすでに六五歳を超え、日本のイエズス会で四〇年間堪えてきた苦労のために,もはや病み、かつ弱っているけれども)下の地方のドン・バルトロメウ(大村純忠)の領内におり、必要ならば日中、二、三回はキリシタンや異教徒たちに説教をし、福音の説教師としての職務にいそしんでいる』
(司祭たちが山口に帰還した後、この地で成果を生み始めた次第)
*ルイス・フロイス著『フロイス日本史』第六巻 大友宗麟編Ⅰ 第四章(第I部五章)五四~五六頁 

 一五八九年(天正一七年)ロレンソは、古賀教会でヒル・デ・ラ・マタ神父と共に布教したが、高齢と病気のために、長崎の修道院に隠居する。

『大分疲れが出て、弱くなった時には、すでに六四歳をこえていたから、今の迫害には都の神父たちと一緒に、下の地方に下った。ここで、我が主は、彼に自分の霊魂についてゆっくり考える時間をお与えになった。とりわけこの最後の年には、自分を神に捧げ、種々の重病にも耐え忍んだ。
 ついに、非常に衰弱し、骨と皮ばかりになった。それなのに、神が自分に大きな御恵みをお与えになっていると言っていた。それはこの様に痛みも苦しみもなく、次第に終わりに近づいたのである。しまいには衰弱のため話すのが困難になったが、たいへん親しまれていたので、たえずいろいろな人が見舞いに来ていた。それである日、巡察師に、自分が望んだり、また我が主に祈ったりすることは、死ぬ時に部屋にだれもいないことであるといった。それは、尋ねられると答えるのが非常に苦しかったし、またその時に返事をしないことも苦痛であった。
 それ以上に、望みどおり神に祈るには、その見舞いは妨げとなる。また臨終の時イルマンたちがみんなで手助けするのに、いろいろなことを大声で勧めれば、逆に妨げになることを心配していた。そして、祈ったように神から叶えられた』(Luis Frois S.I.“Apparatos para a Histpria Ecclesiastica do Bispado de Japam” Biblioteca de Ajuda, Lisboa Codex 49, IV, 57, cap.35 ) 

 『一五九〇年八月一三日、加津佐で開かれたその会議に、ロレンソは日本に戻ったヴァリニャーノ神父に招かれた。ヴァリニャーノはインド総督の使節として秀吉の招請を待っていた。会議に集まった神父は二四名、イルマン一〇名。神父の中にはフロイス、オルガンティーノ,パシオ,ヒル・デ・ラ・マタなど、ロレンソの目上やいっしょに働いた人たちがいた。イルマンの名簿には一番目にロレンソが記されている。イルマンたちが会議に呼ばれた理由が次の言葉で説明されている。 

この会議で、イエズス会と日本の教会の大切な指導のため,諸事に関して話し合う必要があったので、日本人イルマンの意見を聞くのは重要であった。彼らはこの国の出身者として日本の習慣や生活態度を熟知しているので、適切に諸問題を整備することには賢明なことと思われた。従ってヴァリニャーノ神父は、一番長くイエズス会にいて見識豊かな数人を呼び寄せた。
*ヴァリニャーノ神父の指導のもとに行われた宣教師の会議・Consulta の記録。ポルトガル語の原文は、Jap. Sin. 五一, f一四四~一六七 

 会議は八月二五日に終わり、ロレンソはヴァリニャーノといっしょに長崎に戻った。彼の健康状態は次第に弱っていった。それでも一五九一年の八月八日には、コレジオの前の浜に入港したロケ・デ・メロ(Roque de Mello)の船を迎えに行くことができた。ロレンソはいつも祈る人であったが、晩年には静かに神と対話する望みが強くなっていた。歩くこともできないときに椅子に座ったまま修道院の聖堂に運ばれ,聖体拝領をした後に長い時間そのまま深い祈りの没頭していた。彼自身は字が書けなかったし、その祈りについて特別な記録が残っていないので、私たちに彼の経験を一番よく伝えているのは、いつの日かヴァリ二ャーノと話して打ち明けたことである。しかし、彼をよく知る宣教師たちが何度も繰り返して言った言葉をここにもう一度つけ加えたい。「視力があまりなかったが、神から照らされている」
ロレンソが長崎のコレジオで息をひきとったときにはルイス・フロイスもそこに住んでいた。』 

『ついに一五九〇年、その年齢と病気がロレンソを長崎のコレジヨに隠退させた。その年七月二一日、ヴァリニャーノ神父が四人の天正の使節を連れて長崎に帰港したときには、ロレンソはそこにいた。一五八一年、信長を訪問したときからヴァリニャーノはロレンソを知っていて、今回、長崎に滞在中は、たびたび、彼に話をしに行っていた。そのような対話では、ときにはロレンソの率直な質問と鋭い意見で巡察師を驚かすことがあった。

「日本の教会の初めには神父が少なく、日本語も充分に話せなかったときには,回心する人が多かったが、今は神父が多く、日本語をよく知っているにもかかわらず受洗する人がそれほど多くないのは、なぜでしょうか」

ヴァリニャーノはすぐ返答しなかったが、その説明を待たずロレンソは自分の考えを打ち明けた。「おそらく初めは、神父様たちは日本語をよく話せなくても、人々に直接、神様のことやイエス様について話していましたが、今は遠慮してほかの人を介してはなしをします……」

 いうまでもなくほかのさまざまな原因もあったが、ロレンソの質問と返事は彼の胸中を知らせることになった。その心にはいつも神に導くことの熱意が燃えていた。相手が織田信長、豊臣秀吉、比叡山の僧侶、また貧しい農民や彼を嘲笑しようとした若い武士であっても、決して福音を延べ伝えることに躊躇しなかった』
*ロレンソ了斎・平戸の琵琶法師 一二五、一二六頁 、結城了悟著 長崎文献社 

一五九二年(文禄元)二月三日、長崎のトードス・オス・サントス(現・春徳寺・長崎夫婦川町11・1)の修道院でイルマン(修道士)ロレンソは昇天した。六十六歳であった。当時、ある宣教師が亡くなる時、殉教者のことを別にして、たいてい年報では彼の徳を偲ぶ短い文章しか書かれなかった。もちろん秀れた人物の場合には例外であった。たとえば、コスメ・デ・トーレス神父についてヴィレラが、あるいはルイス・デ・アルメイダについてフロイスが、詳しくその最期を書き記した。ロレンソの場合にもフロイスは、その「アッパラトゥス」(日本の教会の歴史のための資料)では、ロレンソの死の話は、一章になっている。 

イルマン・ロレンソ了斎の死について
『イルマン・ロレンソ、日本人、肥前國出身、六六歳。イエズス会では二九年を過ごした。山口で聖パードレ・マエストロ・フランシスコより洗礼を授けられ、同宿として受け入れられた。一五六三年、コスメ・デ・トーレス神父によって入会を許され、都の地方の主だった信者を導いたり、日本では非常に効果的な布教の活動をしたりして、一五九二年二月三日、長崎で没した』(”Monumenta Histrica Japoniae I, Textus Catalogorum”, proposuit Joseph F. Schutte S I.Roma 一九七五, p.三三九) 

三五章 日本人であったイルマン・ロレンソの死について
『彼は日本では、イエズス会に入会を許された最初の日本人であった。この善良なる老人イルマン・ロレンソは、パードレ・マイストロ・フランシスコ(フランシスコ・ザビエル)の時に、山口で洗礼を受けた最初の信者の一人であった。盲であったにもかかわらず,神のことについて非常に深い知識を得たので、いつも神父たちと生活をともにすることに決め、自分をそれのために捧げた。パードレ・マエストロ・フランシスコはそのことで大いに喜んだ。そしてロレンソは神父たちと数年間立派な模範を示して布教活動に多くの実を結んだのち、イエズス会にイルマンとして最初にむかえられた日本人となった。これはすでに三〇年前の事であった。

 彼自身は非常に弱い立場にあった。それは、盲で、身分の低い親から生まれ、また西洋のみならず日本についても,まったくといって学問がなかった。しかし神は彼を非常にお高めになったので、彼は都の周辺の教会の土台のようになった。

 それは、彼の布教によって、今その教会の柱であるいろいろな人物が我らの聖なる信仰に回心したのである。たとえば、彼によって回心した人の中には、ダリオとその息子右近殿ジェスト、和泉守隆佐とその子アウグスチノ、三箇殿、結城殿、池田丹後殿、堺の了慶と他の多くの人たち。彼らは、その時も現在もその地方の教会の土台の石である。そしてあの時点ではまだ大名ではなかったが、武士で身分の高い人物であった。その後、彼らのあるものは非常に有力となったし彼らによって都の教会はそのように増えたので、毎日、偉大な人物が回心しているとみて、関白は懸念するようになった。この至福なるイルマンが彼自身の賢明なる人付き合いによって、皆とよくうちとけるという恵みがあったので、異教徒の大名と、とりわけ織田信長と今の関白殿の気にいった。彼らが時々、ロレンソとゆっくり話し合うのは大いに好むところであった。話術が巧みで、面白かったのでよく知られ、また丁重に扱われていた。

 はじめに非常な大きな困難を耐え忍んだ。それは、数年間は日本には他のイルマンがいなかったので、ただ自分一人であり,神父たちは日本に渡来したばかりだったので日本での経験がなかったし、今のように知られ、また尊敬されたものではなかった。

 大分疲れが出て、弱くなった時には、すでに六四歳をこえていたから、今の迫害には都の神父たちと一緒に、下の地方に下った。ここで、我が主は、彼に自分の霊魂についてゆっくり考える時間をお与えになった。とりわけこの最後の年には、自分を神に捧げ、種々の重病にも耐え忍んだ。

 ついに、非常に衰弱し、骨と皮ばかりになった。それなのに、神が自分に大きな御恵みをお与えになっていると言っていた。それはこの様に痛みも苦しみもなく、次第に終わりに近づいたのである。しまいには衰弱のため話すのが困難になったが、たいへん親しまれていたので、たえずいろいろな人が見舞いに来ていた。それである日、巡察師に、自分が望んだり、また我が主に祈ったりすることは、死ぬ時に部屋にだれもいないことであるといった。それは、尋ねられると答えるのが非常に苦しかったし、またその時に返事をしないことも苦痛であった。

 それ以上に、望みどおり神に祈るには、その見舞いは妨げとなる。また臨終の時イルマンたちがみんなで手助けするのに、いろいろなことを大声で勧めれば、逆に妨げになることを心配していた。そして、祈ったように神から叶えられた。

 毎週必ず修道院の小聖堂へ椅子にすわったまま運ばれて御聖体拝領する習慣があったが、この日、食事の後、あるイルマンとひとりの信者が話している時,用があるからちょっと部屋からでるようにと彼らに言い、いつも彼に仕えているひとりの小者を呼び、起き上がるのを手伝うように頼んだ。ベットに座り小者が腕をかかえた時には、ロレンソは「イエズス」の聖なる名を呼んで、一瞬の間に静かに亡くなったので、小者さえ、彼がこの世を去ったとは気が付かなかった。その後しばらくして、ロレンソが死んでいることに気がつき、外で待っていたイルマンを呼んだ。イルマンは部屋に入ると、そのまますわって小者にかかえられて死んでいるロレンソを見つけた。亡くなったのは一五九二年二月三日のことであった。家の人もよその人もみんな非常に悲しんで彼を偲んだ』
(Luis Frois S.I.“Apparatos para a Histpria Ecclesiastica do Bispado de Japam” Biblioteca de Ajuda, Lisboa Codex 49, IV, 57, cap. 35)

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