著書紹介・郷土史かわら 第97集 特集 香春とキリシタン
郷土史・かわら・第97集 特集 香春とキリシタン
発行2024年(令和6年4月)香春町教育委員会
はじめに
キリシタン史の中で香春の名前は出てこない。私が香春を知ったのは、伊東マンショ神父が、小倉教会の副司祭としてセスペデス(Gregorio de Céspedes)神父と共に奉職した1608~1611年(慶長13~19)の4年間に、教会信徒の支柱として活躍した加賀山隼人正興良とその娘、長女みやの婿・小笠原玄也が1635年(寛永12)12月22日の処刑殉教の前に書き残した15通の遺書の原文・読み下し文・現代語訳を手掛けた時が最初だった。小笠原玄也と妻みやの遺書は、365年の間、2000年(平成12)まで訳されることもなく顧みられなかった。
小笠原玄也一家15人の処刑を担当した細川藩家老・米田監物是季から長岡佐渡守(松井新太郎興長)宛て書状に「御やと御無事ニ御座候、爰元相替儀無御座候、併玄也儀ニ付而、何も気をつめ申し候処、相済らち明申候而、今は何も落着申候」とある。「御主人(細川興秋)は御無事です。こちらも変わりありません。しかし玄也の件については、何とも気をつめていましたが、処罰が済み解決しました。今はすべて落着しました。」(筆者訳)
「御やと御無事ニ御座候」米田監物是季の書状の冒頭にある「御やと」とは誰、という謎の人物を探す旅が始まった。米田監物是季の主人が細川興秋であり、共に1615年(慶長20)大坂の陣に参戦している。興秋は大坂の陣の大将としての責任を取らされ1615年(慶長20)6月6日に切腹させられている。しかしこの切腹が仕組まれた偽の報告であるとすれば、生きている興秋はどこへ匿われたか。1615年(慶長20)以前に豊前に於いて細川家により建立された寺はどこに作られたか。探し出したのが田川郡香春町採銅所の「不可思議山不可思議寺」(現明善寺)だった。創建は1610年(慶長15)香春領主細川孝之による。おそらくこの不可思議寺に興秋は匿われていたと考え、明善寺片山円秀住職様に「寺の由緒録」閲覧の申請をした。4,5ヵ月後に明善寺様より快諾を頂き、2011年(平成23)4月4日、香春町教育委員会立ち合いの元、村上利男教育長、柳井秀清・香春町郷土史会会長、坪根清博氏、香春町学芸員・野村憲一氏と共に明善寺へ伺い、寺の「由緒録」を記録させて頂き、コピーを頂いた。その後、絵踏みが行われていた光願寺跡地、中津原浦松の水神様と伝わっている加賀山隼人正興良、加賀山半左衛門の2つの墓碑を案内して頂いた。この日以来、香春はキリシタン史の中の最も重要な土地へと昇華した。
後日、鹿毛豊著「光願寺における切支丹踏絵と当時小倉藩の切支丹に対処した姿」郷土史誌『かわら』第9集 昭和53年(1978)に掲載されている論考を柳井秀清氏が送付してくださった。鹿毛豊氏は、香春に潜伏(かくれ)キリシタンがいた証拠を、九州大学附属図書館付設資料館に所蔵されている「六角文書」1829年(文政12)の「年々記録78・9」から調査して「像踏み申さず分2078人」という潜伏(かくれ)キリシタンの確固たる数字を示めされていた。また『香春町史 上巻』第2章 小笠原時代と藩政の整備 田川郡ノ宗門改め527~529頁にも掲載があり、既に「香春に潜伏(かくれ)キリシタン」が存在していたことが書かれていた。
46年前の鹿毛豊著の論考を読み、如何に香春に於ける潜伏(かくれ)キリシタン研究の先駆けであったか、先達に対する尊敬の念を深くしている。
鹿毛氏の論考に記されている1829年(文政12)「六角文書」「宗門改め」「年々記録78・9」が現在糸島にある九州大学附属図書館付設資料館に所蔵されていることが判り、2024年(令和6)1月、付設資料館で原文書を閲覧した。この時「年々記録78・9」から新たに2件の潜伏(かくれ)キリシタン史料を見つけることができた。新しい潜伏キリシタンの史料により「金田手永」における潜伏キリシタン「像踏み不ヵ分」の4070人を確認した。再度、九州大学附属図書館付設資料館を訪れ「宗門改め」「年々記録78・9」の全ての原文書を入手し、現代文にして調査することにより、真の潜伏(かくれ)キリシタンの姿を明確にできると考えている。
目次 86頁
はじめに
第1章 細川興秋に関する歴史的解説
第1節 興秋と大坂の陣
第2節 後藤是山氏の興秋研究・解説
第3節 細川忠利書状の真偽と興秋生存の証明
第2章 香春地区に宣教した中心人物たち
第1節 黒田官兵衛孝髙
第2節 グレゴリオ・セスペデス神父
第3節 細川忠興
第4節 細川多羅
第5節 伊東マンショ神父(伊東祐益・すけます)
第6節 細川孝之と光翁(長)龍住職の改宗
第7節 白翁誾龍(ぎんりゅう)住職
第8節 妙漢尼
第9節 細川興秋・長岡与五郎興秋
第10節 小笠原玄也・みや一家
第11節 加賀山隼人正ディエゴ興良
第12節 中浦ジュリアン神父
第3章 幕府のキリシタン禁止令・五人組・檀家寺制度と類族改め令
第1節 幕府のキリシタン禁止令
第2節 寺請け制度
第4章 天草地方でのキリシタン禁止令
第1節 「崩れ」と細川興秋の隠棲地との関係
第2節 「崩れ」の年代順と歴史
第3節 1805年(文化2)今富・崎津・大江・高浜「宗門心得違い」事件
第5章 田川郡香春のキリシタン寺
第1節 細川忠興によるキリシタン遺物の破壊
第2節 香春のキリシタン寺の組織化
第3節 小笠原藩時代の潜伏(かくれ)キリシタン
第6章 香春における潜伏(かくれ)キリシタンの史料
第1節 1829年(文政12) の香春に於ける「宗門改め」「年々記録」の存在
第2節 「宗門改め」記録・2件の追加史料の発見
第3節 像踏み拒否のキリシタンたちが属したキリシタン寺の特定
第4節 像踏み拒否の解釈
第5節 田川・香春地方におけるキリシタン信仰表明
第6節 小笠原藩の困惑と対処
第7節 檀家寺、庄屋への圧力
第8節 信仰表明の結末
第7章 香春町に残るキリシタン遺跡
1 髙座石寺のマリア観音像 香春町殿町
2 貴船神社横にあるマリア観音像 香春町紫竹原
3 あぎなし地蔵 延命院教会 香春町宮尾
4 蛇を踏みつけているキリスト像 香春駅裏手・東側地区
5 龍を踏みつけているマリア観音像 香春駅裏手・東側地区
6 光願寺の三角形の御手洗い鉢 香春町大字高野
7 大岩弘法院 キリシタン変形鳥居・キリシタン灯篭・香春町五徳
8 キリシタン祠 元香春殿町
9 観音口にある六角柱のキリシタン遺物
10 髙座石寺の六角柱のキリシタン遺物
11 福地町のキリシタン遺物
12 細川忠利の葡萄酒醸造
あとがき
第6章 香春における潜伏(かくれ)キリシタンの史料・ 新史料2点の発見
第1節 1829年(文政12) の香春に於ける「宗門改め」「年々記録」の存在
(九州大学附属図書館付設記録資料館所蔵 下記の4点 写真使用許諾済)
豊前国田川郡の宗門改めは、1793年(寛政5)4月4日、香春町の香春岳の下にある光願寺(元大字香春山下町)に於いて「宗門改め」が行われた。
「年々記録78・9」の1829年(文政12)4月4日の「宗門改め」に「像踏み申さず分2,078人」(既存史料1)の記録が残されている。
既存史料1
一、本家708軒 男女合わせて 2,871人 内 男1,488人、女1,383人
内 像踏み申す分 793人
像踏み申さず分 2,078人
第2節「宗門改め」記録・新史料2件の追加史料の発見
第3節 像踏み拒否のキリシタンたちが属したキリシタン寺の特定
1829年(文政12)香春における「宗門改め」「年々記録」より軒数を算出する。「金田手永大庄屋六角文書」『年々記録78・9』より
像踏み資格 15歳以上~60歳迄の男子
既存史料1
人数
軒数
像踏み分
793人
(195軒 793人÷4.05=195.8軒)
像踏み拒否「像踏不ヵ分」2,078人
(513軒 2,078人÷4.05=513軒)
合計
2,871人
男1,488人
女1,383人
708軒
2871人÷708軒=4.05人/1軒あたりの平均人数
新史料2
人数
軒数
像踏み分
719人
(186軒 719人÷3.86=186.2軒)
像踏み拒否「像踏み不ヵ分」1,724人
(446軒 1,724人÷3.86=446.6軒)
合計
2,443人
男1,231人
女1,212人
632軒
2443÷4632=3.86人/1軒あたりの
平均人数
新史料3
人数
軒数
像踏み分
74人
(16軒 74人÷4.62=16.01軒)
像踏み拒否「像踏み不ヵ分」268人
(58軒 268人÷4.62=58軒)
合計
342人
男173人
女169人
74軒
342÷74=4.62人/1軒あたりの
平均人数
既存史料1+新史料2+新史料3
人数
軒数
像踏み分
1,586人
(397軒 1,586人÷4.00=396.5軒)
像踏み拒否「像踏み不ヵ分」4,070人
(1,017軒 4,070人÷4.00=1017.5軒)
合計
5,661人
男2,892人
女2,769人
1,414軒
5,661÷1,414=4.00人/1軒あたりの平均人数
「六角文書」『年々記録78・9』より1,017軒が像踏みを拒否したと計算できる。3ヵ地区、計「像踏み申さず分1,017軒」からキリシタン寺の数を推定すると2 ~3の寺が存在していたことになる。
ひとつの寺が抱える檀家の数は多くて300家から500家といわれている。六角文書より計算すると単純計算で4,070人は1,017軒となる。檀家としていた寺の数は、300家では3~4の寺、500家では2~3つの寺が、キリシタン寺として機能していた計算になる。
歴史的に細川興秋が住職を務めていた「不可思議寺」、香春の領主・細川孝之の館敷地内「髙座石寺」はキリシタン寺として機能していたと確信している。あとひとつキリシタン寺として考えられるのは、妙漢尼の草庵(キリシタン庵)から発展して1625年(寛永2)に領主細川孝之により建立された「来迎寺」が該当すると思考している。「来迎寺」は興秋が匿われていた「不可思議寺」の北側に隣接している。細川藩最高機密である「興秋隠蔽の寺・不可思議寺」に隣接して仏教寺院が建立されることはまず考えられない。もし興秋隠蔽のことを知らない住職により「不可思議寺」がキリシタン寺と訴えられ、興秋生存が幕府に知られたら細川藩自体が取り潰しになることは必定であり、そのような危険を細川藩が犯すはずがない。「来迎寺」が「不可思議寺」と共にキリシタン寺として機能していたと考える状況証拠である。
1829年(文政12)の「宗門改め」における「像踏み申さず計4,070人」のキリシタンたちはどの寺の檀家だったか。改めて1829年(文政12)「年々記録78・9」、1850年(嘉永3)「宗門改め帳」「金田手永大庄屋六角文書」「年々記録78・9」九州大学附属図書館付設記録資料館所蔵を調査したが、1829年(文政12)の「年々記録78・9」には「像踏み申さず計4,070人」の香春地区でのキリシタンたちが所属していた檀家寺の名前の記載は見つけられなかった。
第4節 像踏み拒否の解釈
1829年(文政12) の香春に於ける「宗門改め」の記録「年々記録78・9」に記載されていた「像を踏まなかった者、計4,070人」。この時代に、これだけ多くの者が潜伏(かくれ)キリシタン信仰を堅持して像を踏むことを拒否したことは非常に大きな出来事だった。しかも1805年(文化2) に起きた天草下島南西地区の今富・崎津・大江・高浜の「宗門心得違い」事件の24年後に勃発した大事件だった。
香春周辺の潜伏(かくれ)キリシタンたちが団結して「像踏みを拒否する」と申し合わせてとった行動と考えられる。これだけの人数の潜伏(かくれ)キリシタンが一堂に信仰を表明することは、幕府の宗教政策と小笠原藩に対する抵抗(resistance)表明だった。
また、当時の檀家寺・僧侶(住職)の支配に対する潜伏(かくれ)キリシタンたちの合法的な抵抗の表れだったと考えている。表向き潜伏(かくれ)キリシタンの信仰を認め、保護し匿ってくれている檀家寺住職との力関係の均衡(balance)が崩れた時期だったかもしれない。檀家寺住職の支配に対する不満の表明も原因の一因だった。寺からの一方的な要求に対して、檀家であるキリシタン側の我慢の限界を越した(事件になりえるような)ことがあったのも要因だったと思われる。
寺側の要求とは、寺の経年劣化のための寺院の立て直しに関する建設資金の多大な割り当て、お布施の割り増しの要求等、大抵は金銭問題である。寺側は、潜伏(かくれ)キリシタンである檀家たちを匿っている、その匿い賃(金)として、恩を笠に着せた要求である。貧しい農民である檀家たちへの過度な金銭要求は脅迫まがいの行為であり、今まで檀家寺とうまく付き合ってきた檀家としての潜伏(かくれ)キリシタン側との均衡(balance)が崩れる出来事だった。
第5節 田川・香春地方におけるキリシタン信仰表明
香春周辺のキリシタンが団結して起こした1829年(文政12)の「宗門改め」における「像踏み申さず分2,078人」。別の2件の「像踏み申さず分1,992人」、計4,070人のキリシタン信仰表明の裏には、24年前の1805年(文化2)に起きた天草下島南西地区の今富・崎津・大江・高浜の「宗門心得違い」事件の結末を十分に理解していた。
これだけの人数の潜伏(かくれ)キリシタンが一堂に小笠原藩に対して自分たちの信仰を表明することは、幕府のキリシタン政策と小笠原藩の出す結論が「宗門心得違い」であり、事実上、自分たちのキリシタン信仰が黙認されるという前提の上で起こした抵抗(resistance)行動だった。それだけでなく檀家寺住職の支配に対するキリシタン信仰と不満の表明の表れだった。
第6節 小笠原藩の困惑と対処
当然、小笠原藩はこの大量の潜伏(かくれ)キリシタン発覚をどのように処理するかを迫られた。幕府に報告したら「宗門管理不行き届き」として小笠原藩自体の取り潰しに発展しかねない。この事件を表沙汰にするには、あまりにも危険が伴うことが判っていたため、幕府直轄の天領である天草の様に「宗門心得違い」という表沙汰になる解決策は取っていない。
小笠原藩にとっても、これだけ大量の潜伏(かくれ)キリシタンを処罰したら、町や村落の存続と経営が成り立たなくなり、しいては藩に入るはずの年貢(税)の取り立ても出来なくなる。キリシタン問題で町や村落の経営破綻、年貢(税)の未収はなんとしても防がなくてはならない大きな経営課題だった。
この信仰表明に対しては、農民人口の減少、村落の疲弊、年貢(税収入)の取立てを考慮して、最終的に幕府には報告せず「黙認・黙殺」という形で処理したが、以後個人的なキリシタン信仰発覚に対して厳格に処罰の対象としている。小笠原藩はキリシタン代表者だけを選び、処罰の対象とした。これは香春だけに留まらず、近郊の金田村、大熊村に於いても同様であった。
1829年(文政12)の「年々記録78・9」「宗門改め」における「像踏み申さず分2,078人」と別の2件の「像踏み申さず分1,992人」、計4,070人。この時潜伏(かくれ)キリシタン指導者の一部が摘発されたかもしれないが記録はない。
21年後、1850年(嘉永3)では「金田村9人、大熊村3人のキリシタン摘発」という記録が残っている。合計12人のキリシタンたちが如何に裁かれ、どの様に処されたかは明確にされていない。
『金田町史』『年々記録78・9』「金田手永大庄屋六角文書78・9」
九州大学附属図書館付設記録資料館所蔵
第8節 檀家寺、庄屋への圧力
小笠原藩は大量の潜伏(かくれ)キリシタンを保護してきた檀家寺に対しても厳しく対処した。造反した1829年(文政19)の2,078人、別の2件の「像踏み申さず分1,992人」、計4,070人の潜伏(かくれ)キリシタンたちが、どの宗派のどの寺の檀家に属していたかは「宗門改め帳」に記載されていなかったが、判明している潜伏(かくれ)キリシタンたちの全てを把握している小笠原藩は、檀家寺住職たちも厳しく詮議した。住職たちは連帯責任として、己の寺の廃寺を言い渡されることになり、寺が生き残るためには、潜伏(かくれ)キリシタンたちの仏教への強制改宗が絶対必要条件となった。この後、一切キリシタンを匿うことなく厳しく監視し、必ずキリシタンから仏教徒へ転宗させる事を条件とした。
また社会構成の秩序としての庄屋・肝煎りの責任も同様に厳しく詮議の対象となり、以後一切キリシタンを出さないように厳しく言い渡している。
1850年(嘉永3)「宗門改め帳」4冊には「浄土宗・禅宗・真宗」と宗派別に書かれた文書が存在していた。宗門改めを行った寺の名前(興圀寺・法光寺・光願寺等)は記されていたが「像踏み申さず」「像踏み拒否」を特定する記述はなかった。
小笠原藩は敢えて記録を残さない事で、もし「宗門改め」での潜伏(かくれ)キリシタンの記録が幕府に露見した場合でも、キリシタンを匿っていた檀家寺、庄屋・肝煎りまで幕府の追及が及ばないように配慮している。その意味から証拠となる記録を敢えて残さないようにしている。小笠原藩としては幕府に対して、あくまでも隠し通す姿勢を貫いている。
第9節 信仰表明の結末
1829年(文政12)の「年々記録78・9」「宗門改め」での信仰表明が、逆に「像踏み申さず分2,078人」と別の2件の「像踏み申さず分1,992人」計4,070人の潜伏(かくれ)キリシタンたちを、小笠原藩が一層厳しく監視する組織網を構築する結果となった。潜伏(かくれ)キリシタンたちが属していた寺の住職からの宗旨替えの強制、地域における庄屋・肝煎りを中心とした指導者たちからの宗旨替えの強制は、特に離村(村からの追放)の脅迫や村八分にする強制力と圧力を以て、潜伏(かくれ)キリシタンたちの上に重く圧し掛かった。
香春周辺の潜伏(かくれ)キリシタンたちと信徒組織コンフラリアが何時、衰退し消滅したかを特定することはできないが、1829年(文政12) 「宗門改め」での造反の様に、その後、潜伏(かくれ)キリシタンたちが集団で団結造反し、自分たちの信仰を再度表明することはできなかった。個人的にキリシタン信仰を堅持した信徒もいたが、この頃には、より厳しいキリシタン摘発制度の定着により、報奨金欲しさにカクレキリシタンを密告する者も出ている。今まで一致団結して信仰を堅持してきた潜伏(かくれ)キリシタン組織が崩壊してきた。
また香春の潜伏(かくれ)キリシタン信仰は、仏教信仰、神衹信仰、民俗信仰等と共存しながら生き延びてきた。純粋なキリスト教の信仰と教理(カトリック教理)が忘れ去られ、潜伏(かくれ)キリシタン自身が神仏信仰と民俗信仰を取り込んだために、何を信仰しているのかさえ明確でなくなっていた。1829年(文政12)の39年後、1868年(明治元)徳川幕府による支配が終り、明治政府による新しい時代を迎える。香春周辺の潜伏(かくれ)キリシタンの信徒組織は、明治を迎えるこの頃までには衰退して消滅したと考えられる。
1868年(明治元)明治政府が誕生したが「キリシタン宗門禁止令」は踏襲され、明治政府に於いても改めて「キリシタン禁止令」が布告された。その5年後1873年(明治6)になり、ようやくキリシタン禁止令の高札が撤去され信教の自由が布告された。一般民衆にはキリスト教解禁と理解され、キリスト教会の宣教活動が公然と行われ始めた。しかし高札撤去は信教の自由を保障したものでなく、本当に信教の自由が保障されたのは1889年(明治22)の「帝国憲法」発布からだった。
申し込み先
郷土史誌かわら 第97集 特集 香春とキリシタン
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香春郷土史会
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