天草ミツバチラジオ出演と月圭山芳證寺での細川興秋の真実出版記念講演会

スタジオにて収録中・髙田重孝(左)村上和光住職(中央)花咲実氏(左)

天草みつばちラジオMCの山口誠治氏より『細川興秋の真実』について、是非お話して頂きたいとの依頼を2年前に受けていましたが、御領の東禅寺住職様から「東禅寺がキリシタン寺であったとの伝承は本当だろうか?調べていただきたい」との依頼を受けていて、非常に重要な案件でしたので、キリシタン史と天草と寺に伝わる伝承から再度調査いたしました。調査結果は本の第4章第1節「天草御領に於けるキリシタン教会と信徒組織(コンフラリア)」202頁~に書きました。中村社綱先生には既に2020年の3月に『長岡与五郎宛て、元和7年(1621)5月21日付け、細川忠利書状』の話はお伝えしてたので、まず、中村先生が私に代わって『みつばちラジオ』に出演していただきました。その録音が2021年3月の1番目のCDになります。

芳證寺本堂にて記念講演会

2022年1月9日、芳證寺様と中村社綱先生が、本の出版記念会を企画して下さり心からの感謝と共に天草に参りました。その機会に依頼されていた「みつばちラジオ」での収録が実現しました。2番目のCDになります。どちらのCDも1時間番組3回分をCD化するために74分に収まる様にダイジェスト版になっています。もしよかったら耳を傾けてお聴きくださりお楽しみください。『細川興秋の真実』の付録として御笑納くだされば幸いです。どうぞこれからもよろしく御指導ください。素晴らしい素敵な1年でありますように心より祈ります。感謝を込めて。かしこ。                    髙田重孝

のさる新聞25号 2022年3月号掲載記事より抜粋
欧州英国とフランスで声楽を学んだ高田重孝さんは、宮崎市在住の声楽家です。若い頃から米国、フランス、イタリア、イギリスで本格的な声楽を学び、一流の指導者として認められた方です。その高田さんが、イタリアで修学中に現地の人から意外なことを聞きます。
「中世時代、ここは日本の伊東マンショが訪れた場所だよ。」
その言葉を聞いて高田さんは伊東マンショのことをほとんど知らず困惑しました。
その後、伊東マンショについて調べると、高田さんと同郷の宮崎出身のキリシタンだったことを知り、更に大きなショックを受けます。自分は、日本人であり、しかも宮崎出身であり、同じクリスチャンであるにも関わらず、イタリアで多くの人が知る伊東マンショのことを何も知らない。高田さんは、自分の不明さを悔いながら、16世紀にローマ教皇に謁見した天正少年遣欧団のことや、当時の日本のキリシタンのことを、もっと知りたいと一念発起したのでした。それから、高田さんの精力的なキリシタン研究がはじまりました。

芳證寺で意外な話を聴く
高田さんは、声楽家として活躍しながらも、時間を作っては天草に訪れて、キリシタンの研究に取り組みました。
その中で、御領の曹洞宗芳證寺でご住職夫妻から驚きの話を聴きました。
「この寺には、昔から細川ガラシャの次男興秋が身を隠して僧侶として生きていた伝承が遺っています。」
その話を聴いた時、高田さんは深い関心を抱きました。
細川ガラシャといえば壮絶な最期を遂げた戦国時代の熱心なキリシタンであり、その子どもたちも洗礼を受けていました。そして、1615年の大坂夏の陣で、兄弟同士で戦い、豊臣方についた次男興秋は切腹して死んだとされていました。しかし、実際は家臣が腹を切り、興秋は天草で余生を送ったというのです。
高田さんは、細川家第17代当主細川護貞公ご夫妻が芳證寺に興秋公のお墓参
りにこられたことや、細川藩史、イエズス会の資料、学術論文などをことごとく調べていくうちに、これは単なる伝承ではなく、かなり真実味を帯びた実話ではないか!と確信を深めていったのでした。
そんな中で、高田さんは中村社綱氏と出会います。中村氏は、天草市在住の歯科医師で、細川興秋の系譜を継ぐ家系といわれ、古くから細川家に縁のある文書や遺品を所有しておられたのでした。中村氏の全面的な協力により、高田さんの細川興秋に関する研究には拍車がかかり、ついに、細川興秋が生
きていたことを証明する文書の発見に至ります。

弟から兄に当てた手紙

今から2年前の2020年(令和2年)2月に奈良県在住の細川宗彦氏から
熊本県立美術館に展示されている文書で腑に落ちない点があるので調べてほしいとの依頼が、突然高田さんにありました。
その文書は、1621年(元和7年)5月21日に、細川忠利公から長岡与五
郎宛に書かれた手紙で、内容は脳梗塞を患った与五郎が徳川将軍の主治医
与安法印の治療により全快したことが書いてあり、忠利公が湯治を勧めているものでした。
高田さんは、ここでの「長岡与五郎」とは、死んだはずの細川興秋(忠利公の兄)が名前を変えているのではないかと推察したのです。
そして、この手紙は細川興秋が死んだ大坂夏の陣から6年経過したもので、その時細川興秋は福岡県田川郡香春にある不可思議寺に隠れ住み、やがて1632年12月には山鹿市鹿本町庄の「泉福寺」へ移り、小笠原玄也一家のキリシタン告訴に巻き込まれることを避けるため、1635年(寛永12年)10月頃から天草の御領に移り住んだことが判明したのでした。
その時、細川興秋が御領に持参した薬師如来三尊が今も芳證寺の境内地の薬
師堂に建立されています。
この薬師如来に関して「長興寺薬師如来縁起」という文書が芳證寺に現存し、筆跡鑑定の結果、なんと若い頃(20歳)の細川興秋が書いた筆字と一致したのです。御領の人たちを救った興秋細川興秋が天草に来た時は僧侶でしが、実はキリシタンを教え導く聖職者として御領のキリシタンの世話をしていまた。
ご参考までに、イエズス会資料では遠藤周作著『沈黙』のフェレイラは1633年に長崎で捕まるまでは、1629年から5年間、御領東禅寺に潜伏していたことが明らかになっています。ジャンノネ神父も東禅寺に匿われていました。

後に天草島原の一揆が勃発した時、村人たちが一揆軍に扇動されるのを興秋は鎮めて、一揆に加担しないようにしています。そのため、天草島原の一
揆の戦没者の中で御領の人たちはほとんどいません。
興秋が村人の命を大切に思う心が偲ばれます。

一揆の一年後、1638年、長興寺の住職としての興秋と、初代代官鈴木重成公が面談していますが、はたして戦国から江戸時代に移り変わる時代を共に生きた二人の間でどんな会話がなされたのでしょうか?
その後、鈴木重成公は、芳證寺を御自身の御父母の菩提寺として開基してい
ますが、興秋の事をおもんばかってなされたのでしょう。
同時に、天草の民の安寧を心から願う二人の心は通じていたのかもしれません。

御領の芳證寺には、隠された真実の天草の歴史を知る貴重な資料が遺っています。天草には、まだ明かされていない真実の歴史が埋もれているようです。

お求めは、のさる出版へお電話を
(☎080-4741-1887)
①高田重孝著『細川興秋の真実』(482頁)頒
価4,500円(税込)は自費出版のため書店に
はありません。他に以下もお求め頂けます。
②『細川興秋と月圭山芳證寺』(1,000円税込)
③中村社綱氏と村上和光住職と高田重孝氏
の歴史対談CD2枚組2,000円(税込)

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