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イエスと聾唖者について考える 2

イエスはろう者と出会ったのか?

まず、イエスはろう者と会ったことがあるのか考えてみよう。新約聖書はイエス以降のことが書かれている。マルコの福音書7章32節から37節には、イエスが、耳の聞こえない人を<耳が聞こえるようにし、口が聞けるように>したとある。

すると人々は、耳が聞えず口のきけない人を、みもとに連れてきて、手を置いてやっていただきたいとお願いした。 (マルコ7:32)
そこで、イエスは彼ひとりを群衆の中から連れ出し、その両耳に指をさし入れ、それから、つばきでその舌を潤し、 (マルコ7:33)
天を仰いでため息をつき、その人に「エパタ」と言われた。これは「開けよ」という意味である。 (マルコ7:34)
すると彼の耳が開け、その舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになった。 (マルコ7:35)
イエスは、この事をだれにも言ってはならぬと、人々に口止めをされたが、口止めをすればするほど、かえって、ますます言いひろめた。(マルコ7:36)
彼らは、ひとかたならず驚いて言った、「このかたのなさった事は、何もかも、すばらしい。耳の聞えない者を聞えるようにしてやり、口のきけない者をきけるようにしておやりになった」。 (マルコ7:37)

マルコの福音書7章32節から37節(新約聖書口語訳、日本聖書協会)

まるで、耳が聞こえない人は「ことばも聞けず、ことばも言えない」という、癒しが必要な対象となっている。また、旧約聖書のレビ記19章 14節に

耳の聞こえない人を呪ってはならない。目の見えない人の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。私は主である。

レビ記19章14節(旧約聖書聖書協会訳、日本聖書協会)

とあるように、ユダヤ人がエジプトで生活を営んでいた当時から、耳の聞こえない人がいたことがわかる。手話を使って会話をしていたかどうかはわからないが、ろう者が集まれば手話が生成される(1970年代から80年代にかけてニカラグア手話が自然に発生したことが確認された例がある)ことから、ろう者集団があれば、ことばとしての手話による会話があったと考えてもいい。しかし、聖書にはそのようなことは見当たらない。聞こえる人が中心になって、怪我や病気によって障害者になったものや最初から目に見える障害者が語られている。聖書編纂者が耳が聞こえる人であれば、ろう者の言語文化について考慮することもなかったはずである。
 それゆえ、イエスは、手話を使うろう者と出会ったのかという関心がいったのである。実際に耳の聞こえない人にはあっている。そして耳が聞こえる、口が聞けるという奇跡を起こしている。みんなが驚き、イエスの奇跡を触れ回しているのは、もともと聞こえていた人である可能性が高い。軽い難聴だったのか、中途失聴だったのかは分からないが、少なくとも手話を使う聾者ではなかったと言える。聾唖者であっても、手話を使うろう者ではなかったであろう。イエスは実に多くの人と会った。イエスが救い主であり、全知全能の神であるならば、手話を使うろう者と出会ったら、おそらく手話を使ったであろうという論理に行き着く。手話を使うのはもちろんとして、ろう者にとっての「救い」とは何かを考えてみたい。


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