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支配の本質

人類はそろそろ80億人に至るそうである。
ひとつの動物種として考えたら、地球全体の規模から考えると桁外れの数である。
昆虫など、生物でも個体寸法が小さかったり、ライフサイクルの短い種であれば、ひとつの生物として人間の個体数を超える生物種は沢山あるのだろうが、一個体が数十年のライスサイクルを持つ動物が地上に80億も居るのは、自然の成せる業ではなさそうだ。
世界中のメトロポリタンは案の定、人口の密度は高い。それでこその80億である。人間は局所に集中して生活したり、ある程度分散して生活したりもするが、とにかくも、人類は地上で住める場所には殆ど蔓延してしまった。

生物の中で、局所に集中して高密度で生活するものに、蟻や蜂がいる。アリンコは蜂の仲間だそうでハチ目に分類されている。蟻や蜂の大掛かりなコンドミニアムは実に優れた構造と機能を有していて、生物種としての長い長い歴史を感じさせる盤石なシステムではないだろうか。こういった生物の優れた住まい方を参考にしたのか、偉大なる建築家であった Le Corbusierはその著書「輝く都市」で、人類が住まうべき都市と、そこでの住まいのモジュールとして集合住宅を提案した。しかし、Le Corbusier 自身もまさか人類が80億を超えるだろうほど地上に蔓延るとは想像もしていなかったことだろう。
彼の unite d’habitation 構想は、人類の営みが地球そのものを変容させてしまうという、現代の我々が抱える大きな問題が存在していなかった時代の発想である。いくらキャンプファイヤーをしたところで、地球全体が煙にまみれてしまうとは考えもしないように、工場の排煙や自動車の行き来が地球全体の空気を異質のものにしてしまうなどとは想像に至らなかったはずである。

しかし、地球は彼らが考えるよりも狭かった。そして人は増えすぎている。

もちろん、僕自身も、現在進行形で増えすぎている人類の一員である。
人類が人口を増やすことが可能になったきっかけとして、農耕と家畜飼育の成功がある。これら無くしては人口増加は不可能であったに違いない。
食料となる植物を栽培する技術を確立したことと、野生動物を家畜として手懐けることに成功したのは、長い年月にわたる試行錯誤の成果であろう。
長距離を移動するのに、自分の脚でひたすら歩を進めるよりも、馬に乗って移動する方が遥かに効率が良い。
野生の馬を手懐けた最初を人は、とんでもなく冒険心の旺盛な人であったことだろう。破天荒であったに違いない。
馬を手懐けられることを知った人類は、きっといつかの時点ではシマウマにも興味を示したに違いない。しかし、シマウマは生物として人には懐かないのである。馬とシマウマは見た目は殆ど同じ体つきをしているのだから、シマウマに乗ろうと考えるのは至極真っ当な発想である。しかし、シマウマは飼いならすことが不可能な動物なのだ。
例えば、田畑の耕耘などの力仕事に牛の力を借りて、人類はさらに高効率で植物栽培を行った歴史があるし、さらには戦争における兵器として象を飼いならし、ハンニバルは兵器としての象を連れてアルプス越えをやってのけた。
力持ちを競うならば犀だって恐ろしい怪力の持ち主であるが、前述同様に、犀を家畜として手懐けることは出来ないのだから、ポテンシャルは魅力的だったとしても、野生のままにしておく以外にない。
アラスカではカリブーが巨大な群れを成して大移動するそうで、これだけの食用肉が手に入れば人類の蛋白源に大いに有用であるが、牛や豚のように飼育されないのは、やはり飼育の困難さがあるのだろう。性格が大人しいなどということ以外にも、例えば人に飼われているパンダは繁殖しにくいなど、その生物種の過敏であったりデリケートな性格というのも、家畜化できるかどうかの重要な要素なのである。

なぜ僕が家畜の話をしているのかというと、人類は長い歴史のある時点、恐らく一万年くらい遡るだろうか、とにかく、生物を手懐ける、という可能性にいつしか気付いてしまい、自分こそが他の動物を飼いならすことが出来る、と自己認識してしまった歴史を忘れてはならないと考えるからである。
養鶏場のニワトリのように、上手くすれば動物を支配できると確信を持つに至った時代が人類の過去に訪れたのだ。

これはまさに革命的な人類の気付きであった筈で、人類全体というよりはむしろ、特定の個人の中で芽生えた確信と自己認識であった可能性が高い。
そして、この話の中で最も僕自身が言及したい、人類が初めて動物を征服することを可能にさせた、その被支配動物とはどこのどんな生物種であったのか、ということ。

その生物とは、ヒトである。

人類の過去において、誰か、能力の高かった一人の人間が、集団を支配してしまったのだ。いつの時点か、どこで起こったのか、それは僕にはわからない。しかし、人類が最初に家畜化に成功した動物は、ヒトであったに違いない。
このことは僕自身の個人的な想像であるが、あながち間違いとは言えない、と考えている。

最近、哲学者の斎藤幸平さんの思想に感銘を受けた。
日本から若い哲学者が、説得力を持って思想を社会に訴える様を、僕は殆ど想像すらしていなかった。現代社会と思想にネガティヴな意味において諦観していたのだ。
しかし、我々先進国に住む人類の営みは、あらゆる意味で限度を超えてしまっている。
精神的な不調を抱える方々も多く、自ら命を賭してしまう方もおられる。
きわめて残念なことである。
誰にとっても他人事ではないと僕は考えるし、この現状を自分事として受け止めていきたいと考えている。
ストレスが蔓延する現代社会の生活、精神を崩壊させる日常、極々少数の富裕層と、膨大な貧困層。拡大する貧富の格差。

我々現代社会に生きる大多数の人間は、一部の人間によって支配されている。その支配者たちは養鶏場のニワトリよろしく、ヒトは支配可能であることに高を括って、自らの地位を常に揺るぎないものにするべく地盤をさらに強固にしている。
斎藤幸平さんはマルクスの思想を再び認識し直そうとしておられる。理論的には正しく、理想的な未来に近づくべく、我々一人ひとりの意識的な行動力に準拠した人類の未来社会の在り方を訴えておられる。
繰り返すが僕自身も非常に感銘を受けている。

しかし、マルクスは我々がニワトリであることを知っていたのだろうか。

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