私がコドモ達に伝えたいことの第一が「自分がやられて嫌な事はヒトにするな。」です。

『近代経済学の父アダム・スミスは、主著のひとつ『道徳感情論』において、市民社会の本質は「同感」(Sympathy)にあると看破した。「同感」は「想像力」と言い換えることもできる。ひとの痛みや労苦、あるいは犯罪に走ってしまったひとの心情などあらゆるものを「想像」する。その上で、自身の行動を適宜性の範疇に律する――。そういう近代的市民社会においてのみ、資本主義市場経済が正常に機能するのだ。それは、社会全体についてもそうだといえる。薬物も、アクセルとブレーキの踏み間違えも、宗教も、認知症も、LGBTも、発達障害も。すべて「他人事」ではないのである。いいことも悪いことも、僕たちの社会で起こっており、僕たちの生活とかかわり合っている。~本来、薬物事案について最も大切なのは、「再犯を防止すること」である。市中引き回しの上で晒し者にすることが、果たして薬物事件の再犯防止につながるだろうか? ~今回の記事にはもうひとつ問題がある。「アウティング」の危険性が認識されていないことだ。「アウティング」とは、ひとの性的指向について他人が勝手にバラしてしまうことをいう。数年前には、名門国立大学の大学院生が、同級生のLINEグループにおいて勝手にアウティングされてしまい、思い悩んで自殺してしまう、という痛ましい事件があった。容疑者の性的指向についてはわからないし、そもそも今回の事件とセクシュアリティにはなんの関係もないはずだが、ニュースの記事において唐突に「新宿二丁目のディープな店に出入りしていた」と書かれてしまうと、途端にミスリードの可能性が生じる。新宿二丁目と容疑者を結びつけることによって、本来犯罪事実と関係のないはずの容疑者のセクシュアリティについてまで邪推を生んでしまうことになる。言論の自由は、僕たちの生きる民主主義社会の最後の砦だ。無論、自由な報道もしかり。ただ、事件や事故の報道は、ひとびとの好奇心を煽るためのものではない。そしてなにより、僕たちはひとつの社会で共生している。報道する側だったひとが、気づけば報道される側になっているかもしれない。与党はいつの間にか野党になっているかもしれないし、薬物事件に憤っていた自分が、気づけば薬物依存症になっているかもしれない。このカオスな市民社会を正常に保つために必要なのは、「同感」する力であり、それはすなわち「想像力」である。相手の立場に立ってみること。自分の信じる「正義」だけではなく、相手の信じる「正義」についても考えてみること。何ごとも「明日は我が身」かもしれない、ということ――。この社会に住まうひとりひとりが、すべてと関わり合う「当事者」としての意識を持つことでしか、社会は良くなってはいかないのではないだろうか。』

私がコドモ達に伝えたいことの第一が「自分がやられて嫌な事はヒトにするな。」です。明日は我が身と思えない同感・想像力が欠けてきてしまったのはこの第一段階すらできない幼稚な自意識なのです。オトナがコドモを「育てる」という概念自体を変える時期なのかもしれません。

薬物犯罪報道「袋叩き」「アウティング」の危うさ
更生や再犯防止につながるのだろうか
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/70619

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