彼らは時間を非線形に捉え過去・現在・未来を同時に表していた。
『また、たまたま今クリエイティブな仕事をしている人でも、恐らく、「届く頃には遅すぎで意味がなくなる形式的報告書」や、「後で困りそうな文言の削りすぎで意味不明な議事録」のようなものを書いた経験があるのではないでしょうか?確かに、それは無意味だけれども、やらない訳にはいかない。皆がクリエイティブになれるわけはないし、それが現実というものです。それに、もしかしたら、「無意味な仕事」なんてないのかもしれませんから。~具体的には、執筆中の文書やスライドをGoogeDocsというサービス上で作り、Skypeで会話しながら同時に編集します。GoogleDocsは、Microsoft Officeのクローンをブラウザだけで動かせるサービスですが、面白いことに「一つのファイルを同時に複数人で開いて、一斉に作業」できるので、「ファイル」を「地図」と見立てて作業場にしているわけです。普通のファイル共有では、誰かが作ったファイルを別の人が次に開いて直す、もしくは賢いバージョン管理システムが、別々に編集したファイルを矛盾しないよう統合してくれるぐらいでしたから、この「同時編集」機能には何か可能性を感じました。~もちろん、そういう責任分担なしに整合性のある文章ができるのか実験したいという意図があったからです。が、すでに作業中から、自分の文章が知らないうちに上書きされていき、にもかかわらず全体の整合性は、「誰か」がキープしくれているという不思議な感覚が芽生えていたからでもあります。間違いは放置しても誰かが直す。これは、「誰か(たとえば上司やクライアント)に指摘されるかもしれないから、絶対にミスをしてはいけない」という感覚とちょうど反対の、現代では珍しい奇妙な安心感です。大袈裟に言えば「個人と責任の牢獄から抜け出た気分」です。それは多分、集団で一つのプログラムを作るオープンソースソフトウェア開発のような世界では暗黙に共有されているような気分でしょう。ですが、個人・責任・分業、という枠組みの中で作業してきた人には新鮮な印象かと思います。この話をすると、誰かが直した場所を、また別の人が直して、それを元の人がまた直し……というループが起きないのか?と聞かれたりします。実体験的には起きません。おそらく、その手のトラブルが起きる原因は、「作業後の結果」を、「作業中という中間状態の文脈」を共有せず、事後的に付き合わせることなのではないでしょうか?全てが終わった事後に突き合わせるのではなく、両方が直す権利も義務もある中間状態にいながら相対しているので、事後レビューからくる推測とは、かなり違いがあるのです。作業後のレビューは、一方的な問題点の指摘にならざるをえないことがあり、どうしてもレビューする側が強い力を持ってしまいがちです。ですが、同時編集ではそもそも一緒に作業をしているので、結果として「なぜ、そんなことも気づかなかったんだ!」という類の恫喝が難しくなります。「その場にいたのに、あなたこそなぜ直さなかったんですか?」となるだけだからです。~同時編集のチートや効果を評価するのは、恐らく論文のインパクトを測るようなタイプのタスクです。そこには、たとえば「量は少なくともそこから大きな文脈の変化が起きるような変更は重要」などの評価基準があるでしょうが、そういう判断をある程度自動化できる可能性があるわけです。自動化した場合、客観性の担保という問題は発生しますが、とりあえずそれを別にすれば、それなりに文脈や意味を把握した自動編集インパクト追跡&報酬システムはすでに実現可能な技術段階にあります。一方、恐らく同時編集を仕事に取り入れる上で最大の障害はコストでしょう。単純に考えると、参加する人数分のコストが上乗せされてしまうように見えます。ただし、同時に作業をしている分早く終わる、一人で行き詰まっている時間が減る、余計なコミュニケーションコストがかからない、ワイワイやっているうちになんとなく終わり仕事をする動機づけがそれほどいらない、なども考慮すると、かえって高速化する気もします。~さらに、日本企業の求人で、いつまでたっても「コミュニケーション能力」が求められ続けるのは、パーソナリティの問題ではなく、単に仕事の分割方法によって、中間状態の文脈を共有しない率が増えてしまい、副作用で発生するコンフリクトを埋める推定能力の高い人が必要になるからだと考えてみることもできます。コミュニケーション能力については、多くの場合、「大丈夫、気にするな」というタイプのアドバイスが書籍等で繰り返されがちです。ですが、社会や制度がそれを必要としているなら、気にするな、というアドバイスには実効性がありません。しかし、もし、そもそも「コミュ障」を気にする必要がない仕組みが、中間状態の共有なら、実効的に「コミュ障」を気にする必要がなくなることもありえます。結局のところ、多くの組織が同時編集を試さないとそれがもたらす実際のコスト感覚は不明です。減るかもしれませんし、増えるかもしれません。未知の問題が起きるかもしれません。ただ、同時編集の導入にはコストだけではなく、個人に対する責任の押し付け、それに起因する様々な問題にも効果を持つ可能性を考慮に入れる必要があるでしょう。~そもそも、生産力が飛躍的に伸びているはずなのに、なんでいつまでもみんな忙しいのでしょう?ところで、社会的にどのぐらい無駄な仕事があるのか?という問いに、個人が答えることは、たとえどんなに賢い人であっても、「無駄」の定義が非常に難しいため、不可能に近いでしょう。直感的に無駄な仕事が溢れかえっていたとしても、あるいは、自分がこれをこなさなければ会社が終わる!と感じていたとしても、実は無駄に感じる仕事の方が社会を廻すのに必要で、あなたが頑張っている会社はもう倒産した方がいい(にもかかわらず倒産は許されない)、というようなことがありうるからです。恐らく、市場経済というものが優位な点はこのような判断を、賢い個人の推論ではなく、市場という集団に任せたことによって、勝手にある程度の結論が出てくるようにしたことでしょう。~同時編集は、ネットに繋がる環境があれば、一応、誰でもどんな組織でも実行可能なので、ぜひ試してみてください。実際に、会社で言い出したり、説明するのは、とても面倒でしょうけど。』
この同時編集の提案をみていて映画メッセージ(Arrival)のヘプタポッドが操る表義文字を思い出した。彼らは時間を非線形に捉え過去・現在・未来を同時に表していた。今までの生産に関わるモノゴトはヒトが実感できる線形な時間軸でしか構築できないとの決めつけからだろう。まずは「同時編集」という方法を試してみるのも悪くはない。
日本人の不毛な働き方を激変させる?「同時編集」を私が薦める理由
「責任の牢獄」から抜け出せ!
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66893