善良な市民ヅラをしている誰もが「背に腹は代えられん」となれば「見捨てる」命や「自ら殺めなければならない」命も出てくるのだ。
『これらは遺族、つまり健常者に向けられた謝罪の弁であり、自らが殺めた人々に対するものではない。あくまで健常者の心を傷つけたことへの謝罪なのである。「障碍者はいなくなるべきだ」とする植松被告自身の思想は、いまもなお一貫していると考えられる。私たちは、植松聖という男の凶行を「私たちとはまったく相容れない、異質な者が狂気に駆り立てられて起こした事件である」と捉えるべきなのだろうか。~【〈このような残虐な事件がいつか起こると私は思っていました。なぜなら、私の家族は障がいをもった私をどうやって育てたらいいかわからず、施設にあずけ、幼い私は社会とは切り離された世界の中で虐待が横行する日常を余儀なくされていたからです。(中略)そんな環境で、職員は少ない人数で何人もの障がい者の介助をベルトコンベアーのように時間内にこなし、過重労働を強いられます。そのような環境の中で、障がい者は、絶望し、希望を失い、顔つきも変わっていく。その障がい者を介助をしている職員自体も希望を失い、人間性を失っていき、目の前にいる障がい者を、人として見なくなり、虐待の連鎖を繰り返してしまう構造になっていきます。(中略)このような環境では、何もできないで人間として生きている価値があるんだろうかと思ってしまう植松被告のような職員が出てきてもおかしくないと思います〉(参議院議員木村英子オフィシャルサイト『相模原事件初公判にあたり』2020年1月8日)】乏しいマンパワーで何人もの障碍者を介助しなければならない現場では、介護する側もされる側も人間性を失っていく、と木村議員は指摘する。植松被告がやまゆり園で働き始めた当初は「明るく朗らかで、丁寧な好青年」として見られていたことが証言で明らかになっている。しかし被告も障碍者施設で働いているうちに変わっていき、事件の引き金となるような優生的思想を抱くようになっていったのかもしれない。植松が例外なのではない──そう木村議員が当事者として語るように、障碍者の介護の現場を取り巻く環境的要因を考慮せず、「異常者がやったことだ」と事件をまったく切断処理してしまってもよいとは思えない。~世間の人びとは、植松被告の差別的、選民的な思想に対して異議を申し立てた。健常者であろうと、障碍者であろうと、ひとりの人間として人権があり、平等であると。意思疎通ができなければ人間ではないとか、生産性がなければ人間ではないなどといった主張に対して、真っ向から反対の声を挙げたのだ。だが社会は年々、そのような「障碍者差別」に反対する言葉とは裏腹に、「能力で劣る健常者」に対しても冷酷な視線を注ぐようになってはいないだろうか。たとえば、なにか具体的な病気や障碍をもっているわけではなくとも、ただ要領が悪かったり、仕事ができなかったり、コミュニケーション能力が低かったりする人たちを、「生産性が低い」「努力が足りない」などと言って遠ざけ、冷遇する現実がある。しかしそれを、社会は人権侵害だとは考えない。「機会の平等」や「自由競争の結果」であるとみなされる。社会によりどころをなくしてしまった人を、最終的には家庭に引き取らせて「なかったことにする」ような動きに対してあまり異議が出ないのも、いまや皆がうっすらと「この社会は余裕がないのだから(社会性、生産性がない人まで、世間が面倒をみて包摂することはできない)」という前提を暗黙裡に共有しているからでもあるだろう。*4私たちは、大なり小なり、「私たちと同質的にふるまえない者」を排除することによって、この「生産的で快適な社会」を築いてきた。植松の思想をどれほど強く否定したとしても、しかし私たちの社会の根本には、「人間を、能力の高低や他者にもたらす便益の大小で選別するのは仕方がない」という考え方がインストールされている。植松の言説は、私たちの社会と断絶するものではなく地続きであり、その極北、最果てに待ち受けているものだ。~耳を疑うような差別的言説を言い放つ人間が、必ずしも悪意の塊であるとはかぎらない。そこには当人なりの危機意識、むしろ「善意」があることさえ珍しくない。障碍者施設の建設に反対する住人は、純然たる憎悪から排除を申し立てているわけではなく、自分の身内や近隣住民の生活を守りたいという「やさしさ」から、「私たちと同質的にふるまえない者」を排除しようとすることもある。私たちの「やさしさ」は「残酷さ」としばしば紙一重である。*5~植松被告の思想や主張を「絶対に受け入れられないものである」と明言するのであれば、直接・間接を問わず、被告の主張を是認する──すなわち「能力のない者を養う余裕などこの社会にはない」といった言説に説得力を与えるような──事象や言説を見抜き、批判するよう誰もが努めなければならないだろう。そうでなければ、植松被告が抱いた憎悪に本当の意味で打ち勝つことはできない。』
この記事での指摘の通り「行きつく先」での出来事である。植松被告を断罪し、善良な市民ヅラをしている誰もが「背に腹は代えられん」となれば「見捨てる」命や「自ら殺めなければならない」命も出てくるのだ。
相模原事件「植松被告の論理」を、私たちは完全否定できるか
能力主義の最果てにある悪夢
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69782
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