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そろそろ腹八分目の生き方をヒトビトは学ぶべきだろう。

『要するに、ブルシット・ジョブは、労働条件の悪いキツい仕事ではないということである。それは、シット・ジョブ(まさにクソ仕事である。以下、SJ)であって、BSJとは区別しなければならない。これは、よくある誤解で、訳者もなんどかそういう誤解に出会っている。つまり、だれかがキツくて条件の劣悪な仕事をしているとすると、その仕事は世の中の役に立っていることが多く、当人もそう感じていることが多い。まさにBSJとは反対である。グレーバーはこのようにいっている。「その労働が他者の助けとなり、他者に便益を提供するものであればあるほど、そしてつくりだされる社会的価値が高ければ高いほど、おそらくそれに与えられる報酬はより少なくなる」。これは大事な論点だ。要するに、だれかがキツくて骨の折れる仕事をしているとすれば、その仕事は、世の中の役に立っている可能性が高い。つまり、だれかの仕事が他者に寄与するものであるほど、当人に支払われるものはより少なくなる傾向にあり、その意味においても、よりキツい仕事となっていく傾向にある。ところが、BSJは、地位が高く、他者から敬意をもたれることも多いし、その仕事に就いた人間は、高い収入を得て、大きな利益を受け取っていることも多い(ところが、内心では、その仕事を無意味であると感じているのである)。と、ここまできて、不思議に感じているひとも多いだろう。というのも、現代社会は、ふつう、「市場原理」による容赦のない合理化によって、「無駄」とみなされた仕事は容赦なく削減されていると考えられているからである。ところが、本書はそうした認識をひっくり返して、実際起きていることは、その真逆であるといっているのである。とはいえ、より正確にいうと、実際には、容赦のない削減も起きているのだが、それはしかし、現代社会の全体の傾向を通してあらわれている一部の現象にすぎないということだ。そのような効率化による不安定化を押しつけられているのは、ブルーカラー労働者であり、生産的な労働者、つまり、実際にモノをつくり、いろんなところに運び、それを維持し、実質的な作業を行なっている人たちである。~リベラリズムの鉄則とは、「いかなる市場改革も、規制を緩和し市場原理を促進しようとする政府のイニシアチヴも、最終的に帰着するのは、規制の総数、お役所仕事の総数、政府の雇用する官僚の総数の上昇である」。常識に反しているだろう。でもこれも、BSJとおなじで、常識には反しているが実感には即している。というのも、規制緩和とか自由化がいわれ、政治家が官僚制を攻撃しているいっぽうで、わたしたちの日常は、やたらと規制が増えて、やたらと書類仕事も増え、なにごとも、そんなことがいわれるまえよりも厄介になった。そんなふうに感じていないひとは、多分、そう多くはないはずだ。Covid-19パンデミックで「経済」が停止を余儀なくされるなかで「エッセンシャル・ワーカー」という用語が使用されるようになったが、まさにそれは、「不要な仕事が存在する」というBSJ仮説を、「必要不可欠な仕事がある」というかたちで裏づけることになった。もともと、『ブルシット・ジョブ』でも、効率化の名目で自動化なども動力としながら削減されつつあるSJのうちでも、ケアワーク的な領域はどんどん広がっているとみなされているが、今回、「エッセンシャル」とされた仕事もこのケアにかかわる仕事が多くを占めていた。グレーバーが最近のある論評で、こんなふうに注意を促している。必要不可欠な仕事の大部分は、古典的な意味で物理的対象物をこの世にもたらすといった意味で「生産的」なものとはいえない。そのほとんどは、なんらかのかたちでケアにかかわる仕事であることが、このパンデミックのさなかにあきらかになった、と。つまり、他の人びとの世話をし、病人を看護し、生徒に教える仕事。物の移動や修理、清掃や整備にかかわる仕事や、人間以外の生き物が繁栄していけるための環境づくりに取り組む仕事などなど。~「ブルシット階級」のありよう、かれらのおかれた悲喜劇的状況、そして「わたしたちの集団的な魂を毀損している傷」とさえいわれる、かれらの感じている苦境が主題なのである。目についたレビューのなかには、グレーバーがブルーカラーに共感するいっぽうで、ブルシット・ジョブに就くホワイト・カラーには冷淡ないし軽蔑的であると決めつけているものもある。しかし、それは大事なところを取り逃がしている。BSJ階級の証言の数々を検討しながら、「特権的なものの泣き言にすぎない」とか、苦境の度合いを比較して道徳的優劣をつけるような倫理主義的ふるまいに、いっさいの余地を与えていないという点でも、グレーバーの「ブルシット・ジョブ」論は、特筆すべきである。以下は、重要な一節である。「これら[BSJとSJ]は根本から異なる二つの抑圧の形態である。わたしには両者を同一視する気はさらさらない。わたしの知るかぎり、意味のない中間管理職の立場を棄てて溝の掘削仕事に就く人間は、たとえ溝が本当に必要とされるとわかっていたとしても、少数である(ただし、そのたぐいの仕事をやめて清掃員となり、その結果に満足している人びとをわたしは知っている)。わたしがここで強調したいのは、両者はともに、それぞれが独自の仕方で、実に抑圧的だということにほかならない」。『ブルシット・ジョブ』を読んで、ひとつ気づかされるのは、はたからみれば労働条件がきわめて良好であったとしても、自分の仕事が「ブルシット」であることにおびただしい人たちが心を傷めていることである。本書は、そんな意味のない仕事に打ちのめされる人々の精神の記録でもある。このような人々の反応に、訳者はひとつ救いをみいだすのだがどうだろうか。もちろん、その反応は文化によってさまざまだろう。日本では、そもそも「世間」の承認を超え、それを批評できるような価値意識があるのだろうか? どんなブルシットでも、世間から承認されていれば、それで満足してできるひとが多いのではないだろうか?訳者にはなんともいえない。たとえば、そもそもBSJ論への反応が、諸外国に比較して遅かったのもその兆候かもしれない。~もちろん、そのような普遍的次元を想定したうえでもさらに、日本の産業構造や雇用慣行に由来する、BSJやそれへの応答の独特の様相はあるだろう。それは、これから議論の必要なところである。少なくとも、すでに訳者は、日本独特の会議文化、リモートワークにおいて激化した印鑑をめぐる矛盾と悲喜劇、そこにもあらわれる独特の空疎な儀礼的慣行のおびただしさ、人間関係のヒエラルキーを確認するだけの無意味な儀式と官僚制的儀式のからみあい、といったテーマで、「日本版BSJへの嘆き」とでもいうべきメールをもらったりしている。~しばしば誤解されているようにみえるのだが、BSJ論はBSJを攻撃しているのではない。あえていえば、そこで攻撃されているのは、BSJを生産し増殖させているシステム総体である。現在の金融化した資本主義システムが作動するとき、必然的に、この壮大な「ブルシット機械」も作動をはじめるということである。BSJ階級もSJ階級も、その機械に押しつぶされているものなのであって、この機械をこそ壊さなければならない。少なくとも、『ブルシット・ジョブ』のねらいはそこにある。そんな、世界的に配備された「惑星的ブルシット機械」の作動を止めることは、わたしたちが「労働」から解放されるときだろう。そしてそれは、実は、すでに実現しているかもしれないのであって——グレーバーは週15時間労働の実現といった、ケインズがわたしたちのこの時代にむけた予測は実質的には当たっているという——、BSJは、その実現を、つまりわたしたちを「いい感じ」——一日、2,3時間働いて、あとは自由に、自発的に、不安も拘束もなしに活動することができる——にさせないため、それを阻止するために、その道のりをふさいでいるのかもしれない。そういったわくわくする想像をさせてくれるだけでも、本書はなにがしか「意味のある」仕事をなしているだろう。そこには、わたしたちとおなじように苦しい人たちの言葉がたくさんある。そして筆者はそれらの言葉に耳をかたむけ、そのような苦境がなぜ生まれるのかを四苦八苦して——本当に四苦八苦という感じなのだ——考えようとしてくれている。どんな仕事であれ、世間がどうみている仕事であっても、それがいやで仕方のないたくさんのひとたち、あるいは、仕事のなかのわずかのよろこびも無意味な作業に日々浸食され、つらく感じているたくさんのひとたちに、それはきっと届くはずだ。』

規制緩和や自由化の名のもとに民間に投げられた様にみえた資本のイニシアチブは結局は市場原理には基づかない力学でBSJとSJを量産している。多くを求めすぎると効率的ではない方法も必要となってしまうのだ。そろそろ腹八分目の生き方をヒトビトは学ぶべきだろう。

なぜ「クソどうでもいい仕事」は増え続けるのか?
日本人のためのブルシット・ジョブ入門
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74475

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