最終的には実施される側である自分自身が己に克つしかないのだ。

『これを「迷信」と呼ぶことは簡単であるが、その時代においては、それはまさに彼らの生を支えてきたのである。そして、現代の医学はそれに代わるパワフルな理論と技術を私たちに提供してくれたとはいえ、それもまた完璧なものではない。私たちは今現在も、病気、健康、生きることの不確実性、そして死への不安に苛まれている。前近代的な医療の儀式的行為への回帰や憧憬はそこに容易に忍び込んでくる。そのような人の主観的体験そのものは誰にも否定することはできない。そのような経験を無視することはおそらく問題への対処をより混乱させることになるだろう。それでは、私たちが、ある種の主観的経験を提供されることによって「元気が出たり」「辛い毎日をやり過ごすことができるようになったり」するとしたら、どんなことであってもそれは提供されるべきなのだろうか? そうではないと思う。「苦しむ人を少しでも癒そうとする」ことをその目標とする専門職集団に所属しようとするならば、そこには、どうしても守らなければならない基本的な原則が存在する。それは「専門職倫理」と呼ばれる。医療においてそれは、生命倫理あるいは医療倫理と呼ばれ、医療に携わる専門職はその実現を常に目指さなければならない。医療は非常にたくさんの職種によって支えられているが、その基本になるのは医師に課せられた倫理であり、医師はそのような原則を守ることによって、医師以外の人々から「医師という専門職」であることを承認されるのである。現代の多くの人によって合意されている医療倫理の原則は4つある。それは「自律尊重」「無危害」「恩恵」「正義」の原則である。医師は医療を施す対象となる人(多くの場合患者と呼ばれる)に対して、この4つの原則が実現するように最大の努力を払わなければならない。これらの4つの原則の間に矛盾が生じる場合(それは現場ではよく起こる)、複数の原則を調和させるように最大限努力しなければならない。「自律尊重原則」は医療において患者の自由意思を最大限に尊重することである。「正義原則」は、医療の配分や適応において公正さと公平性を確保することである。しかし、ここで一番問題になるのは、「無危害」と「恩恵」の二つの原則だろう。有名なヒポクラテスの誓いに示されている(出典については異論もあるが)、「汝害を為すことなかれ:Do no harm」に象徴される「無危害原則」は、医療倫理の中でも最も重要視される。しかし、実践においては「恩恵原則」(患者のためになることをすること)とのトレードオフが必ず生じる。ここで重要なのは、医療行為とは、多かれ少なかれ患者に害を与える行為を含んでおり、それが許されるためには、その害を明らかに上回る「恩恵」が患者に与えられる必要があるということだ。害と恩恵は常にトレードオフとして把握される必要がある。しかし、しばしば医師は自身の行為が患者に害を与えているということに無自覚である。血液クレンジングにおいて、「採取された血液に添加されるオゾンには本当に効能があるのか」という点ばかりが注目され、議論の対象になりやすい。しかし、オゾン自体は複数の投与法において人体に毒性を発揮することが明らかである。例えばオゾンガスを吸入させれば肺に傷害を与える。血液クレンジングを推奨する立場の人たちは、体外でオゾンを血液に作用させる限り害を為すことはないと主張している。しかしこの主張は多くの人を納得させるようなものではない。さらに忘れられやすいのは、オゾンの問題以前に、「皮膚を破って針を刺すこと」「血液を抜くこと」「汚染された可能性のある血液を体内に戻すこと」などは、そもそも人体を傷害する行為であるということである。この行為が傷害であることから免れる(阻却される)ためには、「血液クレンジング」が、その害(とその可能性)をはるかに上回る恩恵を患者に与える医療行為であることが保証されていなければならない。それは単にサプリメントを患者に勧めたり、温泉で養生することを勧めたりすることとは次元が違う。人体に害をなす可能性のある行為を合法的に行うことは医師にしかできず、それゆえに医師には厳しい倫理原則が適用されるのである。もう一点、検討しなければならない論点を指摘しておきたい。医療とは「苦しむ人に対する支援行為」であると考えられ、その前提においてはじめて医師をはじめとした医療専門職の存在や、専門職が行う医療行為の定義や範囲を定めることができる。しかし、「血液クレンジング」の場合、その主たる目的は、「健康な人をより健康にする」「病気の再発を予防するための免疫力などを高める」ためと称されていることが多い。これらの「健康な人をより健康にするため」の行為は一般には「エンハンスメント」と呼ばれるのだが、これは医療行為の中に含めてよいのだろうか? この問題には実は結論が出ていないように思われる。健康な人がより健康になりたいと願うのは、おそらく人間にとってありふれたことであり、その願い自体を否定する必要はない。しかし、もしエンハンスメントが医療行為ではないとすれば、そもそも傷害罪の棄却が成立しなくなるので、人体に針をさしたり、切開を加えたり、異物を注入したりということは即犯罪ということになる。しかし、現実的にはそれはグレーゾーンになっており、これは美容整形(健康な人をより美しくしようとする)などを含む他の領域にも拡張される議論となるだろう。~人生は苦しみに満ちているので、少しでも苦しみを癒すことのできる体験を専門家に提供してもらいたいと一般の人が望むことは、非難されるべきことではない。また、それを媒介しようとする人々(時にはそれが色々な問題を起こす可能性がある)が出現してくることもある程度避けられないことだと思う。しかし、人に害を与える可能性のある行為を「敢えてしないという決断」は専門職のみが行うことができる。それは専門職の義務であるとともに、専門職にのみ許された特権である。』

「ヘルスケア(健康管理)」と「メディカルケア(医療)」の間に玉虫色の「エンハンスメント(強化)」が混ざっている。現代医療も万能ではないし、現代医療に見放されたり、他人よりもより良い健康や美容を求めるモノを標的に、このグレーゾーンを巧みに利用したビジネスが横行するのだ。専門職がこれに手を染めると必ずやそれなりの報いを受けることになる。「できるけどやらない」と全ての専門職のヒトビトが己に克てるわけではない。最終的には実施される側である自分自身が己に克つしかないのだ。

「血液クレンジング」はなぜ倫理に反しているか、医師の私の考え
専門職に就く、全ての人へ
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68078

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