緊急事態と言うのは権力側にとってはある意味好都合なのだ。

『当時を知っている人々には、「心から『自粛』したくて自粛した・それに従ったのか」少し思い出してほしい。ここに至ると、自粛は単なる痩せ我慢や表現規制の口実にすらなる。総合するに社会的な「自粛」とは、個人の自粛の集合。または政治的な圧力の言い換え。あるいは一時の混乱による様々な再編成の一側面とでもいうことができるだろう。そして戦後の日本が体験してきた「自粛」とはあくまで天災や政治的な要素に付随する一時的なものであって、天災ならいつかは復興し、人の死ならいつかは喪が明ける、少なくとも「先の見えない」「いつ終わるか分からない」ものではなかった。だが、短期間には解決しないものが、二つある。一つは現在の新型コロナウイルスのような、世界規模のパンデミック。もう一つは、戦争ないし戦時下、である。実際、世界各国の指導層はコロナウイルスへの対処を「戦争」に例えて説明している。世界の国境を越えて広がる災禍なら、違いはそうないだろう。また、旧来の戦争に対してならば「勝利のため・お国のため」という大義名分がついたように、パンデミックに対してならば「健康・衛生のため、安全のため」という大義名分が付く。むろん、後者の方が現代の社会においては理解されやすいだろう。~ただ、いずれ、日本における現在の(不思議な用法の)「自粛」は、健康と衛生のためという大義名分から次第に離れていき、明確な規制や統制となっていき国家の強制力を強めていく口実となるだろう。これらが行き着いた先では、「自粛」により(金銭ないし政治的な)利益を得ることすら可能になっていくのかも知れない。誰が国家に一番「良く従える」かを競い、様々な痩せ我慢の「美談」が生まれていたあの時代のように。~コロナも戦争も長期戦ではあるが、戦時下の、我々の祖父母・ひいお爺さんお婆さんたちも、終わりの見えない日々の中で単に体制におもねり続ける者ばかりだった訳ではない。そういった人々の姿は、皮肉にも権力側である特高警察の資料「特高月報」に残されている。~「特高月報」では戦時中特に統制下に置かれた農家の不満の声が採録されているが、大まかに二つの反応が見られる。一つは、自主献納や実態に沿わない割当を強いられることへの不満と、もう一つは「これだけ我々が苦労しているのに他所(都会)の連中は」式の不満である。~これらは全て別々の発言であり同一人物の発言ではない。しかしこれらの相反する言動も、現代の新型コロナウイルス騒動でもまま見られる心理に近いのではないだろうか。片や苦しめられつつ、片や他者への圧力や監視に加担してしまう。また、この発言に現れているものではないが、戦前の日本においては密告なども行われていた。自粛の負の側面は、相互監視である。だが、これは断ち切ることができる。他人を監視せず、また「自粛中・緊急事態なのにあそこは営業している」といったような自粛にまつわる圧力や「炎上」に加担しない。自分の「緊急事態」と、他人の「緊急事態」と、国の言う「緊急事態」は、それぞれ異なるのだ。健康・衛生のためという意識と、それでも権力やメディアと距離を保ち、また分断を拒否する意識は、必ず両立できるものである。』

緊急事態と言うのは権力側にとってはある意味好都合なのだ。それまでは自由だ民主主義だと言っていた民も守ってもらう代わりなんだからと易々と己のポリシーを変えてしまう。やはり緩やかな監視社会での自由がぬるま湯に浸かってしまったモノには丁度良いのかもしれない。

危機の時代に「自粛しなかった人々」から学べること
国の圧力に屈した娯楽とその反発
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/71786

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