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十勝鉄道研究 #1

(これは2020年に他の媒体に掲載した文章を加減筆したものです。)

私は毎年夏の数か月間、「プチ移住」と称して北海道の帯広市に居を移します。そこからさらに道内をあちこちめぐるのですが、旅していると北海道には廃線跡が多いのに気づきました。

十勝にもいくつか廃線があります。国鉄末期に廃線となった広尾線、士幌線、一旦第三セクターになってから廃線となった池北線 (ちほく高原鉄道)、そして、ほんの十数年前まで貨物営業を続けていた、十勝鉄道です。

住んでいるところは帯広市ではあるものの中札内村や更別村が帯広市街地よりむしろ近く、中札内や更別を通っていた広尾線の廃線跡や駅跡はなんとなくわかっていましたが、インターネットを検索していたらたまたま、十勝鉄道という鉄道があったことを知りました。

十勝鉄道、2010年ころ?まで、帯広貨物駅と芽室町にある甜菜製糖芽室工場の間の貨物線を運行していて、その前は帯広駅から帯広市稲田にある帯広製糖工場までをこちらも貨物線で運行していたそうですが、さらにそれ以前には、なんと帯広から帯広の農村部に向かって、3つの路線を旅客営業していたそうです。

戸蔦線、八千代線、美生線の3路線がそれで、このうち戸蔦線は私の住んでいたところの近くを走っていました。戸蔦線が廃線になったのは昭和30年代だそうで、そう考えると今は跡形もないのはうなづけますが、興味をそそります。ちょっとだけ十勝鉄道を研究してみることにしました。

ちなみに私の住んでいるところは今はこんな光景です。畑、山、空、雲。

自宅近くから十勝幌尻岳と夕焼けを望む

ということで、十勝鉄道の研究をするならビート資料館に行かないと始まりません。貴重な十鉄(十勝鉄道の略)の資料がいまだに多く保管されています。

まず目に入ったのがこの資料。帯広市と合併する前の川西村の地図です。
十勝鉄道はそのほとんどを川西村区域で運行しておりました。

川西村全図

赤い線が十勝鉄道で、帯広駅前の帯広大通駅から今ヨーカドーのあるあたりにあった稲田の製糖工場を通り、帯広畜産大の脇を通って川西へ。その後殖民区画の西二線を南下し、藤で戸蔦線と美生線(八千代線)が分岐します。

戸蔦線は引き続き南下して清川まで西二線を進み、現存する十勝鉄道清川農場の先でぐいっと西へ向きを変え、西四線あたりで再度南下、南太平を過ぎて東に振ってまた西二線に戻り、その先戸蔦別川のほとりの戸蔦が終着となります。キロ数にしておよそ30キロ程度。京王線でいうと新宿から高幡不動位でしょうか。特急で30分。まあまあ遠いです。

一方藤で分岐した美生線(八千代線)は、殖民区画の20号線を西に進み、一旦芽室町の常盤まで行き、ここから南下して上帯広、広野と通って八千代まで行きます。こちらも30キロ程度。小田急線でいうと新宿から町田くらいですね。ロマンスカーで30分。そこそこ遠いです。

ちなみにわたしのプチ移住での居住地は戸蔦線が清川農場の南で西に転じて西四線に到達するあたりが最も近く、距離にして500メートル程度しか離れておりません。
つまり、もし十勝鉄道が今も運行していて、蒸気機関車が走っていたら、汽笛の音が結構近くに聞こえていたというわけです。

では一体汽笛は何時ころ聞こえていたのか?もし列車が走っていたら帯広まで何分くらいだったのか?が気になります。ということで時刻表。こちらも資料館に残っていました。

時刻表

廃止直前は戸蔦まで来る列車は一日二往復だったことが分かります。帯広までの所要時間をみると、戸蔦から帯広大通行の始発は、戸蔦を6時半に出て、帯広には8時半の到着ということで、約2時間。
え?2時間? 距離的には30キロ程度なので、なんと時速15キロですw

自転車のほうが早いのではないでしょうか(平坦だし)これは利用は厳しいです。そして帯広から戸蔦行の最終は4時半。帯広への通勤で使うのはほぼ無理ですね。

今はクルマで戸蔦から帯広駅までおそらく40-50分もあれば行くように思いますが、当時は道もよくなかったでしょうから、唯一の移動手段だったのかもしれません。歴史を感じます。

さて、ビート資料館にはほかにも甜菜製糖の文献や歴史的な資料など興味をそそるものがいっぱいあって、一日いても飽きないのですが、そろそろ十勝鉄道の痕跡を探しに行きましょう。

ということで後ろ髪を引かれる思いでビート資料館を後にし、#2 に続きます。

※ 私は日本甜菜製糖さんから資料館訪問記念のグラニュー糖以外の収入は得ておりません。あくまで中立の立場となります(いちファンですが。皆さんスズラン印の甜菜糖をぜひ御贔屓に)。


駆け出し FP としてライフプランニングのお手伝いをしております。ご興味ありましたら是非!


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