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親も祖母も選べないね
私が産まれたのは昭和33年の冬です。大阪府寝屋川市の商店街を抜けた所に大きな屋敷に産まれたけど ……父がまだ20歳で母が22歳のデキ婚でした。
祖母はエラく嫌いそして母を嫌いました。
それは母が宮崎から姉妹で大阪に出てきていて 尚且つ、母は、お水をしていた事と実家が貧乏な事から
祖母としては 長男で一人息子の嫁には家柄が違いすぎるから反対でしたが、母が産み月に父がもう産まれるから…と強引に嫁にした
祖父は優しい人間でしたから孫が出来るとよろこんだらしいですが
祖母は嫌々でした。
家業は豆腐屋でした。祖父母が営んでました。屋敷には別棟で
倉庫みたいな大きな蔵が2軒ありました。
1軒には 下は子守りが暮らせる様にと部屋になっていました。
市場の中と商店街に店舗があり
商店街の店舗は祖母の弟夫婦に任せていました。
祖父母は、産み月の母をも店の手にしていたと聞いてます
豆腐屋の朝は早くまた冬は水仕事なので かなり辛いと思われます。
私は自宅出産でした。
弟は4つ下のまたこれも自宅出産です。
敷地内には 庭が二つあり池には橋がかかり 鯉が沢山居ました
庭の中でよく弟と隠れんぼした記憶があります。それと庭師が剪定に来ていて池に脚立を立てて作業していて
弟がどうして かは思い出せないけど2回も池にはまっていた(笑)
店の手伝いで母は居ないので子守りには祖母の姉が蔵の部屋に暮らして私達姉弟を見ていました。私は 叔母ちゃんを細いおばちゃんと呼んでいました。
とても優しくて好きでした。
豆腐屋は忙しくてまだ幼稚園に上がる前には よく細いおばちゃんと店に母が居るから遊びに行きました。
手を触ると また母がわたしの
ほっぺを触ると凍りつくぐらい冷たかったのはよく覚えてます
私達家族は離れに住んでいました
当時の父の仕事は最初はダンプ(大型)やと聞きました。それから免許取得してからは観光バスの運転手を西鉄でしていたらしい です。
長距離で毎晩帰らない父でしたが
その分 祖父は私等を可愛がりいつも私は膝に乗り食事していたり
長い縁側に座り夏にはスイカを食べて庭に種を飛ばしていた
鯉の餌やりとかしたし
手を叩くと沢山の鯉があつまる
母に抱かれた記憶は悲しいかなありません
何故なら祖母がこき使いいつも私は細いおばちゃんか祖父に抱かれていましたので
それから弟が生まれると私は祖父の膝と細いおばちゃんの抱っこから卒業しました。
長い髪でしたが母が辞めてくださいと懇願したが(後日談)祖母は弟が産まれて髪を洗うのが大変と言う理屈で嫌がる母の意見など耳にもせずに
バッサリ切ったらしいです。
後日談にはなりますが
母は泣いて切られた私の髪を集めていたみたいです。
私は少し記憶にあるのが毎朝市場に細いおばちゃんと行き母に髪をといでもらい三つ編みとかリボンとかして貰ってました。その内に
近くに母の妹夫婦が引っ越してきて 良くうちに遊びに来ていた
小夜子叔母ちゃん 小夜ちゃんと呼んでいた。
まだ若かったなぁ小夜ちゃんは20ぐらいかな……
今言えることは まだその時代は私も弟も裕福でなんの苦労もない生活で幸せな時を過ごしていたと今は思い出すとそう思います。
それと不思議ですが
父の記憶がないんです。
抱かれた記憶すらないしご飯も一緒に食べた記憶がない
観光バスやから どうなんやろ
不思議と記憶にないんです。
母に自慢話で聴いたコトがある
しぃちゃん あんね お父さんとお母さんね よくデートで大阪の心斎橋に行っていて しぃちゃんのお父さんは石原裕次郎にそっくりでサインを求められて囲まれるぐらいお父さんはカッコイイんやで自慢やからね覚えていてよって
まぁ当時の写真見たら あっほんまや そっくりやわてなりました。
これは私が大人になり
小夜ちゃんとこで見せて貰った。
母と父は大恋愛のデキ婚。
でも1人祖母が隠れて母を虐めていた事も事実でした。
よく耐えたと今ならどれだけ辛かったか理解出来ます。
子供達の為に耐えたと理解していますが 祖父が優しい人間でしたので そこは1つは救われたかなと思います。
続きます。ありがとうございます!