慶應はやめて・国立にしとけ

ダイヤモンド・オンラインでそのような記事がありました。
「慶應なんてやめて小樽高商にしとけ」国立至上主義の教師、まさかの100年前から存在していた (msn.com)

慶應義塾は江戸時代末期からあったということは、歴史の教科書に載っていますが、その実態は慶應義塾大学のWEBを見ていただけばわかるとおり、
塾生は主に、越後長岡藩士、紀州藩士、そして中津藩士が大半を占めていたといわれます。
紀州藩士も有名ですが、長岡藩では、三島億二郎が福沢諭吉と親交があったために特に運営に協力的でした。

わたしの母校の長岡高校は、長岡洋学校として設立時に校長は三島億二郎ですが、慶應義塾から教師を呼んできて授業を行ったために、最初は長岡洋学校は慶應義塾の系列校的な位置づけでした。
長岡洋学校の教務を主任したのは、藤野善蔵。長岡洋学校の教頭で赴任し、翌年退職して慶應義塾の塾長になりました。
長岡洋学校最初の事務長は大橋佐平。大橋財閥といわれる出版界の巨人。
東京堂書店や博報堂、日販、トーハン、共立印刷などの前身を創業した人です。
しかし慶應義塾は、帝国大学が設立されると塾生の減少に悩まされ、大阪の分校なども閉校になり、本校もやめようか、という福沢諭吉は考えたのです。
そこで、慶應義塾存続のために寄付金を投じたのは、現在の三条市の出身で長岡藩と縁が深かった笠原文平。北海道札幌の篠路で味噌の醸造の事業で成功した人です。
その寄付に対する感謝状も慶應義塾大学の資料にあります。
そして多くの寄付や豪農の子弟などが慶應義塾に通うようになりました。
小千谷にある、小千谷縮の問屋に西脇商店がありますが、ここから慶應義塾で学んだ西脇順三郎が特に有名です。ノーベル文学賞にもノミネートされました。
そのためかしらず、長岡高校には慶應義塾大学の指定校推薦はずっとあるように思います。

しかし、わが母校では、慶應義塾大学に行くより、早稲田大学に行く高校生が実は多いのですが、これは明治初期に新潟県では立憲改進党が優位だったこともあります。
前島密など有力な校賓もあり、東京専門学校(早稲田大学の前身)の寄付を募っていました。
たぶんご先祖様もその頃に寄付をしたのではないかと思います。
わたしの実家の近所に、立憲改進党の重鎮の庄屋である、山口権三郎邸があります。
本日の新潟日報では、渋沢栄一に関する交流でその山口邸を訪問した記事がありました。

明治最初に帝国議会が開会したとき、最初の衆議院議員選挙では新潟県が議員数が最多でした。新潟県の次が東京府です。
その新潟県の衆議院議員のほとんどが立憲改進党の議員で、長岡からは自由党の長谷川泰議員が当選します。
長岡市は慶應義塾大学との繋がりは深いのですが、それ以上に早稲田大学との繋がりは深いのでした。

ですから、地元国立大学への進学指導をすすめますが、新潟大学と東北大学への進学が多いのですが、わたしの頃は東北大と早稲田大学の合格者、進学者はほぼ同数だったと思います。(早稲田大学は指定校推薦もあります)

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