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上京物語

(2024.7に閉店した中華メルシー 2022年撮影)
上京の話、ということですか。
なぜ早稲田大学を第一志望にしたか、
それは高校1年で模擬試験でノリで書いたのがきっかけでした。
経済的に東京都内の私立大学の受験は考えて無かったのですが、親から「早稲田大学なら学費は工面する」ということでした。
理由は、かなりあとでわかりました。それは猪俣津南雄氏の研究でおいおい出てきますので後述します。
ホントに良いのか、と聞いたら、「他の私立はダメだな」という話でした。それも学費は4年、留年は許さない、ということです。
これ幸いということで、高校1年から赤本を買って勉強したのです。
1990年、平成2年。
実際の入試は、他の学部も手応えあったのですが、後で開示してもらったら、英語がイマイチで、合格したのは社会科学部でした。
あちゃーでした。
当時は夜間部の名残で午前中はバイトを出来るメリットはあって、自分で生活費も稼いで親孝行も出来るか、という決断でした。
当時は自虐ネタで「都の西北早稲田の隣、バカだ、バカだ、バカだシャガク」と歌われ、一番頭が悪い、どうしても早稲田に入りたい人が入る学部、といわれました。異様に試験倍率は高いのですが、試験会場で少年ジャンプを読んでいた受験生も見たので大概です。
それでも倍率30倍で受かったんだから、辞退したり仮面浪人したりは、落ちた人に申し訳ない、という気持ちもありました。

今になると入ってよかったと思います。政経学部、法学部、商学部の授業を受けることが出来たのです。

宿探しは、一日ではじめの物件で即決。高田馬場の不動産屋のお兄さんが、「あの大家のババがうるさいから契約してもらえないか、安くする」という、今では信じられないような理由で決めました。親から出してもらう手前です、
都立家政の風呂無し、トイレ共同、六畳ひとま。夏はむちゃくちゃ暑い。
風呂屋はあるいて10分くらいに「平和湯」という銭湯がありました。卒業後に改築されましたが、昔ながらのお風呂屋さんでした。番台のおばちゃんは優しかったです。

都立家政から高田馬場へ出て、そこから徒歩で通いました。

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