Ep.2『理想の赤ワイン』
理想の赤ワイン(65歳、男性)
『こんにちは』
私はマスターにそう言うと、いつものお気に入りの席に着く。
あとはマスターがいつもの赤ワインを、注文せずとも自動的に持って来てくれる寸法だ。
私は5年間の海外赴任を経て日本に戻り、役員として定年まで会社一筋で勤めあげた。
その為、家族にはお金で困らせた事はなく、今では可愛い孫までいる。
最近は私の名前を呼ぶようになり、ますます孫の虜だ。
そんな娘夫婦が、今離婚しようとしている。
私はそのストレスからか、競馬や株に明け暮れる毎日だ。
利益が出る事もあれば、大損する事もある。
目まぐるしく変化するこの時代で、今まで積み上げて来た知識や経験に背くような結果が多いように思う。
思い描いた理想通りにいかない。
どんなことも理想通りになったら、誰も苦労しない。
苦労や失敗を重ねた方が、人生は面白いかもしれない。
『マスター、今年のブドウはどうかね?』
マスター『地球の温暖化や異常気象で、以前の様にはブドウが育たないと聞いています。毎年理想通りには行きませんね。』
ブドウの収穫は一年に一度のみ。
3年あっても3回しかワイン造りが出来ない。
紀元前から存在しているワイン造りも、時代の変化について行くのがやっとだ。
私の人生も、ワイン造りも一緒ではないだろうか。
今生存している人々全員が、天国に行くまで初めての体験を積み重ねて行くのだ。
これからどんな体験が待ち受けていようとも、
ワインはワインであるように、私は私でいよう。
そう思って赤ワインを飲み干すと、
マスターが、また自動的にグラスにおかわりを注いでくれた。