女であることの絶望とアセクシャル
What are your pronouns? (あなたの代名詞はなんですか?)
アメリカの大学に通っている現在、一番初めのクラスの自己紹介で必ず聞かれるのはこの質問だ。
あなたのことをどう呼べばいいですか?
要は、あなたは女なのか、男なのか、それ以外なのかと問われている。
ノンバイナリーならthey/them。
わたしは迷わず、My pronouns are she/her と答える。
そして答えた後にふと、この今まで誰からも聞かれなかった質問に立ち止まる。
わたしは女なのだろうか?
女であるということに絶望したのはいつだったろうか。
胸が徐々に膨らんできた時か、煩わしい生理が始まった頃か。
中高時代に電車で幾度となく知らない男たちから痴漢を受けた時か。
飲みの席で、最近いつSEXしたの?の下卑た視線を男たちから向けられる時か。
いや、私は一つ強烈に記憶に残っている場面がある。
それは中学生の頃だったと思う。
日曜の朝テレビをつけたら、サンデージャポンで田中みな実さんがロケをしていた。
田中みな実さんは今でこそ女性の憧れの人といった感じだが、あの頃は強烈な“ぶりっ子キャラ”として活躍していた。
しかし私はそんなキャラとは関係なしに彼女に興味を持っていた。
そう、何のきっかけだかは忘れたが、彼女が中高一貫の女子校出身で、青山学院大学を卒業したことを知ったのだった。
そして私自身、そんな彼女と同じく中高一貫の女子校に当時通っており、このままいけばMARCHあたりに入るのだろうなと自分の将来をなんとなく想像していた。(そして実際そうなった。)
つまり、勝手に親近感を抱いていたのである。
私よりほんの少し先を歩く、いわば人生の、そして女性の、先輩だった。
そして何より、私が持っていないもの、“美貌”と、社会的地位、“女性アナウンサー”というものを持っていた。
彼女の活躍を通して、私よりかはもっと上等な、しかし地続きの“私の未来”なるものを見ようとしていたんだと思う。
だってこれだけ勉強して頑張って、私立の女子校を出て、MARCHに入って、さらに私なんかよりずっとはるかに美しい容姿を持った彼女なんかは、それはそれは“成功”するだろう。
そんな風に彼女を見ていた。
テレビの中の彼女は、ロケでドイツかなにかのフェスティバルを紹介しており、食レポでなぜか真っ黒いウインナーを口いっぱいに頬張っていた。
口元を過剰にアップして、あからさまに“アレ”を意識したカメラワーク。
そのカメラに向かって「くろ〜い!」と上目遣いでソーセージを咥えて応える彼女。
スタジオの出演者の下品な笑い。失笑。「これ大丈夫?なの」といった冷めたコメント。
私が絶望した瞬間だった。
何にだろう?
きっとあの時私は、彼女を通して“社会”、そして社会で力を振るう“男”を見た気がしたのだ。
社会が求めているのはコレだよ、と。
バカで男の欲望に忠実になる女に用があるのだ、と。
学歴や、頭の賢さなんて必要ないからひけらかさんな。
美しく、からっぽで、従順になんでも男に従う女がいいのだと。
彼女の学歴や彼女自身に、一個人としてのリスペクトがあればあんなふうにはならなかったはずだ。
なぜあんなにも番組制作の男たちに、彼女は道具として、笑い物として扱われなければいけなかったんだろうと思うと、悔しかった。
そして、そんな周りの男の下卑た要望・期待に完璧に応える彼女にも怒りがわいた。
どうして戦わないの、と。
ここで伝えておきたいのは、私は全く田中みな実さんの否定をしたいわけではないということです。
むしろ現在の、飛ぶ鳥を落とす勢いのご活躍には、この男社会において一つの賢い女の戦い方が感じ取れるし、あの時完璧に求められていたものをこなしたから、今の彼女の輝かしい地位があるのだと思う。
ただ、中学生の私には希望がなさすぎた。
私は現在アセクシャルかも?と思っている。
特に男性から性的な関心を持たれることが本当に嫌いだ。
それなのになぜか、1〜2年に1回、ふと「誰でもいいから男性にかわいいって言われたい」という欲望に駆られる時がある。
なぜ?
自分で自分に激しく混乱する。
いつも男性から女性として見られたり、好意を寄せられたら一目散に逃げたくなるのに、いったい急にどうしたの、と。
私も本当によく分からない。
しかしなんとなく感じるのだ。
私の中の女の部分が、ある部分少し欠けていて、そこは男からの承認によってしか埋まらないのだと。
鏡の中で完璧にメイクした自分が微笑んでも、何か足りない。
女友達にかわいいと言われても埋まらない。
男じゃないと、埋められない、私の中の女。
私が私を女と認識する時。
そこには暗い“男への絶望”が存在する。
宇多田ヒカルさんがノンバイナリーを告白したのをYouTubeで見たとき、さて私はノンバイナリーを自認できるだろうか?という疑問を持った。
私はきっと、自分の中の“女”が自分から切り離せない。
アセクシャルで、周りには自分を女としてではなく一人間として見てほしいと望んでいるはずなのに、自分から“女”が切り離せない。
男に絶望しすぎていて、そんな男に、ある部分では認められたいと望んでいる。
そしてそんな私の中の“女”に出会うたび、自分自身に裏切られた気がして、さらに自分がわからなくなる。
ある部分では男を求め、ある部分では強烈に男に絶望し拒絶する。
そしてそのすべてのプロセスにおいて、私は私が女だと自覚する。
こんなにもセクシャリティと自分となる核が混じり合っているのか、とアラサーになって知り、なんだか途方に暮れた気分です。
セクシャリティと向き合うということは、かなり自分の内側に触れなければいけなくて閉塞感がすごいですね。
しがつ
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