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柳原一里塚跡 風景印と記念碑

 福井県越前市にある芝原しばはら郵便局の風景印には柳原一里塚跡が描かれています。風景印には地域の誇りとなるものが描かれているものが多く、この場所がかつて北陸道沿いで栄えていたことを一里塚が伝えてくれています。

一里塚

 江戸(東京)の日本橋を起点として、主要な街道の両側に1里ごとに築かれた塚(土を盛り上げて作った丘)のことを「一里塚」と言います。

 全国規模で設置を命じたのは江戸幕府を開いた徳川家康で、1604年(慶長9年)のことです。一里塚には松や榎がうえられていましたので、遠くからでも旅の目安となったことでしょう。

 柳原の一里塚は、北陸道にあった一里塚で鯖江さばえ宿と武生たけふ宿の間、日野川の近くに位置し、川は白鬼女渡しらきじょわたしという渡し船で往来し、付近は交通の要所として栄えていました。

 1891年(明治24年)の「度量衡法」によると、1里=36町=2160間(約3927メートル)と定められており、江戸時代の一里塚もおおむねこの距離ごとに築かれたものと思います。

 一里塚の多くは道路の付け替えなどで失われしまっており、柳原の一里塚の石碑は、一里塚のあった場所が道路拡幅のため、30メートル南から移設されたそうです。

 北陸道では、福井県あわら市に「千束の一里塚」が残っており、風景印に取り上げられています。


記念碑の地図


碑文

交通史跡 柳原一里塚跡

この隣に「柳原舟だまり」の説明板が立てられております。

柳原舟だまり

府中から流れる御清水川(尼寺川)は柳原を通り日野川に注いでいる。江戸時代、柳原にあった一里塚の東側には、小舟専用の舟だまりがあった。白鬼女から荷を積んだ小舟はロープで引き上げ、舟だまりに係留されていたという。 柳原は、いわば陸路と水路の要地であったので、茶屋や料亭が軒を並べ、商家も集まっていてにぎやかであった。料亭は数軒あったが中でも伊勢屋は風光明媚な地にあり、三味線の音がたえなかったという。茶屋では、うちわや・あめや・中茶屋・はけや・かせやなどが、旅人や人夫を相手に繁昌していた。特に「しんこだんご」は柳原名物として明治末期まで売られていた。

平成十八年(二〇〇六) 三月
家久町
吉野地区自治振興会


芝原郵便局

 風景印は郵便局で押してもらえる絵入りの特別な消印で、色は赤茶色です。郵便窓口に「風景印を押して出してください」とお願いすれば、差し出す手紙やはがきに押してもらえます。また、63円以上の切手を貼ったカードなどに押してもらえます。その場合、差し出さずに持ち帰ることができます。

 風景印は2002年(平成14年)3月11日から使用開始されたものです。郵便窓口は平日のみの営業です。


壺と硯は「家久遺跡」から出土されたものです


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