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新田義貞戦死地碑 風景印と記念碑
福井県福井市にある丨福井新田塚《ふくいにったづか》郵便局の風景印には新田義貞戦死地碑が描かれています。
新田義貞(1301-1338)
新田義貞は、足利尊氏(1305-1358)と共に1333年(元弘3年)の鎌倉幕府の滅亡に関わった武士です。後醍醐天皇(1288-1339)とその皇子であった護良親王(1308-1335)が幕府に不満を持つ武士を糾合して討幕を進め、その中心として活躍しました。
後醍醐天皇による建武政権は1335年(建武2年)に足利尊氏が離反・挙兵し瓦解しました。1336年(建武3年・延元元年)光明天皇を擁立した尊氏に対しこれを認めない後醍醐天皇が吉野に逃れ、南北朝の分立となります。新田義貞は後醍醐天皇の南朝に付き北陸地方に拠点を移し尊氏に対抗しましたが、福井県藤島での戦闘で命を落としました。
太平記(巻20)によると、暦応元年(1338)、新田義貞は藤島城の救援に向かおうとした際、燈明寺畷付近で足利方の黒丸城の斯波高経軍と遭遇し、乱戦の中戦死したとされています。
明暦2年(1656)、この付近の水田から偶然農夫が兜(鉄製銀象眼冑)を掘り出し、当時の藩軍学者井原番右エ門がこれを新田義貞のものであると鑑定したことから、この地が義貞の戦没地とされるようになりました。
万治3年(1660)、福井藩四代藩主 松平光通(みつみち)は、「暦応元年閏七月二日 新田義貞戦死此所」と彫った石碑を建立し、覆堂が建てられました。現在の藤島神社の場所です。
しかしながら、兜は新田義貞の時代のものではなく、当地が新田義貞の戦死地かどうかは疑わしいというのが今日の定説です。
この場所は「新田塚」として1924年(大正13年)に国の史跡に指定されています。
新田義貞は天皇中心の政権を支えた忠臣として、明治から終戦前までの評価が高い武士でした。1882年(明治15年)に正一位を贈られたのも、軍功や亡くなったことを示す場所が史跡となったのも、その表れでしょう。
記念碑の地図
福井市の新田塚(藤島神社の旧蹟地)にあります。
碑文
暦応元年閏七月二日 新田義貞戦死此所
福井新田塚郵便局
風景印は郵便局で押してもらえる絵入りの特別な消印で、色は赤茶色です。郵便窓口に「風景印を押して出してください」とお願いすれば、差し出す手紙やはがきに押してもらえます。また、63円以上の切手を貼ったカードなどに押してもらえます。その場合、差し出さずに持ち帰ることができます。
風景印は1991年(平成3年)9月2日から使用開始されたものです。郵便窓口は平日のみの営業です。
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