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海軍戦没者慰霊之塔 風景印と記念碑

 沖縄県豊見城市にある豊見城とみぐすく郵便局の風景印には海軍戦没者慰霊之塔が描かれています。

 慰霊の塔が第二次世界大戦での沖縄戦の戦禍を後世に伝えるとともに、ここにあった旧海軍司令部壕の一部が公開されています。

旧海軍司令部壕

 沖縄が戦場になることを見越し、1944年(昭和19年)に小禄おろく飛行場(今は那覇空港となっています)防衛のため、海軍沖縄方面根拠隊によって、飛行場を見下ろせる高台の地下に作られた軍事施設です。
 1945年(昭和20年)6月4日、すでに首里を陥落させたアメリカ軍は小禄飛行場に上陸、6日に飛行場は占拠され、6月13日に司令官・幕僚が自決し戦闘が終結しました。日本側では約4,000人の犠牲者を出し、日本海軍の組織的戦闘が終結した場所です。
 遺骨は1952年(昭和27年)になってようやく収集されるようになり、海軍戦没者慰霊之塔が沖縄海友会ならびに海軍戦没者慰霊之塔建立発起人会によって1958年(昭和33年)に建立されました。なお遺骨が見つかった数は約1,200にとどまっています。
 地下に作られた司令部壕は現在、ビジターセンターから入ることが可能です。

 風景印に描かれている「錨のモニュメント」はこの慰霊塔の横にあります。
 また周囲にも石碑が複数あり、風景印には取り上げられていませんが、「仁愛之碑」には壕から当時の司令官太田実おおた みのる少将(1891-1945)によって海軍次官に送信された電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の全文が刻まれています。


動画


記念碑の地図

 海軍戦没者慰霊之塔は海軍壕公園にあります。


碑文

海軍戦没者慰霊之塔 野村吉三郎謹書

 野村吉三郎のむら きちさぶろう(1877-1964)は海軍大将をつとめた人物で、日本がアメリカと開戦した時の駐米大使でもありました。

 錨の背後にも碑文があり、「参加部隊名 沖縄方面根拠地隊」から始まり、部隊・艦船などが記載されています。


豊見城郵便局

 風景印は郵便局で押してもらえる絵入りの特別な消印で、色は赤茶色です。郵便窓口に「風景印を押して出してください」とお願いすれば、差し出す手紙やはがきに押してもらえます。また、63円以上の切手を貼ったカードなどに押してもらえます。その場合、差し出さずに持ち帰ることができます。

 風景印は1992年(平成4年)5月15日から使用開始されたものです。郵便窓口は平日のみの営業ですが、ゆうゆう窓口が土日営業していますので、風景印での差出は可能です。

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