関ヶ原古戦場 風景印と記念碑
岐阜県不破郡関ケ原町にある関ケ原郵便局の風景印には関ヶ原古戦場跡碑が描かれています。風景印には地域の誇りとなる記念碑が描かれることが多く、関ケ原はその名の通り「天下分け目の関ケ原」がそのシンボルです。
関ヶ原の戦い
1600年(慶長5年)9月15日、徳川家康の率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍によって戦われた、「天下分け目」の戦です。その舞台が山に囲まれた盆地である現在の岐阜県関ケ原でした。
豊臣秀吉が1598年(慶長3年)に死去したことで、本来は豊臣家を支える立場の五大老の一人である徳川家康は、自身が天下取りを伺うようになりました。石田三成は家康打倒を画策し、1600年6月に家康が越後の上杉景勝討伐の兵を起こし大阪城から離れたのを契機に諸将を糾合し、同年7月京都の伏見城を攻めました。家康も諸将を集めこれに対抗すべく東海道から進軍、徳川家康の東軍・石田三成の西軍に分かれての戦いとなりました。
8月に西軍は伏見城を落とし、大垣(関ケ原の東)に陣をかまえ、西軍は岐阜城を落としました。9月には西軍が石田三成の本拠佐和山城(滋賀県彦根市)を落としたため、三成は大垣から兵を帰して関ケ原に布陣、家康もそれを追って布陣しました。
関ケ原での戦いは1日で決しましたが前半は兵力に劣る西軍が善戦しており、小早川秀秋が家康の圧力で寝返ったことが東軍勝利を決したとされています。
この戦いで、西軍主将で五大老の一つだった毛利家は大減封、五大老の体制は崩壊し、豊臣家も直轄の蔵入地を没収されたことで、一大名にまで力をそがれ、徳川の覇権が固まりました。家康が征夷大将軍となったのはこの3年後です。
記念碑の地図
関ヶ原には「関ヶ原古戦場」と書かれた石碑が複数あります。主なものでも「開戦地」「決戦地」「石田三成陣地」「徳川家康陣地」などたくさんあります。風景印に描かれたのがどれかはわかっておりませんが、ここでは「決戦地」を挙げておきます。
碑文
関ヶ原郵便局
風景印は郵便局で押してもらえる絵入りの特別な消印で、色は赤茶色です。郵便窓口に「風景印を押して出してください」とお願いすれば、差し出す手紙やはがきに押してもらえます。また、85円以上の切手を貼ったカードなどに押してもらえます。その場合、差し出さずに持ち帰ることができます。
風景印は1961年(昭和36年)8月15日から使用開始された古いものです。郵便窓口は平日のみの営業です。
関ケ原に関する風景印
戦とは直接関係ないですが、関ケ原町の「寝物語」記念碑です。
こちらは石田三成と出生地碑を描く風景印です。