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業務スーパー行進曲

いつかふと思い出して涙溢れるなら
今の気持ちは一番綺麗な宝石だと思うんだ

kamome sano『lovesick』(feat. ぷにぷに電機)

生きるためには食べる必要がある。

でも食べるだとか寝るだとか、そんな当たり前すらも放り投げてしまいそうになることだってある。私たちの周りには、こんなにも生活を満たしてくれるもので溢れているはずなのに。

今から数年前のこと。2度目の留年が決まった大学生であるところの私は、ほとんど引きこもりのような生活を送っていた。続くコロナ禍に、日々届く感染者数増加のニュースと世間の動乱の様。そもそも外出が望ましくない行為とされていた頃ではあるけれど、それに伴って残る単位を取得するための大学の授業もリモートになり、仕事も学業のためとセーブしつつ自宅で最低限を細々と続けているような状態で、私は人との繋がりを半ば絶っていた。

住居としていた賃貸のワンルームには、会社近くに居を構えるため実家から無理をして出た挙句に滑り込んだ。しかしこの頃はといえば、ただ白い箱のようにしか思えなくなった自室の中で、ぐらつく精神とタケノコのように次々生えてくる不安に苛まれながら、日がなぼんやりと過ごしていた。読めないままの本ばかりが積み上がっていく檻の中で、いつしか「たたかう」「にげる」「アイテム」に並ぶ基本的な動作コマンドとして「ふさぎこむ」が追加されていた。

適当な時間にベッドから起き上がり、PCとスマホを交互に開いては閉じる。家の玄関を上手に開ける方法がわからなくなっていたので、どうしようもなくお腹が減ったときだけ這うようにして近所のコンビニまで行き、その日の食事だけを買う。先のことは常に見えづらい方にあって、明日の献立を考えるのはとても難しいことだった。それも叶わずどうしても家から出られないときは、出前アプリでチェーン店のハンバーガーだったりピザだったりをまとめて頼むなどして、カード払いの金額を順調に積み上げていた。ピザは一度買えば一日朝、昼、夜と数切れずつピザだけ食べていればどうにかなるので好きだった。

ただ、当然のことでそんな生活には限界がある。できる限り家から出たくないので、食事という行為そのものが疎ましいものに思えてくる。コンビニ飯と出前ばかりでは、そもそも元々あってないようなものだった健康も、貯金も徐々に徐々にすり減っていく。精神はとうに摩耗していたが、たとえば今すぐに生活を終える、そんな決心もなかった。これは早急にどうにかしなければいけない問題だった。

そんな私にとっての最低限の「先」を考えようとしたときに、白羽の矢が立ったのが「業務スーパー」だった。

業務スーパーは神戸物産グループが運営している(調べたところ、全国47都道府県に1000店舗以上もあるらしい)、名前に業務とは付くものの誰でも買い物ができるスーパーマーケットだ。店先に掲げられた「デザインとはなんなのか」を我々に考えさせてくれるような力技の看板が印象的でもある。

業務スーパーは、安い。牛乳パックに入ったでろんとした大量のゼリー、1袋5食入りの冷凍讃岐うどん、袋にみっちりと詰められた焼き鳥串。その商品ラインナップが誇るコストパフォーマンスは、一人暮らしにしてみればオーバースペック気味だ。それでも、いやだからこそ、ここに辿り着くことさえできれば私の食生活はしばらく守られる。そう思った。それに、YouTubeで見かけたやわらか煮豚(1袋600g入り!)がどうしても食べたかった。

しかし、そこまでの道のりも一筋縄ではいかない。私の住んでいる街の最寄駅に業務スーパーはなく、電車に乗って隣町まで行かなくてはならない。スーパーに行くために、わざわざ改札を潜らなくてはいけないのである。そのためには道中のコンビニや「普通」のスーパーを無視して、鋼の意志で業務スーパーを目指さなければならない。家の扉すら第一関門として立ちはだかる当時の私にとって、これは覚悟のいる旅だった。

意外なことに、この遥かな旅程を支えてくれたのは音楽だった。音楽クリエイターのkamome sanoさんとぷにぷに電機さんによる『lovesick』という曲のことを、私はこの先ずっと忘れないのだろうと思う。

切なさを煽るメロディアスなイントロに、緻密に構成されつつ「ノレる」クラブサウンド、淡い恋心を歌いながらにひたむきな歌詞……。どれをとっても魅力に溢れた1曲で、世の中にはこんな曲があるのかと、初めて聴いたとき衝撃を受けた。元々日本のアニメやゲーム、インターネットカルチャーから影響を受け展開していったような音楽ジャンルを好んでいたこともあり、YouTubeのおすすめを辿りながらそのどこかで出会ったような記憶がある。

引きこもっていた頃の私は自室のベッドで横になったまま目を瞑り、『lovesick』を繰り返し繰り返し再生することを好んでいた。この曲を聴いているときだけは、私を苛む他の全てから離れていられるような気がした。

あるとき気まぐれから、スマートフォンに繋いだイヤフォンから外の何も耳に入らないように『lovesick』を延々とリピートし、家の扉を開けてみた。

行ける。

太宰治の小説『走れメロス』では、心折れかけたメロスが清水をぐいと飲んで活力を取り戻し、再び歩みを始める場面がある。私に必要だったのは勇気でも希望でもなく、たとえ目を逸らしてでも自分を守ってくれる何かだったが、私にはそれが岩の隙間を流れる湧水ではなく音楽だった。財布、エコバッグを手に私の足は業務スーパーへと向かっていた。

ある曲が、ある作品が自分を支えてくれるのに、必ずしもその歌詞や意味内容が自身を鼓舞してくれるものである必要はない。ただ美しく、素敵であるということが何より輝いてくれることはままある。私にとって『lovesick』はそんな楽曲だった。世の中に、誰かを業務スーパーへと歩かせ、特売のひき肉を買わせることを目的に作品を書く人はおそらくいない。それでも私は外を歩き、そして自分が食べることを肯定できたのだった。

たかが数駅分の旅程。時間にしてみれば1時間程度の買い出しをメモリアルにすら感じながら、帰ってきた自宅の小さな冷蔵庫に、マイバッグから取り出した戦利品を押し込んでいく。うっかり買いすぎてパズルのように並んだ食品たちを見て、私は生きられる、生きていけると思った。


少し前のこと、kamome sanoさんの新曲『crazy (about you)』が公開された。

セガの音楽ゲームである「チュウニズム」の楽曲として書き下ろされたものらしく、これに私はまた食らった。音楽理論に明るくないことをもどかしく思うぐらい、降り注ぎ、編み込まれていくその音の全てを理解したいと思わせてくれるような曲だった。さらにDTMの手触りをそのままにビジュアライズしたようなMVに、『lovesick』を踏襲した歌詞のフレーズも目を引く。この楽曲は『lovesick』の続編のような存在らしい。

私が聴いていた『lovesick』はkamome sanoさんの楽曲が多くの人に知られるようになった曲でもあるようで、事実、私の「恩人」である曲なわけだった。一方で一番好きな曲は更新……というか揺れ続けている。最近よく聴いているのは『colorful』、Limonèneとしては『0光年の孤独』あたりだろうか。『crazy (about you)』は続編でありつつ、自身の過去への相剋のような表情も見えるところも嬉しかった。

さて、「思い出の曲」は時間を経た後に聴いてみればそれをきっかけに当時の景色すら思い出すような、ノスタルジーのトリガーとしても機能し得る。メロディに結び付けられた記憶は、いつまでだって克明だ。私は今でも同じ曲を聞くたびにずっと、ここに書いた旅のことを思い出す。……のは良しとして、どうしてもその旅には冷凍オクラの使い道を考えていたことだとか、「業スーってピータンまで置いてるんか」みたいな余計な記憶もついてまわる。これは曲の空気感に反しているのでどうにか消し去りたい(申し訳ないし)とも思うのだけれど、それぐらいは許してやるかという思いもある。

ちなみに、(これはYouTubeで紹介されていた食べ方だったと記憶しているが)業務スーパーのやわらか煮豚は、小さく切り分けてカップラーメンに入れて食べることをオススメする。塊の肉はなんてことのない食事でも、ご褒美のような味わいにしてくれるのだ。