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病葉

懺悔者の背後には美麗な極光がある。

萩原朔太郎「極光」

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ひさしぶりに薬を飲み始めた。青と白のカプセルで、おもちゃみたいな見た目の薬だ。病院で処方されるこの薬を飲むと、私の生活に「朝」が生まれる。

生まれつき私の頭の中を流れる時間と、他人の頭の中を流れる時間とはどうやらその速度が違うようだった。私の時間の方がよりスローにというか、あるいは時に早くなったり遅くなったりと、脈絡のない流れ方をするみたいだった。人と違う時計を持っている私はこの社会において「間違ってしまっている」側であるらしいことは、ある程度大きくなってから知った。一般にこの勝手な動き方をする時計を持っていることには「障害」の名前が付いている。この時計のネジを正しく巻き直すために、薬が役に立ってくれるわけだった。

久しぶりに服用を始めた薬は要するに注意欠陥多動性障害、つまりはADHDを「治す」ための薬なのだけど、注意機能を改善してくれることで他にも諸々の効果があった。疲労感や抑うつ状態の緩和のほかに、睡眠障害の改善がそのひとつだった。私は元より過眠のきらいがあり、うつろなまま日々を過ごすか、そのまま次の日が来ることに毎日怯えて夜中まで覚醒し、生活リズムを床に落として割ったインク壺みたいにめちゃくちゃにしていた。

初めて薬を飲んだときのことは今も覚えている。私の生活に、「朝」がやってきたと思った。

同じような症状に悩む他の人の体験記でもよく読むような、頭の中を覆っていた霧が晴れる触感、思考がクリアになっていくような感覚も確かにあった。ただそれは徐々に訪れるものであって、自分にとってはまず周囲の時間がゆっくり流れるような体験が新鮮だった。ベッドから起き上がった自分が今過ごしているのは「朝」で、しばらくすると「昼」がやってくるのだというはっきりとした実感を、人生においてそのとき初めて得たような気がする。朝には、朝として使える時間がびっくりするぐらいあった。みんなが使っている綺麗な時計を、自分の心臓にかっちりと埋め込まれた気がした。

ただ、それは素直に受け入れられることばかりではなかった。副作用による吐き気だったり不調もそれなりにあったし(これは長期的な服用でだいぶマシになったけれど)、今の自分は薬を飲む前の自分でない、というぼんやりとした感覚は常に付き纏っていた。それまでの私の生と折り合いをつけるのは難しかった。

私が飲む薬は「人に迷惑をかけない」ための薬だ。体のどこかが痛むとか、不調があるだとかで、自分のために飲むわけではない(そんなことない、あなたがうまくやるための薬だと言われても仕方ない。でも少なくとも、私はそう思ってしまった)。私はこれが病理として、障害として見做されることを未だ上手に受け入れることができていない。

薬を飲んでいない状態の私は何事も上手にできず、生きているだけで地上に迷惑をかけてしまう。マイナス。いない方がお得だ。そう考えると、いても立ってもいられない。太宰治の『パンドラの匣』に以下のような一節がある。

君のような秀才にはわかるまいが、「自分の生きていることが、人に迷惑をかける。僕は余計者だ」という意識ほどつらい思いは世の中に無い。

太宰治『パンドラの匣』

太宰らしく、太宰らしすぎて引用も躊躇するような一文だけれど、これを言葉として理解できることと、実感として辿ったことのある者の間には大きな隔たりがあるように思う。悪としてみなされる業のつらさは、突然湧いてやってくる。私だって、先っぽに触れただけのことかもしれない。でも、これに襲われ、ふいにそれまで立っていた足場が崩れてしまった人のことを何度も見てきた。

抵抗のような形で、勝手に断薬をして暴れたことも少なからずあった。もちろん、仕事の内容によっては私の歪んだ時計を振り回すことが効果を発揮することもあって、うまく回ることを喜びながらそれはそれで社会の不合理さの一端を味わうのだった。そんなことを繰り返して時を経るにつれ、仕事に合わせて薬を飲むことも雨が降っているから傘を持っていこう、ぐらいのことに受け取れるようになってもいる。今だって、必要に駆られただけのことだ。クリアな視界だって、人の顔がよく見えて心地よい。

ただ、周りの方をぶち壊してやりたいとは常々思っている。

たまには、みんなの方が脳の回路を手術で掻き回していじるなり、めちゃくちゃな薬を飲むなりして私のいる世界の景色を見てほしいとも思う。歪んだ世界ではあるのかもしれないが、私はこの中で生きて、美しいものを見つめ続けてきた。私にとっての正常は、常に私のそばにある。

私は人に絵を見てほしいとよく言う。

それは綺麗事を言えば、人の歴史の中で先人たちが紡いできたものを美術として、作品の形として知ってほしいからだし、あなたの中に広い世界が宿ってほしいからだ。

でも、本音を言えばすぐ目の前にある美しいものすら素通りし、私と敵対する世界を作り上げるみんなのことが憎くてしょうがないだけなのかもしれない。絵を通じて、私は自分のいる世界にみんなのことを少しでも巻き込んでやろうとしている。それだけだ。この目には世界は銀色でぎらぎらとしていて、机の角みたいにとがっていて、そのエッジでこの体を切り刻んでくるような残酷で美しいものだ。絵を見て、絵を見て、誰か早くこちらに来てしい。私に朝はいらない。昼も夜もいらない。美術館しかないこの場所に、1人にしないでほしい。誰か。

どこかがおかしいと思いながらも、明日のうちに自分は社会を殴りきることができない。明日にできるのは、ベッドに潜り込む前に、引き続き青と白の薬を順番に喉に放り込むことだけだ。これは、何のための、誰のための戦いだろう? あらゆるものを駆使して、みんなに合わせられるようにもっと私は努力するべきなのかもしれない。でも、それは本当に? これから先に訪れる労力のことを思うと、うずくまりたくなる。

目を瞑るあなたのことを、私は許さない。

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わたしのしらないところであらゆるものがかってにふえている。

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スワロフスキーの最近のラインナップがかわいい。2020年にジョバンナ・エンゲルパートがクリエイティブディレクターに就任してからというものの女児向けのおもちゃのような、カラフルな宝石部分が大胆に、デフォルメチックに輝くジュエリーのラインナップが生まれた。つまりはスワロフスキーは人工のクリスタルであること、模造の宝石であることに自覚的になり、それを強みとして利用したデザインに舵が切られたのだ。

これを私は喜んだ。真なる真正性(変な言葉だ)なんかがそこに宿るよりも、"まがいもの"であること自覚し振る舞うことの方が、よほど美しいことだと思う。それは信じることのできる戦いの証であり、本物であることよりよほど大事なことだ。最近はアクセサリーのひとつを付けるのにも億劫になっていたけれど、耳から首から指から、気まぐれにめちゃくちゃに光ってやってやろうか。これは、誰でも。

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短歌、これくらいでいいですか?こっちも忙しいんで……

おりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃって生きてたらはちゃめちゃに光ってる夏の海

青松輝「フィクサー」/「第三滑走路」7号

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青松輝の好きなのは、たくさん眠りながら世界をぶん殴ろうとしているところ。

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