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その極光でつらぬいて

右耳に開いた穴に、久しぶりにピアスを複数付けた。しばらく存在を忘れていた穴はほとんど塞がりかけていて、嫌な手応えを感じたもののそのままピアスの針を押し込む。じいん、と鈍い痛みが走ったがすぐに治まる。余計な回復能力を持ちやがって、とこういうときばかり都合のいいことを思う。

私の耳には左耳にひとつ、右耳にみっつのピアスホールが開いている。左右同じ位置のロブに空いた一対と、右耳にはそれに連なるように更にふたつ。人に説明するときは西尾維新の小説「戯言シリーズ」に登場する零崎人識と大体同じ開き方だと言うが、あまり通じたことはない。普段は面倒なので左右ひとつずつだけ付けて出かけることが多く、そのせいで何年も前に開けたはずの残りのピアスホールがいつになっても塞がりそうになってしまう。よく「ピアスって開けるの痛くないの?」と聞かれることがあるが、そのときの痛みはいいところ一瞬で(軟骨だったり別の部位はまた違うのだろうが)、どちらかといえばその後のケアだったりの煩わしさの方が私にとっては気にする点なのだった。ともかく、普段付けずともピアスホールはゲームにおける装備品のスロットのようなもので、あればあるほど何かに使えるような気がして好きなのだった。

そういえば初めて着けたピアスを母に見せたとき、反応が思ったよりも寛容だったことを思い出す。染髪だったり化粧だったり、強くは否定されなかったものの、中高生の頃から容姿を飾ることについてはあまり良い目で見られたことがなかったので、ピアスについては「あら、いいじゃない」とあっさり返されたことに拍子抜けした記憶がある。そもそも母の耳にピアスが光っていたことも一因としてあると思うが、「着飾る」行為の良し悪しとはまた別に「身体に手を加える」ことについては、私の勝手にしていいと考えてくれていたのかもしれない。

ピアスやタトゥーに対する反対意見としてよく聞くものに「親からもらった大事な体に傷を付けて〜云々」といった言い回しがある。最近は聞かなくなっているような気もするが、ピアスも耳以外の部位だったり、タトゥーやそれに類する身体を改造する行為には少なからず抵抗がある人も多いのではないかと思う。「親からもらった大事な体」という表現については、何を適当なこと言ってるんだと、個人的には切って捨てている。自身のことを案じてくれる人がいることは大事にすべきことだが、それとこれとは別の問題だ。私の身体は、常に私のものであっていい。そもそも、体なんて老いるだけで好き放題に傷ついていく。翻って私がピアスを開けるという行為を好んでいるのは、それが自分の体が誰のものでもない自身のものである、という実感をもたらしてくれるものだからでもある。身体はコントロールできず、常に波にさらされているようなものだ。そんな身体を自らの意志で形を変え、表現の手段として使えるならそれ以上喜ばしいことがあるだろうか。ピアスこそ開いているが、私の他の皮膚には今のところタトゥーも入っておらずまっさらな状態だ。私はこれを、何だかのっぺりしたまま生きてしまったと、欠落のように感じている。一度墨を入れてしまうと脱毛ができなくなってしまったりと、何かと面倒の多いもので後回しにしていたところがあるのだが、いずれあちこちに入りそうだなと、半ば他人事のように思っている。

他方で、同じ身体改造に類するものでも美容整形には抵抗を持っていたりもする。個人的にはあまりにもそれが価値観の押し付け的で、商業主義的な側面が強いからだと考えているが、じゃあピアスやタトゥーと何が違うのかと問われればうまく答えられなくもある。では、もし技術が爆発的に発展して、痛みも無く、たった数百円で顔を好きな形に変えられるとしたら。そのとき私は自分の顔に手を入れるだろうか。と、ここまで考えてもしそんな世界なら、人はもっと各々の好きな顔になるのかもしれないと思った。美男美女みたいな固定された枠組みに沿わせるのではなく、目を虹色に光らせたり、それこそ鼻をカイジみたいに尖らせたり……。そしてそれが、人の耳に光るピアスが羨まれるように、それぞれに輝くものであったら面白い。私は、各人が勝手にぴかぴかするような世界を望んでいる。

極光に貫かれてからこの眼には飛ばない揚羽ばかり映って

志賀玲太