世界は、素敵な分かりにくさで溢れている。
僕に世界を語ることはできないけれど、僕の周りは、どちらかというと「分かりにくさ」で溢れていると思った話。
ある学生からの相談
僕が担当している大学の授業終わりのこと。
昨今のコロナ対策の中で、僕の授業もオンラインで行っている。
オンライン授業が終わったあと、最後までzoomのルームに残っていた男子学生が相談してくれた。
「先生は、やりたいことってどうやって見つけましたか?」
曰く、自分にはやりたいことがないけど、何か見つけたくて焦っているとのこと。
僕自身、大学生の頃にやりたいことはなかった。だから
やりたいことが見つからなくてもいいと僕は思う。
と答えた。
彼は続ける。「やりたいことがあって、行動している人がキラキラして見える」と。その気持ちに、強く共感を抱いた。
やりたいことがあることは良いことだ。でも、それを羨むことは、持たざる者の分かりやすさへの渇望なんだとも思う。
「発展途上国に学校を建てた」「起業して会社を経営している」
それらはとても素敵なチャレンジで、何より分かりやすい。僕も“そっち側”に行きたいと思ったことが何度もある。
今日出会った“分かりにくさ”
今日の夕方、僕はとある大学の学生たちが実施する新入生対象のサークル説明会に赴いた。
そこを仕切っているリーダーの男子学生(3年生)を、僕は1年生の頃から知っている。
説明会は、彼がこれまでの大学生活で培ってきた場づくりの経験を活かして、来てくれた新入生15人にとって、楽しい時間になるようにコーディネートされていた。
もちろん、設計に粗い部分はあって、危なっかしいところが全くなかったわけではない。2時間ほどの説明会が終わった後、彼は言った。
最後の方、泣きそうでした。
知らない人からすれば、「説明会をやりきったくらいでそこまで・・・」とか思うかもしれない。
その感覚も分かる一方で、今日のあの時間は、彼にとって確かな成長を証明した時間だったと思う。
彼を陰から支える副リーダーの4年生もまた、彼の成長を感じていたし、その支える姿を見て、副リーダーの子自身の成長も僕は感じることができた。
でも、こういうのは分かりにくい。(分かりにくい中では分かりやすい方だけど)
“分かりにくさ”は、埋没する
『テニスサークルの副キャプテン』が就活の面接で大量発生するように、その成長物語は埋没しやすさをもっている。
それは、誰にとっても分かりやすい成長・成功ではなく、その子にとっての1歩(あるいは半歩)であり、ストレッチしている(その子にとっての未体験ゾーンへのチャレンジ)かどうか、一般にはパッと見、気づきにくいものだと思う。
ただ、多くの成長は、そうした“分かりにくさ”に類するものじゃないかと感じる。
持たざる者の分かりやすさへの渇望は、自分が実はできていたことに盲目的で、自分自身ですら、分かりにくさの埋没に加担していたりするのではないだろうか。
“分かりにくさ”を集めていく
もちろん、分かりやすさは素敵で、且つ、短時間で印象的に人に伝わる。
それに加えて、僕の周りに溢れるのは“分かりにくさ”で、それはどれも素敵なものだ。
そうした環境にいる僕がやるべきは、分かりにくさを分かりやすさに変換することじゃなく、“分かりにくさ”をそのままの有り様で集めていくことなんだろうなと思います。
少なくとも、今日の夜、今この瞬間はそう思いました。笑