プペル騒動から考える~マルチはコミュニケーションツールとして実は万能である~

最近えんとつ街のプペルの騒動(所謂80プペルニキ事件)でマルチ商法に注目が集まっているがそれを眺めていてふと思い出した事がある。以前マルチに引っかかった人と話す機会があった。何故のめり込んでしまったのか?と尋ねたら意外な答えが返ってきた。

「当時の自分にとってマルチは最高のコミュニケーションツールだった」

そもそも子供の頃から話し下手で人間関係の構築がうまく出来ない事が悩みだったという。当然職場でも親しい人間は出来なかったそうだ。そんな折、職場の同僚から勧誘されマルチに嵌っていったという。そうすると自然と人と繋がれた。集会に行けば仲間が増え、孤独感が消えていったそうだ。

孤独な人に所属意識を強く意識させコミュニティを強固にしていく。ここまではよくある話だ。興味深いのはここからだった。話し下手で初対面の人間とは満足に雑談も出来なかった自分がマルチの商品を間に挟むと何故かすらすらと話が出来るようになったというのだ。

例えばその商品が自然由来のシャンプーだったとする。すると男性よりは女性の方が興味を持つだろう。かつ美意識の高い人が理想的だ。そうした「明確な目的」があるとあんなに苦手だった女性をターゲットにして緊張せず話ができたという。そしてこのシャンプーが良い製品かということを伝えるためにはどういった道筋を立てて話し始めればいいか。相手に不安や不信を与えないためにはどういった言葉を選ぶべきか。これを念頭に置いて話すとあんなに怖かった他人との会話が苦ではなくなったという。まるで自分が自分ではないような、他の誰かになったような感覚だった。それがとても楽しくてどんどん勧誘を行ったという。

彼にとってマルチは稼ぐための手段でも信仰心の証明でもなくただただ純粋に他者との関係を円滑に築くためのコミュニケーションツールだったのだ。目的の無い雑談はできないがそこにマルチという目的があると恥ずかしさや不安がなくなる。生身の自分ではできないことでもマルチというフィルターを通すことで他の誰かを演じているような感覚になりまるで別人のように大胆になれる。ちょっと前にツイッターでアライさん語やなんJ語が一種のコミュニケーションツールとして機能していると話題になったがそれと似ている感じがする。他者と関わるうえでの緩衝材の役割を果たしていたのだ。

私自身何度かマルチの勧誘にあっているのだが「なんでこいつらはこんなにポジティブなんだ。少しでもこの人嫌がってないかな?と遠慮心が湧いたりしないのか?マルチーズハイか!?」と思う事があった。でももしそいつらがこの彼のように「マルチを通じていつもの自分とは違うハイパーな自分」になっていたのだとしたら頷ける。

今ネットではオンラインサロンを筆頭に様々なマルチを下敷きにした商法が名を変え品を変え生まれ続けている。それに嵌った人間を「○○信者ww」と嘲笑い切って捨てるのは簡単だがもし彼らが「孤独を理由に便利なコミュニケーションツールを求めた結果、マルチにたどり着いた」のだとしたらこれは相当根深い問題だなと思った。

というか私も正直そこまで他人とのコミュニケーションが上手いわけではない。この話を聞いた時、マルチ怖いな・・・という感想と共にふとその「ハイパー自分になる感覚」を味わってみたい。とも思ってしまった。そこに一番恐怖を感じた。


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