自分の人生の責任をとる
はあ?
5年前の私はこんなタイトルでnote書くようなキモ女になってるとは思いませんでしたよ。こっからどんどん面白くない、というか思い描いてた大人とはズレた、というか今の自分の好きな部分を殺して、時を過ごしていくんでしょうか。自己啓発本を毛嫌いしてるけど、結局日々生きて得るものはその筆者と同じことでもう答えは出てることへ抗ってるだけなのかも。
久しぶりに高校の部活の後輩と飲んだ。
私は高校の部活でまあ結構燃え尽きて、当時は結構頑張ってはいたけど「もう関わりたくないッピ……」ってまあ軽く5年くらい雲隠れした身なのでどの面下げて会うんだという感じではあった。行事の手伝いにも行かず、後輩の遊びの誘いにも乗らず、まあせいぜいどこからか漏れた私のバイト先(駅中だったので必然)にときどき知った顔がきて義務会話する程度。
腐れ縁でずっとつるんでる同級生の職場に後輩が入ってきたとかなんとか繋がりでご飯に誘ってもらって、まあ時効か、って気まぐれに顔を出した。我ながら恥の多い人生。何に拘って、何に囚われて生きているのかまるで分からないし、どうしたらその思考から許されてそんな選択ができるのか分からん。後輩に財布をしまわせながら(これを懺悔とさせて頂きますよっと……)て合掌した。
同級生3人、1個下2人、2個下1人で飲んだ。
新社会人大変だよね、就活大変だよね、と話を聞きながらまあよくも2年でここまで大人っぽい顔ができるもんだと酒を流し込みつつ、この21-23(24?)歳の2年は下から見れば大きいよななんて思った。てかあんなぴよぴよしてた子達が酒飲めるんだ……って当たり前ですがどことなく雰囲気も大人っぽくなってて緊張した。
なんかもう会わないと思ってた人達と案外簡単に会えて、とはいえもう人生で何回会うんだろもしかしたら会わないかもって全然簡単じゃなくて疲れる。出会いと別れとやらしんどい。私はいつも後悔をしていて、でも出来ることなら後悔はしたくなくて、逃げて逃げているくせに誘われたら簡単に自分の今まで守っていたものも曲げる。全然世間一般の正解を選べてない気がする。大切にしたい、したいと思っていたものを、あまり大切にできていないかもと気づく時すごく悲しい。あのねあのね〜って共通の話題で盛り上がれる人が少しずつ細分化されて、この話題ならこの人、こっちならこの人、まあ言うまででもないか〜ってしまって。私の全てを知ってる人って多分誰もいなくて、でもそれを一からお話して理解してもらってその対象の人のことも理解してってするの多分無理。学生の時はずっと学校が同じ人とか、家族とかある程度自分と同じ世界を共有してきた人が存在してたけど、もう二度と存在することは無い。自分が正気を持って孤独に死ぬしかない。楽しかったことも幸せだったことも私の中で少しずつ消化して忘れていってるのかも。自立しろってことか〜知らず知らずにどこかに依存している。依存というより、責任転嫁?
そういう意味では、逃げずに昔一緒に過ごしてた人と会って過去を語って笑うのも全然悪くないかも。そういえばちゃんとコミュニティで生きてましたわなってほっとする部分もゼロじゃない。感情の起伏無く薄く生きる方が楽ではあるけど、人生ってコスパじゃないらしい。
認知症はできないことが増えていくことへの防衛反応かもしれないらしい。早くボケ散らかした方が幸せなのかもしれない。