6-4 赤ちゃんは泣くものですよ事件
生まれて早々、父が病院に駆けつけてくれた。病室に移ったら、姉と祖父も来てくれた。私は貧血でぶっ倒れていたが、みんなの嬉しそうな顔を見て、私も「お腹が軽くなったー!」と心底ほっとしていた。
赤ちゃんは、妊婦検診で言われた通り、女の子だった。丸顔で、目が細い割には黒目の部分が大きかった。時々布団の中でもしょもしょと動いては、その大きな黒目を見開いていたが、大半は寝ていた。おっぱいをあげようとしても、すぐに寝てしまう。「かわいい。かわいすぎる」と私は思った。が、無条件にただかわいいと思える平和な時間は、1日目だけだった。
初日は赤ちゃんも分娩で疲れたのかよく眠ったが、二日目から本領を発揮してきた。「抱っこモードが解除されると起きる」スイッチが入ったのだ。まず、あまり寝ない。寝ても、抱っこから降ろすと必ず起きて泣く。何なら、抱っこしていても泣く。泣き声を聞かなくてすむのは、おっぱいを口に入れている時だけ。
今なら、「妊娠中、あれだけ母体にストレスがかかっていたんだもの。赤ちゃんが不安になって過敏な状態で生まれても仕方ない」と思えるが、当時は訳が分からなかった。赤ちゃんって、こんなに泣くものなの?だって、本には、「泣いたら、まずおむつを見ましょう。それでも泣き止まなかったら、お腹がすいています。おっぱいやミルクをあげましょう。そして、飲んでも泣くようなら、抱っこしてあやしてあげましょう」と書いてある。でも、おむつが綺麗でも、お腹が一杯でも、抱っこしてあやしても泣き止まないことがあるなんて、私、聞いてない。
私はあっという間に「不安」の渦に飲み込まれていった。「聞いてない」ことだらけ過ぎた。私は必死に泣き止ませようと、ひたすらおっぱいをあげ続けた。しかし、私のおっぱいはなかなか出なかった。そのため、赤ちゃんはしばらく口に含んでも離してしまい、泣いた。完全母乳に憧れていた私は、「ミルクなんて足したくない」と、頑なにおっぱいを口に突っ込み続けた。乳首はあっという間に切れて、授乳はさらに苦痛な時間へとなっていった。
三日目の夜にして、私はあっさりと限界を迎えた。病院は全室個室だったが、夜静かになると、周りの赤ちゃんの泣き声くらいは聞こえた。けれども、その日、泣いているのはうちの子だけだった。うちの子だけ、泣き止まない。おむつを替えても、抱っこしても、駄目。おっぱいもあげたけれど、それも駄目だった。これ以上授乳をするのは、乳首が痛くて無理。やむを得ず、ミルクも足したけれど、それでも泣いた。次、ミルクをあげるタイミングまでは、まだ時間がある…
万事休す。もはや、何をしていいのか分からない。赤ちゃんはほぎゃほぎゃ泣き続ける。周りは、相変わらず静か。その静けさが、「母親になったくせに、お前は何もできないのか。そんな母親は、お前くらいだ」と私をあざ笑っているかのように思えた。
私はたまらず、ナースコールを押した。助産師さんが来てくれた。「どうされましたか?」と聞かれたので、「赤ちゃんが、何をしても泣き止まないんです」と必死に訴えた。もう、あなただけが頼りなのです。きっと、すごい秘密兵器を出して赤ちゃんを泣き止ませてくれるに違いないと信じて。
助産師さんは、一言だけさらりと言った。「赤ちゃんは泣くものですよ」
私は呆然とした。何も言えなかった。そして、次の瞬間、涙が出た。涙が、止まらなくなった。「見放された」と感じた。
助産師さんも、悪気があってその言葉を言ったわけではない。事実を言っただけだ。というか、「泣き止まないことは異常ではありません」と伝えたかっただけなのだろう。でも、私がその時欲しかったのは、「事実」ではなかった。「助け」が欲しかった。
さすがに、突然泣き始めた私を見て、助産師さんも「この人限界だ」と感じてくれたのだろう。そういう人を見慣れてもいるだろうし。「疲れてるんですよ」と慰めてくれて、その晩は赤ちゃんを預かってくれた。それでも、私は涙が止まらなかった。「私は駄目人間なのだ」と思えて。
私は入院中から既に疲れ果て、あっさり「完全母乳」の夢を捨て、ミルクを足した。こうしたほうが、赤ちゃんのためになるのだ、と自分に言い聞かせつつ。ほどなく、私のおっぱいも貫通して、無事に母乳は出るようになったが、相変わらず乳首は切れたままで痛くて、授乳は苦痛な時間だった。ミルクに罪悪感を感じつつも、ミルクをあげている間は泣かないし、痛くもないし、とてもほっとできた。
そんな感じで、お世辞にも順調な滑り出しとは言えなかった私の産後を、「母がいない」という寂しさが追い打ちをかけてくれた。
昼間、他の病室は賑やかだった。常に、見舞客が入れ代わり立ち代わりしていた。いや、「常に」ではなかったと思うし、あまり見舞客が来ない人だっていたと思うのだが、悲劇のヒロインになっていた私の目には、「私以外の人はみんな賑やか」に見えてしまったのだ。
見舞客は、旦那さんと思われる人はもちろん、おじいちゃんおばあちゃんになった喜びに満ち溢れた顔をしている人も多かった。赤ちゃんを見て嬉しそうにしている、自分の母親世代の女性を見ると、私は胸が一杯になって、思わず目を反らした。
旦那がそばにいてくれれば、また違ったかもしれない。しかし、旦那は、私が退院してきたら更に忙しくなることは分かっていたので、「今のうちに」と各種手続きに走り回っており、あまり病院にはいられなかった。退院後に体力を温存するため、夜も病院からは帰って、私の実家でゆっくり寝ていた。周りの病室には、旦那さんが泊まり込んでいる人もいた。それがまた、羨ましくて悲しかった。
私に見舞客がいなかったわけではない。祖父や父、姉だけでなく、他の親戚だって駆けつけてくれた。差し入れだってもらった。有難いことである。中には、「入院中、親戚がどっと来て、うるさくて全く休めなくて困った」という人もいるので、考えようによっては、私はほどよくみんな気にかけてくれて、でも、ほどよく静かに休めて良かったのかもしれない。第2子は自宅近くの病院で産んだので、更に見舞客は少なかったけれど、私は昼間寂しくなることもなくぐーすか休んで羽を伸ばしていたし。見舞客の多い少ないは、幸せ感には関係ない。
しかし、ホルモンバランスの乱れもあり、完全に「悲劇のヒロイン」モードに入っていた私は、「私は可哀そうな子」とずっと思っていた。泣き止まない娘を抱きながら、「お母さん、見てる?生まれたよ」と窓から外を見上げた。
入院中は良かった。今思えば。ご飯は黙っていても上げ膳据え膳で用意してもらえるし(しかもおいしい)、いざとなったら、いくらでも赤ちゃんは預かってもらえた。そこにいられたのは、6日間。退院後、私は早々に「新生児片手抱っこ」の技を身に着け、「ご飯上げ膳据え膳」の有難みを噛みしめるのだった。