9-2 お腹の中身は何ですか?
「ばぁばが天井に遊びに来た」事件から少し時は流れ、娘が二歳になったばかりの頃の話。お座りも、一人歩きも、何事も少し慎重でゆっくり目だった娘は、達者とは言えない日本語をぼちぼちと話していた。しゃべる単語はいつも決まっていたが、ある日、ドラッグストアで紙おむつを買おうとしたら、パッケージの赤ちゃんの写真を指さし、やたらと、「あかたん!あかたん!!(赤ちゃん)」と連呼してきた。今までそんな単語しゃべったことがないのに、いきなりのパワープッシュである。しかも、それはドラッグストアに行く度、しばらく続いた。
さらに、児童館へ遊びに行ったら、誰もいない空っぽのベビーベッドを見て、やはり指さして「あかたん!」とまたもやパワープッシュしてきた。何かがおかしい。
まさか…いや、そんな予定はないのだが…と思いながら、私は思い切って娘に聞いてみた。ちょうど、テレビで「ゆりかごのうた」が流れており、両脇をカナリヤとリスに固められた赤ちゃんの絵が映し出されていた。私は娘に、「もしかして、お母さんのお腹の中に、こういう赤ちゃんがいる?」と赤ちゃんの絵を指さして聞いてみた。きっといるんだ…そんな予定はないのに、来ちゃったんだ…娘はきっと、「うん」と言うのだろう…と思ったが、意外や意外、娘は首を横に振った。
首を横に振って、赤ちゃんのかわりに隣のリスを指さした。「これ、いる」と言いながら。
リスかーーーーーーーい。
慌てて妊娠検査薬で調べたところ、見事に第二子(後に生まれる息子)をご懐妊していた(リスではなかった)。なんと、母親である私は全く気付かない内から、娘の方が先に気づいていたのだった。
ちなみに、赤ちゃんではなくリスを指さしたのは、まだお腹の赤ちゃんがヒトの形をしていなかったからだと思われる。個体発生は系統発生を繰り返す。
「母親の妊娠に、母親より早く気付く」という話を聞いたことはあったが、まさか我が子がやってくれるとは思わなかった。
そんな娘は、二歳も半年を過ぎようとしていた頃、日本語も多少達者になり、色々なおしゃべりをするようになってきた。そうなると、気になるのは、「胎内記憶 実録」である。
話し始めたのは、唐突なタイミングだった。
第二子が入った大きなお腹を抱えながら、娘と一緒にお風呂に入っていた時(この頃には産後鬱が落ち着いていたので、一緒にお風呂入れた)、私のお腹をじーっと見つめていた娘が、突然「K(娘の実名)ね、お空からひゅーって落ちてきて、すとんって、お母さんのお腹、入った!」と言い出したのだ。
これが噂の胎内記憶かッ!?
私は内心興奮したが、努めて平静を装い、「ふーん、そうなんだ。ひゅーって落ちてきたの?」と聞き直してみた。すると、娘は嬉しそうに笑い、「うん!こうやって、ひゅーって落ちてきたんだよ」と、指を上から下に動かし、ジェスチャー付きで説明してくれた。
しかし、それで満足してしまったのか、私が興奮を抑えきれず、「お空の上から、お母さんのこと見てたの?」と聞いた時には興味を失って、何も答えてくれなかったが…
その後も、私の妊娠が娘の胎内記憶をかなり刺激したらしく、ちょいちょい話してくれた。赤ちゃんがどうやって生まれるかなんて、一度も説明したことなかったのに、やはり一緒にお風呂に入っている時、私のおまたを指さして、「Kね、ここから生まれた」と言ってくれた。
娘が話してくれた記憶の中には、娘の前世の記憶も含まれていた。しかし、かなり辛い死に際だったようで、後に知り合ったヒーラーの方に、「魂が忘れたがっている」と言われたので、ここには記さない。娘が大人になってから知りたがったら、本人にだけ伝えたいと思う。ただ、それを語ってくれた時の娘の様子だけは書いておきたい。娘は前世のことを突然思い出したらしく、当時二歳でまた言葉も拙かったのに、突然流ちょうな日本語をしゃべり出したのだ。その流ちょうな日本語で、自分の前世のことを説明してくれた。その切迫感に溢れた口調は、瞬時に旦那と私を「これは本当のことだ」と信じさせるに足るものだった。
私は元々、「輪廻転生って、あるんだろうな」とは思っていた。しかし、この一件で、それは私の中で、「あるんだろうな」から「あるんだな」という確信に変わった。
どれも、もちろん、科学的に証明できる話ではない。しかし、どれも、娘が嘘をついているようには見えなかった。いや、「嘘」とは言わないまでも、幼子の「妄想だ」と言う人もいると思うが、私にはそうは思えなかった。なぜ、娘は母親より先にお腹の赤ちゃんの存在に気づいたのか。なぜ、娘は教えられたわけではないのに、自分が生まれ出た場所(母親のおまた)が分かったのか。なぜ、娘は突然、流ちょうな日本語がしゃべれるようになったのか。「知っていたから」という説明が、一番すっきり来るのではないか。
しかし、実のところ、「(胎内記憶が)本当かどうか」という証明は、私の中では割とどうでもいいことになっている。問題は、真実の証明ではなく、その胎内記憶を知って、それで本人たちが幸せを感じられるかどうかではないかと。
娘がお腹の赤ちゃんの存在にいち早く気付いた。娘はどうも、弟か妹になる存在のことを、楽しみにしてくれているようだ。そうして、母親は幸せになった。それでいいじゃないか。
娘が、空から母親のお腹の中に降りてきた時のことを話してくれた。嬉しそうに話してくれたその様子から、娘が自分を選んで来てくれたと感じられた。そうして、母親は幸せになった。それでいいじゃないか。
娘が前世で死んだ理由を教えてくれた。だから、今世になっても、それに関わることが苦手なのだと母親は合点がいって、それ以来、もう無理強いすることがなくなった。母親は理由が分かったことで気が楽になり、母親が楽になることで、娘も楽になった。
そうして、家族は幸せになった。それでいいじゃないか。
占いに対する私の考えも、これと同じだ。どうして当たるのか、本当に正しいのかどうか、そんな証明をする必要はない。それが日常生活の役に立ち、人生の役に立ち、幸せを感じられるなら、それでいいじゃないか。占いだけではなく、「見えない世界」に関すること全てについて。それで笑顔になれるなら、それでいいんじゃないでしょうか。
これが、元理系女子で、一時期は「科学で証明されるもの以外は、信じてはいけない」と思っていた私が出した、「見えない世界」との付き合い方だ。
ちなみに、現在3歳で胎内記憶がまだあると思われるが、言葉が拙い息子も、時々話してくれるようになった。話してくれるようになったのはいいが、「おちゅきしゃまからきた(お月様から来た)」というので、「お月様から、誰のお腹に来たの?」とワクワクしながら聞いたら、「おとーしゃん!(お父さん)」と言われた。それはそれで面白いので、よしとしよう。
こうして、母親の霊が見守ってくれていると分かったことも、娘の胎内記憶も、私の産後鬱をかなり上向かせてくれたのだった。