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掌編小説「夏色の氷」~しゅんしゅんぽん

 海辺の小さなカフェに入ると、店内は冷房が効いてひんやりしていた。うだるような暑さの中を歩いてきたのでありがたい。こんな時間に外を歩くのは危険だった。夏の暑さを舐めていた。気を抜くと頭がぼんやりする。危ない危ない。
 紺色と白の細いストライプが涼やかなエプロンをした店員さんが、窓辺の席に案内してくれた。とにかく冷たいものが飲んで喉を潤したい。今はお腹は空いていない。メニューに『オススメ』の文字と共に書かれた『海辺ソーダ』を注文した。じっくりとメニューを眺める心の余裕はなかった。海辺ソーダはメニュー表の中で目立っていたのだ。
 にこやかに「少々お待ちください」と言って店の奥へ歩いていく店員さんを途中まで目で追ってから、視線を窓の外へ移す。午後三時、文句のつけようのない晴天。海は太陽の光を浴びて、きらきらと――ぎらぎらと小さな白い光を無数に反射させている。紛れもなく夏だ。灼熱の夏だ。

 私がこんな炎天下をとぼとぼと歩いてきたのには、それなりの訳があった。心の余裕がないのにも、もちろん理由がある。
 ここ最近、何となく体調が優れなかった。そこまで調子が悪いわけではなかったけれど、何だか違和感があったと言うか、一つひとつは些細なことなのだが、各所に何とも言えない不調が続いた。めまいだとか、軽い倦怠感だとか。
 夏バテでもしたのかな、と思って、時間が解決してくれるのを待とうとした。けれど先日、仕事をしていたらくらくらして立ち上がれなくなって、ついに病院で診てもらったのだった。今日はその結果を聞く日だった。

 どうも悪いものがあるから、今のうちに取りましょう、と、要約すればそんな話だった。医師の口から流れて来る淡々とした言葉を、どこか他人事のように聞いた。そして他人事のようにぼんやりと、祖父のことを思い出していた。

 私が子供の頃のある日、祖父が体調を崩した。幼かった私はあまり詳しいことを教えて貰えなかったけれど、イカイヨウの手術をするから入院する、という言葉と記憶の断片が残っている。手術は上手くいったと聞いたし、無事に退院もした。けれど程なくして、祖父は天国に旅立ってしまった。私がもう少し大きくなってから、本当はイカイヨウなんかじゃなかったことを、予期せぬ形で叔父から聞くことになった。そしてそれを知らなかったのは、祖父自身もだった、ということも。

 どうやって次の予約を取ったのか、どうやって支払いを済ませたのか、そんなことも覚えていないほどふらふらと、私はこの海辺のカフェにやって来た。実は入ったことは無かったけど、この店は家と病院の間の、やや家に近い場所にあるのだ。往きはバスに乗ったような気がするが、帰りのここまでのことをよく覚えていない。……何で私、歩いてきたのかな。バスでもタクシーでも、使えばよかった。冷房の涼しさで、判断力が幾分戻ってきたようだ。

 そうしていると『海辺ソーダ』が運ばれてきた。海辺、と名の付くだけあって、夏の海をうんと薄めたような水色をしている。大きめの氷が浮かんでいて、しゅわしゅわと炭酸がはじけていた。くるくると可愛い形を描くストローが刺さっている。何だか心が凪いでいくのを感じた。海辺ソーダを目の前にすると、涼しい店内に入って一瞬忘れていた猛烈な喉の渇きがぶり返し、急いでストローから海辺ソーダを体に取り込む。冷たいしゅわしゅわが喉を駆け抜けた。程よく甘くて、そして爽やかな味だ。

 ふう、と息を吐く。これからどんなことが待っているのか、まだ想像もできない。本当は考えたくもない。病院でのことは熱帯夜の悪夢で、思い出しさえしなければ、全て無かったことにできるんじゃないか。そんな現実逃避をしてしまう。だって全然、自分の身に起きていることだという現実感がない。
 けれど今、炎天下を歩いたことを差し引いても尋常じゃない体のだるさがあるのも事実で、よくよく考えてみると、それが確かに現実なんだ、という証なのかもしれなかった。
 ぼんやり膜が張ったような頭の中では、一方で色々なことがめまぐるしく回りながら「どうする、どうする」を繰り返している。「どうするの、私はこれからどうなるの」と、そればかりが高速回転している。

 半分ほど減った海辺ソーダのグラスに目を遣ると、あっという間に亡くなった祖父の笑顔が浮かんだ。
 ――おじいちゃん、どうしよう。私、まだやってみたいことがたくさんあるんだ。
 そんな言葉が浮かんだ直後に、祖父は何も知らなかったことも思い出す。
 ――おじいちゃんだって、そんなはずじゃなかったよね。

 思わず視界が滲んだ。慌てて窓の向こうに顔を向ける。他のお客さんが私を見ているわけもないだろうけど、万が一誰かに見られるのは嫌だった。
 雫が落ちないようになるべく上を向く。青くて高い空が広がっている。そうしたら、ああ、この高さは、この色は、やっぱり夏だなぁ、と、心の中に能天気なもう一人の私が顔を出した。意図せず泣き笑いのような顔になってしまう。

 不安も心配も恐怖も、取り除くことはできないけれど。
 視線の高さを水平線まで下ろす。水平線はきらきらと輝いている。
 それでも私は、私の道を行くしかないのだろう。この先はずっと不安や恐怖と隣り合わせで、綱渡りのようだとしても、それでも。
 海辺ソーダの残りを飲む。大きな氷のお陰で、冷たさをキープしている。色は涙みたいに薄まってしまったけど。

 ――そうだ、心の中にも、こんな大きな氷を浮かべたら。

 時間と共に、不安を薄めてくれるかもしれない。それならこの空と海の色をした氷がいい。生命力のみなぎる夏色の氷なら、きっといつでも力を分けてくれる。
 空になったグラスを見ながら私は、青くて蒼くて碧くて、そして白い小さなきらきらを散りばめた大きな氷を、心の中に思い描いた。




「しゅんしゅんぽん」に参加させて頂きます!

何だか、フィクションで病気を扱うことは、実際に闘病されている方への配慮に欠けてしまうことも出てくるだろうなと思うので、だいぶぼかしはしましたが、それでもやはり配慮が足りなかったら本当にごめんなさい。今の自分の状況的になのか、作者様のわからない状態での一覧を眺めていて、目に留まった素敵な作品から浮かんできたのはこんな感じのお話でした。

とても素敵な原作はこちらです。

竹原なつ美様
生きる意味向き合う夏の高き空


せきぞう、様
ソーダ水は ライトシアンの午後の海

です。使わせて頂きありがとうございます。
こちらの御句から、妄想を広げました。作者様の意図とは多分に異なる形になっているであろうことをお許し頂ければと思います。

しろくまきりんさん、素敵な企画をありがとうございます。

そして、何だか思った以上に長くなったお話をここまで読んで下さった皆様にも、お礼申し上げます。ありがとうございました。

いただいたご支援は、心の糧とさせて頂きます。