#エッセイ
書き手はいつまで自分をさらけ出せばいいのか
よく、コンテンツには「共感」が大事だと耳にする。ここnoteであれば、どれだけ読み手の心に訴えかけられるか、どれだけ納得させられるものが与えられるかが大事なのかもしれない。
それがいいねの連なりになるのか、新しいフォロワー取得に繋がるのかはその人次第ではあるが。
きっと、大抵のユーザーは目に見える「数」でそれを測っている。たくさんいいねがつけば、多くの共感を得られたと実感するだろうし、バズれば少
未来の私のために、苦手なエッセイを書く
エッセイを書くことに、ものすごく苦手意識がある。
子どものころは作文が大好きだったし、学生時代はGREEやmixiでごりごりに日記を書き散らしてきた。けれど、文章を書く仕事をしているいまは、抵抗しかない。
なぜかというと、理由はおそらく3つ。
■向田邦子さんが好き好きな作家を聞かれると、迷うけれど、最終的には向田邦子さんだと答えている。
向田さんのエッセイは、本当にすばらしい。日常のこまごまと
「まだまだ」と「ダメ」
仕事のことで「私はまだまだだなぁ」と落ち込むことがあった。
自分でもぎょっとする。
そりゃあ……まだまだだろう。エッセイの仕事を始めてまだ7ヶ月。自分がまだまだなことくらい、知っていたつもりだ。
なのになぜ、落ち込むんだろう。
ひょっとして、私は自分がまだまだであるという事実を、忘れかけていたのではないか?
知らず知らずのうちに、自分の力を高く見積もっていたのかもしれない。
それに気づ
うまくいかないことが続くと、妄想力がつく。妄想力は、べつのとこで生かせる。
モンモンとした数や時間がおおいほど、イマジネーションゲージがたまるのです。ボカン🤗
「書きたい」と「書かなきゃ」の境界線
ここまで私は内側から溢れ出るものを書かずにいられなく、欲求として文章を書いていることが多かった。
「書きたい」は抑え込むことはできても、自分を楽にするため、苦しさを和らげるために、救いのような道として書くことを位置づけていた。
けれど少し落ち着きを取り戻し調子が良くなってきた今、「書きたい」は「書かなきゃ」に移行しつつある時があるように思っている。
毎日更新を掲げていると、次第に義務感が生じてく
どうでもいい話なんですよ、けどね、書きたいのです。
なんだか今日は書きたいのに書けない。そんな時は"ここだけのどうでもいい話"で、書くリハビリをするのがいい。そのくらいゆるくていい。
今日はいつもよりずっとずっとゆるくいきますよ。
よければ最後までお付き合いくださいませ。
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皆様、携帯電話は何をお使いでしょうか。
そして、どうしてそれを選んだのでしょうか。
お正月早々、ケータイに不調が現れた。私が使っているのはiPhone6。かれこれ3
作家チヨダ・コーキが教えてくれたこと
一部の層にしか受けない作品。大人には通用しない作品。もし自分の作品がそんな風に評されたら、あなたならどう思うだろう。
今の自分のスタイルを曲げて、万人受けしやすいものを学んで改善する?
心折れて作ることをやめる?
「チヨダ・コーキはいつか抜ける」
中高生に人気の作家、チヨダ・コーキ。多感なお年頃に熱中し、年を重ねるとスッと抜けるように過ぎてしまう彼の作品は、そう評される。
彼の処女作である「