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「アンブローシア・レシピ」第11話

1914年10月4日(1) ロンドン

「ウェイン! これ見て!」
 午前7時、ミリセントは今朝届いたばかりの新聞を握りしめて兄の部屋に飛び込んだ。
 昨夜は傷がじくじくと痛んでほとんど眠れず、明け方になってようやくまどろんでいたウェインは、賑やかな妹の声に苦笑しつつ瞼を開ける。
 ミリセントはにび色のワンピースに白いエプロン姿だ。どうやら家政婦オニールの手伝いをしているらしい。
「今日の新聞に昨日のウェインの事件が載っているの! 『プリースト診療所のグレイ医師、暴漢に襲われる』って! デイリー・メールの記者たちは他に記事にするような事件に出会わなかったみたいよ! ほら!」
 興奮気味のミリセントは、新聞を広げると兄の顔に押しつけた。
 新聞のインクの臭いに顔をしかめつつ、ウェインは脇机の上の眼鏡を手に取ってかけると紙面の文字を目で追う。
 社会面の小さな記事だが、ミリセントが説明したとおりの内容だった。ほんの四行ていどで、『警察は犯人の行方を追っている』と締めくくっている。
「この記事を見て、警察が気を引き締めてきちんと犯人を捜してくれたらいいのだけれど」
「どうだろうな。新聞のこんな小さな記事ひとつで警察が奮起してくれるなら、僕はもっと記者の質問に丁寧に答えたし、エムズワースさんは記者を追い出したりしなかっただろうな」
「あの重傷の治療のすぐ後で長時間の取材を受けるなんて無茶よ」
 大きく目を見開き、ミリセントは呆れた口調で告げる。
「そういえば、怪我の具合はどう? 見たところ顔色は悪くないようだけど、痛みはある?」
「明け方に痛み止めの薬を飲んだからか、いまのところそう痛くはないよ。縫った部分が引き攣る感覚があるくらいだ」
 まだ腹に力が入らないのか声は普段よりも弱々しいが、しっかりとした口調でウェインは答える。
「そういえば、さっきなんかオニールさんの叫び声が聞こえたりして騒がしかったようだけど、なにかあったのか?」
「それがねぇ、オニールさんってばベッドから起きようとしたら急に腰に激痛が走って、それでそのままベッドから落ちたんですって。大きな物が落ちる音がしたものだからバートランドとわたしが様子を見に行って床でうずくまってるオニールさんを発見して、オニールさんをベッドに戻そうとしたんだけど、ちょっと動くだけで痛いらしくてオニールさんは呻いたり叫んだりしていたのよ」
 ミリセントが答えると、ウェインは苦笑いを浮かべた。
「それは……きっと僕よりも重体だろうな」
「かもしれないわね」
 ミリセントは渋い表情を浮かべながら肩をすくめた。
「ミリィも朝から大変だったね」
「一仕事終えた気分よ」
 オニールはミリセントひとりでは到底抱え上げられる体型ではなく、長身のバートランドひとりでも無理だった。バートランドは「今度は俺の方が腰をやられる」とぼやきながらオニールに肩を貸していたほどだ。
「そのあとでバートランドが診てあげていたけど、ぎっくり腰だから安静にして療養するしかないって言ってたわ。あ、ウェインはお薬は足りてる? キャスパーさんに、アスピリンは足りてるかってさっき尋ねられたの」
 イーオン・キャスパーはプリースト診療所の薬剤師だ。
 三十代後半の痩せぎすな体格の男で、診療所内の薬局をひとりで切り盛りしている。
「昨日はキャスパーさん、お休みだったのね。さっき一階で声をかけられて、そういえば昨日は姿を見なかったなって思うまで彼の存在そのものを忘れていたわ」
 元々キャスパーは口数が少なく存在感が薄い。
「キャスパーが来ているのかい? 日曜なのに?」
 日曜日の今日はプリースト診療所の休診日だ。
「この新聞記事でウェインが刺されたことを知って、びっくりして駆けつけてくださったんですって」
 デイリー・メールを指さしてミリセントが答える。
「そういえば彼は昨日の朝、親戚に不幸があったと言って薬局の鍵をエムズワースさんに預けてすぐに帰ってたな」
 鎮痛剤と抗生物質は外科の診察室にいくらか置いてあったので、昨日の時点でわざわざ薬局から持ち出す必要はなかったらしい。
「薬は十分あるから大丈夫だよ。なくなったらキャスパーに頼むよ」
 脇机のひきだしを開けて、ウェインは錠剤が入ったふたつの小瓶をミリセントに見せた。
 どちらにも半分ほど錠剤が入っている。
「そういえば、バートランドが瓶ごと置いていったわね。なにこれ、服用量が書いてないじゃないの」
「僕も普段から患者に出している薬だから、量はわかっているよ」
「わかっていても、ウェインって薬を飲むときは結構適当よね」
 ミリセントが指摘すると、彼は黙って薬瓶をひきだしにしまった。
「まぁ、いいわ。ウェインは父さんに似て丈夫なんだわ。あ、水が少なくなっているから入れ替えるわね」
 水差しの水が減っていることに気づいたミリセントは、水差しのガラス瓶を手に取った。
「水よりエールが飲みたい」
「怪我が治ったらね。お腹空いてる? なにか食べられそう?」
「リンゴが食べたいな」
「わかったわ。皮を剥いておこうか?」
「そのままでかまわない」
「はいはい」
「紅茶ももらえるかな。砂糖も。糖分を摂っておきたいんだ」
「紅茶は濃い方が良い? 薄い方が良い?」
「濃い方が良いな」
「すこし待っていてね」
 新聞をウェインに渡すと、ミリセントは足早に部屋を出て行った。
 眼鏡をかけ直したウェインは、新聞の記事に改めて目を通す。
「プリースト診療所の医師、襲われる、ね」
 面白くなさそうな表情を浮かべつつ、彼は記事を再読した。

 プリースト診療所の二階にある居住空間には、所長のダニエル・プリーストの他に内科医のウェイン・グレイと外科医のバートランド・ファラディが下宿しており、家政婦のヘザー・オニールが住み込んでいる。
 普段であれば午前7時からオニールは台所で男三人分の朝食を作っているところであり、今日はプリーストが不在ではあるがウェインの妹が昨夜から滞在しているためやはり三人分の朝食を準備する予定だった。オニールの持病の腰痛が悪化するまでは。
「ごめんなさいね、ミリセントさん」
 ベッドに横たわったままオニールは小声で謝った。腹に力を入れるだけで腰に響くため、大きな声を出して喋るのも辛いのだ。
「家事はわたしがするので、オニールさんは今日一日安静にしていてください。バートランドも、無理に身体を動かすと悪化するって言ってたじゃないですか。わたしは次の仕事が見つかるまでしばらくここに居候させてもらうつもりでいるので、料理も洗濯も掃除もぜんぶ任せてください」
 オニールのエプロンを借りたミリセントは、繰り返し詫びるオニールに笑顔で告げる。
「朝食は食べられそうですか? なにを作りましょうか?」
「あたしの食事はあとで構わないから、先生方の朝食を頼めるかい? いつもはパンとベーコンと紅茶をお出ししているんだよ」
「わかりました。オニールさんも同じ物で良いですか?」
「もちろん」
 オニールが小さく頷くと、ミリセントは足早に部屋を出て台所に向かった。
 食料棚からパンとバター、ベーコン、リンゴ、紅茶の茶葉が入った缶を取り出す。狭い台所なので、大体どこになにがあるかは見当が付く。棚の中は雑然としているが、必要な物を探すのはそう難しいことではなかった。
 食堂ではバートランドが朝食を待っている。家事全般が苦手だという彼は、家政婦付きで下宿代が要らないという好条件のため、給料は安いがプリースト診療所に勤めているのだ。
 バートランドの向かいの席には、薬剤師のイーオン・キャスパーが持参した新聞を読んでいた。キャスパーは近くの共同住宅に恋人と同棲している。
「ミリセントさん。オニールさんの様子はどうでしたか?」
 新聞から視線を外してキャスパーが尋ねた。丸眼鏡をかけた彼は常に猫背のため、三十代後半だが実年齢よりも十歳は老けて見える。
「喋るだけでも辛そうでした。キャスパーさん、紅茶はいかがですか」
「せっかくだから、いただきます」
 10月になるとロンドンでも朝夕は冷え込み始めるが、やかんで湯を沸かしたり料理で火を使ったりしている台所は暖かい。
 まだ朝食にありつけていないバートランドは、寝間着姿のまま黙って煙草を吸いながら食事が出てくるのを待っている。早朝からぎっくり腰になったオニールの世話と診察をする羽目になったため、疲れて喋る気力もないらしい。
「オニールさんはつらい状態だと思いますが、腰痛に効く薬というのはないですからね。鎮痛剤を飲んだところで腰の痛みは一時的に和らぐだけですし、湿布を貼っても根本的な治癒には繋がらないんです。君はどう思いますか? ファラディ」
「二、三日はおとなしく寝ているのが一番の薬だろう」
 キャスパーに問われたバートランドは、紫煙をくゆらしながら気だるげに答える。
「所長なら、腰痛にも効く万能薬を研究しているかもしれないじゃないですか。あの人は医師というよりは薬剤師に近いですよね」
 新聞を畳みながらキャスパーが珍しく会話を続けた。
 彼は薬のことになるとよく喋る、と兄が以前話していたことをミリセントは思い出した。
 安月給のプリースト診療所で彼が働いているのは、ダニエル・プリーストが古今東西の様々な薬に関する稀覯書を何冊も持っており、それを見せてもらうためだそうだ。
「そんな便利な薬があったら、所長なら手広く売りさばいているだろうな。病気をすべて薬で治せるなら、医者は薬を配るだけで済むから楽なのに、とか言うような人だぞ。怪我の治療はどうするんだと言ったら、塗るだけで傷が治る軟膏を開発すれば良いと言いやがった」
「先生は診察よりも研究の方が好きな方だから」
 紅茶をカップに注ぎながらミリセントが口を挟む。彼女が『先生』と呼ぶのはプリーストだけだ。
 ダニエル・プリーストは内科医だが、プリースト診療所の内科は近頃はほぼウェインひとりで診察をこなしている。
「ミリセントさんは、所長がどんな研究をしているかをご存じですか?」
 紅茶を配るミリセントに礼を言いながら、キャスパーは尋ねた。テーブルの上の砂糖壺からたっぷりと砂糖を入れて、しっかりとかき混ぜてからカップに口を付ける。
「詳しくは知りませんが、いまは治療しても完治に至らない病気を治せる薬を作ろうとしているって聞いたことはあります。なんでも東洋には古くからそういう万能薬が調合できる処方箋があったんですって」
「へぇ、詳しいね?」
「四、五年前にそんな話をたくさん聞きました。先生は自分の研究について話したくて仕方がないのに周囲の誰も真面目に聞いてくれないからって、当時学校帰りにここに寄っていたわたし相手に喋るしかなかったみたいです。先生はわたしにビスケットを出してくれたので、わたしはビスケットを食べながら黙って聞いているだけでしたけどね」
 ミリセントは家政学校に通っている間、授業が終わるとウェインの診察が終わるまでプリースト診療所で待っていることが多かった。そんなとき、ダニエル・プリーストはお腹を空かせたミリセントにビスケットと紅茶を出してくれたものだ。所長である彼が兄と一緒に診察をすれば、兄の仕事が速く終わるのだという考えは、ビスケットを目の前にした子供のミリセントには浮かばなかった。
「へぇ。それは……是非一緒に話を聞きたかったです」
 キャスパーは残念そうに呟く。彼はよほどプリーストの研究に興味があるらしい。
「処方箋って、魔法の呪文とかおまじないみたいなものだなって思いながら先生の話を聞いていたものですよ。先生が集めている処方箋ってすごく古い物もたくさんあるから、呪いみたいなものがかっているように見えたせいかもしれませんけどね。先生が喋ってくれる薬の由来っておとぎ話みたいなものも結構あって、東洋では医学の神様がお茶を人間に教えてあげたとか聞いた覚えがあります」
 皿を二枚並べてバートランドとオニールの分のパンを載せながら、ミリセントは話した。
「もしかしてミリセントさんは、所長が集めている処方箋を見せてもらったことがあるんですか?」
 眼鏡の奥の深緑色の瞳を細めながらキャスパーが尋ねる。
「ありますよ」
「えぇ? そうなんですね。僕には見せてくれないのに、ミリセントさんには見せてるんですね」
 悔しそうにキャスパーは顔をしかめるが、ミリセントは軽く聞き流してフライパンの上にベーコンを並べながら焼く。
 その間、バートランドは椅子に座ったまま動かなかったため、ミリセントは彼の前にフォークを並べたり、パンを載せた皿を運んだりした。
「わたしが見たってなにが書いてあるかまったくちんぷんかんぷんなんですけどね。東洋の漢字っていう文字だったり、ラテン語だったりで書いてあるって先生はおっしゃってましたけど、先生が外国語で書いてある処方箋を見せるのはただの自慢ですよ」
「所長が自慢する処方箋って、どんな物なのか気になりますよ」
 猫舌なのか紅茶に繰り返し息を吹きかけながらキャスパーが言う。
「先生の一番のお気に入りは『アンブローシア』って薬を作る処方箋なんだそうです。アスピリンみたいな名前ですねって言ったら、アンブローシアは神様にお供えする食べ物のことだと教えてくれました。古代エジプトの王様とか、中国の皇帝とかが飲んでいた滋養強壮の霊薬だそうです」
「えぇ? そんな風に所長は説明したんですか? 所長は、ミリセントさんにでたらめばかり教えているんですね」
 ずれた眼鏡を指先で押し上げながら、キャスパーはため息をついた。
「でたらめなんですか?」
「完全なでたらめですよ」
「そうですか。そういえば、前にパピルスっていうエジプトの草から作った紙にアラビア文字で書かれた処方箋も見せてもらったんですよ。アラビア文字ってミミズがのたくったような崩した字だから、あれも漢字と同じでなにが書いてあるのかまったく読めませんけどね」
「所長とウェインのカルテも大体似たような文字だけどな。英語で書いてあるはずなのに、字が崩れすぎていて読めない」
 ミリセントが皿に盛って出したベーコンをフォークで突き刺しながら、バートランドが口を挟んできた。
「確かに、あのふたりの薬箋はなにが書いてあるのか読めないことがあります。エムズワースさんは読み解けているので、代わりによく読んでもらっています」
 ふふっとキャスパーが薄く笑う。
「僕は、所長ご自慢の処方箋がどんな内容なのか、断然興味がわいてきました。アラビア文字や漢字だったら僕も読めませんが、ラテン語なら多少は読めます。辞書は要りますけどね」
「確か『アンブローシア』はラテン語で書いてあるって言ってました。アルファベットが並んでいたと思います。先生が英語で読み上げてくれましたが、童謡の詩というか、マザーグースみたいななぞなぞでしたよ」
「なぞなぞなんですか?」
 キャスパーは興味津々な様子でミリセントに視線を向ける。
 バートランドは黙ってパンをちぎって食べていた。
「はい。先生は、これは元気になるおまじないだって言ってました。先生曰く、万人に効く良薬なんてこの世にはないそうです」
「藪医者の屁理屈だな」
 一気に紅茶を飲み干したバートランドが断言する。
「ま、先生の話はビスケットを食べながら聞き流すのがちょうど良いって、兄からは言われているんですけどね」
 盆の上にオニールの朝食と、兄のためのリンゴや紅茶、砂糖壺を載せながらミリセントは告げる。
「先生が出してくれる固いビスケットを噛んでいると、口の中でビスケットが割れる音の方が先生の声よりも大きいので、当然ながら内容は耳に入ってこないんですよ」
「ごちそうさま」
 食事を終えたバートランドが椅子から立ち上がる。
「洗濯物はあとで洗い場の籠の中に放り込んでおくから、よろしく。着替えたらウェインの診察に行くから、そう伝えておいてくれ」
「はぁい。あ、ウェインの服、血まみれのまま一晩放置しちゃった。もう血が染みになって落ちないかも……。シャツと肌着はあきらめるにしても、外套と上着は染み抜きすればなんとか目立たなくできるかしら」
 壁時計に視線を向けたバートランドが食堂から出て行くのを追いかけるように、ミリセントもキャスパーとの会話を打ち切って昨夜の自分に文句を垂れながらオニールの部屋へ食事を届けに向かう。
 ひとり食堂に取り残されたキャスパーは、薄い笑みを浮かべたままふたりを見送った。
「アンブローシア、ね。そんな貴重な処方箋を所長が持っているなんて、知らなかったな。ぜひ見せてもらわなければ」
 カップに残っている紅茶に映る歪んだ自分の顔をしばらく眺めた彼は、すべて飲み干すと普段の温厚な表情に戻って椅子から腰を上げた。


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