見出し画像

「アンブローシア・レシピ」第13話

1914年10月4日(3) ロンドン

 朝食後、ウェインの傷の状態を確認したバートランドは、驚いた様子で目を瞠った。
「昨日は深い傷だと思ったが、かなり治りが早いな。来週には抜糸できそうだ」
 傷口を消毒してガーゼと包帯を変えながら告げる。
「まぁ、抜糸するまでは便所以外は動くな。いつ傷口が開くかわからないからな」
「わかった。ありがとう」
 寝間着のボタンを自分でかけながらウェインはできるだけ腹に力を入れないようにしながら返事をする。
「所長にはミリィから電話してくれることになってるから、僕のことやミリィがしばらくここに滞在することはすぐに所長に伝わるはずだ。所長は内科がしばらく休診になると聞いても、急いでこちらに帰ってくるような人ではないが」
「あんたが襲われたって聞いても、あの人のことだから『ふうん』としか言わないかもしれないな」
 プリーストとはまだ三年ほどの付き合いでしかないバートランドだが、上司の性格はほぼ正しく把握していた。
「僕が怪我をして心配してくれるのはミリィくらいだよ」
「一応、俺とエムズワースさんも心配したぞ? あんたが見かけよりも頑丈だってことは、昨日の件でよくわかったけどな。あれだけ出血していながら意識を保っていたのには、俺でも驚いたぞ。いまは顔色もそう悪くないし、傷口が塞がるまでおとなしくしていれば早々に治りそうだな。どちらかというと、あんたよりオニールさんの方が重症だ。オニールさんはほんのすこし腕を動かすだけでも腰に痛みが走るらしく、ずっと呻いていた」
「あの人はふくよかな体格だから、前から腰に負担を感じてはいたようだけど、特になにか対策をしていたわけではないからな」
 ウェインは婉曲にオニールの体格を『ふくよか』と表現したが、つまりは『太りすぎ』だった。身長は五フィート少々だが、体重は七フィート近くあるバートランドよりも重いと思われる。
「本人は、毎日家事をしているから腰を痛めたのだと言っているけどな。どうあっても太っているから腰に負担がかかっているのだと認めたくないらしい」
「ぎっくり腰は慢性的なものだから、家事がどうこうではないと思うが、まぁ、家事はミリィに任せて、オニールさんにはしばらく休んでゆっくりしてもらえば良いだろう」
「同感だ」
 軽く肩をすくめながらバートランドは頷く。
「じゃ、お大事に」
 話は終わったとばかりに、バートランドは手早く包帯やガーゼを袋に詰め込むと、さっさと部屋から出た。職場と住居を同じくしていても、彼は日頃から特にウェインと雑談する仲ではない。
 廊下に出たバートランドは小さく息をついた。普段の日曜日であれば、昼間から近所のパブに出かけるのだが、今日はそんな気分にはならなかった。
 昨日のウェインが暴漢に襲われた事件が気を滅入らせているのか、朝からオニールのぎっくり腰で大騒ぎになったからなのか、とにかくせっかくの休日だというのに酒を飲んでも日頃の憂さが晴れるように思えない。
「あ――煙草を切らしていたんだった」
 上着のポケットに手を入れたところで、昨日の昼から煙草が切れていたことを思い出す。
 襲われたウェインが運び込まれた後、煙草を買いに出かける暇がなかったのだ。さきほど食堂で吸った一本はキャスパーからもらった物だ。
「どうせなら、見舞いってことで箱ごともらっておくんだったな」
 軽く舌打ちをしたバートランドは、まだキャスパーが食堂に残っているか確認しに向かったが、食堂は空だった。
「もう帰ったのか」
 襲われたウェインは煙草を吸わないし、オニールとミリセントも吸わない。
「仕方ない。買いに行くか」
 出かけるのが面倒だから煙草を我慢するという選択肢は彼の中にはなかった。日曜日は開いている店が少ないが、足を延ばせば買える店はある。
 自分の部屋に戻って上着と外套を羽織り、帽子をかぶる。財布の中身を確認して廊下に出ると、ギイッと別の部屋の扉が軋む音が聞こえた。
「ん?」
 ウェインとオニールは部屋で寝ているはずだ。特にオニールはベッドからほとんど動けない。オニールは便所まで歩くのは難しいだろうとおまるをミリセントがオニールの部屋に運んだが、ウェインも歩くのは大変だろうとバートランドが尿瓶を持っていったら嫌な顔をされた。あの様子だと意地でも自力で便所まで行くだろうが、彼の部屋の扉はしっかり閉まっている。さきほど扉を閉めたのはバートランドだ。
「お、こんなところにいい物が落ちてるじゃないか」
 廊下の床板の上に、見覚えのある小さな箱が落ちている。
 煙草の箱だ。
 素早く拾ったバートランドは、それがさきほどまで食堂にいたキャスパーが持っていた銘柄と同じであることを確認した。普段自分が吸っている物よりも軽い味だが、煙草であることに違いはない。
「明日にでも同じ物を新しく買って返せばいいよな」
 箱に残っている本数を確認し、バートランドは一本取り出すと口にくわえて鼻歌を歌う。
 一階からはミリセントが電話をしている声が聞こえてきた。
「しかし、なんでこんなところに落ちてたんだ?」
 バートランドは目の前の扉に視線を向け、首をかしげる。
 そこは、家主であり診療所の所長であるダニエル・プリーストの部屋だ。
 キャスパーが食堂からまっすぐ一階に向かう際は、この部屋の前を通ることはない。もしキャスパーがウェインの部屋を訪ねたとしても、廊下の一番奥にあるプリーストの部屋の前まで来ることはない。
「――ま、いいか」
 マッチを擦って煙草に火を点けながら、バートランドは帽子を脱いだ。

 診療所にある電話でエジンバラのプリーストが滞在しているホテルにミリセントが電話をかけると、フロント係はすぐにプリーストの部屋へ電話を繋いでくれた。
 午前9時をすこし過ぎていたので、すでにプリーストは出かけているのではないかと心配していたミリセントは、胸を撫で下ろした。
『おや、嬢ちゃんかい。久しぶりだね』
 電話口のプリーストは、いつもと変わらない軽い口調で話しかけてきた。
「お久しぶりです、先生」
『まさか嬢ちゃんから電話がもらえるとは思わなかったよ。どうしたんだい?』
 プリーストはミリセントのことを常に『嬢ちゃん』と呼ぶ。名前で呼ばれたことはほとんどない。ウェインに対しては『おまえさん』と呼ぶことが多い。彼は名前で呼ぶことも呼ばれることもあまり好きではないらしく、どんなに親しい相手でも自分のことは『先生』や『所長』と呼ばせている。
 話が長くなるが良いかとミリセントが確認すると、今日は学会の行事はないので問題ないとプリーストは答えた。学会参加者たちで集まって昼食をしながらの会合はあるが、ホテル内のレストランで開かれるので、しばらくは部屋でくつろぐ予定だったという。
「実はいろいろあって、モーガン夫人に解雇されたんです」
 ミリセントは長距離電話であることを気にしつつも、オリバー・モーガンの服毒事件と自分の失業、ウェインが襲われたこと、オニールがぎっくり腰で寝込んでしまったことなどを一気にまくし立てた。
『なるほど。それは大変だったね』
 どこか状況を楽しむような口調でプリーストはミリセントをいたわった。
『それで、嬢ちゃんの兄さんの状態はどうなんだい?』
「昨日に比べてかなり元気です。顔色は良さそうだし、さっきはリンゴを一個食べていたし、喋っていてもそれほど疲れているようには見えなかったし。でも、今週は内科はお休みにした方が良いだろうってバートランドが言ってます」
『診療所の方は休んでくれてかまわんよと伝えておいてくれ。嬢ちゃんの兄さんは頑丈だからすぐに怪我は治るだろうが、無理はよくないからね』
「はい。ありがとうございます」
 プリーストはあまり仕事熱心ではないが、部下にも勤勉は求めない。思いやりがあるからウェインに仕事を休むよう言っているわけではなく、世の中には医者はたくさんいるのだから自分たちが無理して働く必要はないと言っているだけだ。
 ミリセントがオニールの代わりに家事をすることについても、プリーストは即座に了承した。給料はしっかり払うし、必要な食費などはオニールに渡してある財布から出すようにと言われた。
『ところで、モーガン教授に会いに来た客と、嬢ちゃんの兄さんが刺された事件について取材に来た記者のどちらも、ジョン・スミスと名乗ったんだね』
 突然プリーストは低い声で確認するように訊ねた。
「モーガン邸に来たお客様はちょっとはっきりしないのですが、ジョン・スミスと名乗っていたような気がします。昨日の記者は間違いなくジョン・スミスと名乗っていました。新聞記者の方からは名刺をいただいたんですが、モーガン家にいらした方は名刺を出さなかったんです。ジョン・スミスという名は珍しい名前ではないですけど、同姓同名の人とこの数日の間に会うなんてちょっと珍しいですよね。モーガン邸に来た方はわたしが対応したお客様ではないので、記憶が曖昧なんです」
『嬢ちゃんがモーガン教授の屋敷で聞いた名前は、多分合っているはずだ』
 いつになく真面目な口調でプリーストは答えた。
『嬢ちゃん。ジョン・スミスには気をつけなさい』
「気をつける?」
『ジョン・スミスと名乗る全員が怪しいわけではないが、面倒ごとにはかかわらないことだ』
「面倒ごと?」
『そうだ。モーガン教授を訪ねてきたジョン・スミスは、彼が毒を飲んだ経緯についてなにか知っているはずだが、彼を見捨てて逃げ去ったと思われるからな。ところで嬢ちゃん。儂が昔、嬢ちゃんに教えたまじないを覚えているかね?』
 ふいにプリーストは話題を変えた。
「それって、アンブローシアのことですか?」
 まじないと言えばミリセントは『アンブローシア』しか思いつかなかった。
「そうだ」
「覚えていますよ」
『よろしい。あのまじないは劇薬だが、正しい使い方をすれば効く者には効く。効果がある者はほんの一部だがね』
「え? 劇薬って、ただのおまじないですよね?」
 思わず受話器のコードを強く掴んで大きな声でミリセントは聞き返す。
『そうだ。ただのまじないだ。だから、誰にでも効くわけではないのだ』
「そういえばさっき、キャスパーさんに『アンブローシア』のことを喋ってしまったんですけど、問題ありますか? 実はあれって秘密だったりします? ウェインに確認してみたときは別にかまわないような口ぶりでしたけど」
『別にかまわんさ。儂はアフリカで長年まじないの収集をしていたが、あれも似たようなものだ。嬢ちゃんの兄さんには、まじないなんて非科学的なものを研究するのは時間の無駄だとよく言われたものだが、つまりはほとんどの人にとっては価値などないのだよ』
 価値がないと言いつつも、プリーストは楽しんでいる口調で告げた。
『まじないは魔術や錬金術といった神秘主義に連なるものだが、世間の理解は得られていない。だから、子供だましだの無価値だと言われる。しかし、まじないの価値がわかる者も世界にはほんの一握りではあるが、いる。また、まじないが胡散臭いものであると思いつつも、利用価値があるからと正しく理解しないままむやみやたらに求める者がいるが、そういう連中が儂は一番嫌いだ』
 プリーストはホテルの部屋の外で誰かに聞かれていやしないかと警戒するように、声を潜めた。
『モーガン教授は残念ながら、そういう連中に利用されたに違いない。彼は、自分の研究に関して熱心すぎる傾向があり、それゆえに現実が見えていないところがあった。嬢ちゃんのように、まじないはあくまでもまじないだと割り切れていなかったんだ』
「はぁ……?」
 意味がよくわからず、ミリセントは首をかしげた。
『キャスパーも、科学と非科学には境界があることを認識できていない。まじないはいかさまではないが、科学的な根拠があるわけでもない。そこがわからなくなっているから厄介だ』
「とりあえず、学会が終わったらさっさと帰ってきてください。いくらわたしがおまじないを唱えても、患者さんの熱は下がりませんしお腹が痛いのも治りませんし、急病人が運び込まれてきてウェインが無理して診察するようなことにならないとも限りませんし。ウェインの傷が悪化したら先生のせいですよ?」
 御託を並べるプリーストに対してミリセントは苦言を呈する。
『わかった、わかった。儂が嬢ちゃんに責められる事態になる前に、そっちに帰るとするよ』
 降参、といった口調でプリーストは請け合った。


いいなと思ったら応援しよう!